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婚姻生活にさようなら、椎名さん のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

100 チャプター

第11話

莉奈はスマホを取り出し、一本電話をかけた。「桜井家の御曹司、桜井隼人のニュース、何かある?」電話の向こうでは何かを調べているらしく、少ししてから返事が来た。「一本だけあるよ。昨夜、隼人が自分のクラブから担架で運び出されて、病院に送られたところを撮られてた。誰かに殴られたみたいだけど、この件は出すなって言われてて」莉奈が質問する前に、同僚は声を潜めて続けた。「彼のお姉さんの元カレの意向らしいよ」承也……莉奈は少しも驚かず、短く「そう」と答えた。「どこの病院か分かる?」「椎名グループの病院だよ。聞いた話だと、元カレの承也が人を大量に配置してて、まるで要人でも入院したみたいな警備だとか。とにかくすごいよ」莉奈は、雲の隙間からそっと顔を出した夕陽を見つめた。斜めに差し込む光に、思わず目を細める。承也は、自分がまだ諦めきれず、隼人に仕返ししに行くのを恐れているのだろう。しかし、承也には分からない。昨夜、たとえ彼が止めなくても、自分が本気で隼人の命を奪うつもりなんてなかった。あんなクズのために、自分の残りの人生を賭けるなんて、割に合わない。自分が知りたかったのは、承也が美月のために、どこまでやるのか、それだけだ。結果は案の定で、予想通り。ただ一つ計算外だったのは、そのあと承也が家に戻って、完全に理性を失ったこと。あれは、子どもの頃から今まで、一度も見たことのない承也だった。ボディーガードが薬を持って戻り、莉奈はナースステーションで看護師に耳の処置をしてもらった。「帰ったら、ちゃんと休んでくださいね」あまりにも綺麗な彼女を見て、看護師は親切に声をかけた。「ありがとうございます」車に乗る前、莉奈は通りの向こうにある薬局に目を留めた。「ちょっと待ってて。買いたいものがあるから」「先にお乗りください。何を買うか言っていただければ、私が行きます」ボディーガードはそう言って、ドアを開ける。莉奈はのんびりと答えた。「アフターピルよ」「……」だが彼はすぐに我に返り、慌てて彼女の前に手を出した。「それは社長の許可が必要です」「私のお腹の話でしょ?なぜ彼の許可がいるの?」莉奈は冷たい目で彼を見た。その一瞬、ボディーガードは彼女の目の奥に、承也の影を見た気がして、反射的に手を引っ込めた。次の瞬間に
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第12話

「俺の代わりに面倒を減らした?ずいぶん自分を買いかぶってるじゃないか」承也はそれ以上言わず、莉奈の手首をつかんで薬局の外へ引きずり出し、道端に停まっていた黒いセダンへ押し込んだ。車のドアが、バンッと音を立てて閉まる。悠斗がドアのロックをかけるのと同時に、車内の仕切りが静かに上がった。広いストレッチ仕様の車内の隅で、莉奈はドアを押そうとしていた手を止め、これ以上無駄な抵抗をするのをやめた。カチリ、と音を立てて、承也は煙草をくわえたままライターを肘掛けに放り投げ、さっき風に乱れた髪のまま隅に座っている莉奈に視線を向けた。ひとりぽつんと丸くなったその姿は、昔、道端で拾った野良犬を思い出させた。莉奈は、自分が買ったアフターピルが承也に車内のゴミ箱へ投げ捨てられるのを見ると、迷わず手を伸ばした。だがその途中で、手首を強くつかまれる。「ゴミ箱に捨てたものまで欲しい?そんなに食べたいのか」承也は彼女の手首を握ったまま、暗く沈んだ目で莉奈の顔を見下ろした。次の瞬間、莉奈の言葉に、彼の表情がみるみる曇っていく。「食べたいんじゃない。あなたの子どもを妊娠したくないだけ」かつて自分は、承也との子どもをどれほど欲しがっただろう。けれど、その願いは叶わなかった。子どもは愛の結晶だ。承也は自分を愛していない。ひとりでは、子どもに完全な愛を与えられない。だったら、早めにきちんと考えておいたほうがいい。その一言で、車内の空気は一気に凍りついた。東安市の冬は、五時を過ぎるともう暗い。通り沿いの街灯がぽつぽつと灯り始め、車は古い街並みへと入っていく。老舗の屋台や食堂が並び、黄色い街灯の下には、生活感のある湯気と匂いが漂っていた。承也はしばらく黙って彼女を見つめてから、低く言った。「莉奈、ずいぶん気が強くなったな」莉奈は窓の外に並ぶ小さな食堂を眺めているうちに、丸一日何も食べていなかった胃がきしみ始め、少し気分が悪くなった。車内のボタンを押し、悠斗に聞こえるように言う。 「停めて。お腹空いたの。降りて何か買うから」けれど、車は止まらない。仕切りを叩こうとした、そのとき――煙草を挟んだ骨ばった男の手が、彼女の手のすぐ上に覆いかぶさるように置かれた。「悠斗、降りてたこ焼きを一パック買ってこい」冷えた低音が、車内に落ち
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第13話

