All Chapters of 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~: Chapter 31 - Chapter 40

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31:過去の残骸

 翌朝、リビングの空気は奇妙に張り詰めていた。 ダイニングテーブルには、いつものようにホテル並みの豪華な朝食が並んでいる。 焼きたてのパンと、色鮮やかなフルーツ。湯気を立てるスープ。 だが今朝はおかしなことがあった。 席が1つ増えているのだ。 伊吹のすぐ隣の椅子に、昨夜書斎で見つけたあのツギハギのウサギが座らされている。 ウサギの前には、人間と同じように小さな皿とカップがセットされていた。「おはよう、うさぎさん。今日はいい天気ですね」 伊吹はコーヒーを飲みながら、隣の薄汚れたぬいぐるみに向かって話しかけた。 穏やかな口調、何も違和感を感じさせない様子だからこそ、かえって狂気じみている。 完璧な美貌を持つ青年実業家と、ボロボロの人形。その対比。 琴葉は夫の異常な振る舞いに、無理やり付き合わせられている。 カチャン。とうとう琴葉は耐えきれず、フォークを皿に置いた。乾いた音が響く。「……いい加減にして」 琴葉は低い声で言った。「その子はモノよ。ただのぬいぐるみ。食事なんてしないわ」「家族ですよ。僕たちの絆の証です」 伊吹は悪びれる様子もなく微笑んだ。 その笑顔が、今の琴葉には恐ろしくてたまらなかった。琴葉は深呼吸をして、昨夜から喉元まで出かかっていた問いをぶつけた。「単刀直入に聞くわ。あなた、本当に『いずみくん』なの?」 伊吹の手が止まる。「だとしたら、名前が違うのはなぜ? 彼は『いずみ』くんだったはずよ。でもあなたは『世良伊吹』。……あなたは一体、誰なの?」 伊吹はカップをソーサーに戻し、ナプキンで口元を拭った。 その仕草は優雅で、どこにも隙がない。「簡単なことです。『泉(いずみ)』は、母の苗字でしたから」 彼は淡々と、まるで明日の天気の話でもするように語り出した。「当時の僕は、認知されていない愛人の子でした。だから母方の『泉』
last updateLast Updated : 2026-02-05
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「『泉伊吹』は、あの田舎町で死にました。無力で、泣き虫で、あなたを守れず、自分の痛みさえ他人に背負わせるような惨めな子供は……あの日、捨てたんです」「捨てたって……どういうこと?」 琴葉が問うと、伊吹は誇らしげに胸を張った。「言葉通りの意味です。世良家に入った僕を待っていたのは、歓迎なんて生易しいものではありませんでした」 本妻の親族からの冷ややかな視線と、分家の人間たちによる足の引っ張り合い。「愛人の子」「血統だけの野良犬」という陰口は日常茶飯事だ。 時には命の危険すらあった。幼い子供が1人で生き抜くには、あまりに過酷な環境だった。「でも僕は、一度も泣きませんでした」 伊吹はきっぱりと言い切った。「泣いている暇があれば、勉強しました。1日でも早く大人になり、力を手に入れるために」 彼は小学校、中学校の内容をまたたく間に修了し、飛び級で海外の大学へ進学した。 経済学、帝王学、数ヶ国語の習得。さらには護身術や武道に至るまで。眠る時間を削り、血反吐を吐くような努力を重ねた。 幸か不幸か、伊吹はあらゆる分野で天才的な才能を示した。 1を聞けば10どころか100を身につける。実務だけではなく芸術にすら高い適性を示した。 親族からの嫉妬の声は悪化したが、後継ぎとしての資質をなじる者はいなくなった。「自分に悪意を向ける者は、容赦なく叩き潰しました。将来、僕があなたを迎え入れた時に、あなたに害が及ぶ可能性を1ミリでも残してはいけなかったからです」 伊吹はこともなげに言う。 10代のうちにアメリカの大学を卒業し、父である世良グループ総帥の補佐に入った。 邪魔な親族を排除し、敵対する企業を飲み込み、若くして世良グループの頂点に立った。 その道程には、数え切れないほどの屍が転がっているのだろう。 始末しそこねた難敵は、叔父の峻嗣くらいのものだ。「すべては、あなたに相応しい『かっこいい男』になるためです」
