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婚姻生活にさようなら、椎名さん のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

100 チャプター

第21話

黒いコートを腕に掛けた承也は、落ち着いた足取りでVIP通路を進んでいた。その背後には、スーツに身を包んだ椎名グループの精鋭チームが続く。どの顔にも隙はない。磨き上げられた床に揃った足音が響き、その場の空気を一変させるほどの圧があった。ガラス越しに、降機したばかりの乗客たちが思わず足を止めて見入っている。プライベートジェットの機内で、承也は手元の書類をめくっていた。悠斗がコーヒーを一杯、彼の左側にそっと置く。「病院には人をつけておけ。特に莉奈だ。隼人に近づけるな」書類から目を離すことなく、承也は淡々と言った。……タクシーは汐見ヶ丘へと入っていった。莉奈は数年前、この汐見ヶ丘にマンションを購入している。テレビ局から近く、歩いて十分ほどの距離だ。当時は局でインターンをしていて、生活のしやすさを優先した結果の購入だった。いずれ海外に出て、駐在記者になるつもりだったから、間取りも深く考えず手頃な2LDKを選んだ。一部屋は自分用で、もう一部屋は直哉のための部屋だ。指紋認証でドアを開け、電気をつけると、部屋の中は驚くほどきれいだ。今日、家事代行が入ったばかりなのだろう。直哉は潔癖なところがあり、所有しているいくつかの部屋も三日に一度は清掃が入るよう手配している。撮影が終わったら、いつでも戻って休めるようにするためだ。そのおかげで、この部屋も常に整っている。いつでも、すぐに暮らせる状態だ。スーツケースを脇に置くと、莉奈はそのままソファに身を投げ出した。白い天井を見つめたまま、しばらく瞬きひとつしなかった。――これが、離婚。サインして、終わり。想像していたより、痛みはずっと軽かった。現実感がない。無理やり始まった結婚は、ようやく終わったのだ。シャワーを浴びたあと、莉奈はスーツケースのポケットを開け、睡眠薬を取り出した。「独身」に戻った最初の夜くらい、ちゃんと眠らないと。けれど、結局眠りに落ちたのは深夜になってからだった。翌朝、目を開けた瞬間、強い違和感に包まれる。見慣れないようで、どこか懐かしい部屋。しばらくして、ようやく思い出す――離婚協議書にサインしたことを。自分は、承也と別れたのだ。遅れて押し寄せてきた感情が、一気に胸を締めつける。熱を帯びた目を押さえ、息を吸い込んだ瞬間
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第22話

三年という時間は、いろいろなものを変えてしまう。自分が戻ってくる頃には、もう何もかも変わっているはずだ。もしかしたら、承也と美月も……莉奈は手を上げて眉間を軽くつまんだ。また余計なことを考えている。彼のことなんて、考えるべきじゃないのに。そのとき、いきなり真央の顔がパソコンの画面の前に現れた。「なに?まさか行く気じゃないでしょね?」邪魔をされたせいで、莉奈は落ち込む暇もなくなった。真央の頭を軽く押しのけながら言う。「なにその勘の良さ。正解よ」「ちょっと、押さないでよ!朝早く起きて、ちゃんとセットした髪がぐちゃぐちゃになるでしょ!」真央は髪を整えながら、疑わしそうに莉奈を見つめた。「頭がどうかした??」莉奈は笑うだけで答えず、申込ページを開いた。すると、マウスが誰かにぐっと押さえられる。莉奈は眉を上げて真央を見る。真央はきれいな眉をひそめ、珍しく真剣な顔をしていた。「ちゃんと条件読んだ?一度行ったら三年よ」「句読点までしっかり読み込んだわ」どうやら本気らしい。真央はマウスから手を離し、腕を組んで莉奈を見下ろす。「普通はキャリアアップのために行くけど、あなたはもう局の看板記者でしょ。これ以上何を磨くの?言っとくけど、あなたが戻ってくる頃には、私が編集長になってるかもしれないんだから。その三年、全部ムダになる可能性だってあるのよ。分かってる?」何か思い当たったのか、真央はデスクに両手をつき、さらに表情を引き締めた。「まさかこの前、殴られて頭までやられたんじゃないでしょね?」「ふふっ――」莉奈は思わず笑ってしまった。片手で頬杖をつき、もう片方で真央の垂れた髪先をいじりながら、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じる。「ちょっと悔しいけど……今回は大人しく譲ってあげる。だから、ひと足先にお祝いしてあげる。うまくいくといいわね」真央の表情がわずかに変わった。「……本気なの?」莉奈はうなずく。真央は一瞬、複雑な目で莉奈を見たが、すぐに軽く鼻を鳴らした。「ふん。別にあなたがいなくて寂しいわけじゃないし。さっさと行きなさいよ。ニュース部の年末評価トップは、ぜーんぶ私のものなんだから!」そう言い捨てて、もう一度鼻を鳴らすと、くるりと背を向けて出ていった。五分後、莉奈は編集長室の前に立ち、ドアをノック
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第23話