「私の好み、知ってるの?ありがとう」莉奈は驚いたように悠斗を見た。彼女はたこ焼きに、ほんの少し一味唐辛子をかけて食べるのが好きだ。そうすると、油っこさがほどよく抑えられる。悠斗は一瞬だけ視線を止めたものの、何も言わずに軽くうなずき、そのまま車のドアを閉めた。承也が冷ややかに吐き捨てる。「たこ焼きなんか食べ過ぎるから、性格までタコみたいにしつこくなるんだ」莉奈は黙ったままたこ焼きを食べ続けた。耳鳴りはまだ収まらず、頭の奥でじんじんと響いている。承也が何か言っているのは分かったが、聞き返す気にも、言い返す気にもなれない。確かに彼女はしつこい。一度決めたら一直線で、簡単には引かない。昔、どうしても承也と結婚したいと願っていた頃もそうだった。直哉がどれだけ時間をかけて説得しても、ほとんど縁を切る寸前までいっても、彼女の気持ちは揺らがなかった。――初めて恋をした相手が、承也だったから。莉奈が窓の外に目を向けて、ようやく違和感に気づく。これは松風レジデンスへ戻る道じゃない。承也は、どこへ連れていくつもりなんだろう。車は、椎名グループ傘下の病院の敷地へと入っていった。「もう診察は受けたし、これ以上の検査は必要ないわ」莉奈は、先回りするように言った。返ってきたのは、有無を言わせない承也の声だった。「俺の目の届くところで検査したほうが安心だ」彼は片手で車のドアを押し開ける。「ちゃんと治らなかったら、あとが面倒だからな」理由を聞かなくても分かる。――きっと隼人を、これ以上巻き込みたくないだけだ。あれほど手を尽くして隼人を守っているのも、自分が報復に出るのを恐れているからに違いない。「そこまで私が隼人に仕返しするのが怖いなら、どうして彼と同じ病院に連れてくるの?私が突然おかしくなって、病室に押し入って刺し殺すかもしれないって、思わない?」承也の足が止まった。眉間に冷たい影が落ちる。「莉奈。警告する」低く、鋭い声だった。「隼人には、指一本触れるな」吹きさらしの場所に立った莉奈の胸に、冷たい風が次々と吹き込む。心臓に空いた裂け目を、容赦なくなぞるように。病院の専門チームが、直接莉奈を検査した。莉奈は目を閉じ、あの夜の出来事を淡々と説明する。殴られ、最後には足で耳を蹴られたこと。話が進むにつれて、彼
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第14話

