All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 681 - Chapter 690

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第681話

ソフィアは片手でハンドルを握りながら、もう片方の手で湊に電話をかけた。「チェッコが綾さんを探しにI国に来ました。彼は諦めてないから、せいぜい気をつけてください」ソフィアの瞳からは先ほどまでの柔らかさが消え、氷のように冷えきっていた。電話の向こうで、湊はスマホを強く握り締め、冷たく言い放った。「生活物資さえ届ければ、あいつには一生、綾は見つかりません」ソフィアは唇を歪めたが、瞳に笑みはなかった。「安心してください。私は約束を破るような人間じゃないですから。あなたは自分の女をしっかり見張っておいてくださいね」「ありがとうございます」湊は電話を切ると、スマホを放り投げた。誠は眉をひそめて尋ねた。「何か問題でも?」湊はソフィアとの会話を伝え、真剣な面持ちで言った。「兄さんの言う通りだ。今は公海へ行くのは避けないとな。青木に隙を見せるわけにはいかない」健吾を恐れているわけではない。ただ、綾を誰の手にも渡したくなかっただけだ。もし東都であれほど厳しく制限されていなければ、ソフィアのような女と手を組む必要などなかったのだ。ソフィアは綾を嫌い、湊もまた、ソフィアという人間を心の底から嫌悪していた。この協力は、あくまで互いの利害が一致した結果に過ぎない。誠は湊の考えを見透かしたように言った。「騒ぎが収まれば、別のルートで物資を船へ運ぶ方法を探そう」湊は頷くと、ゆっくりと目を閉じた。頭の中は、綾の姿でいっぱいだった。綾は船の中でただじっとして、戻れない場所で、自分の帰りを待っている。湊はふと思い立ったように口を開いた。「兄さん、瑞希ちゃんも一緒に船へ送ってしまおう」瑞希がいれば、綾はしっかりと生活を送らざるを得ないし、寂しさに耐えかねることもないはずだ。誠は脈打つこめかみを押さえ、声を低くして言った。「綾さんに殺されたいのか?大人しくしていろ」もし子供たちにまで手を出せば、綾が救い出されたとき、真っ先に自分たちが警察へ突き出されるのは火を見るより明らかだった。湊は完全に狂っている。綾のことばかり考え、兄である自分のことなど微塵も考えていない。湊は返事をしなかったが、その考えを捨てたわけではなかった。近いうちに自分も船へ向かい、綾さえ承知すれば、瑞希と面会させてやればいい。そのときには3人で公
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第682話

湊は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐにその動揺を抑え込んだ。「余計なことはいい。綾をしっかり世話してくれればそれでいいんだ」綾を守りたいだけだ。すべてを監視して縛り付けたいわけではない。「なら、まずは体を休めて、後のことは俺に任せろ」誠は湊の青ざめた顔を眺め、その肩をポンと叩いた。立ち去る間際、誠は立ち止まり、冷たい声で言い放った。「いいか湊。昔と同じように、俺を信じろ。余計なことはするな。お前が動けば、俺も、お前も、中野家そのものが破滅する」湊は虚ろな笑みを浮かべて口角を上げた。「分かってる。俺にはもう兄さんしかいないんだから」綾との距離は開く一方だった。かつて交わした信頼や絆は、もう存在しない。今、頼れる相手は、実の兄だけだった。進んで誠を信じたわけじゃない。ただ、それ以外の選択肢がなかっただけだ。誠は病院を出ると、叔父として青木家へ向かい、瑞希を引き取ると申し出た。しかし、玄関で冬馬に門前払いを食らった。「申し訳ありませんが、今は誰も面会させられませんので。お帰りください」誠は冷たく鼻で笑った。「綾さんは中野家で育ったんです。俺は叔父にあたるから、綾さんが行方不明になった今、その子供の面倒を見る責任と義務があるんです」冬馬は表情を一切変えず、突き放すように言った。「子供には父親がいます。他人が口を出すことではありません。それに、以前あなたは二宮さんと結託し、綾さんを拉致したことがあったはずです」冬馬はさらに圧をかけた。「率直に言いますが、あなたの過去を踏まえれば、世話どころか危害を加える可能性の方が高いと判断せざるを得ません」誠の顔が怒りで引きつり、激しい息を漏らしながら必死に殺意を押し殺した。「俺の評判はどうあれ、湊は綾さんと家族も同然なんです。今も湊が入院中で、ただただ瑞希ちゃんのことを心配しています。もし綾さんがいれば、面会を禁じたりはしないはずですよ」冬馬は面倒そうな視線を向けた。「話は以上です。子供たちには指一本触れさせません」それ以上相手にせず、使用人を呼んで追い返した。誠が立ち去ろうとしたその時、部屋から壮真が走り出てきた。周りには複数のベビーシッターとボディーガードが守備陣形を組み、まるで戦場のような物々しさだった。その顔が健吾に酷似しているのを見て、誠は嫌悪感に顔をゆ
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第683話

