All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 671 - Chapter 680

713 Chapters

第671話

健吾は大股で駆け寄ると、湊の襟を掴んで吊り上げた。そして怒鳴りつけるように聞いた。「なぜお前がここにいるんだ?」湊はまるで紙でできた人形のように力がなく、瞳の光を失ったまま虚空を見つめていた。傘をさしていた秘書が慌てて割って入った。「青木社長、落ち着いてください!うちの社長は商談でここへ来たんです。予定表を確認していただければ分かります」健吾は握った拳の力を緩めなかった。荒い呼吸を繰り返し、ギラついた目で見下ろした。「やったのはお前だろ?違うか?」顔色の悪い湊は、弱々しく口の端を吊り上げた。「ああ、そうですね。俺がやりました。気が済むまで殴ってくださいよ」健吾の怒りは頂点に達し、掴んだ腕を突き放して泥水の中に突き飛ばした。地面に這いつくばり、心臓を押さえて咳き込む湊。秘書は傘を放り投げて慌てて駆け寄った。「青木社長、どうかおやめください!」現場の警察が間に入って、健吾に言った。「中野さんは綾さんが行方不明になった直後に駆けつけ、捜索隊も手配してくれていたんですよ。どうか落ち着いてください」明里が駆け寄って健吾を止めた。涙声で諭す。「今は綾を探すのが先よ!湊も綾のためなら命を懸けられる人なの。そんな酷いことはしないわ」そんな言葉を口にしながら、明里の脳裏を恐ろしい考えがよぎっていた。もし本当に湊が綾を連れ去ったのなら、いっそ安全な場所に匿われている方がいいとさえ思った。健吾は込み上げる怒りをぶつけるように、太い幹を拳で何度も殴りつけた。拳の皮は裂け、流れ出た血は容赦ない雨に洗い流されていった。荒れ狂う雨の音と木の葉のざわめきが、焦燥感を募らせる。一本の電話を終えたマルスが沈痛な面持ちで近づいてきた。「健吾様、鑑定の結果……見つかったリュックについていた血痕は、綾さんのものと一致しました」それを聞いた明里は体が震え、その場にへたり込んで涙をこぼした。「そんな……綾に限ってそんなわけない!」健吾は幹に手をついたまま、震える声で叫んだ。「探せ。人員も予算も惜しむな。なんとしても見つけるんだ」マルスは力強く頷くと、すぐに背を向けて捜索の指示を出し始めた。土砂降りの中、広大な山で人一人を見つけるのがいかに無謀か、現場の誰もが悟っていた。無人偵察機は飛べず、雨で痕跡は全て洗い流され、捜索犬さえ手掛かりを失
Read more

第672話

数人が慌ただしく湊を担ぎ上げ、医療テントの中へと運んだ。ほどなくして医師がテントから顔を出し、せき立てるように言った。「中野さんの容態は極めて危険です。今すぐ下山して治療を受けさせる必要があります」医療チームを連れてきたのは健吾だ。医師は健吾に次の指示を仰ぐような眼差しを向けた。マルスは健吾と一瞬目を合わせ、即断で手配した。「医療スタッフを一名、随行させてすぐに下山させてください」さらに湊の秘書に顔を向け、冷静にこう助言した。「事態が緊迫しているのなら、今すぐ黒崎病院の院長に電話してください。彼をチャーター機で迎えに来させ、東都まで搬送させるのが得策です」秘書は手早く2人を呼んで湊を背負わせ、自らも付き添って駆け下りながら、歩きざまに達也へ電話を入れた。マルスが同行させた医療スタッフもすぐ後を追い、湊の状態を常に見守った。その一行が漆黒の闇と雨の中に消えるのを見送ると、マルスは改めて諭した。「健吾様、車でお待ちください。綾さんが無事に戻るかどうかは、健吾様にかかっています。健吾様が倒れては困ります」「俺は大丈夫だ」健吾は濡れた岩の上に座り込み、膝の上で強く手を組んだ。見渡す限りに広がる山々を見つめるその瞳には、深い絶望が暗く澱んでいた。もしも綾に万が一のことがあったら、と考えるだけで、胸が締め付けられて息もできない。額に貼りついた髪から雨水がしたたり落ちていたが、気づく様子もなかった。健吾はずっと座り続けたまま夜明けを迎えた。雨は小降りにはなったが、一向に止む気配はない。昨夜からの捜索隊はすでに疲弊し、そのほとんどが山を下りてしまった。新たに加わった捜索隊が捜索範囲を広げていたが、ぬかるんだ悪路と豪雨の影響で、進行はひどく鈍かった。捜索は丸三日続いた。梅雨時期の長雨も、3日3晩降り続いていた。入れ替わり立ち替わり現れる捜索隊員たちも、誰もがすでにあきらめかけていた。ただ健吾だけは、諦めようとはしなかった。現場の捜索隊員たちが無理だと言い放っても、健吾が破格の懸賞金と報酬を出し続けたおかげで、次々と新しい捜索隊が山に入っていった。ほとんど隅々まで探し尽くされた山を見つめ、マルスは溜息を漏らした。彼は栄養ゼリーと水を取り出し、健吾に差し出した。「健吾様、3日間何も召し上がらずにここで過ご
Read more