莉奈が十八歳の時、承也に金を借りようと口を開いた。目的はただ一つ。オークションに出される、母のあのブレスレットを買い戻すためだった。当時、承也は二十三歳。名実ともに椎名グループの後継者で、まだ全権を握ってはいなかったとはいえ、その財力は桁違いだった。莉奈は思っていた。彼に頼めば、きっと貸してくれるはずだ、と。だが彼は、執務用の椅子に座ったまま、顔も上げずに「貸さない」と言った。どれだけ頼んでも答えは変わらず、最後は悠斗に命じて、彼女を書斎から追い出させた。ドアが閉まる、その一瞬。承也はふと顔を上げ、彼女を見た。底の見えない深淵をのぞき込むような視線。ぞっとするほど、人の心を抉る目だった。「こんな若さで、もう自分の嫁入り道具の心配か。それほど、早く嫁に行きたいのか?」あれから何年も経った今でも、その言葉は耳の奥に残っている。けれど、まさかあのブレスレットを、最後に手に入れたのが承也だったなんて。彼が自分に金を貸さなかったことは、仕方がないと思っている。助ける義務があったわけじゃない。オークションで落札したのも、正当な取引だ。そこに文句を言う筋合いはない。それでも、あのブレスレットが、自分にとってどれほど大切なものかを知っていながら。なぜ、手に入れたあとで、美月に贈ったのか。どうして、よりにもよって美月なのか。美月が「どこで買ったの?」と尋ねたあと、承也は淡々と言った。「それ一つだけだ」その瞬間、莉奈の耳鳴りが一段と強くなった。頭の中で音が渦を巻き、周囲の声が何も聞こえなくなる。ブレスレットを見つめるうち、母の姿が浮かぶ。涙をこらえながら、それを手放した日のこと。あれは、祖母が母に遺した、たった一つの形見だった。当時の彼女はまだ幼く、何も分かっていなかった。今になって、無性に思う。――お母さんの涙を、拭いてあげたかった。気づかないうちに、手が伸びていた。まるで、ブレスレットを母の手に戻そうとするかのように。「奈奈、どうしたの?」美月は反射的に右手を上げ、莉奈に触れられるのを避けてブレスレットを押さえ、承也に助けを求めるような視線を向けた。承也は、眼鏡の奥の目をわずかも揺らさず、静かに名前を呼んだ。「莉奈」その一声で、目の前の幻は消えた。ブレスレットは、そこにある。けれど、
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第15話

「君にあげるって言ったら、君のものだ。」承也は手に持った火をつけていない煙草をポキッと折った。……莉奈が車を病院の敷地から出したところだった。ここは椎名家の病院で、敷地が広く、病院を出ると道も広々としている。頭の中が真っ白で、涙が決壊したように溢れ出す。莉奈は歯を食いしばり、自分を情けないと責めた。あのブレスレットは承也が買ったもの、つまり彼のものだった。彼が愛する女性に贈りたいなら、それは彼の自由だ。自分が欲張りすぎて、承也の特別な愛情を勝手に期待していたのだ。莉奈は力いっぱい涙を拭った。そのとき、黒いセダンが彼女の車の横を猛スピードで通り過ぎた。莉奈はまだ反応できなかった。凛とした寒風の中、黒いセダンは街灯の下で眩しい光を反射させながら走る。カーブを曲がると、タイヤが地面を擦る鋭い音が響いた。黒いセダンは道の前方で横向きに止まり、瞬く間に莉奈の車を塞いだ。莉奈はハンドルを握りしめる。赤く腫れた目でその車を凝視し、窓越しに運転席を見ると、縁なしの眼鏡をかけた男が座っていた。承也だ。美月と一緒にいるんじゃなかったのか?なんで……自分を見下して笑うつもりなの?無理やり結婚した報いに、望むものは何ひとつ手に入らない。そう言いたいのだろうか。莉奈は歯を食いしばり、嗤うように涙をひとつ零した。唇をかたく閉じ、アクセルを踏む。ハンドルを切り、車は黒いセダンの脇をかすめるように前へ進む。二台の車は徐々に離れていく。莉奈はさらにアクセルを踏み込む。だが間もなく、黒いセダンが再び追いついてきた。恐ろしいスピードであっという間に彼女の車を追い越し、車を止めさせる。怒りが一気に湧き上がり、元々赤くなっていた目が屈辱で涙を帯びる。「こんなの、ずるい!」しかし、アクセルを踏んでその車を抜こうとする前に、黒いセダンのドアが開き、背が高く脚の長い承也が降りてきた。ドアも閉めずに大股で歩き、彼女の車のドアを開ける。「何を騒いでるんだ?」車のドアのそばに立ち、差し込む光も冷たい風も遮る。まるでそびえ立つ山のように冷たい気配で、息が詰まりそうだ。承也は上から下まで、うさぎのように赤くなった莉奈の目をじっと見下ろし、表情はさらに陰った。「耳が治るまで運転するなって医者に言われてたんじゃないのか?大通りで何し
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第16話

