All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 371 - Chapter 380

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第371話

応答はなく、ベッドに近づくと綾が寝息を立てていた。寝ながら泣いているようだった。健吾は視線を落とした。見慣れたようでいて、どこか他人のような綾の顔を見て、胸に奇妙な疼きが広がった。頭の中で、自分は綾を憎んでいるという声が繰り返される。この女を許すことなんてありえないと。だが、そんな理屈よりも先に、孤独に耐えかねた痛みが心に押し寄せていた。ベッドの縁に腰を下ろし、健吾は手を伸ばして綾の頬の涙を拭おうとした。しかし、触れようとしたその瞬間、電気ショックでも受けたかのように手を引っ込めた。「健吾……」綾のうわ言がはっきりと聞こえた。頭で考えるより早く、体が勝手に反応した。「ここにいるぞ」「あなたのことなんて、大っ嫌い」綾がすがるように嗚咽した。健吾は表情を曇らせた。「俺のことが嫌いなら、ここを出て行け。どこまでも遠くへ行け」不意に、綾が目を開け、とろりとした目で健吾を見つめた。「あなたは健吾」健吾の喉が思わず鳴った。「いつ、出て行くつもりだ?」綾は健吾の腕にしがみついて起き上がり、そのまま首に手を回した。「お酒を飲みすぎちゃって、気持ち悪いの」健吾は突き放そうとしたが、手は鉛のように重く、びくりとも動かなかった。「健吾……キスしてほしい」言葉を終えるよりも早く、綾の唇が彼に触れた。まるで電流が走ったかのように、健吾は綾を突き飛ばした。力任せだったため、綾は勢いよく倒れ、後頭部をベッドの支柱に打ち付けた。「いたっ……ひどいよ」綾は枕をひっつかみ、健吾に向かって投げつけた。「無理やり飲まされても、やり返すぐらいのことはできるだろ?」健吾は枕を受け止め、背に添えると、再びベッドへと押し付けた。すると、綾はすばやく彼の首に腕を巻き付け、抱き寄せた。「行かないで、健吾」見覚えのある香りが鼻を突く。健吾の理性が危うくなる。おまけに綾の指先が体を這い、また唇が重なった。健吾の呼吸が荒くなり、理性が飛びそうになる。おかしい。あんなにも憎んでいるはずなのに、どうしてこんな感覚に陥るのか?だが、体は嘘をつかない。綾が欲しい、と体が叫んでいた。健吾は綾の手を掴み、そのまま覆いかぶさった。舌で唇をこじ開け、過去の記憶が脳裏をよぎる。すべてを投げ出して、今すぐ綾を我が物にした
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第372話

健吾は鼻で笑った。「お前から酔ったフリをして誘ってきたんだろう?被害者ぶるなよ」彼は身を乗り出し、綾の顎を指先ですくい上げた。「お前みたいな女、いくらでもいるんだ。そんなに自分に価値があると勘違いするな」健吾は背筋を伸ばし、しわになった服を整えると、踵を返して歩き出した。扉のそばで一度足を止めたが、振り返りはしなかった。「二度とそんなくだらない質問をするな。俺はいつでも冷静だ。自分が何を求めているか、自分で一番よく分かっている」そう言い終わると、そのまま廊下の角を曲がり、姿を消した。綾は枕に倒れ込み、目尻から零れた涙が耳の中に流れ落ちた。健吾は、誰の言いなりにもなっておらず、意識もしっかりしていると主張した。けれど、綾はどうしてもその言葉を信じることができなかった。自分が諦めてしまったら、大切な健吾がこの世界から本当に消えてしまうのではないかと怖かった。日が暮れてから、出かけていた一行がようやく戻ってきた。綾はダイニングで食事の準備を手伝っていた。ゲストたちが次々と席につき、賑やかに会話を楽しんでいる。「チェッコさんは本当に優しいわね。ずっと付きっきりでスージーさんに狩りを教えてるなんて。羨ましいわ」「二人は婚約してるのよ。親密なのは当然でしょ?誰かの邪魔が入らなければ、今頃は本当の夫婦だったはずなのに」彼らはその言葉を吐き捨てながら、横目で綾を見て冷たくあしらった。ここは遠い異国だ。綾には逆らうすべなどなく、聞こえないふりをするしかなかった。そこへビアンカが入室し、綾のすぐそばに歩み寄った。「ビアンカちゃん、手は洗った?」ビアンカは両手を広げてみせた。「見て、すっごく綺麗にしたよ」ビアンカは綾を屈ませると、耳元で小声でささやいた。「美味しいお菓子持ってるの。夜になったらあげる」「嬉しい」綾は口元に微笑みを浮かべ、食事を運ぶのを手伝った。健吾とスージーが最後に入ってきて、肩を並べて食卓に着いた。スージーがビアンカに向かって笑いかけた。「ビアンカ、チェッコの隣に座ってもいい?」ビアンカは間髪を入れず拒否した。「ダメ!」スージーは健吾の方を向き、切なそうな表情を浮かべた。「一度もダメ?」健吾は表情を硬くして言った。「ビアンカ、スージーと席を代わってやれ」自分の味方だと
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第373話