last updateLast Updated : 2026-02-05
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「普通? 優しさ?」 伊吹は首をかしげた。「そんなものでは、世良家の力に勝てません。生き延びて、あなたを迎えに行くなどできなかった」 彼は立ち上がり、琴葉に近づいた。 その足取りは優雅で自信に満ちている。「僕は間違っていません。見てください、こうしてあなたを手に入れた。力がすべてです。力がなければ、僕はまたあの日々のように、あなたを失って泣くだけだった」 伊吹は琴葉の頬に手を添えた。その手は冷たく、美しい石像の手のようだった。「僕を見てください、琴葉さん。僕は強くなりました。あなたを守れるだけの強さを手に入れたんです」 褒めてほしい、と言わんばかりの瞳。 純粋さと狂気が同居する眼差しだった。(この男は、何も分かっていない) 琴葉は奥歯を噛んだ。 そして、もう戻れない。 20年という歳月が、彼の価値観を強固に固めてしまった。 琴葉は頬に触れる伊吹の手を強く振り払った。 パシッ。 乾いた音が響く。伊吹の手が宙を舞った。「あなたは、いずみくんじゃない」 琴葉は涙を溜めて、目の前の男を睨みつけた。「あなたは、いずみくんを殺して……その皮を被った怪物よ」 泣き虫だけど心優しかった男の子はもういない。 琴葉の思い出の向こうに溶けて消えてしまった。 琴葉の言葉が消してしまった。 幼い琴葉はただ、年下の小さな友人を励まそうとしただけだったのに。 20年の歳月を経て、思いもよらぬ結果を生んでしまった。 ――怪物。 それは思い出を拒絶する言葉だった。 しかし伊吹は傷つくどころか、恍惚とした表情で口角を吊り上げた。歪んだ喜びが顔に張り付く。「ええ、そうですよ」 彼はささやくように言った。「僕はあなたのために、喜んで怪物になりました」 怪物でなければ、この硝子の城は築けなかった。 
last updateLast Updated : 2026-02-06
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34:伏魔殿のお披露目

 過去の真実が明かされてから数日。 琴葉にとっては憂鬱な件が増えていた。 伊吹の琴葉に対する接し方が遠慮がなくなったからだ。「琴葉さん、少し来てもらえますか?」 朝食後、伊吹に手を引かれて連れて行かれたのは、琴葉の部屋のウォークインクローゼットだった。 扉が開かれた瞬間、鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる。 広いクローゼットのハンガーラックのすべてが、紫色の服で埋め尽くされている。ラベンダー、ライラック、バイオレット、深紫。ありとあらゆる紫のグラデーションが、美しい波のように並んでいる。 このマンションに連れてこられた初日、見せられた通りの光景。 しかしよく見れば、新しい服が何枚も追加されていた。「これ……」「『大好きな紫のお洋服で、クローゼットをいっぱいにするのが夢』だと言っていましたよね。覚えていますか?」 伊吹が背後から、琴葉の肩にあごを乗せてささやいた。 琴葉の記憶の蓋が開く。そうだ。20年前、カタログ雑誌を見ながら、無邪気に夢を語ったことがあった。『私ね、紫色が一番好きなの。大人になったら、お洋服もお部屋もぜーんぶ紫にするんだ! クローゼットにいっぱいお洋服を並べるの!』 今まで忘れていたような、他愛のない子供の願望である。 それをこの男は一言一句忘れずに覚えていて、20年かけて叶えたのだ。「……覚えてる。というか、この前思い出したわ」 琴葉は正直に告げた。 伊吹が「いずみくん」だと認識したことで、封印されていた記憶が次々と蘇っている。 伊吹の腕に力がこもる。微笑む気配がする。「嬉しいです。僕が覚えているあなたの言葉を、1つずつ形にしていきましょう」 表面だけなぞれば、一途で純粋な愛といえるのだろう。 けれど琴葉は、胸の奥が重くなるのを感じていた。(私の何気ない一言が、彼の人生を縛り付けている) その責任の重さに、胃がキリキリと痛んだ。