莉奈の胸が、一瞬、何かで塞がれたように重くなった。今日の午後、目が覚めたとき、体に着たままのパジャマと頬に塗られた薬を見て、彼女は一瞬、承也が自分を少しでも気にかけてくれているのでは、と思った。でも今ならはっきりわかる。全くそんな気配はない。承也に、自分に対する情けや思いやりはひとつもない。そうでなければ、あんな冷たい言葉を口にするはずがない。莉奈は、午後の自分の一瞬の錯覚を恥ずかしく思った。どうして自分は、承也にわずかでも情けを求めようなどと思ったのだろう。「安心して。私、あなたと結婚した日から、自分の立場はわかってた。でも、承也、よく聞いて。私はただあなたを愛していただけ……」言いながら、莉奈の目の端に一粒の涙が落ちた。すぐに手でぬぐい、平然を装った。「でも私だって、自尊心も誇りもある。それはあなたが勝手に踏みにじれるものじゃない。私は何もしてないのに、わざわざ私の前に来て辱めるの?私が打ちひしがれるのを見たいの?悲しむ姿を見て笑いたいの?それなら、もういい。あなたの勝ちよ。満足?」抑えきれない感情に喉が詰まり、最後の言葉は埃に埋もれるように消えた。莉奈は車のドアハンドルを握り、開けようとした。そのとき、突然、車内の中央ロックが下り、降りるのを阻まれる。「今夜は家族との食事会だ」承也が言うと、車内の空気が急に重くなった。莉奈の手が、一瞬止まる。今日は月の初め。承也の家では、毎月初めの日に家族で食事をするのが恒例だった。なるほど、彼が車で迎えに来て、無理やり車に乗せたのは、実家に食事に行くためだったのか。そして、千鶴に二人揃っているところを見せて安心させるつもりなのだ。莉奈はエンジンがかかった車を見つめ、影に半分隠れた承也の顔を見て、力がすっと抜けるのを感じた。どうして忘れていたんだろう。たとえ普段、二人の接点は少なくても、承也は仕事で出張が多く、自分は取材で夜遅くに帰宅することもある。毎朝、承也は自分が起きる前に家を出て行く。別々の部屋で寝ることもあって、二人が会う時間は限られている。それでも、毎月初日になると、どこにいても承也は必ず彼女を実家に連れて行く。三年、ほぼ四十か月も欠かさずに。大変なことだと思う。それを思うと、莉奈は少し笑ってしまい、言葉に刺を込める。「あなたと美月の
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第17話

莉奈は舌先で上あごを軽く押し、込み上げてきた苦い思いをどうにか抑えた。「それだけ見抜いてるなら、前に私の薬を捨てたのは何だったの?」承也はハンドルにかけた手で、トンと軽く指を鳴らす。「今こうして返してるだろ?」「じゃあ、お礼を言わなきゃね」莉奈はその薬を受け取り、水も飲まずに口に放り込んでそのまま飲み下すと、振り返りもせず屋敷の中へ入っていった。今夜は家族の集まりだ。椎名家の年配者から若い世代まで、みんな千鶴に会うために戻ってきていて、屋敷の中は次第に人が増えてきている。莉奈は正面ホールを抜けると、そのまま脇の控えの間へ向かった。だが、そこで尚南と鉢合わせた。避けて通ろうとしたが、背も高く手足の長い尚南にさっと行く手を塞がれ、控えの間の扉まで閉められてしまう。この時間、控えの間には他に誰もいない。使用人たちも皆、食堂の準備で持ち場を離れている。扉が閉まった瞬間、そこは完全に閉ざされた空間になった。「邪魔。どいてくれる?」莉奈は容赦なく言い放つ。尚南は気にも留めない。幼いころから一緒に育ってきた相手だ、この程度の態度には慣れている。ただ彼女の目を見下ろし、舌打ちするように言った。「お義姉さん、そんな綺麗な目なんだから、泣いて台無しにしないでよ」尚南は艶のある栗色の髪に、整いすぎるほどの顔立ちをしている。見た目だけなら文句なしの美男子なのに、その態度はどこか傲慢だ。計算高そうなその目は鋭く、何もかも見透かしているかのようだ。莉奈が冷たい水で目元を冷やしてきたことも、彼には一目でわかったらしい。「今さら何の用?」莉奈は無駄話をする気はなかった。「奈奈、俺たちは小さい頃から一緒だろ。ちゃんとお義姉さんって呼んでるのは敬意だよ?その態度はさすがに傷つくな」「敬意があるなら、近づかないで」莉奈は冷ややかに言い返す。「それに、呼び方も間違ってる。私を『奈奈』なんて呼ばないで」尚南は意味ありげに笑い、唐突にこんなことを言った。「桜井のあのガキ、俺が消してあげようか?」――桜井の、あのガキ。隼人。莉奈の眉がわずかに動く。隼人に殴られたことを、尚南ももう知っているらしい。「私の恨みは私が晴らす。あなたの手は借りない」「本当に?」尚南は親切そうな口調で続けた。「でも聞いたけど、隼人は今、お兄さんに守ら
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第18話