「もう大丈夫よ。私たち友達なんだから、助け合うのは当たり前でしょ?」ビアンカは綾の手を握ると、そう言いきった。「チェッコにはもう近寄らない。意地悪ばっかりするなんて、絶交よ!どうせ綾と一緒にいればいいんだから」綾はビアンカに抱きついた。「ビアンカちゃん、ありがとう。あなたがいるだけで心強いわ。本当に幸運の女神様ね」「安心して。チェッコなんかに追い出させたりしないから。チェッコは嫌な人よ、一緒に遊ばないでおこう」「ええ、関わるのはやめておくわ」綾はふと、人生もそんなに捨てたもんじゃないなと思った。少なくとも自分にはビアンカとマルスがいる。独りで戦っているわけじゃないのだ。ビアンカはバッグから可愛らしい小箱を取り出すと、中にはスイーツが入っていた。「一口食べてみて?」綾は味見をした。「甘すぎなくて、口の中で溶けるみたい。すごく美味しい」「へへ、私のお気に入りを選んだのよ」ビアンカはまた一口食べさせてくれた。綾はそれを素直に受け入れた。翌朝、ビアンカは何かを企むような様子で綾を呼び止めた。「綾、紹介したい人がいるの」「誰?」「私の親友よ」ビアンカは詳しく話さず、綾を引いて隣のゴルフ場へと走った。金髪の巻き毛をした長身の男性が、一人でゴルフの練習をしていた。高身長で、ゴルフウェアの着こなしからもスタイルが抜群なのがわかった。「アントニオ!」ビアンカが声を上げる。アントニオは振り返って手を振った。「やあ、ビアンカ。ゴルフしに来たの?」「綾と会いたがってたでしょ?だから連れてきたわよ」綾が戸惑ううちに、ビアンカに引かれてアントニオの目の前までやってきた。アントニオは手を差し出した。「はじめまして、綾さん。噂はかねがね」綾は作り笑いで応じた。「はじめまして」ここで受けてきた数々の冷たい仕打ちを思い出し、その「噂」が自分の悪評ではないかと少し不安になった。「ビアンカの親友なんですよ。彼女が東都から戻ってきて、綾さんの話ばかりするものだから、興味を引かれましてね。気を悪くしないでください」アントニオは穏やかに微笑み、その表情には優しさが溢れていた。ビアンカの友人ならきっといい人のはず。綾は自然と力が抜けた。「そんな、とんでもないです。光栄です」アントニオは誘った。「一緒に回
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第374話

