All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 241 - Chapter 250

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第241話

綾は車で研究所へ向かい、会議が始まるギリギリに到着した。健吾が秘書から先月の進捗報告を聞いている中、綾は息を殺して颯太の隣の空席に座った。詳しい事情は知らされておらず、颯太は綾が2時間の外出届を出した理由は知らない。「綾さん、今後のタスク計画について説明をお願いします」綾が着席して水を飲んだ途端、健吾が彼女の名前を呼んだ。綾はパソコンのドキュメントを開き、詳細な報告を行った。健吾から業務上で「特別扱い」をされないよう、落ち度を指摘されないための準備は万全にしてあった。しかし、それでも健吾は満足しなかった。「まだ詰めが甘いですね。午後に修正してまた提出するように」綾はすかさず返した。「青木社長、午後は外出の予定があるので、明日提出でもいいですか?」健吾は首を傾げて綾を見やり、尋ねた。「理由は?」単純な動作だが、そこには健吾特有の傲慢さが滲み出ていた。「それは個人的なことなので、お答えできません」中野グループの配当金を手に入れたら、念花の研究棟に出資して健吾と対等な立場になってやる。もうこんな理不尽な扱いを受けなくても済むはずだ。颯太が咳払いをして、話を切り替えた。「他の皆さんも進捗報告をお願いしましょう。今井さん、君からお願いします」「はい」理央はすぐさま前へ歩み出ると、恭しく口を開いた。「青木社長、プロジェクターを使わせてください」健吾は着席し、誰も寄せ付けないような冷たいオーラを放っていた。会議が終わると、健吾は綾を呼び止めた。「前にも言ったが、仕事と家庭を両立できないなら、大人しく専業主婦に専念したらどうだ?プロジェクトが始まったばかりだというのに、頻繁に早退したり休んだりして。責任者として、これがお前の範の示し方か?」健吾の顔色はどんよりと沈み、青い瞳には氷が張っているようで、明らかに不快感を示していた。「まず、私は決して頻繁に休んでいない。次に、急な用事で抜ける時は必ず残業して補っており、プロジェクトの進行を妨げたことは一度もない」綾は一拍置いて、健吾をじっと睨みつけ、顔いっぱいに不満を滲ませた。「最後に。公私の区別をはっきりつけてもらえないかな?私怨を仕事に持ち込むようであれば、あなたが管理職としての素養をお持ちかどうか疑わせてもらうわ」そう言い放つと、綾は会議
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第242話

ヘアメイクを済ませて、綾は約束通り、湊が待つ郊外の高級カフェへと向かった。店は貸切状態になっていた。店内の隅には、手配された記者とカメラマンが今か今かと待ち構えている。湊は、ラフな黒の装いで窓際に座っていた。綾の姿を見つけると、彼は立ち上がって迎えに来て、腕を差し出した。「腕、組んで」綾はカメラを一瞬確認し、湊の腕に手を回して笑顔を見せた。湊は綾に微笑みかける。その目は優しさと愛情に溢れていた。カメラのレンズが二人を捉え、撮影が始まった。「奥様、もう少し中野社長に寄ってください。そう、顔を少し傾けて……いいですよ、もっと甘い笑顔で……」と、カメラマンの声が響く。二人は仲睦まじい様子でカフェへ入り、湊が綾の椅子を引いてやった。綾が座ると、湊は背後に回り込んで肩に手を置き、「何か飲む?」と優しく囁く。綾は違和感を飲み込み、「迷っちゃうから、選んでくれる?」と微笑んだ。「分かった」湊は向かいの席に座り、コーヒーを2つ注文した。6台のカメラに囲まれ、綾の体は硬くこわばった。一方の湊は堂々としたもので、身を乗り出して綾と楽しげに談笑する。シャッター音が響くたび、二人の「ラブラブ」な瞬間が刻まれていった。コーヒーを手渡され、それを受け取って笑う綾。何やら湊が優しく手を握り、それを首をかしげて聞く綾の姿……実は、二人の相性はとても良かった。幼い頃からずっと一緒だったからだ。その呼吸の合い方は、長い時間をかけて染みついた習慣そのものだった。カメラマンの要求で、見つめ合うカットを撮影する。湊の眼差しは深く、優しい。その瞳に映る自分を見ながら、湊からあふれ出す熱っぽい視線をも綾は感じ取っていた。綾はただ静かに、他人事のような気持ちで見つめていた。「完璧です!素晴らしい表情です!」「最後は、中野社長が奥様の額にキスする感じでお願いできますか?」カメラマンが提案した。湊は綾に視線を送り、確認するように待った。綾の長いまつげがかすかに震え、「これくらいで大丈夫でしょ」と返した。湊はコーヒーを一口飲み、真司は記者を外へ連れ出した。綾はカバンを持ち立ち上がると、「任務完了ね。先に帰るわ」と言った。湊は綾を見つめ、何か言いたそうに喉を鳴らしたが、最後はただ頷いて言った。「あり
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第243話