第673話

冬馬の声は低く、沈んでいた。「安心して綾さんの捜索に当たってくれ。その間、俺は仕事の予定をすべて入れ替えて、子供たちのそばにいるつもりだ」健吾はお礼を伝え、電話を切った。マルスが眉間にしわを寄せて尋ねた。「健吾様、お子様にも危険が及ぶと考えておいでなのですか?」健吾は眉間を揉み解した。連日の心労で、その目は血走っていた。「綾が行方不明になったのは、人為的な犯行である可能性が高い」しかし、相手が衝動的に行ったことなのか、あるいは長く計画されていたことなのかは分からなかった。これ以上、子供たちにどんな小さな危険も近づけるわけにはいかなかった。立ち上がろうとした時、一度体がふらついたが、健吾はすぐに山を下りるため歩を速めた。3日もの大雨だ。山の中に人が留まれるはずはない。綾がもし今も生きていれば、犯人に密かに連れ出された可能性が極めて高い。もし……いや、それ以外の可能性はありえない。健吾は最悪の思考を無理やり抑え込み、頭の中であらゆる筋書きを整理した。綾の失踪を知った瞬間、健吾はI国にいるエステ家にすぐさま連絡を入れていた。カタリナとルカの反応を見る限り、エステ家の関与はないと確信できた。アンナは投獄中で、綾を傷つける手段など持っていない。となると残るは誠だ。凪の死に深く関わる彼なら十分な動機がある。だが、人を使って誠の行動範囲や通話履歴を調べ尽くさせたが、不審な点はなかった。毎日の行動といえば海斗の送迎のみで、連絡にもおかしな記録は一切ないのだ。山を下り、車に乗り込むと、健吾は後部座席に深く体重を預けた。脳内は真っ白で、何の手掛かりも得られなかった。3日間ろくに目も閉じていない。張り詰めた神経の果てに、極限の疲労が重く圧し掛かってきた。限界を迎えた健吾は、そのまま泥のように眠り込んだ。夢の中で、綾が窓もドアもない閉ざされた小部屋に監禁されているのを見た。幽閉の恐怖に絶望した綾が壁を叩くが、その部屋からは音さえも外に漏れないのだ。抱きしめようと駆け寄るが、足が前に進まない。綾が闇に沈んでいくのをただ見守ることしかできず、その苦しみが全身を刺した。健吾が夢で苦しむその頃、確かに綾はある部屋に監禁されていた。しかし夢とは違い、その部屋は広く、窓もドアもあり、快適なベッドまで
Read more

