All Chapters of 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~: Chapter 11 - Chapter 20

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11

「……それが、『例の案件』か」 宗佑は手元の書類から目を離さず、ペンの先で琴葉を指した。 息子の結婚を祝う雰囲気は少しもない。 まるで検品待ちの不良在庫を見るような仕草だった。 琴葉は挨拶をしようと口を開きかけたが、喉が張り付いて声が出ない。 宗佑から放たれる圧倒的な威圧感が、室内の酸素を薄くしているようだった。「赤字工場の娘を妻にするなど、正気とは思えんがな」 宗佑がようやく顔を上げ、冷ややかな視線を投げつけた。「お前の結婚は手札(カード)だ。政界とのパイプ作りや、他財閥との提携……より有利に使わなくてどうする」 琴葉の存在を目の前にして、彼女の価値を「無」だと断じる。 怒りよりも先に、ぞっとするような寒気を感じた。だが隣に立つ伊吹は平然としていた。「コストパフォーマンスの問題です、父さん」 伊吹は淡々とした口調で切り返す。「政略結婚で得られるコネクションは一時的なものに過ぎません。ですが、彼女の脳内にある独自の技術データとノウハウは、長期的に見て買収額の10倍以上の利益を生みます。これは浪費ではなく、確実な投資です」(……は?) 琴葉は自分の耳を疑った。 この男は今、妻となる女性を「高機能な部品」としてプレゼンしている。 宗佑は鼻を鳴らし、値踏みするように目を細めた。「……いいだろう。好きにしろ」 宗佑は再び書類に視線を落とす。「せいぜい使い潰せ。利益が出なくなれば捨てればいい」「心得ております」 伊吹が深々と頭を下げる。 琴葉は拳を固く握りしめた。爪が皮膚に食い込む痛みで、どうにか理性を保った。 この親子にとって、人間は数字か、ゲームのカードでしかないのだ。(使い潰すですって? 上等じゃない) 琴葉は伊吹の横顔を睨みつけた。彼は完璧なビジネスマンの仮面
last updateLast Updated : 2026-01-25
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12

「これが噂の新しいお嫁さんか」 峻嗣は距離を詰めて、琴葉の手を強引に取った。「はじめまして。伊吹の叔父の峻嗣です」「は、はじめまして……」 握手された掌が嫌な汗で湿っている。 峻嗣は手を離そうとせず、親指で琴葉の手の甲を撫でた。「君のような才能ある女性が、こんな子供の遊び道具にされるのは惜しいねえ。困ったことがあれば、いつでも私の所に来なさい。私が『保護』してあげるから」(なんなの。気持ち悪いんだけど!) 言葉の端々に粘着質な欲望が見え隠れする。 琴葉が手を振りほどこうとした瞬間、伊吹が割って入った。「ご心配なく」 伊吹の笑顔は張り付いたままだが、声は絶対零度まで下がっている。「彼女は私の管理下にありますので」 伊吹は琴葉の肩を抱き寄せて、峻嗣から引き剥がした。「おやおや。これは随分と、パートナーを大事にしているようだ」 峻嗣は鼻で笑い、手をひらひらと振って去っていく。 その背中が見えなくなるまで、伊吹は微動だにしなかった。◇ 本社を後にしたリムジンの中で、運転席との間にあるパーティションが上昇し、後部座席は完全な密室となった。 その瞬間、伊吹が動いた。「……手を出して」「え?」 伊吹は無言で琴葉の右手首を掴み、自分の膝の上に引き寄せた。 峻嗣と握手をした手だ。彼はダッシュボードから除菌用のウェットティッシュを取り出すと、琴葉の手のひらを拭き始めた。「ちょっ、伊吹さん?」「汚い」ゴシゴシ、ゴシゴシ。皮膚が赤くなるほどの強さで、執拗に擦り続ける。「痛い! やめてよ!」 琴葉が抗議しても、伊吹の耳には届いていないようだった。 瞳孔は開ききり、焦点が合っていない。「菌がつく。あの男の脂が、匂いが、あなたに残っているなんて耐えられない」
last updateLast Updated : 2026-01-25
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13:ガラスの城

