三度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧 のすべてのチャプター: チャプター 81 - チャプター 90

104 チャプター

第81話

陽子の病室。今日は彼女の人生最大の屈辱の日だった。少し身じろぎするだけで全身に激痛が走り、一人でトイレに行くことすらままならない。「っ……あのいまいましい星歌め……っ」骨という骨が砕けたような痛みで、ベッドの上でまともに動くこともできない。今の陽子の頭の中は、星歌を八つ裂きにしてやりたいという凄まじい憎悪で満ちていた。だが、どうしても腑に落ちないことがある。なぜ、あの高峰啓介がわざわざ星歌の手助けをしたのか?まさか、彼に『あのこと』がバレたから……?そう考えた瞬間、傷だらけの顔が強張る。いや、あり得ないわ。何年もの間、啓介には気づかれておらず、今になって突然露見するわけがない。そう打ち消してみても、彼がなぜあれほど躍起になって星歌を救ってみせたのか、陽子にはどうしても理解できなかった。考えを巡らせていると、不意に病室のドアが開いた。入ってきたのは飛鳥だった。周囲の空気を凍りつかせるような冷気を纏う彼が現れた瞬間、病室の温度が急激に下がったように錯覚する。「飛鳥くん?どうしたの?」予期せぬ訪問に、陽子は目を丸くした。飛鳥と彼の双子の兄・翼は、同じ顔をしていても性格はまるで違った。翼は人当たりが良く、常に温和な空気を漂わせていた。裏でどんな顔を持っていたかはともかくとして。だが、飛鳥は違う。表だろうが裏だろうが関係なく、底知れぬ恐ろしさを平然と剥き出しにする。今も、彼の瞳の奥底に淀む冷酷な光に触れ、陽子は無意識に胸をすくませた。飛鳥は無言でベッド脇の椅子を引き、どっかりと腰を下ろした。そしてポケットからタバコを取り出すと、ゆっくりと火をつける。瞬く間に、病室内に紫煙とタバコの匂いが充満した。目上の人間の病室でタバコなんて、常識を疑うわ……内心では不満が爆発しそうだったが、面と向かって咎めるほど命知らずではない。「……それで、私に何か用かしら?」陽子はわずかに顔をしかめつつ、あえて重々しい口調で尋ねた。自分が『敬うべき目上の存在』であることを、暗に思い出させようとして。飛鳥はゆっくりと二度ほどタバコを吸い込み、紫煙を吐き出した。その煙に巻かれ、陽子はたまらず咳き込む。「ゲホッ、ゴホッ……!」「――柴田悟(しばた さとる)という男、あんたならよく知っているはずだよ
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第82話

腹の底からふつふつと怒りが湧き上がる。だが、飛鳥の狂気を孕んだ眼差しとぶつかった瞬間、その怒りは冷水でも浴びせられたように一瞬で萎縮した。「……飛鳥くん。私たち、何か誤解しているんじゃないかしら?」なるべく穏やかな声を作ってなだめようとする。「誤解だと?てめえは今日、あいつの命を奪おうとした。いつから俺の女に手を出せるほどの身分になったんだ?」「……っ」『陽子さん』ではなく『てめえ』呼ばわりされ、凄まじい威圧感にさらされながらも、陽子は必死にプライドを保とうとした。「私は、何も……!」「そうか?」飛鳥は片眉を吊り上げる。「星歌の言うことを鵜呑みにしないでちょうだい。あの女が何を食べて大出血したのかなんて、誰にもわからないわ。流産だなんて嘘に決まってる。それに、私は夏蓮の母親よ。あなたからすれば、礼儀を尽くすべき相手のはず。それなのにこんな――」ガシャァァァン!!陽子の言葉は、凄まじい破砕音にかき消された。飛鳥が蹴り飛ばしたベッドサイドのキャビネットが派手に倒れ、上に乗っていた物が床一面に散乱したのだ。病室は一瞬にして廃墟のようになった。絶対的な暴力を前に、いつもは他人を見下している陽子の顔から血の気が引く。絶対に人に媚びない彼女が、今は息を呑み、本能的な恐怖に震えていた。飛鳥はゆっくりと立ち上がった。吸い殻を床に投げ捨てて靴の底で踏み躙ると、乱れたスーツのシワを何事もなかったかのように手で払う。『目上の人間に対する礼儀』を盾にしようとした陽子を、飛鳥は虫けらを見るような目で見下ろした。「……何事もなければ、柴田の身に『不測の事態』が起きるだろうな」「やめて!」柴田に危害が及ぶと悟り、陽子は我を忘れて叫んだ。常に女王のように振る舞い、勝利を確信してきた彼女の目に、明らかなパニックの兆候が浮かぶ。表と裏、両方の社会を渡り歩いてきた彼女には、飛鳥の言う『不測の事態』が何を意味するのか、痛いほど理解できた。陽子は本気で怯えていた。だが飛鳥は、そんな彼女を一瞥だにせず、両手をポケットに突っ込んで背を向けたままドアへと向かう。ドアを開けると、ちょうどそこへ都子と夏蓮が駆けつけてきたところだった。荒れ果てた病室の惨状を目にした都子は、血相を変えて怒鳴りつけた。「あんた、また何を
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第83話