第674話

綾が行方不明になってからというもの、健吾は時間が止まったように重苦しく、心臓を針で刺されるような恐怖に耐える毎日だった。だが、どれほど時間が過ぎるのが辛くとも、世界は止まってくれない。7日が過ぎ、捜索隊の多くが高額な報酬を諦め、雨が降りやまない山林から引き揚げていった。たとえ今も綾が山の中にいたとしても、生きて戻る可能性は限りなく低い。谷間を流れる川は豪雨で増水し、激流と化していた。川に落ちれば、生存は絶望的であり、遺体の発見さえ困難を極める。この7日間、健吾が眠った時間は10時間にも満たなかった。彼は登山口の監視カメラの映像を、気が遠くなるほど何度も、コマ送りでチェックし続けたが、収穫はゼロだった。綾が山に入った後、そこから出てきた形跡はどこにもなかった。行き交う車両も一台ずつすべて調べ上げたが異常はなく、捜索は袋小路に迷い込んでいた。衰弱した健吾は、車の中で寝泊まりしていた。バックミラーに映る顔は憔悴しきり、無精髭が生え、シャツも皺くちゃだった。あの青い瞳は完全に輝きを失い、淀んだ池のように、底に溜まった悲しみさえ表に出せないまま沈んでいた。マルスが車のドアを開け、運転席に座ると、買ってきた水と食事を後部座席に差し出した。「健吾様、何か召し上がってください」健吾は返事もせず、ただ反射的にそれを受け取って一口だけ口にした。マルスは後ろを向き、声を落として報告した。「中野社長が集中治療室に運ばれました。精神的ショックからくる重篤な発作だそうです。心臓が限界に来ているとか」健吾は咀嚼を止め、乾いた声で訊ねた。「うちの医師は診たのか?」マルスは頷いた。「はい。こちらの手配した医師も同じ見解です。危機的な状況で、黒崎先生がそちらへ特効薬を送らせているそうです」マルスは間を置いて続けた。「健吾様、今回の綾さんの行方不明については、中野社長は関与していない可能性が高いかと」健吾は食べかけのものを手放すと、肩を落とし、がっくりと首を垂れた。顔に表情はなく、何を考えているのか誰にも分からなかった。健吾のそんな状態が、この数日続いていた。まるで綾と一緒に魂まで消えてしまったかのような、空っぽの抜け殻に見えた。車内には、長い沈黙が流れた。しばらくして健吾が顔を上げ、静かに命じた。「信頼できる人
Read more

第675話

たった1週間で、健吾は別人のようになってしまった。頬はこけ、身なりもだらしなくなり、揉み上げには白いものさえ混じっていた。その白髪を目にして、マルスは胸がざわついた。これ以上、綾を見つけ出せなければ、健吾の精神が完全に壊れてしまうと確信した。健吾は食事にも手をつけず、目を開けて淡々と言った。「プライベートジェットを手配してくれ。I国へ飛ぶ」マルスは息を呑み、驚いて振り返った。「健吾様、もしエステ家に捕らえられたらどうするのですか?それに、本当にエステ家が綾さんを拉致したのであれば、とっくにあちらから解放の条件を突きつけているはずです」マルスはまくし立てた。「それに、エステ家といえど、東都にいる綾さんの行動を全て監視できるはずがありません。山奥まで追ってくるなど不可能です」それでも健吾は平然と返した。「いいから手配してくれ。対策はある」健吾自身、エステ家が犯人である可能性が限りなく低いことは分かっている。だが、たとえゼロに近い確率でも見過ごすわけにはいかない。綾に関わることなら、どんなリスクも承知の上だ。実は、エステ家の他に、もう一人ソフィアという女を疑っていた。以前、復縁を執拗に求めてきたソフィアは、綾を敵視していたからだ。健吾は心の中で、綾を害する可能性のある人間を片っ端から洗い出していった。たとえそれが野良犬一匹であっても、見過ごすつもりはなかった。その頃、西区の病院では、達也自らが湊に特効薬を投与していた。集中治療室を出てから、ガラス越しに眠る湊を見て、達也は深く溜息をついた。生きているのか死んでいるのかわからないような姿を見せられるのは、これが何度目だろうか?管に繋がれた姿は、かすかな心拍がなければ、もう生者とは言えなかった。いっそのこと、あの療養所で息を引き取らせた方が良かったのではないか――そんな薄情な考えまでが頭をよぎった。誰かのために抱いた「生への執着」は、結局その人がいなくなれば同時に消え去るのだ。しかし、湊の生への執着は凄まじかった。心電図のモニターは頑固なまでに波形を刻み、何としても目を覚ますと言わんばかりだった。綾がまだ見つかっていない。死ぬわけにはいかないという思いが、湊を繋ぎ止めているのかもしれない。横にいた秘書が小声で聞いた。「院長、中野社長はいつ目を覚
Read more