「綾、ここにバカンスに来ているんじゃないんだぞ」健吾の鋭い叱責に、綾の手からゴルフクラブがこぼれそうになった。アントニオは綾の手を離し、笑った。「僕から綾さんに声をかけたんだ。彼女を責めないでくれ」「アントニオ、こいつはただの雇われの身だ。距離を保った方がいい」ビアンカは腰に手を当てて言った。「私がアントニオにゴルフを教えてくれるよう頼んだのよ。何か問題でも?」健吾は表情を硬くし、「ビアンカ、これ以上わがままを言うなら、実家へ帰すぞ」と突き放した。ビアンカは健吾の胸元をこぶしで叩き、「この悪党!いつもいじめてばっかり!」と怒った。「アントニオさん、ありがとうございます」綾はゴルフクラブをアントニオに返すと、ビアンカの腕に寄り添った。「もう怒らないで。練習は終わりにするから」綾は健吾の方を向き、冷めた目を向けた。「ビアンカちゃんを困らせるなんて、そんなの男じゃないわ」そう言い捨て、綾はビアンカを連れてその場を後にした。昔の健吾は誤解が積み重なっていても、それなりに紳士的な態度を崩さない人だったのに。今の健吾は、まるで別人に成り代わってしまったかのようだった。去っていく二人を背中に感じながら、健吾は胸の奥が締め付けられるような苦しみに襲われていた。綾とビアンカが廊下を通ると、そこにスージーが立ちはだかった。「ねえ、私の服が汚れたの。きれいに洗ってちょうだい。手洗いでよ」ビアンカが食ってかかった。「綾は私の付き人なのよ。なんでスージーがそんな指示をするの?」「チェッコも許していることよ。ビアンカ、あなたはカタリナさんに逆らうつもり?これ以上わがまま言ってると、本当に追い出されちゃうわよ」ビアンカが怯えた表情を浮かべるのを見て、綾は「ビアンカちゃん、先にお部屋に行っていて」と小声で言った。「でも……」とビアンカは不安げだ。「大丈夫、何もないから」ビアンカを部屋へ送ると、綾はスージーのワンピースを受け取り、「わかりました、きれいにしますね」と言った。スージーは馬鹿にするような視線を向けた。「身分をわきまえてるじゃないの」綾はその服を洗濯室へと持ち込み、洗い場に放り込んだ。ポケットから持参した墨汁を取り出すと、蓋を開け、すべてその服へとぶちまけた。真っ白だった布地が黒ずん
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第375話

スージーは激昂して肩を震わせた。「わざとでしょ!」綾は無辜を装い、答えた。「スージーさん、とんでもないです。ちゃんと洗いました。まさか色移りしてるなんて。誰か他の人の恨みでも買ったんじゃないですか?」「あなた以外に誰がいるというの?」ビアンカは綾の前に歩み出て、声を張り上げた。「スージー、いい加減にして。綾に無理やり洗濯をさせて、今度は綾を責めるなんて。自分でわざとこぼしたんでしょ」ビアンカの頭の回転の速さに驚いた綾は、人がいなければ思い切り褒めてやりたい気分だった。健吾の手前、スージーはビアンカに対して怒りをあらわにするわけにもいかない。スージーは唇を噛み締め、悔しげな表情で健吾を見つめた。「チェッコ、これ私のお気に入りなのに」「そこまで好きで、汚れるのが嫌なら外に着ていくべきじゃないな」健吾はこの件に関わるつもりはなく、むしろこの機会に綾を困らせて早く追い払いたいとすら考えていた。だが、嫌味な言葉を口にしようとすると、矛先は自然とスージーへ向かった。綾がいじめられているのを見ると、胸の内から言いようのない怒りが込み上げてくる。この感情のせいで、自分は本当に綾を愛していたのではないかとさえ疑ってしまう。スージーは健吾の言葉を聞き、動揺し顔色が次から次へと変わった。綾に対する恨みは深まるばかりだ。健吾は明らかに綾を憎んでいるはずなのに、ビアンカのために綾をかばうなんて。綾はスージーに向かって微笑むと、そのままワンピースをゴミ箱に投げ捨てた。そして手を洗い、何食わぬ顔でビアンカの食事の世話を始めた。得意げな表情の綾を見て、健吾は無意識のうちに唇をゆがめて笑った。食後、誰かがダンスを踊ろうと提案した。「ビアンカ、ピアノを弾いてちょうだい」とスージーが声をかける。健吾はこの頭の悪そうな姉を大事にしている。なんとか接近しなければならない。しかし、ビアンカは取り付く島もない。「早く寝なきゃいけないの。あなたたちのために、弾く気なんてないわ」スージーはこれまで他人から拒絶された経験がない。エステ家の姉弟を除けば。健吾が冷たいのはともかく、このバカになぜそんなことを言われなければならないのか?「ビアンカ、カタリナさんからはあなたに社交マナーを教えるよう頼まれているの。私たちはあなたの屋
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第376話

