All Chapters of 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~: Chapter 141 - Chapter 150

157 Chapters

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(結局のところ……) 琴葉は思う。(伊吹に必要だったのは、自立のきっかけだったのかも。世良家で過酷な体験をしたけれど、心根は『琴葉お姉ちゃん』に依存したままだった。大人になりきれずに24歳まで来てしまったんだ) 依存から抜け出した伊吹は、とても頼もしい。(再会した時からこの状態だったら、私も惚れていたかも。……なんてね) 琴葉はコーヒーを飲み干し、再びモニターへと向き直った。「さあ、時間よ。中継のモニタリングを開始して」「はい。メインストリームの映像を第1モニターに回します」 伊吹の操作により、中央の巨大なモニターに、都内の高級ホテルの大ホールが映し出された。 ◇  画面の中は、眩いばかりの光と熱気に包まれていた。 天井に輝くのは、クリスタルのシャンデリア。 数百人のメディア関係者、投資家、そして各国のIT企業の重鎮たちが広いホールを埋め尽くしている。 カメラのフラッシュが絶え間なく瞬き、会場のざわめきがスピーカー越しにも伝わってくる。 ステージの中央には、巨大な防音ガラスで仕切られた特設ルームが設けられていた。 その中に鎮座しているのは、流線型の銀色に輝く巨大な筐体だ。 琴葉が峻嗣の地下ラボで設計し、構造共振の罠を密かに仕込んだ、あの『完璧なAI』である。 人々はその威圧感のある筐体に目を向けて、熱心に感想を語り合っている。「あれが今日の目玉か」「すごい。見るからに近未来という感じ」「でも世良グループは、以前新素材のお披露目に失敗してるのに。大丈夫か?」「自信があるんでしょ。さすがに二度の失敗はしないはず」 そのような声が聞こえてくる。 やがて、会場の照明が一段落とされた。 ステージにピンスポットが当たり、世良グループ総帥・世良宗佑が重厚な足取りで登壇する。「本日は、我が世良グループ
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 ふと視線を感じて横を見ると、伊吹と目が合った。 大丈夫、と頷いてみせる。 怒りは感じるけれど、その怒りはこの先の作業に全て向けるべきもの。「人間の不確実な介入、感情の揺らぎ、非合理的な遊び。そういったヒューマンエラーこそが、真の進化を阻んできた。私は、そのすべてのノイズを完全に排除しました。ここに披露するのは、不完全な人間を超越した、究極の知性です」(聞いて呆れるわ。あんたが排除した『ノイズ』が何なのか、まったく分かっていないくせに) 琴葉の指先に力がこもる。握っているマウスがきしむ音を立てた。 現場の職人たちが流す汗も、金属のわずかな歪みを感じ取る指先の感覚も、こいつにとってはただの無駄でしかない。 人間を部品以下にしか見ていない峻嗣の言葉が、琴葉の技術者としての矜持を土足で踏みにじっていく。 もう一度、琴葉は隣の伊吹を見た。 伊吹は画面の中の叔父を、無表情で見つめている。 かつて一族からバグと呼ばれ、不要な感情を持つ欠陥品として切り捨てられた彼にとって、峻嗣の言葉は呪いそのもののはずだ。「……ねえ、伊吹」 琴葉は視線をモニターに向けたまま、低い声で尋ねた。「今の言葉を聞いて平気なの? あなたを完全に否定してるわよ」 伊吹はキーボードに置いた手を動かさず、静かに答えた。「ええ、平気です」 その声には強がりも、無理に感情を抑え込むような気配もなかった。 凪いだ海のように、どこまでも落ち着いて澄み切っている。「以前の僕なら、あの言葉に絶望し、自分を責めていたでしょう。ですが今は違います。彼らの論理には血が通っていない。それは虚しいことだ。彼らの言葉には、もう何の価値も感じていません」 伊吹はわずかに顔を向けて、琴葉を見た。「彼らは人間を切り捨てたことで、最も大切なものを見落としました。その傲慢さの代償を、これから支払うことになる。……僕はただ、その瞬間をこの目で見届けるだけです」 伊吹の瞳の奥には、
