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婚姻生活にさようなら、椎名さん のすべてのチャプター: チャプター 31 - チャプター 40

100 チャプター

第31話

目覚ましが一度鳴っただけで、莉奈は目を開けた。機械的な動作で枕元のスマホを掴み、通話画面を開いて、慣れた手つきで承也の番号をタップする。 昨夜と同じ。電話が自動的に切れるまで、誰も出なかった。 今度は悠斗の番号にかける。 ようやく、通話がつながった。 莉奈は掠れた声で、単刀直入に言った。「椎名さんに代わって」 「社長はただいま、非常に重要な会議中でして」 「椎名さんに代わって」莉奈は同じ言葉を繰り返した。 恐ろしいほど落ち着いたその声に、電話の向こうで悠斗が眉をひそめた。 莉奈はベッドの端に背中を丸めて座り、電話の向こうの足音に静かに耳を傾けた。かなり広い場所にいるのだろう。やがて、風の唸る音が聞こえてきた。 「何の用だ?」 受話口から、冷え切った男の声が返ってきた。 莉奈の充血した目に涙が込み上げる。悔しくてたまらなかった。 深く息を吸い込んだが、声の震えは止まらなかった。 「美月と一緒になりたいなら、叶えてあげる。離婚しても何もいらない。ただ西苑のあの家だけは欲しい。私の家を返して!」 泣き声を押し殺した莉奈の声は、最初はゆっくりだったが、やがて息が荒くなり、感情が抑えきれず歯を食いしばるほど激しくなっていった。 承也は半身を影に沈め、眼鏡を外し、空の果てに渦巻く濃い灰色の雲を細めた目で見ていた。革靴がバルコニーの薄い雪を踏み、かすかな軋みを立てる。 しばらくの沈黙の後、彼は短く鼻で嗤った。 「馬鹿げた妄想だ」 スマホからツーツーという電子音が響いた。電話を切られたのだ。 かけ直しても、もう繋がらなかった。 LINEを開き、承也の暗い夜のアイコンをタップして、素早くメッセージを打ち込んだ。 【美月と一緒にいたいんでしょ?あの家はずっとあそこにある。でも彼女は、いつまで待てるかしら?この取引の主導権がどちらにあるか、あなたの方がよく分かってるはずよ】 メッセージを送っても、梨のつぶてだった。 莉奈はしばらくしてからベッドを立った。その瞬間、急に目の前が暗くなり、慌てて壁に手をついて、倒れるのをこらえた。 今は自暴自棄になっている場合じゃない。こういう時こそ、自分の体を大事にしなければ。 もう一度眠り直し、少し食べると、ようやく体力が戻ってきた。 午後、彼女は車を
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第32話

杉村編集長が何を心配しているのか、莉奈にはわかっていた。 少し前に暴行を受け、怪我はまだ完全に治っていない。鼓膜穿孔も塞がりきっていないのだ。 だが、この程度の怪我は、彼女にとって大したことではなかった。 体の傷はまだ治せる。けれど、今いちばん痛くて、どんな薬でも治せないのは――承也に直接、そして間接的に傷つけられた心の方だった。 何か仕事を見つけて、余計なことを考えないようにしなければ。 エレベーターを降りると、莉奈は取材車に乗り込み、郊外の化学工場へと向かった。 ちょうど夕方の退勤時間で、道は混んでいた。いくつかの信号を待ったあと、取材車はようやく郊外への道に入った。 かなり離れた場所からでも、消防車のサイレンが長く響いているのが聞こえる。炎が空を突き、郊外の空の大半が赤く染め上げられていた。 莉奈は思わず眉をひそめた。 この辺りには化学工場がいくつもある。排水は基準を守っているとはいえ、製造過程で使われる原材料の中には、高温にさらされると有毒物質を放出するものがあるのだ。 もし爆発と高温でそれらが化学反応を起こし、有毒物質が放出されれば――工場周辺の住民と、今まさに救助に当たっている消防隊員たちに直接影響が及ぶ。 どうか、この事故が早く収まってほしい。 取材車は安全な場所に停まった。 莉奈はプレスカードを首にかけ、工場の外に張られた規制線へと走った。 近づいただけで、次々と熱波が押し寄せてくる。周囲の空気までが、熱で歪んで見えた。 消防隊員に身分証を見せたあと、彼女は真っ先に工場の責任者を探し出し、現在の事故状況を聞いた。 基本的な状況を把握すると、黒いマスクをつけた莉奈はマイクを手にカメラの前に立った。「……爆発現場の作業員は全員避難しました。現時点で死傷者の詳細は不明です……消防消防隊員が全力で消火活動に当たっています……」 その瞬間――轟音が響き、地震のように莉奈の足元が揺れた。 顔色がさっと変わり、彼女は勢いよく振り返って、さっき爆発現場に突入した消防隊員たちの方を見た。 すでに炎が四方から上がり、人影は見えなくなっていた。 巨大な爆発音とともに、刺激臭を帯びた黒い煙が、炎の中から勢いよく噴き出してくる。 その刺激臭はマスクでは防ぎきれず、煙を肺に吸い込んだ瞬間、莉
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第33話

