All Chapters of 私を散々泣かせたクズ男たちが、今さら本気で愛してくる: Chapter 71 - Chapter 80

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【第五章】私は、私を生きる

あれから、ヒナタくんからの連絡は一度も来ていない。スマホの通知は静かなままで、画面を開いても、そこに彼の名前が表示されることはなかった。——なのに、不思議と胸は騒がなかった。「ああ……またか」ぽつりと漏れた言葉は、思っていたよりもずっと軽かった。かつてなら、既読がつかないだけで心がざわついて、何度もトーク画面を開いては閉じて、勝手に傷ついて、勝手に不安になっていたのに。今は、ただ静かだった。たぶん、慣れてしまったのだと思う。裏切られることにも、期待を裏切られることにも。傷つくことに、耐性ができてしまった。「人生って、こんなもんだよね」窓の外に目を向ける。夕方のやわらかな光が部屋に差し込み、何でもない景色が、やけに穏やかに見えた。「恋愛なんて、もういいや」吐き出すように笑う。でもそれは、投げやりな言葉ではなかった。どこか、すっと肩の力が抜けたような、そんな軽さがあった。——私は、ずっと勘違いしていたのかもしれない。中身なんて何も知らないくせに、「好きだよ」なんて言葉。それを信じて、喜んで、期待して。でも結局は、相手の理想に当てはめられて、少しでも違えば、簡単に手放される。都合のいい女。その言葉が、やけにしっくりきた。——でも。ふっと、自分で笑ってしまう。「それ、私もじゃん」相手の顔や優しい言葉に惹かれて、その奥にある本質なんて見ようともせずに。ただ、自分の寂しさを埋めてほしくて。コンプレックスを、誰かに肯定してほしくて。私は、誰かで自分を満たそうとしていた。静かな部屋の中で、ゆっくりと息を吐く。胸の奥にあった何かが、すっとほどけていく。「……もう、やめよ」その一言は、驚くほど自然に出てきた。誰かに満たしてもらうことも、誰かに価値を決められることも。もう、いらない。「私、自分で満たす」小さく呟いたその言葉は、確かに自分の中に響いていた。——私は、私でいい。男がいなくたって、誰かに選ばれなくたって、私はちゃんと、幸せになれる。そう思えた瞬間、胸の奥にあった重たいものが、ふっと消えた。代わりに、じわじわと湧き上がってくるものがある。「……ていうか」口元が、自然とゆるむ。「こんな魅力的な私を捨てたとか、普通に見る目なさすぎじゃない?」思わず、くすっと笑ってしまう。以
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【第五章】懐かしい友人と、心がほどける再会

「紗月!」「ゆりちゃん、久しぶり!」名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がふっとほどけた。思わず駆け寄って、私たちは子どもみたいに手を合わせて、そのまま小さく跳ねる。掌のぬくもりが、懐かしかった。「めちゃめちゃ久しぶり!連絡ありがとう!元気だった?」「うん!」その一言に、いろんな感情が詰まっている気がした。——みおんの騒動以来だ。あのときのざわついた空気や、自分の中で崩れた何かを思い出しかけて、ほんの一瞬だけ胸がきゅっと締めつけられる。「え、3ヶ月ぶりくらいじゃない?」「うん…そうかもしれない」口にしてみると、たったそれだけの時間なのに、もっとずっと遠い過去のように感じた。あの頃の自分と、今の自分は、もう同じ場所にはいない気がする。本当は、ゆりちゃんに会うのも少し怖かった。思い出したくない記憶と、また向き合うことになる気がして。だから、ずっと距離を置いていた。でも——もう、大丈夫だと思えた。吹っ切れた、というよりも、「もうあの痛みに支配されなくてもいい」と思えたから。だから、自分から連絡をした。ゆりちゃんは夜職の出勤前だというのに、わざわざ時間を作ってくれていた。案内されたのは、私たちが好きなベトナム料理のお店。ガラス越しに見える店内は、異国の香りで満ちている。ナンプラーと香草の混ざった匂い。聞き慣れない言葉が飛び交う、少しざわついた空気。周りを見渡すと、日本人は私たちくらいで、ここだけが、別の国のように切り取られているみたいだった。「ねえねえ、このドリンク珍しくない?」「たしかに!」メニューを覗き込みながら、顔を寄せ合う。たわいもない会話なのに、こんなにも心が軽くなるなんて。——ああ、戻ってきたんだ。普通に笑える自分に、少しだけ驚く。料理が運ばれてくる頃には、ぎこちなさはもうどこにもなくて、ただ楽しくて、ただ嬉しくて、言葉が止まらなかった。「紗月…会えて嬉しい。もう会ってくれないかと思った…」ふと、ゆりちゃんが少しだけ声を落とした。「え、なんで?」「いや、私が引き摺り込んじゃったし。それで純粋でいい子な紗月を傷つけるはめに」その言葉に、胸の奥が静かに揺れる。——違うよ。そう言いたくて、すぐに言葉を返した。「いやいや!ゆりちゃんのせいじゃないよ」「うん…本当にごめんね」彼女は目を伏せたま
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【第五章】恋を手放して、私は私になる