莉奈は、松風レジデンスの書斎の引き出しにしまってある、あの離婚協議書のことを思い出し、ぼんやりしてしまった。尚南が少しだけ目を細める。「承也に、どんな魔法でもかけられたんだ?」莉奈は唇の内側を、ぎゅっと噛んだ。自分でも、ときどき思う。――いったい承也は、私に何をしたんだろうって。何年経っても、気持ちは変わらなかった。この三年間の結婚生活が、ほとんど他人同士みたいだったとしても、諦めようなんて思わなかった。でも、もういい。今は、これ以上踏ん張る気力がない。最後の一線を引きちぎったのは、承也自身だった。ふと、そんな考えが頭をよぎる。両親は、ただ誰かに縋るような人生を、私に望んではいないはずだ。だから、彼が私を愛していないのなら、私がどれほど想っていても、卑屈に引き留めるつもりはなかった。今や承也は実権を握り、美月も帰国した。たとえ美月が足が不自由でも、承也が望めば、桜井家の誰も逆らえない。美月を迎え入れるのも、時間の問題だろう。そんなことを考え込んでいて、尚南がいつの間にかすぐそばまで来ていることに、莉奈は気づかなかった。吐息が頬に触れるほどの距離で、彼が低く言う。「奈奈、君が後悔する日を、俺は待ってる」はっと我に返った莉奈は、思わず尚南の足を踏みつけようとした、その瞬間――控えの間の扉が、外から勢いよく押し開けられた。開けた、というより、押し込まれた。扉は壁にぶつかって跳ね返り、鈍い音が響く。その音に、莉奈の胸がひくりと跳ねた。冷たい風が一気に吹き込み、部屋の暖気を荒々しくさらっていく。尚南は眉を上げ、逆光の中に立つ男を見た。片手をポケットに入れ、もう片方の指に煙草を挟んだ承也。白い煙が指の間を抜け、すらりとした指先を淡く包む。冷ややかな空気をまとった姿だった。「お兄さん、来たんだ?」尚南は笑って声をかける。莉奈は承也の顔を見た瞬間、胸の奥が詰まったようになり、視線を上げないまま出口へ向かった。けれど、すれ違った途端、腕をつかまれる。「どこ行く」「うるさ……」言い返しかけたその瞬間、承也は迷いなく彼女の顎をつかんだ。「もう一回言ってみろ」莉奈は意地を張って黙り込む。承也の親指が、強くも弱くもない力で顎を押した。「食事しに行こう」「お腹空いてない」
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第19話