「……お願いできますか?」莉奈はそう言って、杉村編集長をまっすぐ見つめた。編集長は眉をひそめる。このポストにこれほど多くの人が狙いを定めているとは、正直、彼も想定していなかった。募集が始まる前から噂は耳に入っていたが、まさか莉奈が興味を持つとは思わず、事前に声をかけなかったのだ。気づいたときにはすでに枠は埋まっていて、正直どうにもならない。「三郎さん、お願いします。どうしても行きたいんです」莉奈は思わず懇願するように口にした。杉村編集長の本名は杉村修三郎(すぎむら しゅうさぶろう)。名前が、人気ミステリー小説『杉村三郎シリーズ』の主人公・杉村三郎と似ていたことから、部署では年次の高い人たちが内々に「三郎さん」と呼んでいる。その呼び方を聞いた瞬間、彼の眉間のしわはさらに深くなった。「まったく、君は……」だが、静かで揺るぎない莉奈の目を見て、彼は小さくため息をついた。「この件は、正直言って俺の手には余る。山本教授に相談してみなさい。あの人は顔が広いし、向こうにひと言言ってもらえれば、君ひとり追加するくらい問題ないはずだ」莉奈はきゅっと指を握りしめた。大学院時代、彼女の専攻は国際関係論で、山本和夫(やまもと かずお)は指導教官だった。そしてもうひとつ、彼は美月の叔父でもある。和夫が動けば解決できることは、莉奈もよくわかっている。通信社には彼の教え子が何人もいて、今では要職に就いている人も少なくない。かつての自分も、その「出来のいい教え子」の一人だった。あのとき、海外に行く話を断ったことで、和夫はひどく怒った。感情に流されすぎだ、と。それ以来、莉奈はどう向き合えばいいかわからなくなり、長いあいだ顔を合わせていなかった。今になって思えば、あの叱責は正しかったのだと思う。莉奈は編集部を出ると、スマホの連絡先を開き、和夫の番号を見つめた。少し迷ってから、通話ボタンを押す。三回ほど呼び出し音が鳴り、電話がつながった。「……奈奈?」聞こえてきたのは、美月の声だった。思わず指先に力が入る。「山本教授に電話、お願い」「お叔父さんは、入院してるの」和夫は莉奈にとって恩師だ。ここ数年は疎遠だったとはいえ、病気だと聞いて放ってはおけなかった。彼女は仕事を一旦切り上げ、そのまま車を出して病院へ向かった
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第24話