莉奈は思った。――いっそ、このままでもいいのかもしれない。これからはもう痛い思いをしなくて済む。たとえ痛くても、誰かが傷を癒やしてくれる。 やっと、お父さんとお母さんのそばに行ける。 けれど、ドアが激しく蹴り破られる音が耳に届いた。本能的に目を開けると、立ち込める濃い煙の中に、目を奪われるほど美しい、黒曜石のような瞳が見えた。 承也が、強引に莉奈を幻から引き戻したのだ。 椎名家に来た最初の日、承也は莉奈のことなど見向きもしなかったのに。 それなのに、承也は莉奈を助けた。 その日の午後、承也は莉奈を火の海から抱き出し、こう言い放った――椎名家の者に手を出すとは、いい度胸だな。 それ以来、莉奈をいじめる者は誰もいなくなった。 あの時、承也は莉奈の幼い心に淡い恋心を芽生えさせた。やがて思春期を迎え、その想いは抑えきれないほどに膨らんでいったのだ。 莉奈は、目の前の承也にあの頃の少年の面影を重ね合わせ、マイクを握る手にぐっと力を込めた。指の関節が白くなるほど、爪を食い込ませた。 火の海から救ってくれたのは承也。莉奈を最も深く傷つけたのもまた、承也だった。 「命が惜しくないのか?」低く掠れた男の声が、耳に流れ込んでくる。 「社長、早くマスクを。この煙、何かおかしいです」 悠斗が追いつき、防毒マスクを承也に差し出した。 莉奈の瞳が、かすかに揺れた。 さっき承也が被せてくれた防毒マスクは承也自身のものだったのだ。 承也はマスクを受け取って装着すると、莉奈を一瞥し、その手首を掴んだ。「帰るぞ」 莉奈は深く息を吸い込み、自分に言い聞かせた。もうこれ以上、彼に傷つけられる隙を与えてはいけない。 莉奈は承也の手を振り払い、冷静に言った。「今、仕事中なの。椎名さん、離婚の話は後にしてもらえる?」 そう言い残すと、莉奈はすぐに振り返り、同僚たちの安否を確認しに向かった。幸い、消防隊員がタイミング良く防毒マスクを届けてくれており、機材を担いでいた同僚も無事だった。 防毒マスクにはマイクと通信ポートが内蔵されており、その後の中継にも支障はなかった。 莉奈は燃え盛る炎の前に立った。風で髪が少し乱れている。 濃い煙が巨大な網のように莉奈を取り囲み、その細い体は今にも炎に呑み込まれてしまいそうだ。 それ
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第34話