冬馬は深い溜息をついた。「子供たちは俺たちが引き受ける。お前は綾さんの捜索に専念しろ。会社の方は部下に任せればいい」電話を切った後、冬馬は長いこと動けずにいた。綾はあまりにも数奇な運命をたどり、あまりにも苦労が多すぎる。生活がようやく落ち着きかけたところで、運命は再び残酷な牙を剥いた。……日が経つにつれ、時間の流れがひどく遅く感じられ、精神がすり減っていった。綾は精神の均衡を保つため、日記を書く習慣をつけた。そうすることで日付を把握し、ペンを動かすことで、押しつぶされそうな不安を少しずつ吐き出すためだった。しかし、日々の暮らしは単調すぎた。船室に閉じ込められ、窓の外にはただ広大な海が広がっているだけだ。草木ひとつなく、人の気配ひとつない。ただ、果てのない世界だけが広がっていた。日記にも大したことは書けない。何度も繰り返すのは、子供たちへの思慕と、会社への気がかりばかりだった。立ち上げたばかりの研究開発チームは、ようやく研究をスタートさせたところだ。自分がいなくなってから、今のプロジェクトがどうなっているのか、見当もつかない。明里に任せれば、何とか形にはしてくれると信じたいが。期待すればするほど不安は募る。自分はやがてこの場所に置き去りにされ、忘れられるのではないかと。時には、日記に何度も健吾の名前を書く。今は音信不通でも、健吾だけは外で自分を必死に探しているはず。彼はきっと気が気ではないのだ。では、湊は……ペン先を止め、染み出すインクを見つめる。なぜ姿を現さないのか?黒幕は本当に湊ではないのだろうか?あるいは健吾が湊を疑い、足止めをしているのだろうか?綾は推理のすべてを日記に記した。退屈を紛らわせるため、それを推理ゲームに見立てて、一つずつ書き出し、一つずつ消していった。今日もページを埋め尽くしたのは、書き連ねられた壮真と瑞希の名前だった。あの子たちはまだ幼く、こんなにも離れたことがない。夜に泣きながらママを探していないだろうか?「自分たちを捨てた」と誤解していないだろうか?これ以上考えると、胸がいっぱいになり呼吸すら苦しくなる。悲しみを振り切るようにペンを置き、窓の外へと目を向けた。真っ赤な夕日が地平線すれすれにかかり、ゆっくりと沈んでいく。海面を茜色が
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第684話