都子が病室を出て行った途端、陽子の怒りは頂点に達し、堰を切ったように怒鳴り散らした。体さえ動けば、病室中の物を手当たり次第に破壊していたことだろう。「夏蓮、一体どういうことなの!?この半年間、あなたは飛鳥に対して何をやってきたのよ!なぜあの子は、まだあの小娘に執着しているの!」矛先を向けられ、夏蓮も涙目で反論した。「私は、お母さんの言った通りに全部やってきたわ……!」「……っ」弱り切った娘の声を聞き、陽子もそれ以上は強く出られなかった。いくら苛立っても、たった一人の愛娘だ。歯痒さと怒りが入り混じり、陽子は深い溜息をついて目を閉じた。「……どうやら、あの女を見くびっていたようね。まさか飛鳥が、あそこまで彼女を信じ込んでいるなんて」今日、星歌が飛鳥に何を吹き込んだのかはわからない。だが、先ほどの態度からして、彼が完全に星歌の味方であることは明白だった。この半年、飛鳥と星歌の関係はあれほど冷え切っていたはずなのに。今になって、あそこまで躍起になって星歌を守ろうとするとは誤算だった。「おまけに、高峰啓介まで……」血相を変えて星歌を連れ去り、あの外国人の手下をけしかけた啓介の姿が頭をよぎる。あの外国人……思い出すだけで腹が立つわ。啓介の会社が海外の優秀な人材を多く引き抜いていると知っていた陽子は、自分を半殺しにした相手を完全に啓介の部下だと思い込んでいた。何もかもが計算狂いで、陽子は本気で腹の虫が収まらなかった。ブブブッと携帯のバイブレーションが鳴る。陽子は反射的に手を伸ばそうとしたが、腕はピクリとも動かなかった。「……電話、耳に当ててちょうだい」「あ、うん」夏蓮が慌ててスマホを手に取り、通話ボタンを押して陽子の耳元に当てた。電話の主は、柴田悟の父親である柴田宗大(しばた そうた)だった。「陽子様、大変です。悟の身に……息子に何かあったみたいで!」電話越しに聞こえる宗大のひどく緊迫した声に、陽子は低く息を吐いた。「わかってるわ……飛鳥よ。冴島飛鳥がやったの」「なっ……!?冴島家の次男様が?そ、それなら一体どうすればいいんですか!?」手を出したのが飛鳥だと知った途端、宗大の声から完全に余裕が消し飛んだ。冴島飛鳥の容赦のない冷酷さは、裏社会でも広く知れ渡っている。
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第84話