いくら湊を案じていたとはいえ、今回の件は流石に湊のやりすぎだった。何より、あそこに留まって海斗の世話を続けるのはもうたくさんだ。正確には、「中野海斗」の世話だ。今日、湊が親族を招いて、湊を正式な跡継ぎとして迎える披露宴を開く予定だった。「俺は週末だけここに来る。お前はそのまま中野家の屋敷で暮らしてくれ」綾にとってここは最高の環境だったが、職場までが遠すぎるのが難点だった。毎日の通勤に時間を費やすのは、望むところではなかった。屋敷に勤める使用人は和子が存命の頃からのメンバーであり、綾は何一つ変えていなかった。自分の元いた部屋のドアを開ける。何一つ変わらぬ配置、掃除の行き届いた清潔な室内は、まるで今まで住み続けていたかのようだった。思い出の詰まった部屋に立ち尽くし、胸が締め付けられるような切なさが込み上げた。「奥様は、またこのお部屋でお過ごしになりますか?」綾の後ろに立つ幸子の声には、痛切な思いがこもっていた。もしあの和子が生きていらしたら、湊と綾がこんなすれ違う運命を辿ることもなかっただろうに。「ええ」綾は小さく頷き、「山下さん、昔みたいに名前で呼んでちょうだい」と付け加えた。自分の呼び方が間違っていたことに気づき、幸子は慌てて「綾様」と呼び直した。一方その頃、星野邸の門前では、凪が門前払いを食らっていた。「海斗に会いに来ただけよ!あなたに追い返す権利なんてないでしょ!」凪は剛を怒鳴りつけた。湊に脅され、凪は海斗を置いて別宅へ移り住まざるを得なかったのだ。湊が中野家の屋敷を綾に譲ったという噂を誠から聞きつけ、いてもたってもいられず駆けつけたのである。湊と綾が離婚さえすれば、海斗を切り札に湊のもとへ戻れると信じていたのに。結局離婚の報告を聞くこともできず、ネットでは仲睦まじい二人の姿を見せつけられた上、綾にこんな破格の財産分与までされている。湊が持つすべての資産は、本来海斗のものだ。自分自身が中野家で認められなくたっていい、ただ、海斗の権利を誰にも奪わせるわけにはいかなかった。「旦那様からの命令です。二宮さんがここに足を踏み入れることは許可されておりません」剛は、隠す気も無いほどの軽蔑を込めて冷たく言い放った。強欲にもほどがある。もし凪が以前、綾に危害を加えるような真似を
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第244話

