All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 711 - Chapter 720

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第711話

健吾はさりげなく綾の前に立った。広い背中で彼女の視線を遮ると、素っ気ない口調で言った。だが、その声には少しの嫉妬が滲んでいた。「もう行ったんだから、いつまでも見てるな」綾はふんと鼻を鳴らした。何も言い返さず、そのままお手洗いへ行って服を着替えた。服に頭を通すとき、綾はそっと目を閉じた。頭の中は、まだ船の揺れでぐるぐると回っていた。外に出てきたときには、綾はいつもの様子に戻っていた。「私たちも、家に帰ろう」健吾は綾を見つめ、「どっちの家に帰るんだ?」と聞いた。綾は少し戸惑い、顔を上げて彼を見た。「私の家は一つだけよ。あなたの家の、すぐ上の階にある家よ」綾はかがんで瑞希を抱き上げた。そして嬉しそうな声で言った。「さあ、家に帰ろうね」あまりにも現実感がなかった。陸を歩きながらも、まだ船の上にいて波に揺られているような、ふわふわとした感覚の中にいた。健吾は壮真を抱き上げて綾の後ろを歩いた。視線は、彼女の白い首すじに引き寄せられていた。「ご飯を外で食べてから帰ろう。山下さんに手間を取らせるのも悪い」綾は気軽に答えた。「いいわね。うちの近くのモールのレストランにしよう」健吾は「うち」という言葉を聞いて、口元を綻ばせた。モールへ向かう車の中で、健吾はバックミラーを何度も確認した。綾が本当に隣にいるか確かめるためだった。バックミラーの中で、綾は窓の外を眺めていた。差し込む日差しに照らされ、その頬の産毛がキラキラと光っていた。綾は健吾の視線に気づいて振り返った。ミラー越しに青い瞳と視線が合うと、注意を促した。「健吾、私も子供たちも乗っているのよ。運転に集中して」「仰せのままに」健吾は笑みを浮かべたまま、前を向いた。温かな太陽の光が街を包んでいた。空気には、蜂蜜を溶かしたような淡い黄金色の光が満ちている。車が地下駐車場へ入ると、久しぶりの外出に子供たちが興奮し始めた。チャイルドシートの上で足をばたつかせ、早く遊び場に行きたいと大はしゃぎだ。健吾は笑って子供たちをからかった。「おじいちゃんが、家の中に遊び場を作ってくれただろう?」綾は言った。「家だと二人だけで寂しいのよ。外にはお友達がたくさんいるし、みんなと遊ぶのが大好きなの」健吾は一人ずつ車から降ろした。「まずはお昼ご飯を食べよう。終わったら、
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第712話

昼食を済ませると、健吾とマルスは子供たちを連れて遊園地へ向かった。綾とマーガレットはカフェの窓側の席に座り、お互いに近況を話し合った。斜めに差し込む陽だまりが心地よく、少しぼんやりしてしまう温かさだった。綾はカップの縁を指先でなぞりながら、たまらず口を開いた。「海斗くんは、どうして一緒にいるんですか?」マーガレットはコーヒーを一口すすると、綾が姿を消していた間に起こったことを、順を追って詳しく説明した。綾は話を聞きながら冷や汗を流した。健吾の行動は無謀すぎる。もし誠がやけになって通報していたら、健吾は誘拐罪に問われ、取り返しのつかない事態になっていただろう。喉の奥が締め付けられるように張り詰める中、綾は尋ねた。「誠さんは、今はどこにいますか?」マーガレットはカップを置いた。「誠さんと中野社長が綾さんを拉致して監禁していた確かな証拠が揃っていました。中野社長は病院から精神疾患の証明書が出たから罪を免れたけれど、誠さんはまた逮捕されたんです。前科があるから、今度はかなり重い判決になるでしょう」綾はカップを強く握りしめ、しばらく沈黙した。綾は、中野家の血筋に何か問題があるのではないかと思い始めていた。以前、和子から、湊の父親も偏屈で孤立しがちな人間だったと聞いたことがあったからだ。誠は湊をちゃんと医者に診せもせず、むしろ自分を拉致して監禁するようそそのかしたのだ。普通ではないとしか言いようがない。綾は視線を落とした。ただ海斗が、その父親や叔父のような人間にならず、母親にも似ないでほしいと祈るばかりだった。そして、もう一つ尋ねた。「海斗くんのこれからは、どうするつもりですか?」「海斗くんは田舎に戻って彼のひいおばあさんと暮らしたがっていたんですが」とマーガレットは言った。「でも、その方も高齢だし、田舎では通学にも苦労するでしょう。それで私とマルスで相談して、うちで引き取ることに決めたんです」綾は驚いた。「もう2人もお子さんがいるのに、さらに引き取って育てるなんて、本当に大丈夫でしょうか?」マーガレットは優しいながらも固い意志を宿した笑みを浮かべた。「海斗くんはうちの息子と仲が良いんです。うちで過ごしていた数日間も、娘の面倒をよく見てくれました。こんなに素直な子を、放っておくことなんてできません」綾はため息をつき、自
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第713話