優しさの裏に棘がある。遠回しだけど、妙に刺さる言い方だ。「そこまでハッキリ言わせたい?」そう言われた以上、莉奈も遠慮はしない。「単純に、あなたが身につけてたものはいらないってだけ」言い換えれば、汚いと思っているということだ。美月は、莉奈とは小さい頃から一緒に育ってきた。小学生の頃からの付き合いで、莉奈は二歳年下だったが、頭がよくて小学校を二度も飛び級し、その後は同じ大学に進学した。この世で莉奈をよく知っている人間が誰かと聞かれたら、美月は間違いなくその一人だ。だから、今の言葉の裏にある意味も、ちゃんと分かっていた。それでも彼女は、相変わらず穏やかな声で言う。「奈奈、本当にあなたにあげたかったの」ここまで必死に人に物を押しつけようとする人間も珍しい。頭がおかしいのでなければ、単に人を不快にさせたいだけだ。莉奈の眉間に、はっきりと苛立ちが走った。舌打ちして言う。「そんなにいらないなら、ひとつ忠告してあげる。捨てればいいじゃない。承也も、きっと気にしないでしょ」ところが美月は、その言葉に腹を立てた様子もなく、余裕たっぷりに答えた。「承也は気にしないわ。私が何をしても、あの人は気にしないもの」そう言いながら、彼女は自分の膝の上に手を置いた。感覚を失い、もう二度と歩くことのできない、その脚に。その瞬間、莉奈の胸を、重い衝撃が貫いた。――そうだ。あの事故のとき、美月は承也をかばって飛び出した。そのせいで、脚に一生消えない傷を負った。もし彼女が身を挺していなければ、あのとき承也は失明だけでは済まなかったはずだ。この恩は、承也が一生かかっても返しきれない。美月がブレスレットを一本捨てるどころか、命を差し出せと言っても、承也は迷わず差し出すだろう。承也は確かにクズなところもあるけれど、こういう部分の人としての筋だけは、莉奈も疑ったことがなかった。「そんなに嫌なら、無理にあげたりしないわ」美月はルビーのブレスレットを左手首に戻し、耳元の髪を軽く整えて言った。「でもね、奈奈。私は、また昔みたいにいられたらいいと思ってる。東安市に戻ったのも、承也を奪いに来たわけじゃないし、あなたたちの結婚生活を壊すつもりもないの」「なにをダラダラ言ってるの?」莉奈は、彼女の穏やかな視線を真正面から受け止めた。「美月、ひとつ
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第25話

「私はあなたを騙してない。東安市に戻ったのも、承也を奪いに来たわけじゃないから。私が自分から帰国したんじゃなくて、承也が私を呼び戻したの」莉奈がエレベーターに踏み出しかけた足が、ぴたりと止まった。彼女はとっさに手を伸ばしてドアを押さえ、扉は再び左右に開く。拳を強く握りしめて、やっと自分を落ち着かせ、振り返って美月に詰問することはしなかった。やがてエレベーターの扉は、ゆっくりと閉じていく。莉奈は、エレベーターの内壁に映る自分の顔を見つめた。顔色はひどく悪い。握りしめていた指をほどくと、昨夜転んだときに床で擦った手のひらの傷が開き、血がにじんでいた。美月と向き合う覚悟は、できているつもりだった。けれど、まさか、承也が美月を帰国させたとは、思いもしなかった。承也は、そんなにも待ちきれなかったのか。離婚が成立するのを待つことすらせず、美月を呼び戻したのだ。どうやら承也は、この結婚を本気で大切にしていない。妻である自分の存在など、最初から眼中にないのだ。この結婚は、ただ冷え切っているだけじゃない。最初から形だけのものだった。承也は、何とも思っていないのだ。そう考えた瞬間、胸がぎゅっと詰まった。病院を出たあと、莉奈はテレビ局に戻り、仕事に没頭した。けれど少し気を抜くと、昼に美月が言っていた言葉が、勝手に頭に浮かんでくる。退社する頃になって、莉奈は再び和夫に電話をかけた。今度は、和夫本人が出てくれた。病院に着くと、和夫はちょうど薬を飲んでいるところだった。ノックの音に顔を上げ、莉奈を見ると、にこやかに手招きする。「莉奈か。入っておいで」病床のそばまで歩み寄り、莉奈は声をかけた。「山本教授、お加減はいかがですか?」「ただの風邪だよ、もうだいぶ良くなった。ほら、座りなさい」莉奈はベッド脇のソファに腰を下ろし、和夫が薬を飲み終えるのを待った。数回咳き込んだあと、和夫が言う。「君、隼人を病院送りにしたそうだね?」莉奈の呼吸が、一瞬止まった。隼人は美月の弟であり、同時に和夫の甥でもある。先に手を出されたとはいえ、彼を殴ったのは事実だ。後悔はない。けれど、言葉にするのは難しかった。「山本教授……」「もういい」和夫は軽く手を上げて、彼女の言葉を遮った。「隼人は昔からどうしようもない。君が
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第26話

