All Chapters of 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~: Chapter 151 - Chapter 156

156 Chapters

150

「いずれ、専属契約の正式解除をしましょう。琴葉さんにも僕にも、もう必要のないものですから」「ええ、頼むわ。伊吹も、これからは自分の足で立ちなさい。世良の看板がなくなったって、あなたの頭脳と計算能力があれば、どこへ行っても生きていけるわよ」 はなむけのつもりで放った琴葉の言葉に、伊吹は深く頭を下げた。「はい。琴葉さんには、感謝してもしきれません。僕に欠けていた多くのものを、あなたが教えてくれました」 彼の声は澄み切っていた。  そこには、琴葉との別れを惜しんですがり付こうとする気配は1つもない。「みゃー」 足元で鳴き声がした。  茶色と白の縞模様の猫が、ボストンバッグのナイロン生地に爪を立てて遊ぼうとしている。「こら、それに傷をつけたら許さないわよ」 琴葉がバッグを取り上げると、猫はターゲットを失い、きょとんとした顔をする。  今度は伊吹の足首へとすり寄っていった。伊吹はしゃがみ込み、猫の顎の下を指先で撫でる。 琴葉はその様子を横目で見ながら、再びテレビの電源を入れた。  ちょうど、経済ニュースの特集コーナーが始まるところだった。『世良グループの機能不全は、早くも下請け企業に深刻な影響を及ぼしています。部品供給を世良に一本化していた多くの町工場では、発注の突然のキャンセルにより、今月末の不渡りが確実視される事態に……』『現場から中継です』 画面が切り替わり、シャッターが下ろされた古びた工場の映像が映し出された。「世良さんからの入金がないと、従業員に給料も払えないんです。急にハシゴを外されても……」 と、作業着姿の初老の男性がマイクに向かって悲痛な顔で訴えかけている。  工場の様子は冷え切っており、全ての稼働が止まってしまっていると見て取れた。 土井精機は、琴葉の高い技術と最新設備があるから生き残れる。  しかし世良という巨大なシステムにただ組み込まれ、言われた通りの単純な部品を作り続けるしかできない末端の工場は違う。  独自の武器を持たない彼ら
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151

 この数ヶ月の逃亡生活が、改めて琴葉の脳裏に蘇った。 スーパーの特売品で数円の差額を計算し、卵の破れたオムライスを作り、名無しの猫に餌を与えた日々。 これまでの伊吹は世良家で、血で血を洗う闘争に身を置いていた。 結果、効率と合理性を重んじ他人を切り捨てる冷酷さばかりが強調されてしまった。 良心を見失い、『琴葉お姉ちゃん』に依存することだけで辛うじて正気を保っていた。 けれども彼はこの狭いマンションでの生活で、予測不可能で決して効率的ではない「日常の手触り」を知った。 画面の向こうにいるのは、単なる数字やコストではない。 自分たちと同じようにその日を生き、家族を養い、温かい食事を食べる生活がある「人間」なのだと、今の彼は理解している。 そして何より、彼らをその絶望の淵へ突き落とした直接の原因は、他でもない自分たちの復讐だ。 琴葉が主導したとはいえ、伊吹も自分の意志で手を貸した。 何より彼は、世良の血筋からの独立を決意した。その結果を目の当たりにしている。 ニュースが次の話題へ移り画面が切り替わっても、伊吹は動かなかった。 張り詰めた背中のラインから、彼が何か途方もなく重いものを咀嚼し、飲み込もうとしているのが伝わってくる。 やがて、伊吹はゆっくりと窓の方へ歩み寄った。 窓の外には、夕闇が迫る東京の空が広がっている。 無数のビル群の向こうに、世良グループの本社タワーが黒々としたシルエットを描いてそびえ立っているのがわずかに見えた。 伊吹の視線は、その巨塔の頂上を真っ直ぐに射抜いていた。 トン、と子猫が窓枠に飛び乗る。「にゃあ?」 外を見据える伊吹の姿を、猫は不思議そうに見上げた。「……心配してくれるのかい? お前は優しい子だね」 伊吹は少しだけ笑うと、子猫の頭を軽く撫でる。 彼が雨の日に救った、小さくて温かな命を。 琴葉は背後からその姿を観察し、予感めいたものを感じた。(あんたはこれから
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152:玉座への帰還