 車は都心、超高層タワーマンションの地下駐車場へと入り込んだ。 厳重なセキュリティゲートの前に立つ警備員が、伊吹の顔を見るなり背筋を伸ばして最敬礼で迎える。 琴葉は警備員の仰々しい態度を、冷めた目で眺めていた。(まるで王様の帰還ね) 2人でエレベーターに乗り込む。 エレベーターには「居室」「地上階」「地下」の3つのパネルしかなかった。 琴葉が訝しんでいると、伊吹が言う。「これは僕たちの専用エレベーターですから。他の居住者と顔を合わせることはありませんよ」「専用エレベーター。そんなのあるのね」 琴葉は呆れてしまった。金持ちの世界は常識が通じない。 自分たちしか使わないのであれば、各階のパネルは不要だということだ。 伊吹が「居室」のボタンを押した。 扉が閉まり、箱が浮上を始める。階数表示がぐんぐんと上がる。 重力が内臓を押し下げる感覚がして、耳の奥がツンと詰まった。(地上から何メートル離れる気? これじゃあ、空の上の監獄だわ) 隣の伊吹は、新しいおもちゃを買ってもらった子供のように上機嫌だ。 鼻歌でも歌い出しそうな軽やかさで、階数表示を見上げている。 チン、という軽快な電子音と共に扉が開いた。「さあ、着きましたよ。ここが僕たちの家です」 玄関ホールだけで、琴葉の実家のリビングがすっぽり入りそうな広さだった。 床は大理石だが、琴葉が歩く動線にだけふかふかの絨毯が敷かれている。 靴を脱ぐと、足の裏が沈み込むような感触がした。 リビングの扉を開けた瞬間、琴葉は息を呑んだ。 壁一面がガラス張りになっている。 眼下には、背の高いビル群を見下ろすような東京の街並みが広がっていた。夜になればさぞかし美しい夜景が楽しめるだろう。 あまりの浮世離れした光景にめまいがした。 喉が渇く。琴葉が無意識にキッチンの方へ視線を向けると、伊吹がすかさず冷蔵庫を開けた。「どうぞ」 差し出されたのは、琴葉が愛
last updateLast Updated : 2026-01-25
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14

「あなたのことは、全て知っていますから」 伊吹は当然のことのように微笑む。 琴葉の背筋に冷たいものが走った。 これは愛ではない。徹底的な監視と調査の結果だ。「……興信所でも使って調査したのかしら? ご苦労さまだわ」 琴葉は嫌味を言ったが、相手は少しも動じない。「ええ、まあ。でもそれだけではありませんよ。寝室もどうぞ。着替えも用意してあります」 伊吹は次に寝室へ向かった。 ホテルのスウィートルームのような、豪華で生活感のない部屋だった。 クィーンサイズの天蓋付きベッドの他、揃いの色合いで鏡台やデスクが配置されている。 ウォークインクローゼットの扉を開ける。その瞬間、琴葉の視界に鮮やかな色彩が飛び込んできた。「これ……」 クローゼットは紫色で染まっていた。 パープル、ラベンダー、バイオレット。 ハンガーにかかっている服の全てが、紫系統の色で統一されていた。 確かに紫は、琴葉の一番好きな色だ。 だが並んでいる服のデザインを見て、琴葉は違和感を覚えた。 フリルやレースがふんだんに使われている。スカートの丈やシルエットも、どこか幼い。 26歳の実務的なエンジニアである琴葉が着るには、どうにもファンシーすぎる。(色は私の好みだけど……これ、まるで子供服をそのままサイズアップしたみたい) 伊吹はハンガーの中から、一着のワンピースを取り出した。 淡いラベンダー色の生地で、胸元には大きなリボンがあしらわれている。スカートはふわりと広がるフレアタイプだ。「せっかくですので、これに着替えてみてください」 琴葉はその服を見て、強い既視感を覚えた。 どこかで見たことがある。でも思い出せない。「悪いけど遠慮するわ。疲れてるし、そんなヒラヒラした服は趣味じゃ――」「着てください」 伊吹の声が一段低くなった。 振
last updateLast Updated : 2026-01-26
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15