和夫は、国内の報道界では名の知れた重鎮で、誰もが一目置く存在だ。まして通信社の幹部には彼の教え子が何人もいる。彼がひと言口を出せば、莉奈の件などすぐに片がつく。莉奈は、白髪が混じり始めた彼のこめかみを見つめ、胸に罪悪感が込み上げた。「先生……本当に、私が間違っていました」和夫の教え子たちは皆、彼を「山本教授」と呼んでいた。当時、彼を「先生」と呼んでいたのは、莉奈だけだった。先輩たちでさえ、「山本教授がいちばん可愛がっているのは莉奈だ」と口を揃えていたほどだ。久しぶりに耳にした「先生」という呼び方に、和夫の表情がわずかに揺れた。彼は鼻梁の眼鏡を軽く押し上げ、ため息をつく。「海外に出たら三年だぞ。承也と三年間も離れることになる。それでもいいのか?それとも、美月が帰国したことで、君たちの感情に影響が出たのか?」……感情?その言葉を聞いた瞬間、莉奈は強い皮肉を感じた。自分と承也の間に、いまさら何の感情があるというのだろう。かつての兄妹のような情分すら、もう残っていない。彼女は小さく苦笑する。「先生。今日は仕事の話だけをしに来ました」距離の取り方くらい、彼女にもわかっている。どれほど自分を可愛がってくれていたとしても、美月は彼の実の姪だ。間に挟まれる立場を思えば、感情の話を持ち出すべきではないと、莉奈は判断した。その気遣いに気づき、昔と変わらず分別のある彼女を見て、和夫の胸中は複雑だった。やがて、彼は本音を口にする。「今、E国は内戦状態だ。危険しかない。あの募集に応募してる連中、ただ経歴作りのつもりだと思うか?皆、それぞれ覚悟を決めている。……君は俺の教え子だ。そんな場所に送り出すわけにはいかない」これが、先生が最初から協力を渋っていた理由だったのだ。莉奈は、自分が四年前の件でまだ怒っているのだと誤解していたことを、心から恥じた。それでも、このチャンスを諦めるつもりはなかった。「先生、初めて授業を受けたとき、こう言っていましたよね。私たちの仕事は、真実を知るべき場所があるなら、そこへ飛び込んでいくものだって」莉奈はまっすぐに彼を見つめる。「私は……死ぬのが怖くありません」和夫は深く眉をひそめた。「都合のいいことだけ、よく覚えているな。あのとき、俺がどれだけ言い聞かせたと思っ
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第27話

莉奈はうなずき、病室を後にした。エレベーターの扉が閉まった瞬間、美月は付き添いの女性に押されて角から現れた。彼女はエレベーターの赤い数字の変化をじっと見つめ、何かを考えているようだ。病院を出た後、莉奈は目的もなく車を走らせた。実のところ、海外駐在の件で教授に頼む必要はなかった。椎名家でも、佐伯家でも、この件は助けてくれるだろう。何しろ東安市、いや全国的に見ても、多くの分野で椎名家と佐伯家の意向が通る。千鶴が出てきてくれれば、すんなり解決するだろう。だが、千鶴に知られたくはなかった。もし知ったら、必ず止められるに決まっている。年を重ねた千鶴は、そんな刺激にはもう耐えられない。離婚の話さえ、どう切り出せばいいかわからないのに。直哉も無理だ。あの人は、あの場所に行くことを認めてくれない。場合によっては絶交まで持ち出す。あの人はすぐに絶交をちらつかせるのだ。ただ黙っていれば、時が来れば自然に誰も自分を止められなくなる。二か月の時間。承也がどれくらいで返事をくれるかはわからない。役所で手続きを始めたとしても、書類が受理されてすべて終わるまでには三十日ほどかかる。しかし承也のほうがむしろ離婚を急いでいるはずで、自分はあまり気にかける必要もない。そうして莉奈は、街の中を目的もなく車で走り続けた。見慣れた建物を目にし、ため息をつく。東安市で生まれ育った彼女にとって、二十年以上暮らした場所を三年、あるいはそれ以上離れることになるのは、やはり寂しい。気づけば車は西苑に入っていた。かつて両親と一緒に暮らした場所だ。だが、向井家が破産したあの年、父が家を質に入れ、手放してしまった。数年前に訪れたときは、家は空っぽで誰も住んでいなかった。あの家には、父母と過ごした楽しい思い出が詰まっている。壁には自分の落書きや手形、シールが残っていた。父は自分を喜ばせようと、庭に自らツリーハウスを作ってくれた。家族三人で一緒にツリーハウスを飾りつけ、母は手編みのハンモックをツリーハウスの下に吊るしてくれた。母の膝に寝そべり、話を聞きながら、父はそっとハンモックを揺らす……思い出が少しあふれるだけで、心が暖かくなるのに。でも今日は、心の中がぽっかり空いていて、どうにも埋まらない。突然、莉奈はブレーキを踏んだ。目
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第28話