last updateLast Updated : 2026-02-06
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 穏やかな空気に変化があったのは、夕方のことだった。 伊吹が一通の招待状をテーブルに置いた。「今夜、世良グループ主催のパーティーがあります。そのペンダントをつけて、僕の妻として出席してください」「えっ、今夜? 急すぎない? 心の準備が……」「必要ありません。ただ僕の隣で笑っていてくれればいい」 伊吹の目が暗い光を帯びた。「現在の総帥である父・宗佑も出席します。親族たちに、僕が選んだ伴侶を見せつけてやりたいんです。僕が約束通り、あなたを迎えに行ったことを」 伊吹は社内闘争と親戚同士の争いを勝ち抜き、次期CEOの座をほぼ手中に収めている。 だが完全に盤石ではない。だからこそ、ここで「妻」をお披露目し、既成事実を作るつもりなのだ。「衣装はこちらで用意させました」 伊吹が言うと、タイミングを計ったようにインターホンが鳴った。 ドアを開ければ、数人のスタッフがラックに掛けられたドレスを運んできた。色はやはり紫色の波。 伊吹がその中から一着を選び、琴葉に差し出す。「これがいいと思います。あなたに絶対に似合う」 それは、淡いライラック色のドレスだった。ふんわりとしたパフスリーブに、胸元には大きなリボン。スカートは何層ものチュールで膨らんでいる。 まるでお人形の服だ。あるいは20年前の少女が着るようなデザイン。「……伊吹」 琴葉は眉をひそめた。「これ、本気で言ってる?」「え? 可愛いじゃないですか。まるであの日のあなたが戻ってきたみたいで……」「私はもう26歳よ。こんな子供っぽい服、着られないわ」 琴葉はきっぱりと断った。 伊吹の時計は、あの日で止まっているのかもしれない。 けれど琴葉は時間を進めなければならない。 琴葉はラックにかかったドレスを自分の手で探り、一着を選び出した。「こっちにするわ」 琴
last updateLast Updated : 2026-02-07
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「あいつ……」「よくものうのうと顔を出せたものだ。叔父や従兄弟の屍の上に立って」「妾の子風情が。正当な後継者たちを押しのけ、次期総帥の座をかすめ取った簒奪者(さんだつしゃ)が」 聞こえよがしの陰口が、さざ波のように広がる。 遠巻きにこちらを睨んでいる老人たちは、伊吹との跡目争いに敗れた分家の人間やその親たちだろう。 ここはパーティー会場ではない。敵だらけの戦場だ。 琴葉は伊吹の腕に触れた。 彼は心配ないというように微笑んでみせたけれど、彼女には分かってしまった。 体が強張っている。少しの気も抜けないと緊張しているのが伝わる。(この人は20年間、たった1人で――あのボロボロのウサギだけを支えに――この悪意の中で戦い続けてきたんだ) そう思うと、琴葉の中にあった彼への恐怖は、いつしか義憤へと変わっていった。◇ 伊吹が挨拶回りのために、少しだけ琴葉のそばを離れた時のことだ。 1人の男が、人波を割って琴葉に近づいてきた。「やあ、久しぶりだね」 ねっとりとした声だった。琴葉は反射的に背筋を強張らせる。 視線を向けると、見覚えのある男が立っていた。仕立ての良いスーツを着込んでいるが、爬虫類のような目つきは隠せていない。 世良峻嗣(せら・たかつぐ)――伊吹の叔父であり、かつて本社で琴葉に不快な接触をしてきた男だ。「……ご無沙汰しております、峻嗣様」 琴葉は努めて冷静に頭を下げた。峻嗣は琴葉のドレス姿を上から下まで舐め回すように眺てから、鼻で笑った。「相変わらず、伊吹の『おままごと』に付き合わされているのかい? せっかく着飾っても、中身は町工場の娘だ。この場には相応しくないねえ」 あからさまな侮辱だった。琴葉が言い返そうとした、その時。「おっと」 峻嗣の手が動いた。彼が持っていた赤ワインのグラスが傾き、その中身がバシャリと琴葉の胸元にぶちまけられた。
last updateLast Updated : 2026-02-07