「ママがいい。ママと一緒にいるんだ。うわーん……」海斗は凪にすがりつき、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして泣きじゃくった。その様子を見た湊は、苛立ちと胸の痛みに襲われた。彼はソファに腰を下ろし、タバコを取り出す。だが、そこに海斗がいることに気づき、タバコを箱に戻した。「何時のフライトだ?井上に空港まで送らせよう」凪が充と結託して綾を傷つけようとした一件の後、調べさせたところ、これまでの騒動の少なからぬ部分に凪が関与していたことがわかった。かつて慈しみ、守ろうと必死になっていたはずの女は、結局ずっと自分を騙し、利用していたのだ。今さらこうして泣き落としをかけてくるのも、海斗を道具にして目的を達しようという魂胆に過ぎない。見る目のなかった自分が情けない。この女のせいで、綾を追い出してしまったのだから。「フライトって?」凪は驚いた表情で湊を見つめ、泣き声をピタリと止めた。「海斗を連れて海外で暮らすんだろう?別に止める気はない。親権は俺が持つ。どうせ綾との間に子供ができるんだからな」湊は冷めた声で、どうでもいいといった風に言った。凪の心に氷のような冷気が走る。海斗こそが、唯一の武器だったからだ。「湊……海斗がいらないっていうの?」「自分のそばにいない息子なんて興味はない。さっさと決めろ。海斗を置いていくか、さもなくば、この息子を一生認めないだけだ」そう言い捨てて、湊は腕時計に目をやった。「もうすぐ披露宴だ。お前と付き合っている暇はない」凪はゆっくりと立ち上がり、ふらりと椅子に崩れ落ちた。彼女は、湊の非情さを読み間違えていた。息子すら切り捨てるような男に、脅しなど通用しないのだ。凪は震える声で言った。「あなたが持っている残りの株を海斗に譲渡しなさい。そうすれば二度と邪魔はしない」どんな手を使ってでも、これ以上綾が湊から利益を得るような事態を食い止めたかった。もし湊が残りの株を海斗に譲り、誠が持つ株と合わせれば、海斗が中野グループの最大株主となるはずだ。湊は鼻で笑うと、真司を呼んだ。「披露宴会場のホテルに連絡して伝えろ。俺と海斗の親子関係だが、あれはただの誤解だったと。披露宴は中止だ」海斗は大事な息子だ。財産は残すが、凪のいいなりになり、資産を動かす気など毛頭ない。海斗はま
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第245話

凪は毅然とした態度で湊を追いかけてきた。海斗を預けるなら、将来、湊の遺産はすべてこの子のものにしてみせる。湊は体も弱いし、いつまで生きられるかも分からない。ましてや次の子供なんて望めるのか。「分かった」湊はその条件に同意した。海斗の成長にもプラスになると判断したからだ。凪は二人が車で去るのを見届けると、すぐに星野邸を後にして、水月郷へと向かった。最近の湊の体調不良と不倫騒動もあり、中野グループにおける誠の影響力は、皮肉にも増していた。凪がドアを開けると、彼は悠然とお酒を飲んでいた。「一杯どうだ?」凪はカバンを投げ出し、ハイヒールを脱ぎ捨てて、誠の手にある半分残ったグラスを取り上げ、一気に飲み干した。「いつ離婚するの?」「湊にでもあしらわれたか?」誠はグラスに酒を注ぎ足すと、ちびちびと口にした。「私は最初から湊自身なんて求めていない。財産さえ手に入ればそれでいいの。今の私たちは、名実ともに湊の子供を持つ親だわ。財産は目の前、それだけで十分でしょ?」凪は誠の膝に乗ると、両手を彼の首に回し、顔を上げてキスをした。二人は少しの間、抱き合っていた。誠は凪を引き離したが、その嘘を見破ろうとはしなかった。誠は凪のあまりの欲深さと自分勝手さをよく理解していた。凪が求めているのは湊その人ではなく、綾に対する復讐心なのだ。かつて湊と婚約した当時、凪は彼が綾を想っていることを見抜いた。プライドの高い凪はそこで傷つき、心の奥深くに恨みを溜め込んだのである。誠がこれほど容易に凪を懐柔できたのも、彼女の復讐心を利用したに過ぎない。凪が海斗を湊の子だと偽ったのも、財産目的だけでなく、湊への報復という目的があった。「今はまだ離婚できない。もう少し待って。湊に海斗の血縁を疑われない程度にはね」「先に別れて、2年後に迎えに来てくれればいいよ」凪は体をあざとく寄せ、中野家特有の切れ長の瞳を見つめて、甘く流し目を送った。「今のところ、別れる理由が見当たらないんだ。凪、俺を困らせるなよ」誠にとって凪は、牙を持つ小悪魔を飼っているような感覚で、刺激があって面白い相手だ。しかし結婚となると、凪は美羽には到底及ばない。美羽は空気を読み、何でも耐え忍び、自分の支配から絶対に逸脱することのない女だからだ。
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第246話