湊は退院してからずっと、中野家の屋敷にこもったまま外出しようとしなかった。綾に会いたがったが、誠がずっと「もう少し待て」と湊を止めていた。待ち続ける日々は耐えがたく、一分一秒が神経を削り取るようだった。綾の無事を確かめ、彼女を安心させてやりたい一心だった。今日、湊は再び願い出た。「兄さん、もう限界だ。綾に会わせてくれ」誠は根気強く諭した。「今、青木社長の手下が俺たちを監視してるはずだ。屋敷を出れば足取りをつかまれる。そうなった時の結果は考えているのか?」いら立った様子で歩き回っていた湊は、拳を握りしめて声を絞り出した。「綾が海の上で一人なんだ。塞ぎ込んでしまうに決まってる」誠は思わず失笑した。「綾さんが塞ぎ込むのは分からんが、お前が行ったら余計に頭に血が上るだろうよ」湊はその言葉を聞き、気力を全て吸い取られたようにソファに深く沈み込んだ。「いずれ会わなければならない。綾が俺を憎んだとしても、それも受け入れるつもりだ」「いいか、もう少しの辛抱だ。向こうの者が面倒を見ているから、何の問題もない」誠は一拍置いてから、言葉を足した。「直接会うのはダメだが、電話を一本かけるくらいならいい」そう言って、湊にスマホを手渡した。「これなら盗聴はされない」スマホを受け取った湊の指先は、かすかに震えていた。少し躊躇してから、彼は船の管理人に電話をかけ、E国語でこう伝えた。「綾と話をさせてくれ」一方、公海では綾がテーブルに向かって日記を書いていた。【今日の夕焼けが眩しい。助かったら、子供たちを連れて海から昇る朝日と海に沈む夕日を見に来たい。綾、海と船への恐怖なんかに打ち勝って。怖いのは人であって、自然じゃないのだから……】綾の筆圧はすさまじく、ペン先で紙が破れそうだった。執筆に没頭していると、ドアが控えめにノックされた。綾はテレビ横の時計に目をやったが、まだ食事を運んでくる時間ではない。てっきりまた不要なものが押し込まれるのだと思い込んでいたところ、隙間からそっとスマホが差し込まれた。鼓動が速まるのを覚えた。綾はためらわず、床に落ちたスマホへと飛びついた。健吾の番号なら覚えている。助けを呼ぶのだ。だが、次の瞬間、受話器から聞こえてきたのは、決して聞きたくなかったあの声だった。「綾、調子はどうだ?」
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第685話

電話の向こうで、沈黙が続いた。やがて、湊の声が低く響いた。「俺と死のう。そうすれば二人とも苦しみから解放されて、永遠に一緒になれるんだから」綾は、湊との対話など無意味だと悟った。この男は、完全に常軌を逸している。仕事と育児に追われ、綾は湊の異常に気づく余裕さえなかったのだ。「湊、あなたは病んでいるの。カウンセリングに行きなさい」それ以上言い争う気力もなく、綾は電話を切った。スマホで健吾に助けを求めようとしたが、絶望が広がった。この端末には着信機能しかなく、外部への発信は遮断されていた。綾は怒りのままにスマホを壁へ投げつけた。閉ざされた空間に鈍い音が響いたが、様子を見に来る者など一人もいない。まるで大海の塵のように世界から切り離され、この憤りは誰にも届くことはなかった。電話の先では、まだ何かを言いかけていた湊が、ぷつりと切られた通信に呆然としていた。「綾に、憎まれている」湊は小さくつぶやいた。湊を見つめていた誠は、淡々と言い放つ。「公海上の船に閉じ込め、海へ身を投げないよう部屋から一歩も出させない。そんなことをすれば、憎まれて当然だ」誠は溜息まじりに諭した。「湊、綾さんを手に入れたいなら憎悪も背負うことだ。それが耐えられないのなら、今すぐ解放しろ」もし湊が綾への執着を捨てれば、すべての問題が丸く収まるのだ。スマホを握りしめ、湊は冷徹な眼差しを変えない。「どんな結果を招こうとも、絶対に放さない」それ以上言うことを諦めた誠は、当たり障りのない雑談を交わし、海斗の宿題が順調に進んでいるかを見に行くことにした。部屋から出ると、廊下で海斗に出くわした。年の割に背が高く、肌は透き通るように白い。晴香のもとで過ごした3年の暮らしの影響なのか、誰に対しても怯え、滅多に自分から口をきかない。「海斗、こんなところで何をしている?」誠が声をかけた。海斗はうつむいたまま、蚊の鳴くような声で言った。「お腹が空いた」誠はその弱々しさが苦手だったが、生い立ちを思えば責める気にもなれなかった。海斗の華奢な肩に手をやり、誠は穏やかな声色をつくった。「夕飯にしよう。宿題はもう済んだのか?」海斗は小さく頷いた。「終わったよ」誠の問いかけに答えるだけで、自分から口を開くことは一度もなかった。レストランに入り腰を下
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第686話