真っ二つにされた離婚協議書を見て、莉奈は一瞬目を見開いたが、それはほんの一瞬のことで、すぐに元の表情を取り戻した。 静かな表情の奥に、決然とした光が宿っている。 莉奈はペンをバッグにしまった。 「構わないわ。明日の朝、バイク便であなたのオフィスに届けさせる。届いたら確認して」 そう言い残し、莉奈の手がドアノブにかかる。今にも車を降りようとしていた。 承也は気だるげに背もたれに寄りかかっていた。離婚協議書を受け取ってから引き裂くまで、その視線はずっと莉奈の顔に注がれたままだった。 承也がわずかに視線を上げると、運転席の悠斗がルームミラー越しにその意図を瞬時に読み取り、センターロックをかけた。 ドアが内側からロックされた。 莉奈はドアノブを握ったまま、苛立たしげに声を上げた。「開けて!」 それは運転席の悠斗に向けた言葉ではなかった。悠斗は承也に絶対的な忠誠を誓っている。承也が頷かない限り、莉奈をいつまでもこの車に閉じ込めておくだろう。 莉奈は振り返り、冷たい目で承也を睨みつけた。 だが次の瞬間、承也が手を伸ばして莉奈の首の後ろを掴み、自分の目の前へと引き寄せた。 突然距離が縮まり、シダーウッドと煙草が混ざり合った香りが鼻先をかすめる。莉奈は力いっぱい承也を押し返そうとした。かつて自分が貪るように求めたその香りを、もう嗅ぎたくなかったから。 しかし、莉奈の力では承也を微塵も動かせない。抵抗すればするほど、承也は莉奈を強く腕の中に抱き込んだ。 莉奈はバッグを放り出し、両手で承也の腕を掴むと、そのまま噛みつこうとした。 だが、承也はその動きを先読みしていた。素早く莉奈の両手を掴み、背もたれへと押しつける。 莉奈は、承也の厚い胸とシートの間に完全に挟まれ、身動きが取れなくなった。 「椎名さん、あなたそれでも男なの!度胸があるなら、さっさと離婚協議書にサインしなさいよ!」目を赤くしながら、莉奈は叫んだ。 「離婚、か」 すぐ耳元で、承也の冷え切った声が響く。 「よくお互いにメリットのあるなんて言えたな。取引ってのはそういうもんじゃない。お前は独身の自由を取り戻した上に、あの家まで手に入れる?世の中にそんなうまい話があるわけないだろう」 その言葉の意味は、あまりにも明白だった。 「私に、身一つ
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第35話

唇を強く噛まれ、莉奈は痛みに小さく声を上げた。承也の唇がゆっくりと離れていく。眼鏡のレンズ越しではないその瞳には、むき出しの支配欲が満ちていた。 承也は親指で自分の唇に残った血を拭い去った。莉奈のうなじを掴む手にさらに力を込め、その耳たぶに唇を押し当てるようにして、冷酷に告げた。「莉奈、俺の限界を試すな」 莉奈は怒りで震え、乾いた声で言い返した。「あなたこそ、私の限界を試さないで。いざとなれば刺し違える覚悟くらいあるわ。私の命一つでよければ、いつでも相手になってあげる」 「そんなに死にたいのか?」承也は深い黒い瞳で莉奈をじっと見つめる。 「試してみればいいわ」莉奈は少しも怯むことなく、その冷たく鋭い視線を真っ直ぐに見返した。 承也は、莉奈の言葉などまるで眼中にないようだった。 莉奈の腰を抱く腕の力を強め、あっさりと動きを封じる。もう一方の手で頬にかかった髪をかき分けると、熱で赤く火照った、煤だらけの顔があらわになった。 「顔が煤だらけだ」 「放して!」 だが承也は手を離すことなく、冷たく命じた。「車を出せ。松風レジデンスに戻る」 車が走り出す。 莉奈は再び承也の腕の中に閉じ込められた。怒鳴り声を上げようとした瞬間、承也は再び顔を近づけ、その唇を塞いだ。 車が松風レジデンスに到着すると、承也は莉奈を抱きかかえて車を降りた。 その光景を見た恵子は、途端に顔をほころばせた。 奥様が家を出ていったのは、旦那様と喧嘩をしたからだと踏んでいた。どうやら、旦那様が奥様のご機嫌を直してくれたらしい。 本当によかった! 「旦那様、奥様、夕食はお済みですか?まだでしたら、すぐに準備いたしますが」 「いらない」承也は莉奈を抱いたまま階段を上っていく。「彼女の分だけ用意してくれ」 恵子は少し驚いたものの、それ以上は聞かず、背を向けてキッチンへ向かった。 主寝室のドアが蹴り開けられ、明かりがつく。莉奈は承也に抱えられたまま、そのまま浴室へと連れ込まれた。 承也は莉奈を洗面台のそばに下ろした。「顔をきれいに洗ってから話せ」 ここは承也の主寝室で、結婚してから、莉奈がここに入るのは二度目だった。 初めて入ったのは去年の春。酔った承也が莉奈の部屋に来て、関係を持ったときのことだ。二人は何度も体を重ね、ベ
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第36話

