黒いコートを腕に掛けた承也は、落ち着いた足取りでVIP通路を進んでいた。その背後には、スーツに身を包んだ椎名グループの精鋭チームが続く。どの顔にも隙はない。磨き上げられた床に揃った足音が響き、その場の空気を一変させるほどの圧があった。ガラス越しに、降機したばかりの乗客たちが思わず足を止めて見入っている。プライベートジェットの機内で、承也は手元の書類をめくっていた。悠斗がコーヒーを一杯、彼の左側にそっと置く。「病院には人をつけておけ。特に莉奈だ。隼人に近づけるな」書類から目を離すことなく、承也は淡々と言った。……タクシーは汐見ヶ丘へと入っていった。莉奈は数年前、この汐見ヶ丘にマンションを購入している。テレビ局から近く、歩いて十分ほどの距離だ。当時は局でインターンをしていて、生活のしやすさを優先した結果の購入だった。いずれ海外に出て、駐在記者になるつもりだったから、間取りも深く考えず手頃な2LDKを選んだ。一部屋は自分用で、もう一部屋は直哉のための部屋だ。指紋認証でドアを開け、電気をつけると、部屋の中は驚くほどきれいだ。今日、家事代行が入ったばかりなのだろう。直哉は潔癖なところがあり、所有しているいくつかの部屋も三日に一度は清掃が入るよう手配している。撮影が終わったら、いつでも戻って休めるようにするためだ。そのおかげで、この部屋も常に整っている。いつでも、すぐに暮らせる状態だ。スーツケースを脇に置くと、莉奈はそのままソファに身を投げ出した。白い天井を見つめたまま、しばらく瞬きひとつしなかった。――これが、離婚。サインして、終わり。想像していたより、痛みはずっと軽かった。現実感がない。無理やり始まった結婚は、ようやく終わったのだ。シャワーを浴びたあと、莉奈はスーツケースのポケットを開け、睡眠薬を取り出した。「独身」に戻った最初の夜くらい、ちゃんと眠らないと。けれど、結局眠りに落ちたのは深夜になってからだった。翌朝、目を開けた瞬間、強い違和感に包まれる。見慣れないようで、どこか懐かしい部屋。しばらくして、ようやく思い出す――離婚協議書にサインしたことを。自分は、承也と別れたのだ。遅れて押し寄せてきた感情が、一気に胸を締めつける。熱を帯びた目を押さえ、息を吸い込んだ瞬間
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