星歌がわざわざ自身の流産だけでなく、二年前の交通事故の真相までネットに晒し上げ、世間の同情を引くなんて、到底思いつかないことだった。なりふり構わぬその報復手段に、夏蓮は脅威を感じていた。世論と聞いて、陽子の怒りにも再び火がつく。本港市で長年かけて築き上げた『優秀な女経営者』としての立派なイメージが、あの暴露のせいで一瞬にして泥にまみれたのだ。あのクソアマ……今すぐこの手で殺してやりたい!だが、今は手出しできない。柴田悟の命が、飛鳥に握られているからだ。苛立ちと焦りで頭がおかしくなりそうだった陽子は、「もう自分の病室に戻りなさい」と夏蓮を追い払った。それから間もなくして、息を切らして宗大が駆けつけてきた。「よ、陽子様……そのお怪我は……」墨霞邸で暴行を受けたと聞いてはいたが、想像以上の悲惨な姿に、宗大は絶句した。だが、陽子には自身の怪我を気にする余裕などない。「そんなことはどうでもいいわ。すぐに飛鳥に接触して。悟を解放するにはどうすればいいのか、条件を聞き出してちょうだい」「は、はい、承知いたしました」深く首を垂れる宗大を見送りながら、陽子は内心で毒づいた。本来なら冴島家とは強固な親戚関係にあったはずなのに。どうして、たった一日でこんなことになってしまったのか。......星歌の病室。お昼時になると、啓介の家の家政婦が弁当を届けてくれた。それとほぼ同時に、牧野さんも墨霞邸から食事を持ってやってきた。ベッド脇のテーブルに二つの保温容器が並ぶ。「どっちを食べる?」江里子が尋ねると、星歌は鼻で笑った。「冴島家の飯を食うために、この数年どれだけ冷たい目で見られてきたと思ってるの?毒入りの飯を食うほど私には骨がないとでも?」「たしかに、それもそうね」江里子は迷わず啓介からの差し入れを手に取った。この数年、都子はことあるごとに星歌を「冴島家の財産や飯にありつくために飛鳥と結婚した」と罵ってきたのだから、意地でも食べたくないのは当然だ。そんなやり取りをしているところへ、飛鳥が病室に戻ってきた。点滴で右手が使えない星歌の口元へ、江里子が食事を運んでいる。だが、江里子が手にしている保温容器は墨霞邸のものではない。よくよく見れば、啓介のオフィスで見たことのある容器だった。飛
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第85話

今朝の自分の行いを指摘され、飛鳥の強張った表情が微かに緩む。彼はなるべくトゲのないよう、声のトーンを落として言った。「悪かった。生理中だとは知らなかったんだ」生理中に血流を促す薬膳スープなどを過剰摂取してはいけないことくらい、彼も知識としては知っていたのだ。しかし、『生理中』という言葉を聞いた瞬間、星歌の瞳から一切の感情が抜け落ちた。完全に、無へと帰した麻痺したような目。星歌はわかっていた。彼が最初から最後まで、自分の妊娠を信じていなかったことを。だが、こうして面と向かって『生理』という言葉を突きつけられると、どうだろう。生理の出血を流産だと言い張るな、とでも言いたいわけ?気を引くための我儘はいい加減にしろ、と?数秒の虚無の後、星歌はふっと乾いた笑いを漏らした。「……生理中、ね。へえ」生理であれほどの大出血を起こす人間がどこにいるのか。いや、稀にはいるかもしれない。だが、長年連れ添った彼なら、星歌の身体がそんな特異体質ではないことなど、一番よく分かっているはずではないか。彼女の嘲笑混じりの態度に、飛鳥は表情を硬くして言った。「お前を毎月診察していた担当医に確認した。お前は妊娠していなかったと」「……」担当医にまで確認した?なら、なぜ担当医は「妊娠していない」と嘘をついたのか?「それだけじゃない。さっきお前の緊急処置をした医師たちにも、全員に確認したんだぞ!!」そこまで言われて、星歌はすべてを悟った。飛鳥は彼女を診たすべての医者に裏取りをし、その全員が「妊娠の事実はない」と証言したのだ。なるほどね……これ以上、何を言っても無駄だ。本港市における夏蓮の母親・陽子の人脈と財力は、医者を全員買収して真実を隠蔽できるほど、たしかに絶大だったのだから。沈黙した星歌をよそに、飛鳥は彼女の好物をおかずから箸でつまみ、口元へと運んだ。「安心しろ。子どもなら、いずれ俺たちの間にできるさ。な?」優しく宥めるような声だったが、それは完全に逆効果だった。その一言で、星歌の胸の奥底で消えかけていた怒りの炎が爆発的に燃え上がった。「……よくもそんな口が叩けるわね」この期に及んで、まだ私との間に子どもができるなんて幻想を抱いているわけ?星歌の目に映る飛鳥は、もはや滑稽なピエロでしかなかっ
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第86話

