All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 691 - Chapter 700

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第691話

実は、湊が離れることを選んだことで、誠自身も心の奥底では少し軽くなっていた。この弟を送り出すことは、まるで自分自身の肩の荷が下りるかのように感じられたのだ。湊は「ああ」と答え、礼を言った。それがたとえ大規模な計算の果てだとしても、誠に対して感謝の念を抱いていたのは本心だった。深夜、達也が病室に入ってきて、湊を呼び起こした。「行くぞ」達也はあらかじめ用意しておいた医療用ガウンとマスクを手渡し、「例の患者を療養所に送る間、俺のそばについていろ」と言った。湊は、達也が自分のためにわざと旅程を変更したのだとわかっていた。どのような言葉を並べても、この感謝の気持ちを伝えることはできない。自分にできる唯一のことは、今後は二度と達也に関わらないことだろう。湊は黙って医療用ガウンをまとい、マスクを着けると、達也の後を追ってヘリに乗り込んだ。ヘリが離陸し、夜の街は静かに遠ざかっていった。湊は眼下に広がる暗い東都を見下ろしたが、不思議と名残惜しさはなかった。この街で自分を必要としてくれる人はもういない。残る瑞希や誠すらも、今はもう自分を必要としていなかったからだ。一瞬、胸を突き刺すような痛みを感じたが、それは綾のもとへ向かうという衝動によってすぐに覆い隠された。夜が明ける頃、ヘリは療養所に到着した。達也は例の重役と言葉を交わすと、そのまま湊を連れて外へ出た。療養所の外には、すでに一台の車が待機していた。車に乗り込む前、湊は達也を振り返った。柔らかな朝日が湊の目に降り注ぎ、平素は見せないような瑞々しい表情を浮かべていた。「ありがとう。これが最後だ、二度と会うことはない」達也は黙って湊を見つめ、車が見えなくなるまでそこに立ち尽くしていた。「達者でな」という言葉は喉の奥で詰まり、結局伝えることはできなかった。修羅の道へと向かう湊に、達者でなどと言えるはずがなかった。黄金の朝陽が雲を切り裂く頃、湊は埠頭にたどり着いた。車から降りてあらかじめ用意された漁船に飛び乗ると、甲板には目もくれず、魚の臭いが立ち込める船室の中へ消えた。狭苦しい隅でハンカチを口に当てていたが、鼓動は高鳴っていた。綾さえいるのなら、どれほど過酷で嫌な過程であったとしても、関係なかった。公海を漂う船上で、綾はいつものよう
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第692話

「綾、久しぶりだね」湊が部屋に入り、ドアを閉めて鍵をかけた。綾を逃がさないためだ。「どうして?」しばらく誰とも話していなかったせいか、綾の口調はぎこちなかった。喉の奥から無理やり絞り出したような、枯れた声が響く。「綾を守るためだ」湊は手を伸ばし、綾の青白い頬をなでようとした。綾は身を反らしてそれをかわした。白く細い首筋は緊張に強張り、今にも張り詰めて切れそうだった。「これは守るって言わないわ。傷つけてるだけよ。お願い、帰して」湊の手が空中で止まり、指先が微かに震える。彼は静かに拳を握り、自分の側に下ろした。ベッドの端に腰を下ろし、部屋の中を見渡す。窓のカーテンはきっちりと閉まり、机には読みかけのままの本。そして視線は、再び綾の顔へ戻った。綾の目に浮かぶ嫌悪と怒りを見て、湊の心に深く突き刺さるような痛みを感じた。そんな冷たい目は、自分の愛した綾には似合わない。「焦らなくていい。いつか必ず外に出してやるよ。今はまだ無理だが」綾は湊をじっと見つめた。まるで別人のようになってしまった古い知り合いを確かめるように。「湊、いい加減目を覚ましてよ。心の闇なんかに、自分を支配させないで」綾の声は震えていて、悲痛な願いと隠しきれない恐怖が混じっている。湊は疲れ切った様子で視線をそらした。綾の目から逃げ、自分自身の心の揺らぎからも目を背けたいようだ。靴を脱ぎ、湊は重たい足取りでベッドへ滑り込む。マットレスに体を沈めると、張り詰めていた気力が途切れたように深く息を吐いた。「綾、長い間まともに眠れていないんだ」毛布の中に丸まり、膝を胸のあたりまで引き寄せる。その姿は、まるで胎児のようだった。「疲れちゃった。ここで眠るまで、そばにいてくれないか?」枕に顔をうずめると、綾特有のかすかな香りが鼻をくすぐる。荒みきったこの日々のなかで、唯一、綾のものだと確信できる、安らぎの香りだ。綾は椅子に深くもたれかかりながら長い息を吐いた。湊がこうしてやってきたということは、状況が好転する兆しかもしれない。湊を眠らせたまま、その寝顔をそっと眺める。かつて見知っていた、疲れと陰をまとった表情だ。視線を逸らした綾は、湊が目を覚ましたら、改めてしっかりと話をしようと決意した。湊が目を覚ましたのは深
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第693話