第676話

果てしない海の上、どちらがどの方角なのかさえ見当がつかない。特にここ2日は曇天で、太陽の光も見えず、これまで頼りにしていた東西南北の確認方法も役に立たなくなった。窓の外を覗けば、灰色の海がただ広がっている。まるで世界そのものが冷たい膜に覆われてしまったかのようで、息が詰まった。テレビの画面の隅に表示された日付を見て、ようやくここでの暮らしが7日目だということを知る。自分が7日間も閉じ込められているのだと、実感が湧かなかった。綾は、助けを求めるのはやめた。この船は明らかに個人のクルーザーで、どうやら公海上に漂っているようだ。叫び声をあげたところで誰にも聞こえないし、助けなど来るはずがない。結局、その後も人の気配は全く感じなかった。隠れている誰かを誘い出そうと、綾は断食を始めた。2日間何も食べなかったが、食事は相変わらず決まった時間に届く。口をつけたかどうかさえ、誰も気に留めない。少なくとも、今すぐに命を奪われる危険はないらしい。それだけは確信できた。しかし、何のために自分をここまで連れてきたのか。その目的が見えなかった。自分を憎んでいるのなら、これほど丁寧に食事を与えて飼い殺しになどするはずがない。人質として利用するのなら、すでに周囲と何らかの交渉が始まっているはずだ。もし身代金なら、健吾も湊も、そして明里も、自分を救うためなら大金を惜しまないはずだ。お金ではないとしたら。残る可能性はエステ家が自分を利用し、健吾をI国へ連れ戻そうと画策していることぐらいだ。だが、カタリナが自分に対して抱く激しい憎しみを考えれば、ここまで厚遇するはずがない。運ばれてくる食事も、果物も、ケーキも、どれも好物ばかりだ。クローゼットには、色もデザインも、肌触りさえも好みの服が溢れていた。バスルームのスキンケアセットも、ドレッサーの上に置かれたコスメも、普段から愛用しているブランドのものだ。何よりも不可解なのは、ドレッサーの引き出しに高級な宝飾品まで用意されていることだ。ここに閉じ込めておいて、一体どうするつもりなのだろうか?まさか部屋の中でファッションショーごっこでもしろというのだろうか?こうした細かな部分を考えれば、エステ家の関与は薄い。自分を深く知る人物こそが真犯人に違いない。これほど自分に詳しい人間
Read more

第677話

不安が蟻のように胸の内を這い回り、いてもたってもいられなくなった綾は、部屋の入り口に駆け寄ると、壊れるほどの勢いでドアを叩いた。「湊!湊なんでしょ!出して!お願い、出してよ!湊!会わせなさいよ!姿を見せなさい!」30分以上も叫び続け、声も枯れたが、外からは誰の気配もしない。真相を知ったことで、綾の恐怖と絶望は先ほどまでとは比較にならないほど膨れ上がっていた。今は健吾だけが頼みの綱だ。どうか子供たちを守り抜いてほしい。そして一刻も早く、湊が自分を連れ去った事実に気づいてほしい。感情をぶちまけ、しばらく経つと、綾はようやく冷静さを取り戻した。今は海にいる。自分には何もできない。ただひたすら生き抜き、健康を保ち、救助を待つしかなかった。健吾を信じよう。湊の仕業であれば、健吾が手がかりを見逃すはずがない。綾はしゃがみ込み、既に冷め切った食事を手に取った。震える指先が器に触れる。精神が壊れるのを防ぐため、自分を無理やり鼓舞するように、一口ずつ、慌ただしく食べ物を流し込んだ。気が狂いそうになるのを抑えようと、テレビの電源を入れる。外部と遮断された環境では、ストレージに保存されたビデオしか見られなかった。様々な映画やドラマに混じり、綾の関心がある分野の論文発表や専門的なレクチャー映像が大量に入っている。この執念深く綿密な準備。これほど徹底的に管理をしたがる人物は、湊以外にはあり得ない。寒気が部屋の隙間から染み込み、綾の体が小さく震えた。……綾の失踪から10日目。ネットの過熱ぶりも徐々に沈静化しつつあった。各プラットフォームを賑わせていた関連ニュースも、ここ2日でめっきり少なくなった。その夜、湊が黒崎病院のベッドでようやく目を覚ました。いつもの定期検診を行っていた達也が、湊が意識を取り戻したのを確認して安堵の息を吐く。「悪運が強いな。冥土の使者においしい報酬でも渡してきたのか?」湊は何も言い返さず、ジョークに乗る余裕もなかった。青ざめた顔色のまま、力のない声で問いかける。「綾は、見つかったか?」達也は笑顔を消し、困ったように首を振る。「まだだ。だが捜索は続いてる。だから今は、治療に専念しろ」健吾を刺激しないよう、あえて健吾の名は伏せた。噂では、健吾だけでなく、颯太も現地に
Read more