「……夏蓮へのネタを、まだどれだけ隠し持っている?」飛鳥が低く唸るように問う。「山ほどあるわよ」星歌は一秒の迷いもなく言い切った。「……っ」飛鳥の頭痛がさらにひどくなった。この三日間、本港市のネット世論は夏蓮と冴島家を袋叩きにしている。もしこれ以上、星歌が隠し玉を投下し続ければ、事態は取り返しがつかなくなる。「そこまで強硬な手段を使ってでも、俺と離婚したいか。……そんなに早く、啓介の元へ行きたいのか?」啓介の名前が出た瞬間、星歌の顔色がさっと変わった。彼女はサイドテーブルにあった水差しをひっ掴むと、ためらいなく飛鳥に向けて全力で投げつけた。水差しは飛鳥の体に当たり、床に転がり落ちて粉々に砕け散る。星歌の凄まじい怒気を前に、飛鳥の顔は一層険しくなった。「あんたの側にいて、今日殺されかけたのは私よ!そこになぜ高峰さんの名前が出るわけ!?あんたに彼を語る資格なんて一ミリもない!」今朝、別邸で起きた惨劇を振り返り、星歌は声を荒らげた。「……朝のことは、必ずお前に納得のいく落とし前をつけると約束したはずだ」「落とし前?じゃあ、夏目陽子の命で払ってくれるの?」「……」飛鳥は息を呑んだ。「あの女が救急車を妨害したせいで、私は死の淵を彷徨ったのよ。私の流儀はね、やられたら『倍返し』なの」星歌は氷のように冷たい目で飛鳥を見据えた。「落とし前をつけてくれるんでしょ?なら、彼女の命で支払ってもらうくらい、当然の要求だわ」落とし前と言うなら、命で清算しろ。星歌の決意には、一片の揺らぎもなかった。病室の空気が、再び凍りついた。息が詰まるほどの一触即発の気配が漂う。星歌が一歩も引かない鋭い視線を飛鳥へ向けると、対する飛鳥は徐々に呼吸を荒くしていった。彼は元来、人に逆らわれて黙っていられるような人間ではない。星歌は、あえて意図的に彼を逆撫でしていた。激怒してドアを蹴り飛ばして出て行くか――星歌がそう予想した矢先、飛鳥は唐突にふっと鼻で笑った。「……?」訝しむ隙も与えず、飛鳥は手を伸ばし、星歌の細く柔らかい髪を撫でてきた。「こんなに優しい子が、どうして殺すの死ぬのなんて物騒なことを言うんだ?本気で旦那を犯罪者に仕立て上げたいのか?それは困るなあ。俺がムショに入ったら、君をかわいが
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第87話

星歌の胸に、冷ややかな感情が広がる。今朝、自分は別邸で陽子に救急車を妨害され、あわや命を落としかけたのだ。それに対する落とし前が、たかが一度の「謝罪」?どれだけふざけた冗談なのか。それとも、飛鳥にとって自分の命は、そんな安い交渉材料に過ぎないというのだろうか。ぐるぐると渦巻く思考の中、飛鳥が電話の相手に何を告げて通話を終えたのか、星歌の耳には入っていなかった。不意に手の甲を大きな掌に包み込まれ、星歌は我に返る。彼女は、かつてないほど凪いだ瞳で飛鳥を見つめ返した。この瞬間、星歌は完全に悟ったのだ。きっと自分は、彼のなかで決して重要な存在ではないのだと。死にかけた妻への代償が、たったひとつの「謝罪」で事足りるのだから。「今の、聞こえたか?」「ええ、聞こえたわ」星歌は淡々と答えた。彼女の手を包む飛鳥の優しさが、今はただひたすらに滑稽だった。ええ、しっかりと聞こえたわよ。私が失いかけた半分の命の代償として、あなたがご立派な「謝罪」を勝ち取ってくれたことが。なんて重みのある謝罪だろう。本当に、ご苦労なことだ――「これで満足か?」「……」よくもまあ、そんな言葉が出てくるものだ。これが彼の言う『落とし前』だというのか。「本港市で、あの陽子が他人に頭を下げたことなんて一度もないんだぞ」「それは光栄ね。随分と立派な落とし前を用意してくれたこと!」陽子が今まで誰にも屈したことがないのだから、私に泣いて感謝しろとでも言いたいのだろう。星歌の口元に、どうしようもない嘲笑が浮かんだ。「……」病室の空気が、再び重く沈み込む。星歌の手を包んでいた飛鳥の掌が離れ、彼は陰鬱な顔で星歌を睨み下ろした。「この数日、君のせいで本港市中が大騒ぎだ。あいつらへの罰としては、もう十分すぎるほどだろう」「……」飛鳥の口調は次第に険しさを増していく。星歌はただ黙って彼を見つめ返した。彼は、自分がここまで大きな騒ぎを起こしたのを、単なる嫌がらせや腹いせだと思っているらしい。飛鳥の瞳には、結婚してから一度も見たことがないほど危険な色が宿っていた。夏蓮が徹底的に追い詰められたことに、彼は本気で腹を立てているのだ。星歌はふっと冷ややかな笑みをもらした。「私に、そろそろ手を引けと言いたいのね?」
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第88話