誠は急かさず、静かに向かいに座って、海斗の返事を待っていた。しばらくして、海斗はようやく顔を上げ、控えめながらもはっきりと言った。「会いたくない」その言葉を聞いて、誠はむしろ安堵した。凪が出て行ったとき、海斗はまだ小さく、母親の記憶もほとんどなかった。物心がつき、最も愛情を必要としたここ数年を、海斗は晴香の家で過ごした。晴香は慈愛に満ちた善良な老女で、海斗を我が子のように可愛がった。そんな海斗が、凪に対して情が薄いのは至極当然だった。誠は身を乗り出し、海斗の髪を撫でて優しく微笑んだ。「分かった。海斗が決めたことなら、支持するよ」海斗は頷くとそれ以上は語らず、俯いて黙々と食事を続けた。海斗の大人しい頭を眺め、誠は一瞬ためらってから、わざと明るい口調で言った。「夏休み、どこかに行かないか?どこでもいい。南の島国はどうだ?」海斗は中野家の人間の外見だけでなく、その口数の少ない性質までも受け継いでいた。しかしこの年頃の少年なら、もっと天真爛漫であってほしい。誠は海斗に同年代の子のように過ごしてほしかったのだ。だが海斗は首を横に振った。「東都に残って囲碁を学びたい。どこにも行きたくない」誠は諦めて、それ以上強いることはできなかった。海斗を引き取って以来、誠は常に凪の件が海斗に影を落とすのではないか、心に傷を残すのではないかと案じていた。戻ってきた当初、専門のカウンセリングクリニックへ通わせ、様々な検査や診断も行った。しかし医師の診断は、ただ性格が内向的であるというだけで、大きな問題はないとのことだった。今はただ見守るしかない、と誠は自分に言い聞かせることしかできなかった。誠が青木家を訪れた翌日、健吾は東都へ飛び戻った。綾の失踪に中野兄弟が深く関わっていると確信していたが、雇った探偵が調べ尽くしても手がかりは掴めなかった。今はただ、湊が自ら綻びを見せるのを待つしかなかった。その強烈な無力感が、健吾の心を削っていた。家に入るやいなや、壮真と瑞希が駆け寄り、両脇から健吾の脚にしがみついた。健吾は腰を下ろして二人を抱きかかえ、そのままソファに腰かけた。やつれた顔に、無理やり穏やかな笑みを浮かべて。膝の上で瑞希が健吾のシャツのボタンをいじりながら、甘えた声でつぶやいた。「ママ……」その幼
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第687話

失踪以来、国内外の専門の捜索チームがあの山々を隈なく捜索した。川筋に至るまで、執拗なほどに。手がかりを整理した結果、綾が何者かに連れ去られたのはほぼ間違いない。惜莉のリュックに付いていた血痕は綾のものと一致した。だが現場周辺をくまなく調べた結果、リュックは何者かによって崖の上から投げ捨てられたものだと判明した。あの血は偽装だったのだ。健吾は、黒幕は湊だと確信していた。監視カメラを避け、人知れず大人を連れ去るには周到な準備が必要だからだ。明里は涙を拭い、傍らでユズちゃんと遊んでいる双子を見て、胸が締め付けられる思いがした。明里は尋ねた。「私にできることはある?」毎日ただ情報を待つだけで、何もできないこの無力感がたまらなく苦しかった。健吾は落ち着いた口調で言った。「会社を維持してくれ。綾のプロジェクトを前へ進めるんだ。技術的な支援が必要なら、颯太さんを頼るといい」明里は不思議そうに健吾を見た。「こんな時に、会社やプロジェクトなんて言っている場合?」健吾の表情が真剣に引き締まる。「会社とプロジェクトは綾が心血を注いできたものだ。今、綾が世界のどこかに閉じ込められていたとして、気にかかるのはきっと子供のことと、その仕事のことだろうからな」明里は驚いて健吾を見つめた。健吾は、綾が必ず戻ってくると確信しているようだった。その確信に満ちた態度に、明里の不安で揺れ動いていた心も、いくらか支えられた気がした。「分かった。会社を守ってプロジェクトを成功させるわ。綾が戻ってきた時、会社が前よりずっと良くなってるって思わせるために」そうだ、綾はそう簡単には負けない人だ。こっちが動揺してはいけないのだ。明里を送り出した後、健吾は車で綾の家へ向かった。子供の世話をするため、綾は玄関の指紋認証に健吾の指紋を登録させていたのだ。寝室のドアを開けると、まだ片付けられていない服が2着、きれいに畳まれてベッドの端に置かれていた。まるで持ち主の帰りを待っているかのように。健吾はその服を手に取り、クローゼットにしまおうとした時、これまで自分が綾に贈ったプレゼントが目に入った。どれもきれいな状態で保管されていて、傷ひとつなかった。健吾はその一つひとつを指先でなぞった。梅雨時のように、重たく湿った感覚が体にまとわりつく。綾は口では「
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第688話