綾は淡々と話したが、部屋に戻ると、心も体も空っぽになったような脱力感に襲われた。ベッドに横になっても、どうしても眠れない。寝返りを繰り返しながら、胸のざわざわが収まらなかった。頭の中は、湊のことでいっぱいだった。大好きな兄が、こんな最期を迎えるはずではなかった。湊が追い詰められて飛び降りようとした時、綾の怒りは消え失せていた。そこにはただ、深い悲しみだけが残っていた。一緒に育ってきた仲だ。どんなにひどいことをされても、かつて自分のために命を懸けてくれた大切な家族なのだ。恨みきれず、かといって許すこともできない。その葛藤に、胸が締め付けられるように苦しかった。ドアが静かに開き、健吾が入ってきた。彼はごく自然に隣へ横になり、マットレスがかすかに沈む。健吾は少し気怠げな声で言った。「何を考えているんだ?」綾は健吾の体を軽く押したが、力が入らなかった。「どいてよ。あなたの家は下なんだから、戻って寝て」「眠らないよ。ただ隣にいたいだけだ」健吾は頭の後ろで手を組んだ。とてもお行儀の良い姿勢で、おどけたように言った。「ほら、両手はここにある。何もできないよ」綾は呆れたように健吾を見つめ、意地を張るようにベッドの端へと身を寄せた。「湊のことを考えていたの。彼は良くなるのかな?」そう言った瞬間、健吾の表情から優しさが消えた。その瞳は冷たく凍りついた。「綾、俺がどれだけ苦労してお前を救い出したと思っているんだ?俺のことは考えず、お前を苦しめた男のことばかり気にするなんてな」綾は寝返りを打って、静かに健吾を見つめた。健吾は不機嫌そうに口元を結んでいた。だが、その瞳には心配する気持ちが溢れていた。「ありがとう、健吾。私と子供たちのために、いろいろしてくれて」健吾はクスッと笑った。「口先だけでお礼を言うつもりか?」綾は布団を奪い取るように引き上げ、顔の下半分を隠した。布団からは、両目だけがのぞいていた。「ご飯をごちそうするって言ったのに、嫌がったのはそっちでしょ?」健吾はきょとんとした表情で綾を見た。布団から半分のぞく白い肌はうっすらと赤くなり、漆黒の瞳はまるで水が澄んでいるように潤んで美しかった。健吾はつばを飲み込み、少し声を落とした。「俺が何を望んでいるか、分かっているだろう?」綾の心臓は激しく跳
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第714話