奪われた財産が手元に戻る――それは実に面白い展開だった。都子がこれまでどれほど執念深く自分をいたぶってきたかを思えば、素直に返すはずなどない。さあ荒れろ。冴島家全体で、もう一度盛大に火花を散らせばいい。「三日以内だ」「キヨ様の名義にされた分も、ちゃんと含まれてるの?」「……」祖母・キヨの名前が出た途端、飛鳥の顔が目に見えて強張った。この数日、都子が星歌の資産をすべて勝手に移転させていた件で、飛鳥は身内相手に激しく怒りをぶちまけていた。都子たちの名義になっている分はどうにでもなる。だが、すでに祖母の懐に入ってしまった分に関しては……痛いところを突かれて無言になった飛鳥に、星歌は追い討ちをかける。「どうしたの?それはもう、私のものではないってこと?」「ばあちゃんに渡った分の額なら、俺が倍にして君に補填する」それが答えだった。母親ならまだしも、さすがの彼も祖母相手に「返せ」とは言えないらしい。星歌は皮肉げに眉を跳ね上げた。「お金の問題じゃないわ。私は『元々私のものだった分』をそのまま返してほしいって言ったら?」「君な……」「何が『私のもの』よ、笑わせないで。どうせ都子さんが形だけ返してくれても、次の瞬間にはキヨ様に没収されるのがオチでしょう?」「……」「だって、一度キヨ様の名義になってしまえば、夫であるあなたでさえ、もう私のために取り返してはくれないんだから」言葉を重ねるほどに、星歌の声には鋭い皮肉が混じっていった。「知ってる?この数年間、あなたが私にプレゼントをくれるたびに、私は反吐が出るくらい気持ち悪かったわ」「……」「夫のくせに何度もプレゼントを贈っておきながら、それが最終的に誰の手に渡るかすら分かっていなかったんだから。冴島飛鳥、あなたは夫として失格なだけじゃなく、男としても本当に意気地なしよ。あなたみたいな人間には、結婚する資格もないし、妻を持つ資格もないわ。なのに、どうして頑なに離婚を拒む権利があると思ってるの?昔の私なら馬鹿みたいに付き合ってあげたかもしれないけれど、まさかこの先も一生、私に地獄のような日々を送れって言うつもり?」『地獄のような日々』――その言葉には、ひときわ強い力が込められていた。冴島家は本港市で一、二を争うほどの大富豪だ。だが、それが何
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第89話