第678話

誠はポケットに両手を突っ込んで病室に入ると、まずは達也に声をかけた。「黒崎先生、お疲れ様です」達也は笑みを浮かべて言った。「ごゆっくり。他の患者を診てきます」達也が病室を出てドアを閉めると、その顔から笑みがゆっくりと消えた。彼に言わせれば、湊は誠を許すべきではなかった。あの時、誠が狙っていたのは湊の命だったはずだ。二度目の事故は誠と直接的な関係はないとはいえ、誠が海斗の出自を黙っていたことで起きた悲劇だ。それに誠は残忍だ。表向きは湊と和解し、仲の良い兄弟を演じているが、腹の内では何を企んでいるのか分かったものではない。今の湊は心身ともに極めて不安定だ。誠の口車に乗せられて操られるのも時間の問題だ。特に、綾が健吾と親密になればなるほど、湊は取り乱し、皮肉にも唯一の頼りである誠を信じ込んでしまう。達也は、誠がもう一度、湊を傷つけるのではないかと懸念していた。病室では、誠が椅子を引いてベッドのそばに座り、湊の青白い顔を見つめていた。「体の具合はどうだ?」「ああ……まあまあだ」湊は天井を見つめたまま、枯れ果てた声で呟いた。秋の風に揺れる葦のように、今にも折れそうな様子だった。誠は病室の外をうかがい、誰もいないことを確認してから上半身を少し乗り出し、声をひそめて言った。「治療に専念しろ。公海の件なら心配するな。言われた通り手配してある」湊は眼球を動かし、ようやく誠に視線を向けると、不安そうに聞いた。「綾は大丈夫なのか?元気にしてるか?」誠は無表情で答えた。「ああ。ここ2日間、食事を拒んでいたが……」言葉を遮るように湊が勢いよく身を起こし、誠の襟ぐりに掴みかかった。点滴の針の跡から赤い血がにじみ出た。「絶対に無事だって言っただろう!」「まだ話の途中だ。落ち着け」誠は湊を引き剥がし、またベッドに横たえてから、にじんだ血を押えるための綿棒を手渡した。大きく荒い息を繰り返す湊を見て、誠は眉をひそめ、懸念をのぞかせた。「今はもう食事拒否はしていない。出された飯も完食しているそうだ。観念したのか、青木社長に助け出されるのを期待して生きる気力を取り戻したのかもな」健吾の名前を出す際、誠の声にはわずかな力がこもった。「ごほっ……っ、ごほっ……」湊はベッドの縁で激しく咳き込んだ。病人用の服の下の
Read more