話を聞いてみると、ゆりちゃんはあのあと夜職を辞めて、美容系専門学校の受付に転職したらしい。 けれど、その生活は長くは続かなかった。 「1ヶ月もたなかったかなあ」 少し笑いながらそう言う彼女の声は、どこか軽やかだった。そして今は、バニーガールズバーで働いているという。 「バニーの格好して接客するんだ」 そう言って見せてくれたスマホの画面。 そこに映っていたのは、黒の光沢のある衣装に、長い脚を強調する網タイツ。 胸元や太ももが大胆に見える、想像していたよりもずっときわどい格好だった。 思わず、少しだけ息を呑む。 「……え、露出すごいね」 「そうそう!割とね、これが普通なんだよ〜笑」 軽く笑うゆりちゃんの横顔は、どこか楽しそうで、その世界にちゃんと“適応している人”の顔だった。 「結構稼げるの?」 「んー!まあね!」 ストローでグラスをかき混ぜながら、彼女はさらっと続ける。 「この前のバースデーでは、100万以上使ってもらったよ〜」 その言葉の重みと、言い方の軽さのギャップに、思わず心が揺れた。 ——すごい。 素直に、そう思った。 自分の力でお金を稼いで、ちゃんと結果を出している。 それは、どんな形であれ、確かな強さだった。 ゆりちゃんは、出勤ギリギリまで一緒にいてくれた。 「そろそろ行かなきゃ」 そう言って立ち上がると、さっきまでの柔らかい空気が、ふっと切り替わる。 ヒールは10センチ以上あるだろうか。 細い脚をさらに長く見せる、セクシーなミニスカート。 その後ろ姿は、さっきまで向かい合っていた“友達のゆりちゃん”とは少し違って見えた。 改札へ向かって、小走りで駆けていく。 カツ、カツ、とヒールの音が、夜の駅に響く。 人混みに紛れて、その姿が見えなくなった瞬間。 ——ああ、別世界で生きている人なんだ。 ふと、そんな言葉が浮かんだ。 遠いようで、近い。 近いようで、どこか届かない場所。 でも同時に、胸の奥に小さな熱が灯る。 ——すごいな。 あんなふうに、自分の足で立って、自分の場所で戦っている。 その姿は、眩しかった。 「さーて!」 思わず、小さく拳を握る。 「私は今日から、自分の道を突き進むぞー!」 声に出し
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【第五章】私は、ここから変わる