綾は、ついに堪忍袋の緒が切れた。胸の内から怒りが湧き上がり、震える声には隠しきれない激昂が混じった。「健吾とヨリを戻すつもりなんてない!私はただ平穏に暮らしたいだけ。それなのに……」綾はベッドのそばに立ち、湊を冷ややかに見下ろした。その瞳は、冬の氷のように鋭く冷たい。「私が誰といようが、あなたの知ったことではないわ。湊。私たちには5年間の結婚生活があった。それを壊したのはあなたでしょ?自分自身の行いを償えばいいのに、私を苦しめてどうするの!?」その叫びを聞きながら、湊はベッドに仰向けに横たわっていた。表情は凍りついたまま、何の動きも見せない。ここに来る前から、綾が怒ることは予測済みだった。誠の言う通り、綾を手に入れたければその憎しみを受け止めるしかない。これは当然の報いだった。「綾。俺がこうして落ちぶれて無様な姿でいること。それこそが、自分への罰だ」綾は呆れたように一瞬言葉を失い、再び椅子に腰を下ろした。こめかみがずきずきと痛み、脳に直接何かがぶつかってくるような錯覚に陥る。綾は額をさすった。割れるように頭が痛かった。湊と話すのは、奈落に向かって叫んでいるようなものだ。声はどこへも届かず、望む返答など一生返ってこない。「ここに私を閉じ込めたところで、あなたを愛すこともないし、あなたに屈服することも絶対にないわ」一語一句、突き放すように言い放った。湊は小さく笑った。「いいさ。ただ綾がそばにいさえすればそれで十分だ」綾は湊を、まるで見る影もない狂人のように眺めた。湊を見ることさえ厭わしく、綾は椅子の上で小さく体を丸めた。膝を抱え、そこに頭を深く埋める。湊の様子からして、自発的に帰してくれる可能性は低い。今は口をきくことさえ無駄だ。湊はあくまで歩み寄ろうとする。「綾。世界中で俺ほどお前を愛している男はいない。怖がるな、絶対に傷つけない」綾はその言葉に首を向けた。極限の絶望の中で、逆に心は氷のように静まり返っていた。「あなたは私の兄ではない。本物の兄なら、こんなことはしない。だから、あなたは一生信じられない。私を帰す決心をするまでは、もう二度と私に話しかけないで」部屋に沈黙が戻った。湊は綾の意図を察したのか、その後は何も言わなかったが、立ち去ろうともしなかった。湊は起き上がり、裸足で
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第694話