綾は健吾の腕を軽くつねった。そして背を向けると、目を閉じた。「これでお礼はすんだから、寝かせてよね」痛くはない。少し怒っているようだったが、それは甘えているようにしか見えなかった。健吾は低く笑った。綾の背中に体を密着させ、その体をしっかりと胸に抱きしめる。綾がいなくなってから、健吾はろくに眠れていなかったのだ。今はすぐそばに、温かくて愛しい本物の綾がいる。その呼吸すら愛おしい。強烈な疲れが一気に押し寄せてきた。綾が眠るより前に、健吾の方が先に寝入ってしまった。綾はそっと振り返った。カーテンの隙間から差し込むわずかな光を頼りに、健吾の顔を見つめる。眠っていても、その顔には深い疲れがにじみ出ていた。その顔を見ていると、愛おしさと胸が締め付けられるような痛みが同時に込み上げてきた。そして綾もまた、行方不明になって以来、初めてぐっすりと眠ることができた。目を覚ましたときには、窓の外はすっかり暗くなっていた。背後にいる健吾は、静かに規則正しい寝息を立てて、まだ眠っている。起こしてしまっては申し訳ないと、綾は健吾の腕の中でじっと静かにしていた。夜の8時を回った頃、ようやく健吾が目を覚ました。綾は彼に微笑みかけた。「これまで、本当に大変だったね」と、そっと声をかける。健吾は綾の頭に顎を乗せた。かすれた声で呟く。「大変じゃないさ。綾がいなくて寂しかっただけだ」彼がそう言った途端、空気を読まない綾のお腹が、グーと音を立てて鳴ってしまった。決まり悪そうに体を起こすと、綾はお腹をさすった。健吾も一緒に起き上がり、再び綾を抱き寄せた。首元に顔をうずめてしばらく甘えるように寄り添ったあと、名残惜しそうに腕をほどいた。「さあ、起きて晩ご飯にしよう」綾は健吾をそっと押し返し、拗ねたように言った。「あなたに付き合ってあげてただけよ。じゃなきゃとっくに起きてるわ」健吾はわざと真面目な顔を作った。「綾、いつからそんなに甘えん坊になったんだ?」綾はあきれたように健吾を見ると、洗面所で顔を洗った。ドアを開けると、リビングにいた壮真が音を聞きつけてすぐに走ってきた。「ママ、やっと起きたね!」綾は壮真を抱き上げた。「壮真、ご飯はちゃんと食べた?」太っているようには見えないが、腕に抱くとずっしりとして重た
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第715話

綾は帰国して数日休むと、すぐに会社に復帰した。颯太の手助けのおかげで、新しいプロジェクトも滞りなく進んでいた。颯太が細部まで分かりやすいメモを残しておいてくれたおかげで、綾はすぐに作業に入ることができた。慌ただしくも充実した毎日が過ぎ、あっという間に一年が終わりに近づいた。何かから逃げ出したいような気持ちもあり、綾は一度も湊に会いに行かなかった。また、達也がかつて湊の公海行きを手助けした一件から、綾は達也とも連絡を断っていた。明里の話では、達也は院長の職を辞め、今はある病院で貧しい人を無料で診るボランティアをしているそうだ。今の綾にとって彼らの存在は過去のものであり、自分には関係のないことだった。この日、綾が研究室から出てくると、ちょうど明里に出くわした。綾は笑顔で明里の手を取った。「本社にいないで、ここで何をしているの?」明里は並んで歩きながら言った。「明日は子供たちの3歳の誕生日でしょ?何かお祝いはするの?」綾は苦笑いをした。「そのことなら私が心配するまでもなく、青木家の方が用意してくれたわ」明里は目を輝かせた。「じゃあ、いよいよ子供たちを青木家の一員として認めてもらうつもりなの?」綾は静かに微笑んだ。「ただの身内の食事会よ。大げさなものじゃないから、良ければ明日、ユズちゃんやご両親も連れて遊びにきてよ」綾は、壮真と瑞希がのびのびと生きていくことを願っていた。家のために責任を背負わせ、不自由な思いはさせたくない。せめて健吾の時のように、家族に縛られて辛い思いをすることだけは避けたかったのだ。「もちろん行くよ」と明里は顔をほころばせた。「大事なあの子たちの3歳の誕生日だもん。明日は誰が集まるの?」「健吾のおじいさんとお父さん、それに健吾と私だけよ」と綾が答えた。明里は不思議そうにパチパチと瞬きをした。「それだけなの?」綾はうなずいた。「子供の誕生日だもの。派手にするより、みんなで集まれれば十分賑やかになるわ」「確かにね。任せて、絶対に行くから」綾は車のドアを開けた。「じゃあ、先に行くね。また明日」明里は手を振った。「また明日ね」綾はまっすぐ帰宅せず、ショッピングモールにあるジュエリーショップへ向かった。あらかじめ注文しておいたひょうたん型のチャームを受け取るためだ。優柔
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第716話