在宅ワークで、シナリオやライターの仕事をずっと続けてきた。パソコン一つあれば完結する日々。誰とも会わなくていいし、人間関係に悩まされることもない。気がつけば、同じ場所で、同じ姿勢で、同じように文章を書き続けていた。楽だった。締切さえ守れば怒られることもないし、ある程度は稼げる。でも——ふと、立ち止まって考えた。「これって、仕事としてちゃんと向き合えてるのかな」画面に映る文字列を見つめながら、胸の奥に小さな違和感が広がる。私は、ただ“こなしている”だけだったんじゃないか。みおんに会っていた頃。あの店に通うために、必死で仕事をしていた。寝る時間を削って、案件を詰め込んで、とにかく「稼ぐこと」だけを考えていた。でも、それは——「いい文章を書こう」とか、「もっと質を上げたい」とか、そんな意識とは、少し違っていた。ただ、目的のために働いていただけ。そこに、“プロ意識”なんてあったのだろうか。……なかった気がする。ぽつりと、心の中で答えが落ちた。「もっと、仕事がんばろっと」声に出してみると、自分でも少しだけ驚くくらい、まっすぐな言葉だった。今までは、家の中だけで完結していた世界。でも、少しだけ、外にも目を向けてみようと思った。人に会って、話を聞いて、自分の足で動く仕事。——取材ライター。久しぶりに、その言葉に心が動いた。勢いのまま応募フォームを開いて、気づけば履歴書を書いていた。真っ白な画面に、自分の経歴を一つずつ打ち込んでいく。これまでやってきたこと。積み上げてきた実績。文字にしてみると、思っていたよりもちゃんと“仕事”をしてきた気もするし、同時に、どこか薄っぺらくも感じた。送信ボタンを押したあと、ほんの少しだけ、心臓が速くなる。——どうしよう。翌日。スマホに一通のメールが届いた。この度は、弊社「Lumière」の募集にご応募いただき、誠にありがとうございます。株式会社Arcfield 代表の相沢と申します。お送りいただいたご経歴を拝見し、ぜひ一度ご面談の機会をいただければと思っております。弊社の取り組みや、取材・執筆の流れ、ライターの活動状況や報酬についてもご説明させていただきます。つきましては、〇月〇日(水)または〇日(木)16時〜18時、もしくは〇日(月)14時〜16時の間でご都合の
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【第五章】一歩踏み出した先で、見えた景色

指定された面接場所は、自宅から少し離れた場所だった。電車を降りた瞬間、知らない街特有の空気が、ふわりと身体を包む。見慣れない駅前。知らない人の流れ。それだけで、心臓が少し早くなる。——大丈夫かな。小さく息を吸って、スマホの地図アプリを開いた。駅から徒歩10分ほど。簡単そうに見える距離なのに、方向音痴の私にとっては、少しだけハードルが高い。曲がる角をひとつ間違えるだけで、一気に知らない場所へ連れていかれるような不安がある。「こっちで合ってるよね…?」何度も画面と周囲を見比べながら、少しぎこちない足取りで歩いていく。住宅街に入ると、人通りがぐっと減った。静かな道。遠くで犬の鳴き声がする。その先に、小さな看板が見えた。——あ、ここだ。建物は、少し古い一軒家のような外観だった。想像していた“会社”とは少し違う、どこかあたたかみのある雰囲気。玄関の前で立ち止まる。心臓が、また少し大きく鳴る。深呼吸をひとつ。胸いっぱいに空気を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。——よし。扉を開けて、一歩中へ入る。「こんにちは…」少しだけ声が小さくなる。その声に反応するように、奥から足音が近づいてきた。「こんにちは」現れたのは、私と同じくらいの年齢に見える女性だった。やわらかい笑顔。どこか安心感のある空気。その一瞬で、張り詰めていた緊張が、少しだけほどける。「面接ですよね?どうぞ」優しく案内されて中へ進むと、奥からもうひとつ、しっかりとした足音が響いた。振り向くと、白髪でガタイのいい男性が現れた。「こんにちは!はるばるありがとう!相沢です」明るく、少し低めの声。その表情は想像していた“社長”のイメージよりもずっと柔らかくて、どこか親しみやすかった。——あ、優しそう。そう思った瞬間、肩に乗っていた見えない重さが、すっと落ちた気がした。通された部屋は、落ち着いた空気のある空間だった。面接と聞いて構えていたけれど、実際は、まるで雑談の延長のような時間だった。これまでのライター歴。どんな仕事をしてきたのか。どうして応募しようと思ったのか。一つひとつ、問いかけられる。でも、それは“試されている”というより、“知ろうとしてくれている”ような質問だった。だから、自然と、言葉が出てくる。「これからライターとして、もっと活
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【第五章】揺れる心と、踏みとどまる私