綾は一晩中、眠りが浅く悪夢にうなされ続けた。まるで海藻に絡めとられるように、幾度も海の底へ引きずり込まれる。何度も目を覚ますたび、ベッドの足元に座る湊の影があった。表情までは見えない。けれど、夢の中で海藻に絡め取られたときのような、まとわりつく視線だけは肌で感じていた。ようやく日が昇る。窓の外には、目に痛いほど眩しい青空と輝く海が広がっていた。綾はその光を見つめ、冷たく言い放つ。「甲板へ行って、空気を吸わせてちょうだい」湊はベッドの縁に腰かけたまま、朝の光の中でも無表情を崩さない。「この部屋から出るのはいい。だが、甲板へは出させない」そう告げて彼は立ち上がり、扉を静かに3回叩いた。外から鍵が開けられる。この船に監禁されて以来、綾が初めて見る他の船内の様子だった。扉の向こうは廊下になっていた。左右の窓から陽光が差し込み、木製の床が時代を感じさせる。綾は陽光を浴びながら歩き、さらに広い部屋へと足を踏み入れる。船員たちの共用スペースのようだ。テーブルや椅子が並び、隅には酒棚もあった。しかし、他の場所へ通じる二つの扉は頑丈に閉ざされていた。もちろん、綾を逃がさないためだ。背後で影のように控える湊が、淡々と言った。「ここがお前の生活圏だ。必要なものがあれば教えろ。持ってこさせる」綾はこの高級な籠を見渡し、不意に酒棚へ走り出した。湊は顔色を変えた。一瞬で綾の狙いを悟り、鋭い声で制止を命じた。だが、間に合わない。綾はワインボトルをつかみ、全力で床に叩きつけた。乾いた音と共に酒が飛び散る。綾は散らばったガラスの破片を拾い上げ、震える手で自身の喉元へ押し当てた。「湊、私を帰して。さもないと、ここで死ぬわ」一瞬で湊の血の気が引いた。彼は足を止め、距離を置いて綾を凝視する。長い沈黙の後、湊はただ冷たく一言だけ言った。「勝手にしろ」そして、そのまま振り返ると、足早に寝室へ戻っていった。綾は湊の非情な背中を見つめ、ガラス片を握りしめていた手を、力なく垂れ下げた。この命すら惜しくないという相手には、脅しなど通用しないのだ。手のひらの中のガラス片が指に食い込み、微かな痛みが走る。それでも、このまま終わらせるわけにはいかない。綾は視線を船員たちへ移した。顔を合わせる機会のあった3人。どれも外国人の顔
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第695話

しかし綾は、湊が来てからというもの、余計に時間が経つのが遅く感じられるようになった。「一生こうして海の上を彷徨うつもりなの?」湊はすぐには答えなかった。彼は持参したバッグから一枚の写真を出し、差し出した。「もう少ししたら、この島で一緒に暮らそう」綾はその写真を見ようともせず、顔を背けて、隙間のないガラス窓に目を向けた。その島へ行くことなんて、絶対にない。けれど湊はまるで幽霊のように、昼夜を問わず影のように付きまとう。耳元にはいつも湊の間近な息遣いがあり、綾は何もできなかった。以前はかろうじて精神を保っていた綾だが、湊がやって来てからのわずか数日で、精神的に崩壊しつつあった。頭の中は真っ白になり、子供たちの顔すらおぼろげになっていく。希望も、抗う気力も、何もかもを失った。ある夜、綾は一人でバスルームへ入ると、鍵をかけて蛇口を全開にした。冷たいタイルの床に座り込み、背中を壁に預け、隠し持っていた割れた鏡の破片を強く握りしめた。そして、歯を食いしばり、そのまま手首に力を込めて切りつけた。鮮血がたちまち溢れ出し、水に流されながら床一面を凄惨な赤に染め上げていった。綾は目を閉じ、後頭部を壁に預けた。走馬灯のように子供たちの笑顔が、そして健吾の姿が駆け巡る。体はこの海の上に囚われたまま、もう帰れないかもしれない。でも、魂だけは自由でいいはずだ。すると、健吾と子供たちの顔がはっきりと思い浮かんだ。彼らを想うと、不思議と痛みも感じなくなっていた。どれくらい時間が経っただろう。バスルームから鳴り響く水の音を聞いていた湊は、腕時計を見て嫌な予感に襲われた。彼は急いでドアの前に立ち、ノックをした。「綾、まだかかるのか?」返事はなかった。焦りを強めて、再びノックする。「綾?聞こえてるか?」中からは水の音が響き続けるだけ。湊はもはや他を気にかける余裕もなく、大声で人を呼んだ。駆けつけた使用人たちが協力して、ドアを力任せに突き破る。強烈な血の匂いが漂う中、バスルームの床では、水に流された鮮血が一面へとゆっくり広がっていた。湊は頭が真っ白になった。中へ飛び込み、綾を抱き起こす。濡れそぼった服が体にまとわりつき、綾は氷のように冷たくなっていた。綾をベッドに運ぶと、シーツでまだ出血している傷口
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第696話