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「すごい……これが世良グループの作り上げたAIか」 会場からは感嘆のどよめきが上がっている。 これほどの圧倒的な処理速度を叩き出しながら、熱暴走の兆候を一切見せない完璧な排熱システム。 峻嗣は得意げに胸を張り、メディアのカメラに向かって微笑みかけていた。 だが、琴葉の見ているデータは違った。「来ているわね……」 琴葉の呟きに、伊吹が身を乗り出す。 モニターの隅に表示された、筐体深部の振動計のグラフを見る。 そこには、微小ながらも確実な波形の乱れが発生し始めていた。 極限まで密着し、メンテナンス用の隙間すら削ぎ落とされたパーツの間で、目に見えない微振動が生まれ始める。 互いにぶつかり合ってエネルギーを蓄積していた。 遊びがないために振動は逃げ場を失い、金属の内部で増幅を繰り返す。 これが構造共振の初期衝動だ。(もっと踏み込みなさい、峻嗣。自分の完璧さを世界に誇示するために、最後までアクセルを踏み抜け) 琴葉の心臓が、ドクドクと早鐘を打つように激しく脈打つ。 手のひらにじんわりと汗がにじむのを感じながら、マウスを握りしめた。『稼働率80パーセント』『稼働率90パーセント。処理速度、理論値の95パーセントに到達』 会場の熱気は最高潮に達している。 投資家たちは身を乗り出して、フラッシュの光がホワイトアウトするほどに瞬く。 宗佑もまた、満足げに頷きながら拍手を送る準備をしていた。 誰もがこのパフォーマンスの成功を疑っていない。「準備はいいわね、伊吹」「いつでもいけます」 伊吹はキーボードのエンターキーに人差し指を乗せて、琴葉の合図を待っている。 彼がこのキーを叩けば、あらかじめ仕込んでおいた映像ジャックのプログラムが発動する。会場のメインスクリーンと世界配信の映像をすべて乗っ取ることができるのだ。『稼働率95パーセント』
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143:崩壊

 画面の中の世良峻嗣が、勝利を確信した笑みを浮かべて手元のタブレットに指を振り下ろした。 最終実行ボタンが押された瞬間、会場の巨大スクリーンに表示されていた稼働率の数値が、95パーセントから跳ね上がる。「さあ、見せてみろ。不完全な人間を超越した、真の最高パフォーマンスを!」 マイクを通した峻嗣の誇らしげな声が、高級ホテルの大ホールに響き渡った。 ウィークリーマンションの一室で、琴葉は手元のサブモニターに食い入るように視線を送っていた。「稼働率98、99……100パーセント。臨界点です」 伊吹が隣で、極めて冷静な声で数値を読み上げる。 ズズズ……。 画面越しの会場に、空気を震わせるような重低音が響いた。ガラス張りの防音室の中で、数千台の冷却ファンが最大回転数に達したのだ。 その凄まじい轟音は、マイクのノイズキャンセルを貫通し、琴葉たちのいる部屋までビリビリと伝わってくるようだった。 琴葉の目の前にある別端末のグラフが、急激に赤い波形を描き始めた。「内部の振動係数、跳ね上がっているわ。私が仕込んだ周波数と完全に一致した」 琴葉は思わず笑みを漏らす。狙い通りの展開だ。「構造共振ですね。このままいけば、あと数十秒で筐体そのものが耐えきれなくなります」 伊吹はタイピングの手を休めずに応じた。 画面にはホテルのネットワーク構成図が展開されている。彼はいつでも裏回線を開けるようスタンバイしている。「ええ。峻嗣は冷却効率のことしか頭になかった。熱を逃がすためにファンを全開にすれば、その分だけ強烈な物理的振動が発生する。それを逃がすための『遊び』を、あいつは自ら削ぎ落としたのよ」 そして内部に空洞がなければ、人の手で速やかに修理を施すこともできない。 琴葉は画面の中の峻嗣を、冷ややかに見据えた。 現場の技術者がなぜ部品の間に隙間を空けるのか。 作業スペースの確保は当然のこと。金属が熱で膨張して振動で共鳴した際に、そのエネルギーを外へ