承也がどうやって汐見ヶ丘のマンションの暗証番号を知ったのか、莉奈にはわからない。だが、承也が何かを手に入れようと思えば、いくらでもやりようがあることくらい、分かっていた。 しかし、自分の意思を無視して荷物をすべて持ち帰らせるなんて、これでは家を出た自分がまるでピエロみたいじゃない! 莉奈はためらうことなく悠斗の元へ大股で歩み寄り、手を伸ばしてスーツケースを奪い取ろうとした。 「返して!」 だが、承也の命令がない限り、悠斗がスーツケースを渡すはずがなかった。 悠斗はキャリーハンドルを握ったまま、莉奈の手が触れる寸前で手首を返し、スーツケースを莉奈の体の横へと滑らせた。 「奥様、申し訳ありません」 莉奈の手は空を切った! 振り返ると、スーツケースはすでに遠ざかり、承也のほうへ滑っていく。 承也の長い指がハンドルにかかり、指先を軽く動かして、スーツケースを自分の後ろへと引き寄せた。 身長190センチ近い二人の男が、完全に莉奈をからかっているのだ。 端から見れば滑稽な光景かもしれないが、莉奈は怒りで全身が震えていた。狂ってしまわないよう、必死に歯を食いしばる。 深く息を吸い込んだあと、莉奈は投げやりに言った。「どうせ大した価値もないものよ。いらないわ」 そう言って、彼女は背を向けて出口へと歩き出した。 承也の視線が、莉奈の華奢な背中越しに悠斗を捉えた。 次の瞬間、莉奈の目の前で部屋のドアがバタンと閉まった。 すぐにドアノブを捻ったが、ノブはびくともしない。 外から鍵をかけられたのだ! ドアノブを強く握りしめた手に赤い跡がつく。莉奈は一瞬で目を真っ赤にした。「椎名さん、いい加減にしなさい!」 承也は長い脚を踏み出し、ゆっくりと莉奈の前に近づいてきた。結び目に指をかけ、ネクタイを緩めながら、軽く鼻で笑う。「先に騒ぎ出したのはお前だろ?」 莉奈は声を張り上げて問い詰めた。「私たちはもう離婚するのよ。私がどこに住もうと私の自由じゃない。あなたに止める権利なんてないわ!」 ふん。 承也の口の端が吊り上がる。 迫りくる男の威圧感に息が詰まりそうになり、莉奈は主寝室の開け放たれた窓に目を向けた。ここは二階で、下は植え込みだ。莉奈はためらうことなく窓へ向かって駆け出した。 ――この男と同じ部
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第37話

承也が莉奈の服を引き裂いた。莉奈は本能的に身を縮こまらせた。 だが次の瞬間、肩に鋭い痛みが走った。 濡れた感触と刺すような痛み。承也が莉奈の白い肩から口を離し、痛みに眉をひそめてさらに赤くなった目を見下ろした。 薄暗がりの中、承也はドアの前から莉奈を横抱きにして、主寝室の大きなベッドへと歩いていく。 服が床に散らばっていった。 莉奈は柔らかいベッドに沈み込んだ。素早く寝返りを打って起き上がろうとしたが、両手をネクタイで縛られているためバランスを崩し、再びベッドに倒れ込んだ。 「椎名承也、私に手を出したら、夫婦間レイプで訴えてやる!」 承也はベッドの端に片膝をつき、ベッドの上で無駄な抵抗をする莉奈を見下ろしていた。その罵声には耳を貸さず、スーツのシャツを脱ぎ捨てて床に投げる。 男の大きな影が猛然と覆いかぶさり、莉奈は悲鳴を上げた。 「俺がやれないとでも思ったか!」 毛先までずり落ちていたヘアゴムが完全に外れ、絹のような長い髪が紺色の布団の上に広がった。身をよじって抵抗するたびに、海藻のように波打ち揺れる。 その姿は、人を惑わすセイレーンのようだった。 承也の視線が、一段と暗く沈む。 ただでさえ残り少なかった忍耐が、完全に消え失せた。承也は容赦なく莉奈の足首を掴んで自分の下へと引き寄せ、その顎を掴んだ。 「訴えてみろ」 莉奈の口から出ようとした罵声は、すべて承也の唇に塞がれた。 窓の外ではいつの間にか雪が舞い、北風が唸りを上げている。 暖房の効いた部屋の中。 莉奈の頭の中で白い光が何度も弾け、叫び続けて喉が枯れた…… …… 部屋に響いていた荒い息遣いと低い嗚咽が、次第に静まっていった。 引き締まった胸板から腹筋のラインに沿って汗が滑り落ちる。承也は潮紅を浮かべた莉奈の柔らかな頬に触れ、少し荒れた指の腹で目尻の涙を拭った。 莉奈にはもう、罵る力さえ残っていなかった。力なく瞬きをすると、さらに多くの涙がこぼれ落ちた。 その一粒一粒が、承也の手のひらに転がり落ちる。 男はわずかに目を伏せ、莉奈の手首にきつく巻きついたネクタイをほどいた。柔らかな手首の肌には、擦れてできた幾筋もの赤い跡が残っている。 「次、また勝手に出て行こうとしたら、ネクタイで縛るだけじゃ済まさないからな」
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第38話