リビングの明かりがいきなりつき、玄関には湊が立っていた。健吾が綾の部屋から出てくるのを見て、湊の表情は一気に曇り、その瞳には凍りつくような殺気が宿った。「何しに来たんですか?」健吾は答えず、一気に間合いを詰めて湊の顔面を拳で殴りつけた。湊の体が大きくのけぞり、背中が玄関のキャビネットに激しくぶつかった。鈍い音が響き、骨の奥から突き抜けるような痛みが襲う。湊は震える両手で棚の縁をつかみ、充血した目で鋭く健吾を睨みつけた。息を荒げながら、口元には歪んだ笑みを浮かべる。「綾にそんな暴力的な姿を見られたら、もっと軽蔑されますよ」健吾は馬鹿馬鹿しい冗談を聞いたかのように、鼻で笑った。「お前は本当に哀れだな。自分自身を騙すなんて」言葉が終わるか終わらないかのうちに、湊の胸ぐらをつかみ上げ、そのままドアに激しく押し付けた。「綾はどこだ?」怒りに任せて詰め寄る健吾の視線は、湊の瞳の奥から答えを抉り出そうとするほど鋭かった。湊は大きく呼吸しながら答える。「それはこっちのセリフです。綾に何をしたんですか?」健吾の手がさらに深く、湊の喉元に食い込んだ。「もし綾に指一本でも触れたなら、中野家を根こそぎ破壊してやる」窒息感で顔面蒼白になりながらも、湊の瞳にはいっそう狂気が濃く滲んでいた。かすれた声で彼は笑った。「そっちより……俺の方が綾を愛してるから、俺に命令する資格なんてないですよ」健吾は湊を乱暴に床に放り出すと、ドアを押し開け、襟を掴んでそのまま外に引きずり出した。「惨めな男だ」健吾は倒れている湊を見下ろし、冷ややかに告げた。「一生、泥の中で腐っていろ」廊下の冷たいタイルに仰向けに倒れた湊は、突如として高笑いした。どこで生きようと構わなかった。汚れていようが、惨めであろうが、綾が側にいてさえくれれば、それでいいのだ。健吾はドアを力任せに閉め、あの憎たらしい顔を遮断した。そして、すぐにスマホを取り出し、マルスに鍵の交換業者を呼ぶよう指示した。ドアの外で、湊は壁を伝いながらふらふらと立ち上がり、エレベーターに向かった。エレベーターの鏡には、顔が腫れあがり、血を流し、血走った目をしているボロボロの自分が映っていた。湊は痛みを感じないかのように、口元を歪めて笑った。中野家の屋敷に戻ると、誠
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第689話