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「さあ、始まるわよ」 琴葉の言葉と同時だった。 中継映像の中央、ガラス張りの防音室に鎮座する銀色のAI筐体が、不自然な高周波を発し始めた。 キィィィィンという、耳をつんざくような金属の軋み音だ。 会場の最前列に座っていた投資家たちが、不審そうに顔を見合わせる。 壇上の峻嗣も、わずかに眉をひそめて背後のガラス室を振り返った。「何だ、この音は……?」 峻嗣のつぶやきがマイクに拾われる。 その直後、逃げ場を失った振動エネルギーが、筐体の内側で限界を超えた。 ――バァン! 乾いた破裂音が会場に響き渡った。 防音ガラスの向こう側で、銀色の美しい筐体の継ぎ目から、白煙が勢いよく噴き出したのだ。「なっ……!?」 峻嗣が目を剥いて一歩後ずさる。 事態はそれだけでは終わらなかった。 密着しすぎた基板とハンダが互いの振動で粉砕され、繊細な量子チップが次々とショートしていく。 バチバチッ! バチィッ! 連続するショートが青白い火花を散らし、ガラス室の中は一瞬にして煙と閃光に包まれた。 先ほどまで稼働率100パーセントを誇示していた巨大スクリーンの数字が、一気にゼロへと急降下する。 エラーを知らせる真っ赤な警告画面が、会場全体を毒々しく照らし出した。「嘘だ……ありえない! 俺の計算は完璧だったはずだ!」 峻嗣は手元のタブレットを乱暴に操作するが、もはや何の反応もない。 彼の顔から血の気が引き、土気色へと変わっていく。 端正な顔立ちは驚愕と焦燥で歪み、額には脂汗が浮かんでいた。 メディアのカメラは容赦なく、狼狽する次期総帥の姿を世界中へ配信し続けている。「計算は完璧でも、物理を舐めた結果よ。あんたが切り捨てたのは『ヒューマンエラー』じゃなく、あんた自身の『設計エラー』だわ」 琴葉はモニターを見つめながら、冷酷なまでに淡々と事実を口にし
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「やはり隠蔽フェーズに入りました。物理電源を落としてシステムをリセットし、外部からのアクセスを遮断。会場のメディアには『ホテル側の配電設備の問題だ』とでも説明して、何事もなかったかのように見せかけるつもりでしょう」「本当に、どいつもこいつも都合の悪いことは隠せばいいと思ってるのね」 琴葉は鼻で笑った。 世良一族の危機管理能力の高さは認める。 だが、彼らが隠そうとするのはいつも自分たちの傲慢さのツケだ。 現場の責任に転嫁するか、あるいは今回のように機材トラブルのせいにして、自分たちは安全圏に居座り続けようとする。「残念だけど、今回はそうはいかないわよ」 ◇  窓が風に微かに鳴った。カタカタ、と小さな音がする。 春が間近に迫った冬の終わりの冷たい風が、わずかに開けた窓の隙間から部屋に吹き込んでいる。 長く暗い潜伏生活にも、終わりを告げる時が来たのだ。「ミャア」 足元から甘えたような鳴き声がして、茶色と白の子猫が琴葉の服の裾にすり寄ってきた。 琴葉はモニターから一瞬だけ視線を外し、手を伸ばして猫の柔らかな背中を撫でた。 温かい毛並みの感触が、極限まで高ぶっていた神経をすっと落ち着かせてくれる。「少し待ってなさい。すぐに終わらせるから」 猫は喉をゴロゴロと鳴らし、琴葉の手のひらに頭を擦り付けた。 琴葉は姿勢を正し、再びキーボードに両手を乗せた。「逃がさないわよ。現場の人間を見下し、部品以下に扱った代償……きっちり払ってもらうわ」 琴葉の猫に似た瞳に、鋭い光が宿る。 隣に座る伊吹へと視線を巡らせた。 伊吹もまた、キーボードの上に指を置き、琴葉の合図を待っていた。 彼の表情には、かつての迷いや依存の気配は微塵もない。 ただ真っ直ぐに、共に戦うパートナーとしての信頼だけがそこにあった。「ここからは、私たちのターンよ。伊吹、裏回線のセキュリティゲートを
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146:構造共振