 一人残されたクローゼットの中で、琴葉はため息をつきながら服を脱いだ。 ラベンダー色のワンピースに袖を通すと、サイズは驚くほどぴったりだった。鏡に映った姿を見る。(馬鹿みたい) 似合わないわけではない。少し幼いデザインではあるが、ラベンダー色は琴葉に似合う。 けれど自分の意志に沿わない着せ替えは、琴葉はとても気に入らなかった。(これじゃあまるで、着せ替え人形だわ。あの男、私をおもちゃにしたいわけ?) 思わず、心の中で毒づいた。 それでも彼女は断れない。契約でがんじがらめにされている。 琴葉は自分を嘲笑いながら、リビングへと戻った。 ソファで待っていた伊吹が、弾かれたように立ち上がる。 琴葉の姿を見た瞬間、彼の表情がとろけるように崩れた。「……ああ」 恍惚とした吐息が漏れる。 伊吹はふらふらと近づいて、琴葉の手を取った。「やっぱり。すごく似合います」 その瞳は目の前の琴葉を見ていなかった。 琴葉の知らない「誰か」の幻影を見ている。琴葉を見ているようで見ていない視線が、たまらなく不気味だった。「これからはいつでも一緒ですからね」 伊吹はサイドテーブルから、新しいスマートフォンを差し出した。「あなた専用の端末です。セキュリティのため、前のスマホはこちらで預かります」 拒否権はない。琴葉は黙ってそれを受け取った。 画面には伊吹の連絡先だけが登録されている。位置情報共有アプリが常時起動しているのが見えた。◇「今日は疲れましたね。休みましょう」 夜になって、伊吹は廊下の奥にある部屋へ琴葉を案内した。「ここがあなたの部屋です。ゆっくり休んでください、……琴葉お姉ちゃん」 その呼び名にゾクリとしながらも、琴葉は部屋に入った。 伊吹の足音が遠ざかるのを確認して、琴葉は安堵の息を吐き出した。
last updateLast Updated : 2026-01-26
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16

「何かありましたか?」 優しげな声がドア越しに響いた。 琴葉は口元を押さた。悪寒が背中を駆け上がったが、叫ぶのだけはねじ伏せた。 恐怖で悲鳴を上げるなど、彼女のプライドが許さない。 けれど同時に実感した。 ここは家ではない。美しく飾り付けられた飼育箱だ。◇ しばし後。リビングに戻った伊吹は、一人でワイングラスを傾けていた。 窓ガラスに映る自分の顔に乾杯をする。(やっと、琴葉お姉ちゃんを手に入れられた) 甘い余韻に浸りながら、同時に胸の奥がチクリと痛む。 彼女は伊吹のことを、完全に忘れてしまっているようだった。 琴葉は伊吹の姿を見ても、名前を聞いても無反応だった。 といっても、なぜそうなったのか思い当たる点はある。たぶん琴葉は勘違いしているのだろう。(20年前のこととはいえ、事情が事情とはいえ。少しひどいな) 伊吹は苦笑する。(僕はずっと、片時も忘れたことなんてなかったのに。感動の再会を夢見ていたが、現実はままならないものだ) まぶたを閉じれば鮮明に蘇る。 あの日の野原。4歳だった伊吹は、近所の子供たちに突き飛ばされて、泥だらけで泣いていた。 そこへ颯爽と現れて、いじめっ子たちを追い払ってくれた少女。当時6歳の土井琴葉。『大丈夫? 痛くない?』 そう言って手を差し伸べてくれた。 その時の彼女が着ていたのが、あのラベンダー色のワンピースだったのだ。 夕陽を浴びた紫色のスカートがひるがえる。あの瞬間は、今でも伊吹の目と心に焼き付いていた。 なんて強くて美しい人なのだろうと。 遠い思い出の日、琴葉は伊吹を救ってくれたヒーローだった。 伊吹は病弱な母を頼れず、特殊な生まれのために地域で浮いていて、友だち1人いなかった。 保育園や幼稚園に行くこともなく、子供どころか大人たちまで彼を避けた。 いじめられて泣いてばかりで、誰も助けてくれなくて。毎日が辛かっ
last updateLast Updated : 2026-01-27
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17:食卓のタイムカプセル