千鶴は承也の顔を見るなり、露骨に不機嫌になった。「またあんたが奈奈をいじめたんでしょ!あの子、何も食べずに出て行ったのよ。さっき途中で食べたって言ってたけど、いったい何を食べたっていうの?」莉奈はテレビ局の急な残業だと言っていたが、どう見ても気分が沈んでいた。承也は手にしていた眼鏡をぶら下げたまま、千鶴をちらりと見る。レンズ越しではないその瞳は、黒曜石のように深く、いっそう陰りを帯びて見えた。「何を食べるって……どうせ、彼女の好きなものだろ」莉奈は好き嫌いが少なく、何でもおいしそうに食べる子だった。「育てやすい」なんて言い方がぴったりなくらい。千鶴は、莉奈が食事をしている姿を見るのが何より好きだ。莉奈と一緒に食卓を囲み、あの子が気持ちよさそうに食べているのを見ると、つられて自分も自然と箸が進む。けれど、承也と結婚して三年。莉奈の食事量は昔より減り、食べているときのあの心から満たされたような表情も、いつの間にか消えていた。――あの子は、心の中でずっと苦しんでいる。千鶴には、それがわかっていた。莉奈が受けてきた仕打ちを思い出すたび、怒りは承也へと向かう。「私はね、あんたの目なんて、もう一生治らなくていいと思ってる!目が見えなかった頃、奈奈がどれだけ一途にあんたの世話をしてたか。結婚すると決めたなら、どうして大事にしてあげないの!」承也は眼鏡を持つ手を止め、ゆっくりとかけ直した。黒い瞳は、雲がかかったように感情を覆い隠す。「これは俺と彼女の問題だ。口出ししないでくれ」……莉奈は椎名家の屋敷を出ると、そのまま車を走らせ、松風レジデンスへ向かった。車を降りると、自分の部屋へ直行し、スーツケースを引き出して荷造りを始める。承也と離婚すると決めた以上、ここに居続ける理由はない。外には自分名義のマンションがある。卒業した年に買ったもので、急いで住まいを探す必要もなかった。実際、持っていくものはそれほど多くない。引き出しに入っている睡眠薬と、気に入っている数冊の本、それから着替えだけ。それ以外は、もういらない。けれど書斎の机の前に立ち、白い小さなキツネの置物が目に入った瞬間、こみ上げるものを抑えきれなくなる。かなり年季が入っていて、白かったはずの色も少し黄ばんでいる。それでも耳の部分だけはつるりと滑ら
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第20話

前回は、離婚協議書の表紙をちらりと見ただけだった。そのときは承也が突然戻ってきて、手に取って中を見る暇もなかったのだ。今になってようやく気づいた。まだ、承也は署名していない。――でも、もうどうでもよかった。いつ、承也から離婚協議書を突きつけられるのかと、先の見えない不安を抱えて待つくらいなら。自分から先にサインして、せめて最後くらいはきれいに終わらせたい。莉奈はペンを取り、妻の署名欄に迷いなく自分の名前を書き込んだ。婚姻届を出した日のことを思い出す。あのときは、一画一画、間違えないように慎重すぎるほど丁寧に書いた。もし失敗したら、承也が気持ちを変えてしまうんじゃないかと、本気で怖かったからだ。でも今は違う。承也が離婚を思いとどまるなんて、ありえない。怖いのは、自分が迷ってしまうことだ。だから、あえて一気に書いた。自分に後悔する時間を与えないために。サインを終えると、莉奈は離婚協議書の中身には目も通さず、そっと引き出しに戻し、書斎を出た。家政婦が、スーツケースを持って階段を下りてくる莉奈を見て、驚いた声を上げた。「奥様、どちらへ行かれるんですか?」莉奈は行き先を答えず、スーツケースを脇に置くと、バッグから一枚のカードを取り出した。「恵子さん。昨日、電話でご家族が体調を崩されたって聞こえてしまって……聞くつもりはなかったの。お金もかかると思うから、これ、いざというときの足しにして」その言葉に、家政婦の佐々木恵子(ささき けいこ)は実家の母親の病状が脳裏によみがえり、思わず目に涙を浮かべた。けれど、すぐに我に返って首を横に振る。「だめです、奥様。そんなお金、いただけません。普段から十分すぎるほど良くしていただいてますし、お給料も、買い物も……これ以上なんて」「これは、今までちゃんと世話をしてくれた分よ」莉奈はカードを恵子の手に押し込んだ。「暗証番号は、私の誕生日よ」微笑みながら恵子の肩を軽く叩き、莉奈はスーツケースへと向かった。その様子に違和感を覚えた恵子は、とっさにスーツケースを押さえ、涙をぬぐいながら尋ねた。「奥様……いったい、どこへ行かれるんですか?」「引っ越すのよ」莉奈は、あっさりと答えた。「え……引っ越しですか?」恵子は目を見開いた。「それ、旦那様はご存じなんですか?」莉
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