美月は車椅子に座り、首に巻いたマフラーを整えながら言った。「明日の朝、スープを作って、お叔父さんに持っていくね」「わかりました、美月さん」付き添いの女性が車椅子を押して部屋に入る。「美月!」突然、空気を裂くような焦りと怒りの声が背後から響いた。運転していた男性は明らかにボディーガードで、足音に気づいた瞬間にはすでに振り返り、警戒した表情で美月の車椅子の後ろに立ちはだかる。そのため、美月は振り返った最初の瞬間、相手の顔をはっきりと見ることができなかった。しかし、その声は……「どいて、彼女は私の友達よ」落ち着いた口調でそう告げると、ボディーガードは道を開けた。美月が目にしたのは、風に髪をなびかせ、目を真っ赤にして立つ莉奈だった。美月は目を細める。かつて、美月は莉奈を気にかけていた。泣く莉奈を見るのも辛く、悲しむ姿を見たくなくて、誰かが莉奈に手を出せば、決して許さなかった。しかし、莉奈もまた承也を好きになったのだ。承也を好きになる人、全員が嫌いだ。特に、莉奈は。「奈奈、どうしてここに?」美月はまったく驚いた様子もなく言った。手を挙げてベビーシッターに車椅子を回すよう合図し、来た人に向き直る。冷たい風に髪が揺れ、莉奈は凍える手を握りしめながら、振り返った美月を信じられない思いで見つめる。足には鉛でも入ったかのように動けない。「どうしてここに住んでるの?」まさか、ここに住んでいるのが美月だとは思いもしなかった。道理で尚南が自分のことを「大らか」だと言っていた。承也が美月を「あの場所」に住まわせることさえ我慢できるのだから。なるほど、そういうことか……今、自分は事情を知る者たちの目には、ただの笑いものに過ぎなかったのだ。これまで莉奈は、尚南の言うことを真に受けたことがなかった。理由のひとつ目は、尚南の思惑に乗る気がなかったからだ。尚南が望んでいるのは、自分と承也が決裂し、その隙に入り込むこと。彼が自分に好意を抱いていることなど、彼女はとっくに分かっていた。ふたつ目は、夫のプライバシーを探り、ヒステリックに怒るような女性にはなりたくないこと。承也が好きなのは美月。承也が美月のためにどんなことをしても、驚くことなんてない。だから、気にしても仕方がない。考えすぎるのは自分の心を煩わせる
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第29話