黒いベントレーが、ゆっくりと松風レジデンスを後にした。 街灯の光が車内に差し込む。承也は半身を闇に沈め、右手で左手の親指の付け根にある歯型を撫でていた。 「社長、桜井隼人の主治医から連絡がありました。容態は安定し、脳に後遺症が残る心配もなく、完全に危険を脱したとのことです。数日中には退院できるそうです」 悠斗はハンドルを切りながら、ルームミラー越しにちらりと視線を向けた。 承也の指の腹が歯型を強く押す。道沿いの木々の隙間からこぼれた光が車内に落ち、眼鏡の奥の瞳は底知れぬ深い淵のようだった。「病室の外の人間を撤収させろ。退院は本人の好きにさせればいい」 「承知いたしました」 松風レジデンスを出ると、車は目に見えるほど速度を上げ、すぐに大通りのカーブの先へと消えていった。 …… 深夜、松風レジデンスの主寝室。 浴室で、莉奈は鏡に映る自分を見つめていた。胸元の肌には赤い痕が点々と残っている。先ほどの出来事を思い返すと、言葉にならないほど馬鹿馬鹿しく、腹立たしかった。 ――椎名承也はいったい何を考えているのよ。 結婚して三年、あの酔った夜の一度きりしか関係を持たなかったのに、ここ半月も経たないうちに、もう二度も体を重ねた。 離婚前に「元を取ろう」とするような人間だとは思えない。 彼は一体何を考えているのか、莉奈にはまるでわからない。 昔から、彼女はあの人の心の中だけは読めなかった。 ただ、引っ越しを許さないと言うなら、意地でもここには住まない。 三十分前に目が覚めてから眠れず、起きてシャワーを浴びたのだ。 莉奈はまとまらない思考を振り払い、バスタオルを巻いて浴室を出た。 どうしても乱れたベッドに目がいってしまい、脳裏にあの淫らな光景が浮かび上がる。 彼女は眉をひそめた。 今回、承也は中にしなかったから、薬を飲む必要はなかった。 着替えを済ませると、莉奈はすぐには出ず、以前使っていた書斎へ向かった。 書斎に入り、パソコンを開いてメールにログインすると、昼間に受け取った離婚協議書を数部プリントアウトした。 そのうち二部の署名欄に、自分の名前をサインする。 一部は承也の主寝室のナイトテーブルに、もう一部は書斎のデスクの上に置いた。 夜が明けたら、バイク便で椎名グループの社長室に
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第39話