「ビアンカちゃん、部屋に戻ろう」綾はビアンカの腕をとり、その場を後にした。健吾は、最後に投げかけられた綾の瞳に刺されるような痛みを感じ、胸の内で理由も分からぬまま動揺した。まるで自分が何か間違えたかのように。しかし、その感覚はすぐに消え、ただ、そんな自分が滑稽だとしか思えなかった。健吾はスージーを押しのけて、ラウンジに戻っていった。2階の部屋で、綾はビアンカが少し落胆しているのを見て、慰めた。「ビアンカ先生、あんな価値のない人たちに振り回される必要はないよ。それより、I国語のレッスンを続けよう」「綾が正しいわ。先生である以上、先生らしくあるべきね。今日の勉強を始めよう」ビアンカは真剣で辛抱強く、綾は当初全く理解できなかったI国語を、今では簡単な単語や文章を聞き取れるまでになっていた。屋敷での親睦会はすぐに終わり、一行はエステ家のお城へ戻った。カタリナがE国へ休暇に出かけていたため、生活は随分と気楽になり、ビアンカの表情にも笑顔が増えた。綾はかつての日常を取り戻し、ボクシングや柔術の練習を再開した。この日、綾は一人でジムに向かい、サンドバッグに向かって拳を打ち込んだ。酷く疲れたけれど、最高のストレス解消になった。綾はサンドバッグを健吾に見立てて、容赦なく殴り続けた。「健吾、この嘘つき!最低!私を困らせて、本当に酷いんだから!」綾は暴言を吐きながら、心の中に溜め込んでいた苛立ちを吐き出した。息が切れて拳が上がらなくなるまで続けた後、椅子に座り込み、水筒を開けて水分を補給しようとした。水を飲もうと顔を上げた時、水筒の反射に人影が映っているのに気づき、勢いよく吹き出しそうになった。「健吾?いつからそこに?」さっきの罵詈雑言を聞かれたかは分からない。たとえ聞こえていたとしても構わなかった。ただ本心を語っただけなのだから。健吾の顔色は晴れない。「ここは俺の個人のジムだ。俺がいつ来ようが、お前に報告する筋合いがあるか?」「いえ、そういう意味では」「マルスが連れて来たのか?」健吾の視線は、ボディスーツに包まれた綾の体をなぞり、深く濁った色に変わった。「違う。自分でこっそり忍び込んだの。他の人と関係ない」綾は屈託のない様子で答えた。マルスが親切にしてくれた以上、裏切ることはできなか
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第377話

綾は微笑んで「こんばんは」と返した。「ルーサーって呼んでよ。お名前で呼んでいい?」「ええ、もちろんです」綾はルーサーとビアンカには水を注いだが、テーブルのもう一人、健吾のことは完全に無視した。「よろしく、綾」ルーサーが東都の言葉で言った。「私の国の言葉が話せるのですか?」と綾は驚いた。「少しだけね。東都にとても興味があるんだ。教えてくれない?」「喜んで」I国に来てから、ルーサーは唯一自分に優しく接してくれる人だった。彼が健吾の友人であろうとなかろうと、綾にとってルーサーと親しくすることは苦ではなかった。夕食の後、ルーサーは早速綾に東都のことを教えてほしいと頼んだ。二人はソファに並んで座り、楽しげに会話を楽しんでいた。一方、健吾は別のソファに座り、ビアンカに本を読み聞かせていた。彼は時折視線を上げて綾たちの方を見て,眉間のしわをいっそう深めていた。「ビアンカ、もう寝る時間だ」ビアンカは不服そうに口を曲げた。「まだ早いよ」「部屋へ行きなさい」健吾の口調が強まると、ビアンカは従うしかなかった。それを見て、綾も立ち上がった。「ルーサーさん、ごめんなさい。今日はこの辺で」「なら、明日もまた来てもいいかな?」ルーサーが尋ねる。「いいですよ」確約を得ると、ルーサーはにっこりと笑みをこぼした。「チェッコ、バイバイ」部屋に戻るなり、ビアンカが期待に満ちた目で聞いてきた。「綾、ルーサーって可愛いでしょ?」綾は頷く。「そうね。ユーモアがあって親しみやすいし、とても優しい方よね。少しも偉そうにしないし」「チェッコの次にルーサーが優しくしてくれるんだよ。綾がしっかり彼に東都の言葉を教えれば、今度みんなで東都へ遊びに行く時、一緒に誘えるかもしれないね」東都……綾は、少しだけ故郷が恋しくなっていた。このところ綾はずっと明里と連絡を取り合っていた。明里は妊娠しており、余計な心配をかけまいと、綾は健吾との間で起きているトラブルについては口を閉ざし、単に「I国で少し仕事がある」とだけ伝えていた。湊のことも、時々達也を介して近況を尋ねていた。湊が口止めをしているのか、それとも別の理由があるのか、達也はいつも話を逸らし、湊について語ろうとはしなかった。翌日、ルーサーは約束通り現れた。
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第378話