夜道を、少し弾む足取りで歩いていた。さっきまでの時間が、まだ胸の奥でじんわりと温かい。風は少し強くて、髪が揺れる。でも、不思議と寒くはなかった。——なんか、いい日だったな。そんな余韻に浸りながら歩いていると、ポケットの中でスマホが震えた。突然の着信音に、現実へ引き戻される。画面を見る。「ヒナタ」その名前を見た瞬間、さっきまで軽かった足が、ぴたりと止まった。——今さら、何の用だろう。胸の奥に、小さなざわつきが生まれる。出るか、出ないか。ほんの一瞬、迷った。でも。さっきまでの気分の良さに背中を押されるように、指は自然と通話ボタンを押していた。「もしもし?」少しだけ平静を装った声。「もしも〜し」返ってきたのは、どこかふざけたような軽い声だった。その一言で、胸の奥に小さな苛立ちが走る。——何それ。「んー、なに?」少しだけトーンを落として返す。「冷たいね〜。俺は恋しかったよ?」軽く、笑うように言う。その言葉に、心がほんの少し揺れる。でも同時に、冷静な自分が顔を出す。「そっちが連絡しなくなったんじゃん」「いや、それは嫌われたかなと思って…」「嫌いにはなってないよ?」「それならよかった」そのあと、ふっと会話が途切れた。夜の静けさが、そのまま電話越しにも流れ込んでくる。沈黙。長い。でも、どこか心地よくもあって、そして、少しだけ気まずい。「あのさ、この前はごめんな。反省した」不意に、彼が口を開いた。「何に対して?」「まあ、色々と…。言い方とか」曖昧だけど、ちゃんと“謝ろう”としているのは伝わる。——あ、ちゃんと謝れるんだ。少しだけ、見直してしまう自分がいた。「離れてみて、やっぱ恋しいっていうか…」「そうなんだ」「よく考えたらさ、俺のことちゃんと見てくれてたし」「うん…」その言葉が、静かに胸に落ちてくる。わかってる。こういう言い方をする人だって。こうやって、心の柔らかいところに触れてくる人だって。——危ない。頭では、ちゃんとわかっている。理不尽なことを言っていたのも、私を振り回していたのも、全部。それなのに。少し優しくされるだけで、少し弱さを見せられるだけで、許してしまいそうになる。守ってあげたくなる。——だから、こういう男は危ないんだ。「あのさ、また出かけたりしたい
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【第五章】一気に近づいてくる人

その日を境に、まるでスイッチが入ったかのように、ヒナタからの連絡が増えた。朝、目を覚ました瞬間にスマホを見ると、すでにいくつもの通知が溜まっている。「おはよ」「今日は何するの?」「今何してるの?」画面いっぱいに並ぶ彼の名前。昼間も、夜も。途切れることなく、ぽん、ぽん、と軽いリズムで送られてくるメッセージ。さらに、決まったように夜になると電話がかかってくる。「もしもし?」出ると、どこか甘えたような声で話しかけてくる。その内容のほとんどが、遠回しに、でもはっきりと——“会いたい”そう伝えてきていた。——なんで急にこんなに?スマホを見つめながら、少しだけ眉をひそめる。距離を置いたことで、何か感じたのかもしれない。それは、わかる。でも。だからといって、この急激な変化に、素直に喜べるほど単純でもなかった。むしろ——どこか、警戒している自分がいる。「今何してるの?」また通知が鳴る。その文面は、どこか無邪気で、まるで子犬が尻尾を振りながらこちらを見上げてくるような、そんな軽さがあった。思わず、少しだけ口元が緩む。——かわいい。そう思ってしまう自分も、確かにいる。でも、そのすぐあとに、もう一つのメッセージが届いた。「俺以外の男と関わったら嫉妬しちゃう」画面に表示されたその一文に、心が一瞬だけ引っかかる。——ああ、出た。さっきまでの“可愛さ”とは違う、少しだけ重たい空気。甘さと独占欲が、同じ温度で混ざり合っている。スマホを持つ手を、ほんの少しだけ下ろす。考える。ヒナタくんは、「いつも長続きしない」「振られることが多い」と言っていた。その理由が、なんとなく、わかる気がした。最初はきっと、優しくて、可愛くて、一気に距離を縮めてくる。その勢いに、心が動く。でも——そのまま、同じ熱量でぶつかり続けられたら。受け取る側は、きっと疲れてしまう。振り幅が、大きすぎる。安定した愛情じゃなくて、その時の感情のままに動いているような。まるで、波のように。穏やかなときもあれば、一気に押し寄せてくるときもある。その波に、飲み込まれるのは簡単だ。でも、一度飲まれたら、自分のペースでは泳げなくなる。——危ないな。静かに、そう思った。嫌いじゃない。むしろ、惹かれてしまう部分もある。でも、だからこそ。少し距離を取
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【第五章】チワワのアイコンの正体