 朝、目が覚めた瞬間、琴葉はここがどこなのか分からなかった。 ベッドに横たわって上を見上げると、立派な天蓋が見える。 視線を横にずらせば、見知らぬシャンデリアがある。 寝返りを打つと、豪華すぎるシルクのシーツが肌に触れた。昨夜の記憶が一気に蘇ってくる。(……そうだ。私は売られたんだった) 起き上がり、ドアノブを確認する。やはり内側から鍵はかからないままだ。 ドアを開けると、廊下の向こうのリビングから食欲をそそる匂いが漂ってきた。 味噌汁の香りと、砂糖が焦げるような甘い匂い。 琴葉は重い足取りでリビングへと向かった。 キッチンでは、完璧な着こなしでエプロンをつけた伊吹が立っていた。 少し長い髪は、ちょこんと後ろで一つ括りにされている。 五つ星ホテルのシェフが、家庭の台所に立っているような違和感がある。「おはようございます、琴葉さん。よく眠れましたか?」 伊吹は包丁を置いて、爽やかな笑顔を向けた。 その顔には昨夜見せた狂気じみた執着の色はない。まるで幸せな新婚生活を送る夫そのものだ。「……おはよう。何作ってるの?」「朝食です。琴葉さんの好きなものばかりですよ」 伊吹に促されて、ダイニングテーブルに着く。 並べられた料理を見て、琴葉は言葉を失った。 真っ赤なタコさんウィンナーが、お皿の上にころころと乗っている。 お茶碗のご飯には、子供向けのキャラクターのふりかけがかけられていた。 それから鮮やかな黄色の卵焼き。 まるで幼稚園児や小学生の遠足のお弁当を、そのまま皿に展開したようなメニューだ。(本気? 馬鹿にされてる?) 26歳の大人の女性に出す食事ではない。 だが、伊吹は誇らしげに卵焼きを指差した。彼の表情に見下すような色は全くない。「どうぞ。自信作です」 琴葉は箸を伸ばして、卵焼きを一切れ口に運んだ。 ジャリッ
last updateLast Updated : 2026-01-27
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18

 伊吹の瞳が揺れた。 琴葉には、そんな約束をした記憶などカケラもない。 伊吹は本気で悲しそうな顔をしていた。大切にしていた宝物を否定された子供のように。 そのアンバランスさが、琴葉の目にはひどく危うく映った。「そう、だったわね」 琴葉は嘘をついた。ここで否定すれば、彼の精神バランスがどう崩れるか分からない。「久しぶりだから、味を忘れてたみたい。美味しいわ」 無理やり笑顔を作って、残りの卵焼きを口に詰め込む。 喉を通る甘い塊が、まるで過去の亡霊のように重たく感じられた。◇ 伊吹は朝食の片付けをしながら、内心でため息をついた。 琴葉は本当に昔の思い出を忘れてしまったようだ。 甘い卵焼きは、6歳の琴葉が一生懸命に作ってくれたものだった。 彼女の家――あの時は祖父母に預けられていた――に招待してもらって、手作りの食事をご馳走になった。 琴葉は張り切って卵焼きを作ったが、子供のやることだ。間違って砂糖を入れすぎてしまったらしい。 それでも子供だった2人の舌には、甘すぎる卵焼きも美味しく感じられたものだ。『琴葉おねえちゃん。すごくおいしいよ』『そうでしょ? 卵焼きはこのくらい甘くないとね。お菓子みたいよね!』 伊吹は母に手作りの食事を作ってもらった記憶がほとんどない。 だからこの時のおままごとのような卵焼きは、彼の原点になった。温かい食卓を囲むという、原点の体験。 味噌汁や炊きたてのご飯は、琴葉の祖父母が用意してくれた。 それでも伊吹にとっては「琴葉お姉ちゃん」が彼のために作ってくれた食事であると感じていた。 温かくてかけがえのない記憶だった。 だから伊吹は大人になったら、琴葉のために卵焼きを焼こうと決めていた。 甘すぎる卵焼きは、今でも彼にとって特別な美味。 だから今の琴葉も好物であると違いないと思い込んでいた。(琴葉お姉ちゃん。あまり美味しそうではなかったな) 食
last updateLast Updated : 2026-01-28
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 身支度を整えながら、琴葉は朝食時の出来事を思い返していた。『これが一番好きと言った』『お嫁さんになったら、毎日この甘い卵焼きを作ってあげる』『お菓子みたいに甘いのが好き』 伊吹の言葉がぐるぐると頭を回る。(そんなこと言ったかしら……? いつ?) 微妙な引っかかりを覚えるものの、思い出せない。  しかし伊吹が嘘をついているとか、からかっているようにも思えない。 彼の言い分は奇妙に子供っぽかった。というよりも、子供の言葉そのままだった。(やっぱり子供の頃に会っていたのかしら?) しかし世良伊吹という男の子に覚えはない。  彼が琴葉より2歳年下である以上、琴葉の記憶に残らないほど幼い頃の出来事という可能性も低そうだ。  疑問は深まるばかりだ。「琴葉さん。準備はいいですか? そろそろ出かけましょう」 キッチンの方から伊吹の声がする。  琴葉は内心で舌打ちしながら、答えた。「今行くわ」 ◇  朝食後、2人は区役所へと向かった。  窓口周辺には、これから夫婦になるカップルたちが幸せそうな顔で書類を記入している。  その中で琴葉と伊吹の周りだけ、空気が冷え切っていた。 記入台に向かい、ペンを取る。  目の前には婚姻届の用紙。 伊吹のペンは滑らかに走り、迷いなく「世良伊吹」の名を刻んでいく。その文字は美しく、意志の強さを感じさせた。 琴葉の手は重い。これを書けばもう戻れない。  土井琴葉という人間が死に、世良琴葉という所有物が生まれる。「……書かないんですか?」 隣から伊吹が覗き込んだ。  琴葉は観念してペンを走らせる。最後の一画を書き終えた瞬間、伊吹が用紙を奪い取るようにして確認した。「うん、完璧です。不備はありません」 伊吹は大切そうに用紙を両手で持つと、窓口へ提出した。  カシャンと、職員が確認印を押す音がする。
last updateLast Updated : 2026-01-29
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20:鳥かごの安楽