飛鳥は複雑な面持ちで星歌を見つめる。口を開きかけては躊躇うその様子は、星歌の要求のすべてに身動きが取れなくなっている証拠だった。星歌は黙って彼を眺めるだけだ。結局、沈黙に耐えきれず飛鳥の方から切り出した。「じゃあ、夏蓮さんの件だが――」「夏蓮の母親のせいで、私は今日、命を落としかけたんだけど」「……」その事実を突きつけられ、飛鳥の喉まで出かかっていた『しばらく夏蓮さんを痛めつけるのはやめてくれ』という言葉は完膚なきまでに封じられた。しかしそれでも、彼は未練がましく弁解した。「あいつと母親は別人だろう」母親の罪を夏蓮にまで被せるな、と言いたいのだ。星歌は氷のように冷え切った眼差しで彼を見た。この男にこれ以上何を言っても無駄だ。「一日よ」「何?」「明日の朝までに、あいつらに奪われたものをすべて私の手元に取り返してこられたら、一時的に夏蓮を見逃してあげるわ。どう?」明日の朝まで……無理難題に飛鳥は顔をしかめた。「ばあちゃんの分は、そんなにすぐには無理だ」「それなら、交渉決裂ね」星歌は冷酷に言い捨てた。「……」星歌の言葉に、飛鳥は再び息を詰まらせた。「どうしてもそうやって突っぱねるのか?」彼にもようやく分かってきた。星歌は最初から、夏蓮を見逃す気など毛頭ないのだ。祖母のキヨがどれほど強欲で厄介な人間か、星歌だってよく分かっているはずだ。一度祖母の懐に入ったものを吐き出させるのが、どれほど骨の折れることか。「あなたに、私と条件を交渉する資格なんてないのよ」「……」ただでさえ息苦しさを感じていた飛鳥は、その一言でさらに呼吸を乱した。『交渉する資格はない』――それは今まで、彼が他人を見下して言い放ってきた決まり文句だった。それが今では、星歌にそっくりそのまま使われ、脅されている。だが事実、今の彼は星歌に対して打つ手がなかった。飛鳥は仕方なく手を伸ばし、彼女を宥めるように髪を撫でようとしたが、星歌はその手を冷たく避けた。いかなる妥協も許さないという、確固たる拒絶の態度だった。飛鳥はついに深い溜め息を吐いた。「わかった。すべて取り返してくる」「忘れないでね、明日の夜明け前までよ」「……」「天下の冴島飛鳥なんだから、『スタッフが営業時間外だから
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第90話

だからこそ、星歌の言葉に疑念を抱く。「しかし、奴らが大人しく返すとは思えませんが」冴島家といえば、本港市でも指折りの大富豪だ。それなのに、都子や亜季といった身内ときたら、星歌が冴島家の財産から少しでも甘い汁を吸うのではないかと警戒し、飛鳥が贈ったダイヤモンドのネックレスすら強引に取り上げる有様だった。名家の皮を被った、ただの強欲で陰湿な集団である。「ええ、もちろん素直に返すはずがないわ」「では、どうして……?」「別に、本気で返してほしいわけじゃないもの」飛鳥の提案を聞いた瞬間から、星歌は欠片も本気にしていない。途中で態度を変え、わざわざキヨが奪った分を強調して要求したのは、ひとえに冴島家をさらなる大混乱に陥れるためだ。「!!!」本気ではない?「飛鳥の祖母が一番厄介な人間なのよ。彼女は絶対に、都子以上に激しく喚き散らすわ」「……」なるほど。グロは完全に理解した。星歌は、飛鳥に資産を取り返してほしいわけではない。飛鳥にその件を切り出させることで、冴島家全体に特大の爆弾を投下し、一家の平穏を木端微塵に吹き飛ばすことこそが目的なのだ。グロは少し考えてから、再び尋ねた。「では、夏蓮の一件はどうされますか?」飛鳥の提案に乗るふりをしたことで、星歌の意識が夏蓮から逸れたのではないかと案じたからだ。夏蓮の名前が出ると、星歌は冷ややかに笑った。「明日の計画は予定通りよ」飛鳥があの資産を取り戻せるはずがないと、星歌は賭けていた。いや、仮に取り戻せたとしても関係ない。夏蓮への復讐の手を緩めるつもりなど、微塵もなかった。グロは恭しく頷いた。「承知いたしました」「楽しみにしていて。今日はまだまだ面白い見せ場がたくさんあるから」夏蓮と陽子が同時に狂乱する様。そして、冴島家が再び大爆発を起こす様を、特等席で見物してやるのだ。......一方、同じ病院の別の病室。亜季の顔の傷のガーゼを交換する際、頬骨に走る大きな裂傷を目の当たりにした都子は、怒りで血が沸騰する思いだった。亜季がスマートフォンを鏡代わりに自分の顔を見ようとしたのを、都子は慌てて遮った。「見ない方がいいわ」しかし、遅かった。画面に映る自分の顔を見た亜季の口から、悲鳴が上がる。「キャアアアッ――
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