ヒナタからの熱すぎる連絡攻撃が続いている最中。その裏側で、もうひとつ、気になる違和感があった。TikTokの足跡。白いチワワのアイコン。名前は「みぃ」。毎日のように、足跡がついている。投稿もしていない、ただ見るだけのアカウントなのに。——なんで?不思議に思いながら、指先でそのアカウントをタップした。画面に表示されたのは、シンプルな一言。「非公開」中身は見えない。でも、なぜか胸の奥がざわつく。知り合い……?いや、でも——その違和感が形になるより先に、スマホが震えた。まるで、こちらの動きを見ていたかのようなタイミングで。通知を開く。メッセージ。「元気?」……ん?一瞬、思考が止まる。誰?「みぃ」って、誰だっけ。頭の中で、記憶をたどる。でも、どこか引っかかる。思い出したくない何かが、奥のほうでじわじわと浮かび上がってくる。嫌な予感がした。その予感をなぞるように、次のメッセージが届く。「お金は少しずつ返していくね」——お金?その一言で、記憶が一気に現実へ引き戻される。貸した相手。お金。裏切り。「……みおん」頭の中に、あの顔が鮮明に浮かんだ。次の瞬間。全身に、ぞわっとした寒気が走る。手が、震える。スマホを持つ指先が、かすかに揺れている。——久しぶりだ。あのときと同じ感覚。胸の奥に、黒いものが一気に押し寄せてくる。呼吸が、少し浅くなる。「私に何したかわかってる?」気づけば、怒りのままに文字を打ち込んでいた。「どうせ返す気なんてないんでしょ」送信。指先が震えている。何のつもりで連絡してきたのか。わかりきっている。——どうせ、また。お金。利用。裏切り。あの人は、いつだってそうだった。期待させて、裏切って。そのたびに、私は失望してきた。「ごめん。絶対に返すから」すぐに返信がくる。軽い。あまりにも軽すぎる。その言葉に、かつての自分の感情が、ぶわっと蘇る。信じて、裏切られて。許して、また裏切られて。その繰り返し。——だめ。これ以上関わったら、また同じになる。体が、拒否している。でも。次の一文で、その空気は一変した。「あのさ、婚約指輪買ったって話、覚えてる?」一瞬、言葉の意味が理解できなかった。「……は?」「それ、本当だから」——嘘でしょ。
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【第五章】“まさか”が現実になった朝