3人が街へ出ると、買い物のほとんどはビアンカが主導していた。久しぶりの友達とのショッピングに気分が乗ったのか、ビアンカは目に映るもの全てを欲しがった。健吾はそれを止めることもなく、ビアンカのあとをついて回り、支払いを済ませていた。彼は何度か、黙り込んでいる綾に目をやり、好きなものを選ぶよう促そうとしたが、言葉は口に出せずに終わった。そこにルーサーが先に声をかけ、熱心に言った。「綾、欲しいものはないのかい?何でも言ってよ、こっちが払うから」「ありがとうございます、ルーサーさん。でも特に必要なものはないです」綾にとって金銭面での問題はないが、ここを定住先とは思っていないため、わざわざ物を増やして、後で処分に困るのも避けたかった。昼過ぎまで街を回り、ルーサーが馴染みのレストランに案内してくれた。「綾は食のプロなんだから、メニュー選びはお任せするよ」綾はビアンカと健吾の好みを心得ているため、ルーサーの希望を聞きつつ料理を選んだ。この店の味は決して悪くないが、東都で食べていた料理に比べれば、少し物足りない。故郷が恋しいという想いが強まり、ここに留まる時間が長くなるほど、心には孤独が募った。食事中、綾が洗面所に立った際、後ろから健吾の気だるそうな声が響いた。「ここの飯が合わないなら、早く東都へ帰れ。無意味な時間を過ごすな」綾は手を拭いた紙をゴミ箱へ投げ捨てると、冷静に彼の方を振り返った。「アドバイスありがとう。考えておく」健吾の放つ冷たい言葉には、もう何度も耐えてきた。だが何度聞かされても、胸が締め付けられるのは変わらなかった。愛していた男の姿は、今の健吾とは全く違っていたはずなのに。自分が望んだ通りの回答をしたはずなのに、なぜか健吾の心中は、半分も晴れなかった。綾は数日前まで簡単には去らないと息巻いていたのに、今日あっさり態度を変えたからだ。綾が今の自分の内心を知ったら、きっと「どこか病気なんじゃないか」と言い捨てただろう。席へ戻った綾は、もう十分に食事を済ませた気になっていた。ここへ来てから環境が合わないのか、食もすっかり細くなった。ビアンカが昼寝の習慣を優先するため、食事を終えると一行は帰路についた。行きはルーサーが運転したが、帰りは健吾は自分がハンドルを握ると申し出た。
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第379話