綾が青木家に着いて間もなく、明里がユズちゃんと両親を連れてやってきた。壮真と瑞希は、ユズちゃんを見た瞬間に目を輝かせ、すぐにあちこち付いて回るようになった。ユズちゃんが行くところなら、どこへでも付いていき、片時も離れようとしない。ユズちゃんは二人より一つ年上というだけだったが、しっかり姉らしさを見せていた。いつも二人を気遣って面倒を見て、喧嘩した時には真面目な顔で審判役も買って出た。二人はユズちゃんの言うことを絶対に聞き、どっちの勝ちと決められても素直に従っていた。明里はほほ笑みながらプレゼントを差し出した。「これ、つまらないものだけど、子供たちの代わりに受け取ってちょうだい」綾が受け取って開けてみると、それはなんと二通の不動産の権利書だった。綾は顔を上げ、驚きでぽかんとした。「こんなの、高価すぎるわ」明里は気にする様子もなく手を振った。「一番の親友の子供だもん。綾たちの家は何でもあるし、贈れるのは不動産くらいよ。大きくなったら住むなり売るなり、子供たちの好きにさせて」明里はとてもあっさりと、まるでただの小さなお祝い金を渡すかのように言った。明里のこういう性格を、綾はよく知っていた。本当に相手のためになることはするが、回りくどいやり方は嫌う人だ。綾はその温かい気持ちを受け取り、優しく笑った。「じゃあ、子供たちの代わりに、お礼を言うね。ありがとう」明里は不意に綾を横へと引っ張り、声を潜めて聞いた。「健吾のおじいさんとお父さんは、子供たちに何を贈ってくれたの?」綾はきょとんとして、首を振った。「分からないわ。まだ何ももらってないし、そんなの重要じゃないもの」綾は本当にそんなことを気にしていなかった。子供たちは何不自由なく暮らしているし、自分一人の力だけでも十分に豊かで安定した暮らしをさせてあげられる。しかし明里はもどかしそうな顔をして、焦ったように言った。「重要に決まってるじゃない?あちらの家が進んで誕生日会を開くってことは、もう跡継ぎとして認めてる証拠よ。相応の贈り物があってもいいはずよ」明里が自分のために必死になってくれているのは分かっていたが、綾はこんなことに神経を使いたくなかった。彼女はそっと明里の手の甲を叩き、話を逸らした。「もういいから。健吾がケーキを用意してくれたの。食べに行って」明里
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第717話

箱を開けると、サファイアが散りばめられたティアラが静かに収められていた。深く澄んだ青い輝きは、見るからに高級なものだった。その横にはお守りも置かれていた。表には「平安」の二文字が刻まれている。手に取ると、人肌のようなぬくもりがあり、心地よい手触りだった。健吾は子供たちをベッドに寝かせると、部屋を出た。その視線が箱の中身に留まった瞬間、贈り主が誰なのかを悟った。綾はメッセージカードを箱にしまい、静かに蓋を閉めた。大切に箱を片付けると、綾はソファに腰を下ろし、様々な感情が入り混じる胸の内でじっと耐えていた。湊はどうしているだろうか?自分の姿を見せることで彼の病状が悪化するのを恐れ、湊に会いに行く勇気が出ないのだ。健吾は綾の隣に腰掛け、そっとその手を握りしめた。「過去を乗り越えなきゃいけないのは、中野だけじゃない。綾もだよ。あいつは綾が思うより強いから、心配しないでいい」綾が健吾の優しい青い目を見つめ返すと、張り詰めていた心の緊張が次第に和らいでいくのを感じた。そして、笑顔で頷き、健吾の手のひらをきゅっと握り返した。辛い過去を早く忘れるために、綾は育児以外の時間はすべて仕事に没頭することにした。次々と新製品を生み出していく時間は、心を癒やす最高の特効薬となった。綾は社会に出て以来、研究室だけが心から安らげる場所だった。会社の規模はますます大きくなり、経営基盤は日ごとに強固になっていった。明里の望んだ通り、Pobuは急速に実力を伸ばし、雅也の会社を上回った。その日の明里は、子供のように大喜びで綾に抱きつき、泣き笑いを繰り返していた。「綾、仕事を軌道に乗せるほうが、恋愛なんかより何倍もスリルがあるわ!」明里は興奮で声を震わせながら言った。「ようやく成功を目指す面白さを知ったの。今は夜寝る時だって男の人じゃなくて、会社の発展ばかり考えてるわ」熱の入った明里はさらに目を輝かせた。「ユズちゃんも幼稚園で自慢げに、『ママはかっこいい社長さんなんだよ』って言っているみたい。昔のように恋愛第一の私のままだったら、あの子に見せられるものなんてなかったはず。でも今は会社を率いる立場になって、背中で示せるものがあるって実感してるの」綾は優しく涙を拭って言った。「あなたがどんな生き方をしていようと、私たちの誇りであり
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第718話