「僕は、世良グループに戻ります」 伊吹の声が、ウィークリーマンションの一室に響いた。 琴葉は一瞬、自分の耳を疑った。「……正気? 今あそこに戻るってことは、泥沼の権力闘争に自ら身を投じるってことよ」「ええ。理解しています」 伊吹は窓辺から離れて、琴葉の正面に立った。 照明を背にした彼の表情は、険しくも澄み切っている。「父と叔父が――いいえ、代々の世良一族が搾取のシステムを構築しました。それによって、今、末端の人間たちが次々と倒れようとしている。僕たちの復讐が、その引き金を引いたんです。このまま見過ごすことはできません」 伊吹は言葉を区切り、まっすぐに琴葉の目を見据えた。「内部から彼らの責任を追及し、僕がトップに立ちます。巨大な組織を解体し、現場の人間を守るための再建を行う。それが、僕の取るべき責任です」 琴葉は伊吹の瞳を観察した。 そこに逃亡者の弱々しさはなく、かつて琴葉の背中に隠れようとしていた依存心もない。 途方もなく重い責任を、1人で背負う覚悟を決めた男の顔があった。 ――止める理由は、どこにもなかった。「……勝算はあるのね」「もちろんです。世良の内部データと資金の流れは、すべて僕の頭の中に入っていますから」 伊吹は迷いなく答えると、自分の荷物をまとめ始めた。 ボストンバッグに最低限の衣類と、分厚い情報が詰まったタブレット端末を押し込む。「ミャア」 足元で鳴き声がした。 茶色と白の縞模様の子猫が、伊吹の足首にまとわりついている。 伊吹の出立ちが普段と違うことを察知しているのか、しっぽをパタパタと不安げに揺らしていた。 伊吹はしゃがみ込み、猫の首筋を撫でる。 猫は気持ちよさそうに目を細め、伊吹の手のひらに鼻先を擦り付けた。「琴葉さん。図々しいお願いですが、この子をしばらく預かってもらえませんか」 伊吹が顔を上げる。「これから
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 琴葉は足元にすり寄ってきた猫に手を伸ばし、ひょいと抱き上げる。「さあ、私たちも行くわよ。次の準備をしなきゃね」「にゃん」 相槌を打つように子猫が鳴いたので、琴葉は思わず笑みを浮かべた。 ◇  翌朝。  冬の終わりの冷たい空気が、肌の上を流れていく。冷たくも春の気配を孕んだ空気だった。 琴葉はボストンバッグを肩にかけて、右手でプラスチック製のキャリーケースを提げていた。  ケースの中では、縞模様の猫が不思議そうに外の景色を眺めている。  ずっと家飼いだった子猫なので、外に出るのはほとんど初めて。少し落ち着かない様子だったので、琴葉はキャリーケースをぽんぽんと叩いて落ち着かせてやった。 目の前には、見慣れた『土井精機』の看板が掲げられた工場のシャッターがある。  小さなくぐり戸を開けて中に入ると、機械油と金属の削りカスが混ざり合った、ひどく懐かしい匂いが肺を満たした。「琴葉お嬢!?」 作業着姿の工場長が、プレス機の奥から目を丸くして駆け寄ってきた。  白髪交じりのベテラン職人である彼は、手にしたウエスを落としそうになっている。他の職人たちも、驚きの表情で作業の手を止めた。「どうしてここに……いや、世良グループのニュースは見たよ。大変なことになってるじゃないか。うちはこれからどうなるんだ」 工場長の焦燥に満ちた声をさえぎるように、琴葉はキャリーケースを床に置き、ボストンバッグを下ろした。  周囲を見渡す。「お父さんの様子はどう?」 気がかりだった父の状態を問えば、工場長は頷いた。「社長なら、最近は体調がマシになったみたいだ。時々出社して、仕事をしているよ」「そう。良かった」 父を見舞うのは、今すぐでなくていい。夜、家に戻った時に話をしよう。  今はとにかく、自分の仕事をしたい。「さあ、仕事よ。世良の仕事は全部切るわ」 琴葉のよく通る声が、工場の高い
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154:伊吹の戦場