健吾は部屋着のまま書斎に座り、キーボードに手を乗せ、鋭い瞳でPCモニターを凝視していた。画面には綾と湊の仲睦まじい写真が映っている。二人は笑い合い、湊のスキャンダルなど微塵も感じさせない様子だった。健吾は思わず力なく笑った。綾は、心の底から湊を愛しているのだ。かつてあれほど誇り高かった綾が、今は湊のために完全に自分を見失っている。健吾は、綾の決断を尊重すべきだとずっと思っていた。たとえどんな結末が待っていようとも。なぜなら、綾には確かな意志があり、間違った道など進まないはずだと信じていたからだ。だが、撤回する。もし綾が間違った道へ進もうとしているなら、自分が修正してやる。たとえ綾に激しく憎まれようと、今の状況より悪くなることなどないだろう。週明け、綾の元にI国への出張辞令が届いた。綾には特に意見などなく、ただ淡々と引き受けた。「出張はいつ?」向かい側のソファに腰掛けた健吾の顔は、PCの影になっていて表情が見えない。「明日だ。奥さん問題ないか?」その声は冷ややかで、綾に借金でもしているかのようだった。綾は肩書きについて言い返そうとしたが、離縁の事実はまだ秘密にしておくべきだと思い直し、何も言わなかった。「問題ないわ」「なら、俺の部下からスケジュールの詳細を送る」健吾が回している万年筆に、綾の姿が小さく映り込んでいる。その表情は穏やかで、結婚生活で憔悴しているような様子は一切ない。「ありがとう」視線に気づかぬまま、綾は退室した。綾は、明里と雅也の結婚祝いに何を贈るべきか、そんなことを考えながら廊下を歩いていた。翌朝、空港にて。いつものように健吾のプライベートジェットに乗り込む。同行するのはマルスだけだ。綾が機内に入ると、健吾は皮張りのシートで目を閉じて休んでいた。隅の席に向かおうとする綾に、健吾が低く言った。「俺の前に座れ。出張の準備を報告しろ」綾は言われた通り対面のシートに座り、カバンから書類を取り出した。「こちらが企画書で、内容としては……」綾は淡々と、順を追って準備の内容を説明していった。気づくと健吾は目を覚まし、得体の知れない視線を綾に向けている。綾はそれには気づかぬふりをして、喉の調子を整え、報告を続けた。重箱の隅をつつくような難癖を
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第247話

さっき健吾に渡したのは初稿だ。もし彼が修正を求めたら、あらかじめ用意しておいた第2版を出せばいい。「まだ細かい部分に手を入れる必要があるから、着陸までに仕上げておくね」せっかく作り変えたのだ。綾は無駄にしたくないと考えた。それに、健吾の機嫌を取るために、初稿にはあえていくつか手抜き箇所を作っていた。「そのままでいい。十分だ。向こうに座ってゆっくり休むといい」健吾は綾から書類を受け取ると、手元の机に置いた。「うん」綾は小さく返事をして、ふかふかで大きなシートに深く腰を下ろした。「修正不要」と言われたけれど、あの完璧主義者の健吾なら、初稿などで到底満足できるはずがない。飛行機を降りる時、第2版を差し出すつもりだ。今は、せめて旅の時間を楽しむことにした。綾は窓のブラインドを開けて外を見た。眼の下には広大な山並みが広がっていた。薄い雲がまるで白いベールのように、山々の頂を覆っている。地上から千メートルもの高空であっても、山脈の壮大さと威厳はひしひしと伝わってきた。窓の外の美しい景色を眺めていると、胸の中に沈んでいた愁いも少しずつ晴れていった。キャビンの反対側では、健吾がじっと綾を見つめていた。6年前と比べて、綾の容姿にそれほど大きな変わりはない。ただ、雰囲気は前より落ち着いて、大人びている。かつてのように無邪気に笑うことはほとんどなくなっていた。健吾は手を振ってマルスを呼ぶと、小声で何かを耳打ちした。マルスが頷いて立ち去り、しばらくしてカメラを持って綾の方へ向かった。「綾さん、時間つぶしに写真を撮られませんか?」「ありがとうございます」綾は写真を撮ろうと思っていたところだった。カメラを受け取り、窓の外へレンズを向け、角度を調整してシャッターを切った。以前の綾は熱心な写真好きで、日常のあらゆる素晴らしい瞬間を記録するのが好きだった。湊と結婚してからというもの、生活は殺伐とし、味気ない日々になっていた。撮るべき対象も失い、次第にカメラから遠ざかってしまった。だが今、カメラを手に持ち、レンズ越しに見える雄大な景色を目にすると、万物に対する情熱が再び心の中で熱く芽生えてくるのを感じた。楽しげにシャッターを切る姿を見て、健吾は口元を緩めた。彼はノートパソコンを開き、綾から送られ
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第248話