この年は、綾が国際的な科学賞を受賞した。綾の名前はいろんな専門誌やニュースに載るようになった。海外の授賞式へ向かう飛行機の中で、綾は目を閉じて休んでいた。健吾はマーガレットと一緒に、子供たちの面倒を見ていた。綾は一人で行くつもりで、家族を連れて行くなんて考えてもいなかった。けれど健吾が、こんな特別な瞬間は家族全員で見届けるべきだと強く主張した。健吾と自分、そして子供たちはまだ本当の家族とは言えなかった。しかし彼が人懐っこく、根気強く説得してきたので、綾も折れるしかなかった。壮真と瑞希にとって、これが初めての飛行機だった。二人は窓にしがみつき、目を丸くして外を眺めていた。何を見ても珍しいらしく、楽しそうにおしゃべりを続けている。壮真が外の大きな雲を指さした。「瑞希、あの雲、綿あめみたいだよ」瑞希は甘えた声で言い返した。「私は、おじいちゃんのお家にいるウサギちゃんに見える」壮真は納得いかない様子だった。「耳がないから、ウサギちゃんじゃないよ」それでも瑞希は譲らなかった。「だって、ウサギちゃんみたいに白くて丸いんだもん」またケンカが始まりそうになったのを見て、健吾は慌てて手を伸ばし、くっつきそうな二人の頭を引き離した。「綿あめにも見えるし、ウサギちゃんにも見えるね。二人ともすごいね」綾は思わず微笑んだ。子供の面倒を見るたびに、小競り合いが始まらないかハラハラしなければいけないのだから、健吾も大変だ。子供同士の喧嘩なんて大したことではないと、綾は思っていた。どうせ最後には仲直りするものだ。けれど、健吾はとにかく娘に甘い。壮真は力も強いので、瑞希が痛い思いをしないかと本気で心配しているのだ。綾がそっと目を開けると、やはり健吾の手が瑞希の頭の後ろに添えられていた。飛行機がD国に着いた時には、もう夜だった。一行は主催側があらかじめ用意してくれたホテルに入った。この授賞式には、科学界の人たちだけでなく、多くの財界の重鎮たちも集まっていた。健吾にも本来は個別の予定があった。けれど面倒な付き合いを嫌った彼は、結局、綾のパシリになっていた。翌日、マーガレットはホテルで子供たちの面倒を見ることになり、健吾と綾が二人で授賞式へ向かった。スタッフも二人の関係を察しているようで、席は隣同士に用意されていた。そのため、二人
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第719話