 区役所から戻ってきて後。  伊吹は琴葉の身の回りの世話をかいがいしく焼いた。  夕食も彼の手作りで、ケチャップで可愛らしい猫の絵を描いたオムライスだった。 味付けはやや甘みが強かったが見事なもの。  料理する手つきも堂に入っていて、まるで本物のシェフのようだ。「料理は趣味です。琴葉さんに美味しいものを食べてほしくて、頑張りました」 そう言って微笑む。(悔しいけど、美味しいわ) もくもくと食べる琴葉の姿を、伊吹は嬉しそうな笑みを浮かべて眺めていた。 夕食の後、琴葉は習慣で食器を下げようとした。  シンクに皿を置き、スポンジに手を伸ばす。実家でも工場でも、自分が食べたものは自分で片付けるのが当たり前だったからだ。「いけません、琴葉さん」 背後から声が飛んできた。  驚いて振り返ると、伊吹が素早く駆け寄ってくる。琴葉の手から強引にスポンジを奪い取った。「洗い物くらいするわよ。座ってるだけなんて落ち着かないし」「だめです。絶対にさせません」 伊吹は真剣な眼差しで、濡れた琴葉の手をタオルで丁寧に拭き始めた。  指の一本一本まで、壊れ物を扱うように水気を取っていく。「この手は素晴らしい図面を描くための手だ。洗剤なんかで荒れさせていい手じゃない」 表面的には、技術者への敬意に満ちた言葉のように聞こえた。  けれど今の琴葉には図面を描くための机もCADも、工場もない。 伊吹は満足げに頷くと、琴葉の肩を抱いてリビングのソファへと誘導した。「あなたはここに座っていてください。僕がすべてやりますから」 ふかふかのソファに座り込む。  広いキッチンでは、伊吹が手際よく食器を食洗機にセットしていた。  働くことを奪われ、生活の雑事から切り離される。  それは「楽」な生活かもしれないが、琴葉にとっては手足を奪われるのと同じことだった。(私、本当にただの「お飾り」になったのね……) 自分という人間が、輪郭を
last updateLast Updated : 2026-01-30
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