「いつかまた戻ります。今は、自分を休ませるための期間ですから」ルーサーの言葉は正論だった。でも、綾は自分の決断を後悔していなかった。今していることは、健吾に、そして自分自身にチャンスを与えるためのものだ。もしもその時が本当に来たら、迷わずここを去るだろう。健吾は両手でハンドルを握り、真剣に運転しているようで、二人の会話を漏らさず聞き取っていた。綾を憎んでいた。だから綾が自分から遠ざかってくれるのは、願ってもないことのはずだった。それなのに、なぜか綾が離れてしまうことに怯えている自分もいた。まるで綾が去ったら、自分が奈落の底へ突き落とされそうな気がして。理由の分からない、もどかしい感覚だった。お城に着く直前、綾のスマホが鳴った。画面を上にして太ももに置いていたので、健吾がちらりと見てしまった。そこには達也の名前が。達也から電話がかかってくるのは珍しい。綾は急いで電話に出た。「達也さん、何かあったの?」「ずっと湊の体調を気にかけてただろ?今日は少し時間が空いたから電話してみたんだ」「彼は……大丈夫?」「あまり、芳しくないね」綾の呼吸が止まった。「どういう意味?」「ここ数日、食事を摂れていない。栄養剤だけでなんとか繋いでいる状態だよ」受話器の向こうの達也の声が、ひどく沈んでいる。綾は長いまつ毛を震わせた。「何かあったりしないわよね?」「何とも言えないな」医者として優秀な達也がそう言うのだ。事態はかなり深刻なのだろう。綾の指の節々が白くなった。「今、I国にいるの。明日には帰って会いに行くよ」「今はまだ戻るな。湊が綾に会いたがっていない。湊の気持ちを優先させてやってくれ。どうしてもという時が来たら、こっちから教えるよ」達也が電話をくれたのは、綾に心の準備をさせるためだった。もし綾がいきなり湊のもとへ行けば、病状が悪化しかねないからだ。「分かったわ。ありがとう、達也さん」電話を切ると、綾は目を閉じ、座席に身を預けた。せっかく明るい兆しが見えたのに、また悪いほうへと傾き始めている。でも慣れたものだ。自分はもともと、幸運な人間ではないのだから。その変化を横で感じ取り、健吾は顔色を曇らせた。しばらくして、車はお城へと入り、健吾が停車させた。綾は車から降り、ビ
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第380話

綾は部屋に戻り、今日ビアンカが買ってきたものを片付けた。東都に戻る話は、もとは気の迷いで言った言葉だったが、実は本気で考えてもいた。明里に会いに行きたかったのだ。明里は妊娠してつわりがひどく、体調も気分も優れない日が続いているからだ。湊にも会いたかった。たとえ話すことができなくても、陰からそっと見守るだけでもいい。カタリナが帰ってくる前に、ビアンカに1週間休みをもらって、一時帰国することにした。ビアンカが昼寝から目覚めた時、綾はそのことを伝えた。ビアンカは反対しなかった。それどころか、一緒に付いて行きたがった。「私も彰人おじいちゃんや冬馬さんと話がしたい。綾、お願いだから私も一緒に東都へ連れて行って?」ビアンカはすがるような目で見つめた。「いいよ」綾はすぐに頷いた。東都に着いたらビアンカを冬馬に預ければいいし、手間もかからないはずだ。夕食の時、ビアンカはそのことを健吾に打ち明けた。「チェッコ、私と綾で東都へ1週間遊びに行くね。ママには内緒だよ?」「ダメだ」健吾は視線すら上げず、即座に拒絶した。彼は綾の東都行きが単にすねているだけだと思っていたが、本当に実行する気だったらしい。さっきまでは美味しく食べていたはずの食事が、喉を通らなくなった。諦めきれないビアンカは言った。「そんなのひどいよ。私はただ冬馬さんに会いたいだけなのに」「父さんは出張で東都を離れている。今回は諦めろ」それでもビアンカは食い下がった。「でも綾と一緒に行きたいの」健吾の手が止まった。「二人とも行く必要はない」綾は「ビアンカちゃん、あなたはまたの機会にしなよ。私が先に帰るから」と促した。「お前は東都に戻って何をする気だ?」健吾は理性に反して、聞いてはならないことを口走った。綾は腹立たしげに答えた。「戻れって言ったのはそっちでしょ?」健吾は嘲笑した。「いつからそんなに素直になった?」「関係ないわ。私は帰るわよ。あなたの意図通りにね」ビアンカはむくれて警告した。「チェッコ!綾をいじめちゃダメだよ!」健吾は無実を主張するような表情をしたが、何もしていないはずがなかった。「お前。俺とビアンカの仲を裂こうとしているのか?」綾は鼻で笑った。「勝手にそう思ってれば?どうせ私のことは悪者に見えているんで
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