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 琴葉はとっさに動き、伊吹の手首をガシリと掴んだ。「やめなさい、伊吹!」「離して……!」 伊吹は琴葉を見ようともしない。視線は峻嗣の喉元一点に固定されている。「こいつは、あなたを汚した。僕たちの宝石を汚した! 万死に値する!」「だからって、あなたが手を汚す価値もないわ!」 琴葉は小さく叫び、彼の手首をさらに強く握りしめた。「こんな安い挑発に乗らないで! あなたが積み上げてきたものを、こんな男のためにドブに捨てる気!?」 琴葉の剣幕に、伊吹の視線がようやく揺らいだ。 琴葉はすかさず峻嗣に向き直った。 顔面蒼白で立ち尽くす叔父に、ニッコリと最高に優雅な笑みを向ける。「あら、おじ様。手が滑るなんて、もう手元がおぼつかないお年頃でいらっしゃいます?」 会場中に響き渡る声で、琴葉は言い放った。「ご自分のグラスも支えられないなんて、心配ですわ。介護が必要なら、主人が良い施設を最優先で手配しますわよ?」 堂々とした皮肉である。 周囲からクスクスと失笑が漏れた。峻嗣の顔が赤黒く変色していく。 琴葉は伊吹の手を降ろすと、自分のハンカチを取り出した。 峻嗣に触れようとしていた伊吹の手を丁寧に拭う。「行きましょう、あなた。ここ、カビ臭くてたまらないわ」 琴葉は震える峻嗣を振り返りもせず、伊吹の腕を引いて歩き出した。 ドレスは汚れている。髪も乱れているかもしれない。 それでも胸を張って歩く彼女の姿は、会場の誰よりも誇り高く美しかった。 その背中は20年前に枝切れを振り回して悪ガキを追い払った、あの日の少女そのものだった。◇ 会場を後にして、リムジンの中。 後部座席のパーティションが閉まると、伊吹は憑き物が落ちたようにシートに深く座り込んだ。 熱っぽい瞳で琴葉を見つめる。「……すごかった」 
last updateLast Updated : 2026-02-07
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38:不合格の部品

 朝陽が差し込むダイニングは、静かなものだった。 天井のシャンデリアが朝日を反射して、磨き抜かれた大理石の床に光の粒を落としている。 テーブルに並んでいるのは、相変わらず伊吹の手作りのメニューだ。 一流シェフが手掛けたようなエッグベネディクトと、季節のフルーツが彩り豊かに盛られた一皿。香りの良いコーヒーが湯気を立てて、目にも楽しいカラフルな食卓だった。 けれど琴葉の口に広がるのは、味気ない義務感だけだ。(美味しいのよ。信じられないくらい贅沢な朝ごはん。でも、この『お姫様生活』、もう限界だわ。身体に錆が回る音が聞こえてきそう) 向かいに座る世良伊吹は、一点の乱れもない仕草でナイフとフォークを動かしている。 アイロンの効いた白いシャツに、控えめな光沢を放つシルクのネクタイ。装いも一分の隙もない。 端正な顔は、朝の光を浴びて美しく整っている。 彼は一口ごとにナプキンで口元を拭い、完璧な所作でコーヒーを口に運んだ。 琴葉は意を決して、銀色のフォークをカチャリと皿に置いた。「伊吹さん、話があるの」 伊吹の手がぴたりと止まった。 彼は顔を上げて、深い夜のような底の見えない瞳で琴葉を射見た。「今の生活に、何か不備がありましたか? 足りないものがあるなら、すぐに手配させますが」「不満があるわけじゃないのよ。でも私はエンジニアなの。現場が、私の作った合金が心配なの。土井精機をただの数字のアーカイブにしたくないって、言ったでしょう?」 伊吹の視線がわずかに鋭くなる。 彼は椅子から立ち上がると、音を立てない足取りで琴葉の背後に回り込んだ。 背後に立った彼の気配が、冷たい霧のように琴葉を包む。白く細い指先が、琴葉の肩をゆっくりとなぞった。 薄いシルクのブラウス越しに、彼の指の温度が伝わってくる。「あなたはここで、僕の隣で笑っていればいい。汚い油や、埃っぽい工場の空気に触れる必要なんてないんです。あなたは僕が守る、最も価値のある宝石なんですから」「汚くないわ。あの油の匂いも、機械の駆
last updateLast Updated : 2026-02-08