「じゃあ、聞くけど、どうしてわざわざここを選んだの?」莉奈は一歩前に出た。足元のコンクリートには、彼女が生まれてすぐの小さな足跡が残っている。両親に抱えられて、まだ小さな彼女の足形をつけたものだ。帰ってきたんだ。彼女は必死に涙をこらえた。「ここが私の家だって、わかってるでしょ」美月はもちろんここに住むことはできる。でも、承也がこの家を買い、彼女を住まわせたというのが耐えられない!それは、承也に刃物で心臓を突き刺されるよりも、ずっと痛い。美月はポケットからきちんと畳まれたハンカチを取り出し、莉奈に差し出した。「涙、拭きなよ。寒いから」莉奈は無表情のまま、ハンカチすら見向きもしなかった。「奈奈、もうこだわらないで。ここはもうあなたの家じゃない。あなたのお父さんが売った瞬間から、ここは他の人のものになる運命だったの。他の人が住めるなら、どうして私が住めないわけ?」どこかで聞いたことのある言葉が、莉奈の胸にナイフのように突き刺さる。美月の唇の端に浮かんだ笑みには、嘲るような響きがあった。「あなたが言った通り、私は足が不自由で承也とは結婚できない。私がダメなら、あなたでいいじゃない?あなたもその理屈は分かってるはずでしょ?なのに今、なんでまた押し付けるの?」「もう隠せないんだね?」莉奈は差し出されたハンカチを一気に床に叩き落とした。ボディーガードはすぐに駆け寄り、彼女を止める。「すぐに立ち去ってください!」「どいて!」莉奈の全身から、決意の冷たい空気が漂う。ボディーガードは厳しい声で言った。「椎名様が言いました。西苑に無断で入った者は全員退去させると。我々は君が桜井さんの友人だから、少しは手加減しているだけです。もし頑なに従わなければ、容赦はしません」言い終わると、家の周囲に潜んでいたボディーガードたちが一斉に動き出す。黒い集団があっという間に莉奈を取り囲んだ。見覚えのある顔も混ざっている。承也のボディーガードたちだ。「みんな、下がっていいよ」美月は低い声で命じた。その口調は叱るようでいて、柔らかくも力があった。言葉を聞いた者たちは、美月の声が届いた瞬間、それ以上前には出なかった。美月はマフラーを整え、優しく説得するように言った。「奈奈、あなたに手を出したくないの。もう遅いから、今日はこれでお
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第30話

莉奈は人に調べさせていた。その家は、自分と承也が結婚する前に、承也が購入したものだった。つまり夫婦の共有財産ではなく、離婚の際にも分けてもらう権利はない。だからこそ、離婚を切り札にして、承也と取引しなければならない。莉奈は松風レジデンスを出ると、そのまま車に乗り込んだ。承也がどこへ出張しているのかもわからないし、現地と国内の時差がどれくらいあるのかも知らない。それでも、一秒たりとも無駄にしたくない。あの家に美月が一日でも長く住むこと自体が、彼女にとっては耐えがたい苦痛だ。莉奈はすぐに承也へ電話をかけた。だが、何度か呼び出し音が鳴ったあと、自動的に切れてしまい、応答はなかった。続けて悠斗にかけてみたが、こちらもつながらなかった。車の外では冷たい風が唸り、薄暗い車内で、莉奈は歯を食いしばって冷笑した。そのとき、ふいにスマホが鳴った。承也からの折り返しかと思ったが、画面に表示されていたのは見知らぬ番号だった。少し迷ったあと、彼女は画面をなぞり、耳に当てる。受話口から、かすかな冷たい笑い声が聞こえた。「……莉奈」その声を聞いた瞬間、身体が反射的に強張り、骨の奥がじんと痛み、耳鳴りがした。――隼人だ。「声でわかったみたいだな。なあ、この数日、病院で毎日何を考えてたと思う?どうしてあの夜、あんなに手加減したのかって考えてたんだ。お前がこんなにしぶといって知ってたら、回りくどいことなんてしなかった。さっさと刺して終わらせればよかった。お前の家族はみんな死んだのに、お前だけ生きてて、何の意味がある?ああ、そうだ。姉が今、お前が昔住んでた家に住んでるらしいな。あれも承也が買った家だって?本当に惨めだな。俺ならもう生きてられないけどな。莉奈、覚悟しとけ。退院したら、真っ先にお前を殺しに行く」莉奈の指先は止まらず震え、充血した目に涙がにじんだ。彼女は無言で通話を切り、その番号をブロックした。汐見ヶ丘の家に戻ると、莉奈はシャワーを浴び、ベッドに横になった。目を閉じた途端、承也が自分の家を買い取り、そこに美月を住まわせている光景が頭に浮かぶ。美月が付き添いの女性に車椅子を押されて部屋に入っていく後ろ姿。そして、少し前に自分が路地へ引きずり込まれ、殴られたときの記憶。莉奈は熱を帯びた目元を手
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