飛行機が到着すると、送迎の車が待っていた。綾は車に揺られながら、見覚えのある景色を眺めた。どうやら崖端洋館へ向かっているようだ。「ホテルは自分で探すわ」前回の崖端洋館での出来事が脳裏をよぎり、あんな窮屈な思いは二度としたくなかった。健吾はサングラスをかけ、下を向いて誰かにメッセージを返していた。彼はその言葉を聞くと、顔を上げて綾を見た。「今回は出張だ。観光に来たわけじゃない。いつでも仕事の打ち合わせができるよう、別々に住む必要はないだろう?」綾は弱々しく言った。「ビデオ通話でもできるはずじゃ……」マルスが口を挟む。「綾さん、健吾様はビデオ通話がお嫌いです」「うちに泊まるのが、そんなに不服か?」健吾は視線を逸らし、嫌味っぽく言い放ちながら、スマホの画面をタップし続けた。……「いえ、誤解を招くようなことは避けたいだけ」と綾は釈明した。疑われるような状況はなるべく避けたいし、無用なトラブルはごめんだった。こっちは離婚届にはサインしたが、健吾はまだ籍が入っている身だ。健吾の手が止まる。どうやら湊に誤解されたくないということらしい。願ったりかなったりだ。まさに、湊にそう誤解させたいのだ。「自意識過剰だな。仕事の関係なんだから、プロとしての意識を持ってくれ」健吾はわざと冷徹な態度で突き放した。これ以上ホテルの話をしたら、健吾が念花グループの本部に報告し、担当を変えさせられかねない。崖端洋館に着くと、マルスたちが荷物を運び込み始めた。ようやく健吾がスマホを仕舞い、綾に向き直る。「部屋は前回と同じだ。今は過ごしやすい季節だし、適当に散歩でもしてきたらいい」「ありがとう」綾は丁重に礼を言うと、カメラを持って海辺の方へ歩き出した。ちょうどいい。去年来た時は、ゆっくりする機会がなかったからだ。空は澄み渡り、健吾が好む深いブルーの海が広がっていた。アングルを探そうと下がると、いつの間にか健吾が後ろにいた。黒のカジュアルな服に着替えている。彼は片手はポケットに入れ、もう片手には小さなバケツを持ち、金茶色の髪が潮風に揺れ、気怠げに砂浜を歩いている。その碧眼を細め、海のように日光を受けて輝かせている。綾は視線を逸らし、撮影を切り上げて仕事の続きをするために健吾の方へ向かった。
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第249話