 ウィークリーマンションの一室で、琴葉の叩いたエンターキーの音が響いた。  キーを叩き込んだ右の指先に、硬い感触が残っている。 琴葉のノートパソコンの画面で、緑色の進捗バーが一瞬で右端まで到達した。「メインシステム、侵入成功。ホテルの出力系統を完全に掌握したわ」「バックドアの通信帯域、最大に拡張。映像データの転送ルートを確保しました」 隣に座る伊吹の指先が、流れるような手つきでキーボードの上を舞う。彼の表情に焦りはない。  ただ冷静な実務家の顔で、彼自身の血族を破滅させるための計画を進めている。 中央のモニターには、AI披露会の中継映像が映し出されている。  そこには、世良グループが用意した白々しい静止画テロップが映っていた。『軽微な電源トラブルにより、デモンストレーションを一時中断しております。しばらくお待ちください』(軽微な電源トラブルですって。よくもまあ、そんな見え透いた嘘がつけるものね) 琴葉は鼻で笑い、マウスをクリックした。「それじゃあ、世界中の皆様に『真実』を教えてあげましょうか」 琴葉が実行コマンドを送信した瞬間、中継映像の静止画が激しいノイズと共に弾け飛んだ。 会場のメインスクリーン。さらには、世界中に配信されているネットワークの公式映像。  それらが一斉に、琴葉が構築した告発映像へと切り替わった。 黒い背景に、赤と白の鮮明なグラフが浮かび上がる。  先ほどまで稼働していたAI筐体の、内部温度と振動係数のログデータだ。  数値が異常なカーブを描いて跳ね上がっていく様子が、誰の目にも明らかな形で可視化されている。 続いて画面に大写しになったのは、筐体の内部構造を示す3Dの設計図だった。  冷却ファンと基板の隙間を示す寸法データが、赤い文字で点滅する。『クリアランス(隙間):0.0ミリ』『メンテナンススペース:ゼロ』『熱膨張および振動に対する遊び:存在せず』 その設計図の上に、決定的な結論が大きなテロップで表示さ
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 スタッフたちが慌ててコンソールを操作するが、琴葉のプログラムがシステムを完全にロックしている。彼らの操作はすべて弾かれていた。「できません! 管理者権限が奪われています!」「無能め、どけ!」 峻嗣は自らコンソールへと駆け寄り、スタッフを乱暴に突き飛ばした。 キーボードを滅茶苦茶に叩くが、画面は冷酷な告発データを映し出し続けている。 彼の額から大粒の脂汗が吹き出し、イタリア製の高級スーツの襟元を濡らした。呼吸が浅く、速くなっている。 ネクタイを乱暴に引き結び、酸素を求めるように口をパクパクと動かした。「切れないなら、物理的に電源を抜け! ケーブルを引っこ抜け!」 スタッフが動けないのを見て、峻嗣は自ら配電盤の方へと走った。 しかし焦りに駆られた彼の足元が、ステージ上のケーブルに引っかかる。 革靴の底が滑り、峻嗣は無様にもステージの床に前のめりに倒れ込んだ。 顔面を強く打ちつけ、鼻血がにじむ。 それでも彼は立ち上がろうともせず、床に這いつくばったまま、近くにあった太い電源ケーブルを両手で掴んだ。「消えろ……! 私の完璧な芸術を、知性を、汚すな!」 血管が切れそうなほどの形相で、ケーブルを力任せに引きちぎろうとする。 その見苦しく、狂気に満ちた姿は、会場に設置された複数のカメラによって、余すところなく全世界へと生配信されていた。 ◇ 「……滑稽ね」 琴葉はウィークリーマンションのモニター越しに、その一部始終を冷めた目で見下ろしていた。 物理法則を無視し、現場の技術者を部品以下と見下した男。 人間の介入という「遊び」を無駄だと切り捨てた結果、彼自身が遊びのない袋小路に追い詰められ、こうして這いつくばっている。「あのケーブルを抜いたところで、すでにデータは全世界のサーバーへ拡散済みよ。今さら物理回線を切ったって、何の隠蔽にもならないわ」「ええ。