 春のうららかな陽気が、土井精機の工場の開け放たれた入口から忍び込んでくる。 風に乗って舞い込んだ淡いピンク色の桜の花びらが、コンクリートの床をひらひらと転がっていった。外の通りからは、新学期を迎えた子供たちの元気な声が遠く微かに聞こえてくる。 鼻腔をくすぐるのは、工場から漂う微かな金属の匂いと、外から運ばれてきた春の土の香りだ。 季節はすっかり春になった。 冬の終わり、伊吹と別れてからしばらくの時間が流れていた。 琴葉は事務所のパイプ椅子に深く腰掛けている。作業着の袖を肘までまくり上げ、デスクの上のタブレット端末に鋭い視線を向けていた。 画面に表示されているのは、複雑な3Dデータ。医療機器メーカーから新規で受注した、特殊なセンサーハウジングのCADデータである。(少し曲面のアプローチを変えれば、耐久性をさらに1割上げられるわね) スタイラスペンを走らせ、図面の曲率を微調整していく。 工場の奥からは、職人たちが扱う加工機の規則正しい駆動音が、頼もしいBGMのように響いてくる。 これらは全て、彼女の愛する活気に満ちたモノ作りの現場だ。 先日、伊吹から専属契約の正式な破棄の書類が届いた。 世良グループという巨大な傘、あるいは呪縛から抜け出した土井精機は、今、琴葉の卓越した設計技術を最大の武器として、新たな顧客を次々と開拓し始めている。(ここ数日、すっかり暖かくなってきたわね。作業着1枚でも、少し動くと汗ばむくらいだわ) 琴葉は小さく息を吐き出し、傍らに置かれたマグカップに手を伸ばした。 中身はすっかりぬるくなった緑茶だ。乾いた喉を潤すように、一気に流し込む。プラスチックのカップの表面についた水滴が、作業着の袖口から覗く白い指先を濡らした。 工場の奥からは、伊吹の資金で導入された最新鋭の五軸加工機が、今日も休むことなく低い唸りを上げている。 重く響くモーターの駆動音。金属が精密に削り出されていく音。 それらは琴葉にとって、何よりも心地よく慣れ親しんだ子守唄のようなものだ。 職人たちが額に
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154

 ザザッ、という微かなノイズの奥から聞こえてくるのは、空調が完璧に管理された無菌室のような空間の音だ。 世良グループ本社の最上階。東京の空を見下ろす、あの冷えきって無機質な役員室。 伊吹が単身でそこに乗り込んでから、既にしばらくの時間が流れていた。 彼は世良グループの内部から腐敗した組織を解体し、切り捨てられようとしている現場の人間たちを救済するために、自ら泥沼の権力闘争へと身を投じたのだ。 琴葉はスタイラスペンをくるりと指先で回し、タブレットの画面をピンチアウトして図面を拡大する。 視線は図面を追いつつも、思考は別の場所にある。 伊吹が役員室に密かに仕掛けた、極秘の盗聴用デバイス。そこから送られてくる暗号化された音声データを、琴葉は土井精機の事務所でリアルタイムに傍受している。 これはただの監視ではない。いつでも彼をバックアップするための、見えない命綱だ。 イヤホンの奥で、硬い革靴が毛足の長い高級絨毯を踏みしめる音がした。 続いて、重厚な革張りのソファがきしむ音。『――話というのは、それだけか。伊吹』 低く、底冷えのするような声が聞こえてきた。 世良グループ総帥、世良宗佑。 伊吹の父親であり、全てを効率と利益で判断する人間だ。 その効率化の視線は実の息子にまで及び、伊吹を使えない駒として切り捨てるほどだった。 宗佑の声を聞いた瞬間、琴葉の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。 何ヶ月経ってもあの男の冷酷な響きは、琴葉の警戒心を容赦なく呼び起こす。 そう言った意味では、峻嗣の単純な傲慢さの方がまだ扱いやすいと感じた。『いいえ、父さん。本題はここからです』 伊吹の声がした。 宗佑の威圧感に真っ向からぶつかるように、けれど穏やかな声。穏やかな中に鋼のような芯を持つ声だった。『峻嗣叔父さんの、AIデモンストレーションの大失敗。あれによる市場の信頼失墜は、想像以上に深刻です。株価の暴落、取引先との断絶……。それだけではありません。現在、我が社は政府が主導す
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