だけど次の瞬間、綾の顔から笑みがさっと消えた。颯太の隣には、ソフィアが座っていた。ソフィアは視線に気づくと、人懐っこく手を振ってきた。「綾さん、おめでとうございます」綾は表情を引き締め、小さくうなずいた。「ありがとうございます」ソフィアは湊の味方をして動いていた人だ。だから、あまりいい印象は持っていなかった。颯太が綾に笑顔を見せた。「綾さん、もし急いで国内に帰らないなら、青木社長と3人で食事でもどうかな?」健吾は顔を向け、そっけない視線を向けた。声のトーンも低かった。「また今度にしましょう」綾は颯太にオッケーのサインを出した。授賞式の後はパーティーがあるだけで、明日からは特に予定がないのだ。壮真と瑞希を連れての旅行はめったにない機会だ。綾と健吾は、子供たちと一緒に観光してから帰る予定だった。まもなく授賞式が始まった。司会者がE国語で綾の名前を読み上げると、彼女はすっと立ち上がった。黒いスーツが、スマートな体つきを際立たせている。舞台に上がる綾の足取りは、とても堂々としていた。笑顔でトロフィーを受け取り、正面を向く。そして、流暢なE国語で落ち着いて感謝のスピーチを述べた。さっきまでの緊張が嘘のように、舞台に立った瞬間、その不安はすっかり消え去っていた。頭の中を満たしていたのは、研ぎ澄まされた集中力と揺るぎない自信だけだった。綾にはふと、昔フェンシングの大会に出たときの感覚が蘇ってきた。今、綾はきらびやかなライトの向こう側に、思わず健吾の姿を探していた。高校で出会ってから今日まで、二人は本当にいろんな壁を一緒に乗り越えてきた。みじめなときも、栄光を手にしたときも、健吾はいつも隣にいてくれた。客席に座る健吾は、舞台の綾と視線を重ねた。その顔には優しい笑みが浮かんでおり、瞳の奥には真っ直ぐな誇らしさと愛が溢れていた。初めて綾にフェンシングを教えたとき、彼女は動きがぎこちなくて、なかなか上達しなかった。同じ基本動作の練習で、何度も尻もちをついていた。それでも、どれほど傷だらけになっても、最後にはいつも歯を食いしばって立ち上がった。そうして剣を強く握り直し、また突っ込んでいったのだ。そんな綾がこうして今日の結果を手にしたことは、健吾にとって全く予想外のことではなかった。心から綾の受賞を喜び、その
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第720話

東都の黒崎病院の最上階にある病室で、湊はソファにもたれ、じっとテレビを見つめていた。画面には、科学賞の授賞式が生中継されていた。見慣れた姿の綾がステージへ進み、落ち着いた様子でトロフィーを受け取る。スポットライトに照らされた姿は、現実とは思えないほど眩しかった。胸に鋭い痛みが走り、湊は思わず息をのんだ。これほど美しく輝く綾を、自分は危うく壊してしまうところだったのだ。目から涙が静かにこぼれ落ちて、綾の姿がだんだんとにじんでいく。綾を拉致して監禁した記憶も、同じようにぼんやりとしていた。少しずつ、細かいことを忘れていっている。達也は、カウンセリングのおかげだと言っていた。それでも綾の顔を見るだけで、どうしても胸が締め付けられる。達也がドアを開けて入ってきたとき、湊は顔を覆って泣いていた。達也は震える湊の肩越しに、テレビの画面に目を向けた。綾はトロフィーを持ち、健吾の隣の席に戻った。二人は顔を寄せ合い、親しげに笑い合っている。まるで周囲が目に入らない様子だった。達也は歩み寄ると、リモコンを手にしてテレビの電源を切った。「カウンセラーから、刺激の強い情報には触れないように言われていただろ?」達也はティッシュを箱から取り出して手渡した。湊は顔を上げ、そのティッシュを受け取って涙を拭った。「俺のトラウマは綾なんだ。避けて通るより、ちゃんと向き合いたい。痛いと感じるのは怖くない。恐ろしいのは、心まで麻痺してしまうことなんだ」痛みすら感じなくなったら、死んでいるのと同じだから。達也は持ってきた薬を置いた。湊が自分自身を傷つけないよう、薬は毎回決まった分量だけ渡している。達也はすでに院長を辞め、多くの仕事を整理していた。そのため、こうして病室に通う時間はたっぷりあった。達也はこれまでに、間接的あるいは直接的に綾をたくさん傷つけてきた。湊の世話は、今の達也にとって唯一の罪滅ぼしなのだ。湊は薬を手に取り、冷たい水で流し込んだ。喉を通る水の冷たさが胸に広がるけれど、消えない心の痛みを抑えることはできない。「いつまで、ここに入院しなければならないんだ?」達也は湊の隣に座り、穏やかに笑った。「焦らなくていいよ。俺がずっと一緒にいるから」湊は眉間にシワを寄せた。「兄さんは俺のせいで警察に捕まった
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