第679話

誠は湊の目に浮かぶ異常な感情を見つめ、微笑んだ。湊は、彼自身を欺くことにかけては相変わらず天才的だ。まあいい。今や自分がついているのだから、湊が無謀な真似をすることはあるまい。誠は落ち着いた口調で切り出した。「病院で大人しく治療しているんだ。軽はずみな真似はやめろ。青木社長はバカじゃない。監視をつけてお前を24時間見張っているはずだ。お前が公海に出るなんてことは、綾さんの居場所を奴に自ら教えるようなものだぞ」湊の目に氷のような恨みが宿った。「兄さん、奴を消す手伝いをして」誠はきょとんとして、自分の顔をゆっくりと指さした。「俺に殺せと言っているのか?俺が青木社長を?」思わず笑い出してしまったが、それはあまりの呆れに引きつった笑いだった。「湊、冷静になれ。一番欲しいのは綾さんだろう?些細なことにこだわって、大局を見失うな」健吾に手出しをすれば、成功確率なんて奇跡に等しい上に、すぐに尻尾を掴まれて身を滅ぼすのがオチだ。湊がイカれるのは勝手だが、こっちはイカれていない。湊は両手で頭を抱えた。頭の中で電動のこぎりが回転しているかのような、耐え難い痛みが駆け抜けた。彼は奥歯を噛み締めて言った。「兄さん、青木が死なない限り、綾は本当の意味で守れないんだ」誠は一瞬沈黙した後、厳格に告げた。「湊、頭が混乱しているようだな。綾さんのために、今は俺の言うことだけを聞くんだ」誠が綾を公海へ送り出したのは、かつて湊に科した罪の償いであり、二度と牢屋に入らないためではない。綾の性格なら、仮に無事に逃げ出せたとしても、本当に湊を訴えるようなことはすまい。だが湊の今の体では、収監されれば二度と出てこられないことをみんなは知っていた。もし湊が健康であれば、誠はこんな道は選ばず、湊を精神病院に放り込んでいたことだろう。湊の心の病は、肉体のそれよりもずっと深刻だった。湊をこんな怪物にしてしまった罪の一端は、兄としての自分にもある。だからこそ誠は命を懸けて、湊の望みを叶えてやりたいと思っているのだ。それに、誠自身も健吾が疎ましくて仕方ない。かつて救援を求めた際、健吾が誠に茶を浴びせたあの屈辱を、生涯忘れることはないだろう。人への復讐には、一番大事なものを奪うのが一番だ。湊は力なく背もたれにもたれた。「じゃあ、いつ綾
Read more

第680話

無二の兄弟の陰謀が張り巡らされている最中、健吾は綾の行方を追ってエステ家のお城にいた。健吾の帰還を知ったカタリナは、心から喜んだ。ここに残ってくれるなら、政略結婚を強いることもないとまで考えた。綾が産んだ男の子さえ連れ帰れば、自分が引き取って育てればいいのだから。エステ家に新たな跡継ぎができれば、健吾の当家における価値も薄れるはずだ。社交の場を切り上げ、胸を弾ませて城館へ戻ったにもかかわらず、健吾からは氷のように冷たい視線を向けられ、自分を「母さん」と呼んですらくれなかった。「本当に、綾に対して何もしていないと言い切れるのか?」カタリナは顔色を変えず、ソファに深々と腰かけてタバコを一本くゆらせた。煙を吐き出しながら、怒りを殺して言った。「チェッコ、もしあの女がI国にいるなら、絶対にタダじゃ済まさない。だが、私はわざわざ東都へ行って人攫いをするほど愚かではないし、そんな手間もかけていないわ」健吾はそれを聞き、胸の中の淡い期待は打ち砕かれ、その表情には深い絶望が漂った。それこそが、カタリナが健吾を一番嫌う理由だった。将来ある御曹司でありながら、たかが一人の女のために本来持つべき威厳を失っているのだから。これほど遠くからわざわざ飛んで戻ってきたというのに、その理由は綾の失踪を自分の仕業ではないかと疑い、実の母親を問いただすためだったとは。かつて健吾がエステ家と絶縁することを公言したとき、こっちはどれだけ人々の笑い物になったことか?今日の件まで外に漏れれば、エステ家は社交界で完全に居場所を失う。「チェッコ。ここに留まるなら、以前のことはすべて水に流してあげるわ」カタリナは珍しく歩み寄る姿勢を見せ、妥協案を持ち出した。健吾は迷わず立ち上がると、淡々と言い放った。「急ぎの用があるから、失礼する。どうかお元気で」最初からエステ家に戻るつもりなどなかったし、何より壮真をカタリナの言いなりにはさせない。健吾が背を向けて立ち去ろうとすると、色鮮やかな装いに身を包んだ人物が駆け込んできた。「チェッコ!いつ戻ってきたの?」ソフィアが上気した顔で目を輝かせながら、健吾の元へ近づいてくる。健吾はまさにソフィアを探していたところだったため、単刀直入に尋ねた。「綾の行方不明の件だ。君は関わっていないな?」ソフィアは
Read more
PREV
1
...
6667686970
...
72
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status