それなら、ただの親切心なのか?綾は首を振った。真意は分からなかったが、健吾が望むまま黙々と貝を拾い続けた。それは予想以上に夢中になれる時間だった。数歩進むだけで山のように見つかることもあれば、ずっと遠くまで歩いて一つも見つからないこともある。宝探しをするかのように、綾は飽きることなく浜辺を歩き回った。秋の柔らかな日差しが、肌をぽかぽかと温めていく。健吾は近くの岩に腰を下ろすと、まるで監督のように綾をじっと眺めていた。昼近くになり、綾はバケツがいっぱいになったので、それを健吾のところに持って行った。健吾は平らな岩の上で大の字になり、気持ちよさそうに眠っていた。「健吾、任務完了よ」綾が声をかける。「うん」健吾はけだるそうに応じ、あくびをして目を覚ました。「帰ろうか。食事にしよう」彼は立ち上がると、バケツと小さなシャベルを受け取り、ゆったりとした足取りで崖端洋館へ向かった。その広々とした背中を見ながら、綾は少し遅れて後を歩く。胸の中は何とも言えない気持ちで満たされていた。まるで過去にタイムスリップし、すべての悩みから解き放たれたような感覚だった。前回ここを訪れた時は、二人しかいなかった。今回は二人の使用人がいて、健吾たちが到着すると、I国語で彼と話していた。健吾はバケツを置くと、「手を洗って食事にしよう」と綾に言った。手を洗って戻ると、テーブルには食事が並べられていた。どれも綾の好物ばかりで、味も本格的な仕上がりだった。健吾はスープを目の前に置き、「今日は休みだ。明日の夜は会食がある」と告げた。「分かったわ」綾は頷き、そのまま静かに食事を続けた。眠気を感じた綾は、食後すぐに2階の部屋で休むことにした。不慣れな場所のせいか、気持ちが落ち着かず、1時間もしないうちに目が覚めてしまった。降りて歩き回っていると、崖端洋館の左手から音が聞こえてきた。気になって見に行くと、健吾が地面にしゃがみこみ、何かを一生懸命作っていた。貝で小動物を作っているようだった。健吾は手先が器用で、手工芸が趣味だった。特に彫刻技術においては、数々の国際的な賞を獲得している。綾は邪魔しないように、そっとその場を離れた。「こっちへ来て手伝ってくれ」背後から健吾の声がした。綾は戻りながら尋
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第250話

夕食の後、健吾は綾にチェスをしないかと誘った。綾はルールをかろうじて知っている程度で、腕前は素人同然だった。一手打つたびに頭を抱えて悩み、結局は健吾にいいようにあしらわれてしまう。4局続けたが、すべて完敗だった。飽きてきた綾は、駒を放り出した。「もうやめるわ」「負けを認めるのか?」健吾は小さく笑いながら、駒を一つずつ片付けていった。「ええ、降参よ」潔く綾が答える。実力差は歴然だし、負けを認めるのは恥ずかしいことではない。時計を確認する。まだ眠るには早い時間だ。さっきまでチェスに熱中していたせいで、頭が冴え渡っていた。健吾はチェスセットを棚に片付け、ついでにワインセラーから一本取り出した。「少し飲むか?」「ううん、早めに休みたいから」綾は丁寧に断った。自分の酒癖は自覚しているので、ここで不用意に飲むのは避けたかった。その時、外から車のエンジン音が響いてきた。健吾は眉をひそめてワインボトルを置き、外へと向かった。綾はソファに座ったまま、首を伸ばしてドアの方向を窺った。マルスがいればよかったのに。彼がいれば、この気まずい空気も少しは和らいだはずだ。しばらくすると、話し声と共に足音が近づいてきた。健吾が先に入ってきた。表情は少し固い。続いて、金髪碧眼の美女、ビアンカが入ってきた。随分と痩せていたので、一瞬誰か分からなかったほどだ。一番後ろにいたマルスは、怯えた様子で恐る恐る歩いている。ビアンカの鋭い視線が飛んできて、綾と空中でぶつかった。綾はビアンカから殺気じみた敵意を感じ取り、そっと視線を逸らして立ち上がった。「先に部屋で休ませてもらうわ」健吾が軽く頷く。「おやすみ」綾は返事もせず、足早に2階へ上がった。部屋に戻っても眠気は訪れず、ノートパソコンを広げて窓辺で仕事をすることにした。カーテンを閉めていなかったので、波の音がかすかに聞こえてくる。今夜は風が穏やかで、波音もどこか優しい。しばらく経ってから顔を上げ、強張った首筋を揉みほぐすと、海の上には美しい満月が輝いていた。幻想的で静かな夜の景色が、心を優しく満たしてくれる。仕事をする気も失せ、パソコンを閉じて窓枠に肘をつき、ただ外の風景を眺めた。不意に控えめなノック音がしてドアを開け
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