その日の朝は、まだ夜の延長のような静けさの中にあった。——ピーンポーン。突然、部屋の中にインターフォンの音が響く。夢の中にいた意識が、ゆっくりと現実に引き戻される。「……ん?」重たいまぶたを、かすかに開ける。ぼんやりとした視界。身体はまだ眠りの中に沈んでいる。宅配便……?そんなことを考えながら、のろのろと布団から上半身を起こした。部屋の空気はひんやりとしていて、カーテンの隙間から見える外は、まだ暗い。——え?違和感が、ゆっくりと広がる。こんな時間に?枕元に置いていたスマホを手探りで掴み、画面をつける。表示された時刻。3:52「……え?」一気に、眠気が引いた。こんな時間に、誰が?胸の奥がざわつく。昨日の出来事が、頭をよぎる。——まさか。その考えを振り払うように、足早にインターフォンのモニターへと向かう。指先が、少し冷たい。画面をつける。そこに映っていたのは——深く帽子を被り、黒いフードをかぶった男。顔は影に隠れている。でも。わかる。画面越しに、わずかに見える輪郭。立ち方。雰囲気。——あの人だ。「……まさか」喉が、ひゅっと鳴る。呼吸が浅くなる。みおん。間違いない。次の瞬間。——ピンポーン。また、音が鳴る。さっきよりも、少しだけ強く。ピンポーン。ピンポーン。間を置かずに、何度も。まるで、そこに“いる”ことを無理やり知らせようとするみたいに。心臓が、ドクドクと大きく鳴る。耳の奥で、自分の鼓動が響く。——怖い。頭では冷静でいようとしているのに、体が言うことをきかない。幸い、オートロックのマンションだ。簡単には入ってこれない。そうわかっているのに、“ここにいる”という事実が、すべてを不安に変える。足音が、聞こえそうな気がする。ドアの向こうに、気配を感じる。——来ないで。そう思った瞬間、私は反射的に、布団の中へ戻っていた。頭まで、すっぽりと被る。子どもみたいに。でも、それしかできなかった。外の音を遮断するように、耳を塞ぎながら、じっと息をひそめる。ピンポーン。また、鳴る。その音が、やけに遠く感じるのに、同時にすぐそばにあるようにも思える。時間の感覚が、わからなくなる。何分経ったのか。それとも、ほんの数秒なのか。やがて。音が、止んだ。静寂
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【第五章】夜明けを待つあいだに

布団の中で、しばらく身動きが取れなかった。外は静かで、さっきまで鳴り続けていたインターフォンの音が、嘘みたいに消えている。でも——その静けさが、逆に怖い。まだ、外にいるんじゃないか。どこかで、様子を見ているんじゃないか。そんな考えが、頭から離れない。心臓の音だけがやけに大きくて、自分の呼吸さえうるさく感じる。——どうしよう。誰かに、連絡したい。でも、こんな時間に?迷いながらも、震える手でスマホを握りしめる。画面を開く。連絡先の一覧。スクロールする指が、少し震えている。誰に連絡するべきか、頭の中で必死に考える。家族?友達?——違う。今、この状況をちゃんと理解してくれる人。冷静に、判断してくれる人。そのとき、ひとつの名前が浮かんだ。「ルカさん」電話は、たまにかかってくる。「少しだけ話せない?」と連絡が来ることもあるけれど、そのたびに既読をつけるだけで、返さずにいた。少しだけ迷う。だが、今はそれどころではない。深呼吸をひとつして、文字を打つ。「こんな時間にすみません…」打って、消して。もっと簡潔に、伝えなきゃ。震える指で、もう一度打ち直す。「ルカさん、今大丈夫ですか?」送信ボタンを押した瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。既読がつくまでの数秒が、やけに長く感じる。——お願い、見て。祈るような気持ちで画面を見つめていると、既読その二文字が、ぽんっと表示された。すぐに、返信がくる。「どうした?」その一言だけで、少しだけ、呼吸が戻る。「さっき、インターフォンが鳴って…」指が震えて、うまく打てない。何度も打ち直しながら、状況を伝える。「時間が4時前で、モニター見たら…」「みおんが来てました」送信。すぐに、返信が返ってくる。「は?」短いその一文字に、逆に現実味が増す。「今もいるの?」「さっきまで鳴ってて、今は静かです…」「ドア開けてないよな?」「開けてないです」少し間があって、「絶対に開けるな。住所を教えてくれたら、始発でそっちに向かう」その言葉が、強く、まっすぐに届く。「その間にもしまた来たら、すぐ警察を呼べ」「今のうちにチェーンとか確認しとけ」一つひとつの言葉が、落ち着いたトーンで続いていく。その指示に従うように、私はゆっくりと起き上がった。足
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