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「毎日? それも何回も? 子供じゃないんだから……」 流れるように条件を突きつけられる。 琴葉が眉をひそめると、伊吹の指先に力がこもった。「拒否するなら、一歩も外へは出しません。家の鍵をすべて作り変えて、ネットワークも遮断します。あなたが僕の視界から消えるのを、僕の理性が許さないんです」 完全に本気の声だった。  琴葉は頬を引きつらせながらも、力強く頷いた。「分かった、分かったから。あなたのことはちゃんと大事にする。だからあなたも私の意志を大事にするの。いいわね?」「……はい」 明らかに不満そうな顔をしながらも、伊吹は素直に頷いた。 ◇  それから2時間後。  琴葉は関東郊外にある土井精機の正門前に立っていた。 都心の無機質な空気とは違う、重油の混じった独特の匂い。遠くから響くプレス機の重低音が、地面を伝って足の裏を揺らす。  正門の脇にある小さな受付で、琴葉はハイヒールを脱ぎ捨てた。(あー、これこれ! この安っぽい安全靴。これこそ私の戦闘服よ!) 履き慣れた靴に足を入れると、ようやく自分の輪郭を取り戻したような感覚があった。  工場の敷地を歩けば、馴染みの顔ぶれが目に入る。「副社長! おかえりなさい!」「ただいま。私がいない間、変わりなかった?」「ええ、大丈夫です。世良グループの人たちも良くしてくれて」 工場の現場で働く職人たちや、会社の事務を担う社員たち。父である土井社長も顔色が前より良くなっている。  誰もが琴葉の帰還を喜んで、笑顔で挨拶をしてくれた。「お嬢! 本当に戻ってきたのか!」 駆け寄ってきたのは、ベテラン職人の佐藤だった。彼はタオルを首に巻いた姿で相好を崩す。  佐藤には、今年理系の大学に受かった孫がいる。学費を稼ぐためにあと4年、死ぬ気で働くと豪語していた姿が、琴葉の脳裏に焼き付いていた。「佐藤さん、元気そうね。お孫さんの大学、お祝い言えてなかったわ。おめでとう」
last updateLast Updated : 2026-02-08
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「……これ、何?」 琴葉は完成品の一つを手に取った。まずはマイクロメーターで外径を計測する。  数値は設計図通り、公差内のプラスマイナスゼロ。  完璧な製品のはずだ。だが表面をなぞる指先の感覚が、猛烈な拒否反応を示していた。(おかしい。鏡面仕上げのはずなのに。微かに……本当に微かに、ざらつくような違和感がある。不純物の混入? それとも結晶構造の乱れかしら。私の目が節穴じゃないなら、これは『良品』じゃない。こんなものを出荷すれば、土井精機の名前に傷がつく)「佐藤さん、これいつのロット?」「ああ、今朝のだよ。数値は全部『適正』だ。お嬢、初日から飛ばしすぎじゃないか? 久しぶりの工場で、感覚が鈍ってるんだろ」 佐藤の返答は素早かった。 その声は以前よりも半オクターブ高く、語尾が微かに震えている。 琴葉は無言で、別の個体も手に取った。  指先を滑らせる。やはり同じだ。本来なら吸い付くような滑らかさがあるはずなのに、どこか粉っぽい不気味な質感が残る。「数値を測ればいいってもんじゃないわ。佐藤さん、あなたプロでしょう。この輝き、いつもと同じに見える?」「……機械は正常だ。プログラムにも狂いはない。お嬢の言う通り、最新の五軸加工機で仕上げてるんだぞ」 佐藤は琴葉と目を合わせないまま、別の機械の調整を始めた。  その手つきはどこか空々しく映る。琴葉はラインの緊急停止ボタンに手をかけた。 ――ガコン! 重厚な音が響き、鳴り響いていた工場の駆動音が沈黙した。  周囲の職人たちが一斉に作業を止め、琴葉を振り返る。「お、おい、お嬢! 何すんだ! 納期が詰まってんだぞ!」 佐藤が血相を変えて飛んでくる。琴葉は彼を真っ直ぐに見据えて、冷たく言い放った。「全数廃棄。出荷は認めないわ。これ、ゴミよ。土井精機の名前を冠していいレベルじゃない」「えっ……?」 場が凍りついた。職人たちの困惑と、佐藤の狼狽が入り混じる。 そのとき、作業着のポケットの中でスマ
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