綾が目を覚ますと、すでに陽は高く昇っていた。見覚えのあるこの場所。閉塞感が海のように綾を飲み込み、呼吸さえも苦しくなる。「目が覚めたか?気分はどうだ?」ベッドの横から湊の声がした。綾は布団を頭から被り、相手の姿を見ることを拒んだ。湊は構わず淡々と続けた。「俺はお前と一緒に死ねる。だが、お前を青木の元へ帰すことだけはできない」綾は勢いよく布団をはぎ、顔を向けた。紙のように青ざめた湊の顔。その姿を見た瞬間、何かが鋭く胸を刺した。綾は無意識に問いかけていた。「どうしたの、その顔?」湊は袖を引き下げ、伏し目がちに言った。「なんでもない」綾からの思いがけない言葉に、湊の心には喜びどころか、さらなる苦痛が広がった。綾は上体を起こし、彼の腕を掴んで無理やり袖を捲り上げた。そこには、いくつもの針の痕と青あざがあった。「私のために、輸血したの?」湊は答えない。しかし、その沈黙こそが真実を物語っていた。綾は湊の腕を突き放し、怒鳴った。「勝手なことをしないで。あなたの汚れた血なんて、輸血されるくらいなら死んだほうがマシ!」湊は淡々とした表情のまま袖を戻した。「お前はまだ体調が万全じゃない。あまり興奮するな。横になっていろ」」綾は枕に深く身を預け、込み上げる怒りで激しく肩を震わせた。目をつむり、再び開いたその瞳には疲れと強い拒絶が浮かぶ。「一体どうすれば、解放してくれるの?」湊は即答を避け、ベッドの脇でゆっくりと口を開いた。「かつて凪と兄さんがお前を拉致した時、俺に橋から飛び降りろと要求したんだ。そうしなければ二度とお前に会えないとな。俺は迷わず飛び降りた。お前のために死ぬ準備は、あの時からずっとできている」綾は凍りつくような嘲笑を浮かべた。「今はあなたが凪と誠さんの立場なのね。私を追い詰めて、死へ導こうとしてる」湊は続けた。「もし青木に、『命を差し出せば綾を解放する』と持ちかけたら、あいつはお前のために喜んで死ぬと思うか?」綾は瞳を見開いた。彼女は首を振った。「やめて、湊。そんな人じゃなかったはずでしょ?」綾は湊の腕に縋り付き、彼の灰色の瞳をじっと見つめた。「お願い、家へ帰ろう。二人で一緒に、本来の生活に戻ろう?」湊の目は枯れ井戸のように淀んでいて、何の色も映さない。長い沈黙の後、彼はそっと綾
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第697話

健吾は発狂したかのように中野家の屋敷へ押し入り、誠を捕まえて問い詰める。その瞳は血走り、獣のような鋭い光を放っていた。「綾はどこだ?」誠は余裕のある態度で、少し笑みを浮かべて言った。「青木社長。元奥さんが行方不明だからって、どうしてうちに来るんですか?中野家は交番じゃありませんよ」健吾は拳を固く握りしめた。「君の弟の居場所が分かったら、絶対に許さないからな」言い終わらないうちに、入り口からおどおどした声が聞こえた。「お父さん」誠は急いで海斗を自分の方へ呼び寄せ、動揺を隠しながら言った。「どうして帰ってきたんだ?」海斗は健吾をちらりと見てすぐに目をそらすと、小声で言った。「囲碁のクラスが早く終わったんだ」誠は海斗を抱きかかえて守ると、冷たい目で健吾を見た。「青木社長、お帰りください。これ以上お相手している時間はありません」健吾は2秒間ほど海斗をじっと見つめていたが、何も言わずに部下たちを連れて外へ向かった。中野家の門を出ると、健吾は足を止めることなく、マルスに低く命じた。「さっきのガキをさらってこい」マルスは屋敷を振り返り、躊躇いがちに言った。「その少年をさらって、綾さんと交換するつもりですか?」健吾はピクピクと痙攣するこめかみを押さえた。数日間寝ていないせいで、顔色は青白く疲れきっていた。「あの男には何を言っても通じないが、さっきの反応から見て、その息子が唯一の弱点に違いない」マルスは短く頷いた。「私が直々に手配します」しかし、海斗に近づくのは容易ではない。行きも帰りも運転手が付き添い、囲碁教室の講師も四六時中目を光らせていた。思案の末、マルスは自分の息子をその囲碁教室に入れることにした。マルスの息子はもともと社交的で、1週間も経たないうちに無口な海斗と友達になった。入会から7日目、マルスはようやく息子を通じて海斗に近づき、誰にも気づかれることなく健吾の目の前へと連れて来た。健吾は海斗を一瞥し、部下に指示を出した。「連れて行って監視しておけ。傷はつけるなよ」海斗は非常に落ち着いており、同世代の子供が抱くはずの恐怖心さえ微塵も見せなかった。部屋から連れ出される前、海斗は立ち止まり、健吾を振り返って言った。「お父さんと叔父さんが、綾叔母さんをさらったことは知ってます」健吾は息を飲み、数歩踏み
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第698話