そう言いながら、誠はスマホを取り出し、達也に電話をかけた。繋がるや否や、焦燥感の滲む声でこう伝えた。「湊が青木社長に殴られて、ひどく具合が悪いので、黒崎病院から救急車を回してくれませんか?」電話口の相手は何か毒づいていたようだが、詳細は聞き取れなかった。ただ、すぐに手配するという言葉だけは耳に入った。誠はスマホを置き、ニヤリと笑った。「湊、仮病はお前の十八番だろ。墓穴を掘るなよ」湊は自嘲気味に口角を上げた。「青木が言った通りだよ。俺は本当に、惨めで可哀想な奴さ」誠は呆れてため息をつく。「感傷に浸っている暇はない。早く横になれ。黒崎病院に着いたら数日は入院しておけ。後で機会を見て、ここの医療スタッフのフリをさせて他院の救急ヘリに紛れ込ませる。青木社長が気づく前に東都を出ちまえば、あとはどうとでもなる」達也は以前にも、湊が身体障がいを偽装する片棒を担いでいた。今回も理由をつけて頼めば断らないだろう。真実さえ隠せればの話だが。湊はしばらく沈黙を守っていたが、やがて小さく「兄さん、ありがとう」と言った。誠は深いため息を漏らす。「お前が完全に壊れてしまうのを、黙って見てはいられないからな」綾が健吾のそばにいる限り、いつかこの弟は破滅的な暴走をするだろう。いっそのこと、遠くに送ってしまえばいい。公海まで行けば、そこでどうなろうと知ったことではないのだから。ほどなくして、達也が救急隊を連れて中野家の屋敷に到着した。ソファに横たわる湊の、青ざめてひどく歪んだ顔を一目見た瞬間、達也は思わず荒い言葉を吐き捨てた。「毎日毎日、死神相手に必死で命を繋ぎ止めているんだぞ。本当に勘弁してくれよ。俺は黒崎病院の院長であって、君の専属医じゃないんだ」愚痴をこぼしながらも、達也は手際よく湊を担架で救急車へ搬送させた。誠は後を追うように駆け寄り、深刻な表情で聞いた。「湊は大丈夫ですか?帰宅してすぐに胸が痛いと言っていましたが、青木社長にかなり強く殴られたようで……」達也は大股で進みながら応える。「詳しいことは検査しないと分かりません。ただ、顔面の骨を損傷している可能性は高いです」その言葉に誠は立ち止まり、拳を強く握りしめた。健吾め、本当に容赦がない。今は我慢の時だと自分に言い聞かせる。湊を公海まで無事に送ることが、何よりも
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第690話

湊は、旧知の仲である達也を真っ直ぐ見つめたが、ふと胸に鋭い不安がよぎった。湊は拳を強く握りしめた。まるで大切なものが、指の隙間からこぼれ落ちていくようで、必死に掴み留めようと足掻いていた。病室が、静まり返る。長い沈黙の後、達也は全てを察したかのように、力なく笑った。「湊、過去の自分を振り返ってみろよ」「過去の俺なんて、もう死んだよ」湊の声に、感情は一切籠っていなかった。振り返るのが怖いのだ。振り返りたくもなかった。過去なんて、もはや何の意味も持たない。湊は達也を見据え、言い放った。「達也、これが最後のお願いだ」達也は湊のすがるような瞳を見つめ返した。その脆く虚ろな眼差しに、達也の胸は深い絶望に沈んでいった。「湊……それはできない」湊はしゃがれた声で乞う。「最後だ。頼む。俺と綾が死ぬのをただ見ているつもりか?」その言葉を聞き、達也の心に棘が刺さる。湊の肉体を治せても、ズタズタに傷ついた心までは救えないのだ。度重なる惨事が、湊の体だけでなく、精神までも根底から破壊していた。達也は拳を握り締め、考え抜いた末に静かに言った。「分かった。だが誓ってくれ。何があろうと、綾を傷つけないと」湊の瞳がかすかに輝く。「すべては綾を守るためだ。傷つけるはずなんてないだろう?」達也の承諾を得て、湊は東都を離れる計画を彼に告げた。そこに誠も絡んでいると聞き、達也は胸に抱いていた最悪の予感が現実になったことを悟った。湊がこれほどまでに歪んでしまったのは、誠のせいでもある。「明日、沿岸部の療養所へ向かうヘリが出る。患者は退職した重役だ。これで青木社長の尾行を巻ける。出発の準備をしておけ」言い終えると、達也は振り返ることもなく、病室を去った恐ろしい決断を下してしまったことを自覚していた。中野兄弟の共犯者に成り下がったのだ。本来なら健吾にすべてを明かし、解決させるのが最善だと知っている。それでも幼い頃から共に過ごした親友を、突き放すことはできなかった。湊はドアの向こうへ消えていく達也の背中を見送りながら、確信していた。明日、あのヘリに乗り込めば、このかけがえのない親友とも永遠に決別することになるのだと。達也はもう、二度と自分を許さないだろう。それでももう後戻りのできない場所まで来てしまった。
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