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「……終わったわ」 琴葉は両手で顔を覆い、深い息を吐き出した。 数ヶ月に及んだ逃亡生活と、巨大企業を相手にした孤独な情報戦。 そのすべてがたった今、終わりを告げたのだ。 張り詰めていた神経の糸が緩み、全身からどっと力が抜けていく感覚がある。「ミャーウ」 静寂を破るように、足元から高い鳴き声がした。 茶色と白の縞模様の子猫が、琴葉の服の裾に爪を立ててよじ登ろうとしている。「ちょっと、痛い痛い。爪を切るのをサボってたわね」 琴葉が手を伸ばして抱き上げると、猫は鼻先を琴葉の顎に擦り付けてきた。「にゃお~」「ご飯の催促ですね。いつもより少し遅くなってしまいましたから」 伊吹が立ち上がり、部屋の隅にあるキャットフードの袋へと向かう。 電子スケールで正確にグラム数を量り、フード用の皿に音を立てて移し替えた。「ほら、おいで」 伊吹が皿を床に置くと、猫は琴葉の腕から勢いよく飛び降りて、カリカリと音を立ててドライフードを食べ始めた。 子猫の表情は幸せそうだ。 日常の、ごくありふれた光景。 数分前まで世界経済を揺るがすハッキングを行っていた部屋とは思えない、温かい生活の匂いがそこにあった。 琴葉は立ち上がり、窓際へと歩み寄った。 少しだけ開いた窓の隙間から、冷たい冬の風が入り込んでくる。だが、その風には微かに、春の土の匂いが混じっている気がした。 遠くの空は、すでに茜色に染まり始めている。 無数に立ち並ぶビル群のシルエットが、夕暮れの光の中で黒く浮かび上がっていた。「綺麗な夕焼けですね」 いつの間にか、伊吹が隣に立っていた。 彼もまた、窓の外の景色を見つめている。「そうね」 琴葉は短く応じた。 巨大な復讐が終わったことへの確かな手応えを感じる。 同時に、胸の奥にぽっかりと小さな穴が空いたような、奇妙な喪失感があった。 このウ
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149:復讐の波紋

 ウィークリーマンションでの琴葉と伊吹の日常は、終りが近づいている。 部屋に夕日が差し込む中、テレビのスピーカーからは、緊迫感を煽るようなアナウンサーの声が流れていた。『――世良グループの株価は本日もストップ安で取引を終えました。次世代AIのデモンストレーションにおける致命的な筐体崩壊、ならびに隠蔽工作の露呈により、市場の信頼は完全に失墜。世良宗佑CEOは釈明に追われていますが、事態は沈静化していません。世良峻嗣専務は現在、一切の表舞台から姿を消しており、経営陣の責任を問う声が……』 琴葉がリモコンの電源ボタンを押すと、画面は真っ黒に暗転した。  ニュースの音声が消えれば、ウィークリーマンションの一室には、窓の外を走る車の走行音だけが残る。 琴葉はローテーブルの上に置かれた、ボストンバッグのジッパーを引いた。  中に入っているのは、数着の着替えと洗面用具。そして何よりも重要な、特殊合金の膨大なテストデータが保存されたドライブだけだ。ドライブは暗号化を施し、セキュリティを高めている。  これさえあれば、琴葉は技術者としてどこでも戦える。 逃亡生活を支えたその他の日用品は、ほとんどこの部屋に置いていくことにした。  家具類はそもそも備え付け。食料などの消耗品を処分すれば、後は何も残らない。「荷物はそれだけですか?」 キッチンでマグカップを洗っていた伊吹が、蛇口の水を止めて振り返った。  洗いたてのタオルで手を拭く動作には、かつての神経質なほどの潔癖さはない。生活の中に馴染んだ、自然な所作だ。「ええ。元々大した荷物なんて持ってきていないし。明日、ここを出て実家の工場に――土井精機へ戻るわ」 琴葉はボストンバッグをソファの端に寄せ、立ち上がった。「世良からの仕事は、当分すべてストップするでしょうね。親会社があの惨状じゃ、決済も部品の発注も完全に凍結されるはずよ」 伊吹が眉を寄せて、わずかに視線を落とす。「土井精機の資金繰りは大丈夫なんですか。僕が結んだ専属契約のせいで、他の取引先へのパイプは細くなっているはずです」
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