その日の夜、誠は青木家の屋敷へと踏み込んだ。健吾はソファに背を預け、長い足を組んでいた。誠は怒りをあらわにして問い詰めた。「子供にまで手を出すのですか?」健吾は動じることなく、淡々と言い放った。「綾に会わせてくれたら、そのときは息子にも会わせてやる。それ以外の話は受けるつもりはない」誠は奥歯を強く噛みしめ、瞳には氷のような冷たい光が宿っていた。「綾さんに何かあってもいいのですか?」と誠は健吾を睨みつけた。その言葉が途切れるかどうかのタイミングで、健吾は刺すような鋭い視線を返した。「あのガキがどうなってもいいなら、やってみればいい」誠の心は重く沈み、思わず数歩後ずさりをした。荒い息遣いの胸の中で、怒りと後悔が渦巻く。あまりにも迂闊だった。健吾による中野グループへの圧力ばかりを警戒し、相手が海斗を使って脅しをかけてくるとは予想もしていなかったのだ。自分の息子なのに、なぜあんな危険な目に遭わせてしまったのか?健吾はもう一瞥する価値さえないと言わんばかりに視線を逸らし、冷徹な声で告げた。「マルス、彼をお送りしろ」ドアの傍らで控えていたマルスがわずかに身を引き、手を差し出した。「こちらへどうぞ」誠は健吾を鋭く睨みつけ、込み上げる屈辱と怒りを押し殺しながら、仕方なくその場を後にした。車まで見送るマルスの口調は冷めていた。「お子さんはまだ小さいので、この一件がトラウマになれば大変です。早めに答えを出すことをお勧めします」誠は無言で車に乗り込み、表情はどす黒く沈んだ。車を走らせると、船の管理人へ電話をかけた。「湊に代われ」その時、綾は部屋にいた。ドア越しに湊の怒号が聞こえ、綾ははっとして、静かにドアに近づいて聞き耳を立てた。電話の内容を聞いたのか、湊の声が一段と高まった。そこには隠しようのない怒りがあった。「自業自得だろ!自分で何とかしろ!その要求に応じるつもりはない!」そう言い捨てると、彼は勢いよく電話を切った。綾は慌ててベッドへ戻った。心臓は激しく脈打っていた。自分の失踪と湊が繋がっていることを、健吾は嗅ぎつけたのだろう。何らかの手を打ち、湊たちを動揺させているに違いない。この瞬間、ずっと冷え切っていた綾の心の中に、消えかけていた希望が再び燃え上がった。綾は窓辺に立ち、どこまでも
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第699話