ボディーガードはどうやら、こちらの根気が尽きるまで付き合うつもりのようだ。その態度が莉奈の負けず嫌いに火をつけたが、彼の肩に積もった雪を見ると、莉奈は少し苛立たしげに小さく舌打ちをした。ボディーガードは、莉奈が首をわずかに傾け、バックギアに入れるのを見た。車がバックしていく。どうやら車庫に戻るつもりらしい。彼が安堵の息を吐いた、その瞬間。突然、眩しいヘッドライトがパッと辺りを照らし出した!轟音とともにエンジンが唸りを上げ、黒いセダンが豹のように飛びかかってきた!ボディーガードは本能的に一歩後ずさった。しかし、その一歩が逃げ道を作ってしまった。車が横を通り過ぎる瞬間、窓ガラス越しに、莉奈が口角を上げて敬礼してみせた。――私を甘く見ないでよ。瞬く間に、車は走り去っていった。ボディーガードは言葉を失った。莉奈が汐見ヶ丘のマンションに戻り、時間を見るとまだ深夜の三時二十分だった。夜明けまではまだだいぶある。ベッドに横になったが、体は疲れているはずなのに、目を閉じてもやはり眠れない。手慣れた動作で寝返りを打ち、ベッド脇の引き出しを開ける。手を入れて探ったが、空っぽだった。莉奈は、昨夜で睡眠薬を飲み切ってしまったことを、ようやく思い出した。飲む薬もなく、莉奈は膝を抱えて出窓に座り、外に舞う雪を見つめていた。夜が明ける頃になってようやく、壁に寄りかかって少しだけ目を閉じた。その後の二日間、莉奈のもとには承也から何の連絡もなかった。もし承也が意地でもサインしないのなら、裁判を起こすしかない。そうなれば世間の知るところとなり、影響を受けるのは莉奈と承也だけでなく、椎名グループ全体に及ぶ。椎名家には恩がある。莉奈は、よほどのことがない限り、承也と真っ向から対立したくはなかった。二日後、莉奈は取材車に乗り、あの夕方、爆発事故が起きた現場へ向かった。続報の取材に、莉奈の力が必要だったのだ。あの夜は濃い煙が立ち込め、目の前には天を突くような炎しか見えなかった。今は雪も止み、雲の隙間から差し込む陽光が廃墟を照らしている。黒焦げになった工場はあちこちが崩れ落ち、荒涼とした景色が広がっていた。車を降りた莉奈は、視界の端に人だかりを捉えた。そちらへ顔を向けると、端に立っているのは、あの夜にもいた工場の責任者と
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第40話

尚南が莉奈の顔をじっと見つめ、口角を上げた。「なんだか不機嫌そうだな?」 「あなたの家の工場が全焼したのに、喜べると思う?」 男は気にも留めない様子で言った。「椎名グループの取るに足らない事業の一つにすぎない。燃えたなら燃えたでいいさ」 莉奈の瞳がかすかに動いた。 莉奈はニュースメディアの人間だ。仕事柄、言葉の端々には敏感で、尚南の言葉の矛盾をすぐに見抜いた。 椎名グループの取るに足らない事業なら、なぜグループの社長と副社長という二人のトップが立て続けに姿を現すのだろうか? しかし、莉奈はそれ以上追及する気はなかった。 たぶん、尚南が自分の前で格好をつけているだけだろう。 莉奈は尚南を相手にせず、ポケットから黒いマスクを取り出して顔につけると、同僚と一緒に工場の廃墟へと歩き出した。 尚南は莉奈の冷たい背中を見つめ、口元に軽い笑みを浮かべると、タバコの箱とライターを取り出して火をつけた。 「後で取材の時は、うまく合わせろよ」タバコを挟んだ手を莉奈の方向へ軽く上げ、尚南は工場の責任者に合図した。 男は一瞬戸惑ったが、すぐに頭を下げた。「はい、尚南副社長」 椎名グループの実権を握るのは承也であり、グループ内でも社外でも「椎名社長」と呼ばれている。一方、尚南に対しては、「若社長」と呼ぶには軽すぎるし、「椎名副社長」と呼ぶと本人が不機嫌になる。 いつしか、皆が「尚南副社長」と呼ぶのが習慣になっていた。 青白い煙が風に流れていく。尚南は莉奈の顔をじっと見つめ、ゆっくりと目を細めた。その目には、意味ありげな深い光が宿っている。 仕事中の莉奈は、やはり普段とはまるで違う。 目を離せなくなるような、特別な魅力があるのだ。 爆発事故の日、尚南はニュースで莉奈を見た。防毒マスクをつけていて、顔すら見えなかったというのに。 火柱が天を突き、濃い煙が立ち込める中、廃墟に立つ莉奈はまるで輝く真珠のように光を放っていた。 あんな姿を見せられて、どうして惹かれずにいられるだろうか? 尚南は何かを思い出したのか、ふっとうつむいて笑った。だが、手の甲の瘡蓋になった火傷の痕に視線を落とすと、その顔色は次第に陰鬱なものに変わっていった。 取材を終えた莉奈は、尚南がまだ残っていることに驚いた。 「奈奈、もう昼飯の時間だ。
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