誠はメモを掌で握り潰し、指関節がギリギリと鳴った。彼は顔を上げ、充血した瞳で低い声で吠えた。「息子に何をした?」マルスは肩をすくめた。「何もしちゃいませんよ。ただ、窓のない真っ暗な部屋に閉じ込めただけです。お子さんはタフな方で、震えてはいましたが、泣きも騒ぎもしなく、とてもおとなしいものです」マルスは一息おくと、厳しい口調で続けた。「あと3日です。もし3日以内に綾さんに会えなかったら、お子さんには防音室に入ってもらいます。あそこでは、何があっても一切声は漏れませんから」誠の顔色が一変し、怒りで歪んだ。「よくもそんなことを!」マルスは微笑んだ。「綾さんのこととなれば、健吾様はどんなことだってしますよ」もちろん、これはすべて誠を脅すための芝居だ。海斗は今、広い部屋でマルスの息子と明るい場所で一緒に過ごしている。誠は去っていくマルスの背中を睨みつけ、手元にあった茶器を床に叩きつけた。飛び散る破片は、今の誠の崩れ去った理性のようだった。健吾め。紳士を気取っているくせに、子供に対してなんてやり方だ?卑劣だ。あまりに卑劣すぎる……だがいくら罵ったところで意味はない。海斗を救い出すのが最優先だ。大事な一人息子で、中野家の唯一の跡継ぎだ。湊は体調がすぐれず、精神も不安定でもう使いものにならない。だが海斗はまだ幼い。中野家を継ぐためには、絶対に死なせられない。「すまない、湊……」誠は目をつぶり、喉仏が小さく上下した。ついに意を決して、健吾へ電話をかけた。「ソフィアさんのところへ行ってください。船を用意したのも、船の物資を送ったのも、すべて彼女です」その言葉を聞いた健吾は、猛然とテーブルを殴りつけた。「マルス!」彼は叫んだ。「プライベートジェットの手配をしろ。一刻も早くI国へ飛ぶ!」マルスは何が起きたのかは詳しく知らぬものの、健吾の殺気立った表情からあらかたの察しはついていた。綾の失踪に、I国にいる連中が関わっているに違いない。一瞬の遅れも許されず、マルスはすぐさま手配に向かった。その頃、公海上では湊が船の管理人を呼んでいた。「船長に航路を変えさせろ。西へ進むんだ」管理人は困惑した。「しかし、それでは補給物資を積んだ船との合流ポイントを外れてしまいます」湊は目を細め、氷のような眼差し
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第700話

深夜3時過ぎ。健吾は空港に降り立つと、休息も取らずにマルスを連れてソフィアの住む邸宅へ急いだ。漆黒の闇に包まれた邸宅の外で、マルスが門を叩いた。応対した執事が健吾の姿を認めると、すぐにリビングへ通した。お茶を用意し、メイドにソフィアを呼ぶよう命じた。ソフィアは一睡もせず、健吾が来るのを待ち構えていた。メイドが声をかけると、ソフィアはわざと髪を少しかき乱し、寝起きのふりをしてからスリッパのまま階段を小走りで降りた。「チェッコ、いつ帰ってきたの?こんな時間になぜここへ?」次の瞬間、ソフィアはその場に釘付けになった。健吾がいきなり拳銃を取り出し、その銃口をソフィアの顔へ向けたからだ。「綾の居場所を教えろ」彼は凍りつくような冷淡な表情で、薄い唇をきつく引き結んでいた。顔が青ざめたソフィアは、唇を震わせてこう答えた。「何のことだか、分かりかねるわ……」言い終える間もなく、銃声が響き渡る。弾丸はわずかにソフィアの髪をかすめ、背後の壁に飾られていた名画を撃ち抜いた。「言っておくが、俺の我慢にも限界がある。シラを切るのはやめろ」ソフィアは悲鳴を上げて両手で頭を覆った。恐怖に怯え、事前に用意していた言い訳など一言も口から出なかった。健吾が落ち着いて話を聞き、そして自分を説得すると思っていたのだ。まさか、こうも暴力的なやり方で追い詰められ、脅されるとは予想もしていなかった。ソフィアは悔しさを露わにして叫んだ。「チェッコ、あなたは紳士でしょ!裏世界のチンピラみたいな真似はやめて!」健吾は顔色ひとつ変えず、冷たく突き放した。「すぐ船を用意しろ。綾の場所へ案内してもらう。最後の一言だ」彼はさらに歩み寄り、銃口をソフィアの額に押し付けた。恵まれた環境で育ったソフィアにとって、これほどの異常事態は初めてだった。ビジネスの世界では、どれほど非情な決断を下してきても、命を脅かされるような事態とは無縁だった。強気でいようとしても、体中の震えが止まらない。健吾が本気で撃つかもしれない。その事実を無視することができなかった。執事がいつの間にか呼んでいた十数人のボディーガードが、健吾とマルスを取り囲んだ。「チェッコさん、衝動的な行動は慎んでください。銃を収めてください」健吾は彼らを冷たくあしらうと、改めてソフ
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