All Chapters of 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~: Chapter 21 - Chapter 30

94 Chapters

21

 伊吹はベッドに入ると、隣のスペースをポンポンと叩いた。「同じベッドで眠ること。これは夫婦の義務です」「何もしないのに、そこまでする必要ある?」 琴葉は言い返すが、伊吹は気にもとめない。「ありますとも。円満な夫婦関係のため、僕の良質な睡眠のため、外せません」「私の気持ちは無視ってわけね」「あはは。とりあえず3年は我慢してもらわないと」 拒否権はなかった。契約違反をすれば、500億円の違約金が待っている。「好きな人に手を出さないのは、僕だって我慢しているのになあ。あなたの気持ちを重んじたつもりなのになあ」 拗ねたような言葉は聞こえないふりをした。  そこまで気を遣ってやる義理はない。 琴葉はしぶしぶ布団に入り、照明のスイッチを切った。暗闇の中、背中合わせに横たわる。 広いベッドのはずなのに、すぐ背後に伊吹の体温を感じた。  しばらくすると衣擦れの音がして、背中にコツンと何かが当たった。 伊吹が額を押し付けてきたのだ。抱きしめてくるわけではない。  ただ、そこに琴葉がいることを確認するように、パジャマの裾を指先でちょこんと摘んできた。(……子供?) まるで雷に怯えて、母親の布団に潜り込んできた幼子のようだ。  昼間の冷徹な若き経営者の姿とはまるで違う。 この男は一体どちらが本当の姿なのだろう。 琴葉はろくに身じろぎもできず、背中の温もりを感じながら目を閉じた。 ◇  深夜。うとうとしていた琴葉は、背後の異変で目を覚ました。 ベッドが小刻みに揺れている。伊吹が震えていた。  呼吸が荒く、うなされているようだ。「……ごめんなさい、お母さん……」 かすれた声が、暗闇い寝室に溶けていく。「ぶたないで……いい子にするから……」 悲痛な響きだった。 伊吹はさらに体を丸めて、琴葉の背中に必死にしがみついてきた。
last updateLast Updated : 2026-01-31
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22

 辛くて苦しい日々の中で、唯一の光があった。  琴葉だ。『あんた、また泣いてたの? 仕方ないなぁ。おねえちゃんのおうちにおいで?』 琴葉と琴葉の祖父母は、ボロボロの服を着た伊吹を温かく迎え入れた。お菓子をくれて、お風呂に入れてくれた。  温かな日の当たる縁側で昼寝をさせてくれた。  そこだけが世界で唯一、伊吹にとって安心できる場所。 伊吹はいつも、6歳の琴葉の服の裾を握りしめて眠った。  この手を離したら、また暗い穴の底に落ちてしまう気がしたから。 優しいお姉ちゃんの気配だけが、伊吹の命綱だった。 ◇  現実の寝室で、背中にすがりついてくる伊吹の震えを感じながら、琴葉はふと既視感を覚えた。(あれ……? この感じ、前にも……) 記憶の奥底にある扉が、きしんだ音を立てて少しだけ開く。 そういえば昔、母が亡くなって祖父母の家に預けられていた頃。  近所に住んでいた小さな男の子を、こうしてあやしてあげた記憶がある。 いつも泣いていて彼女の服を掴んで離さなかった、あの子。 琴葉は古い記憶を探る。 名前は確か――。(いずみくん) そうだ、いずみくんだ。 琴葉の脳裏に、痩せっぽちで薄汚れた少年の姿が浮かんだ。 大人になった今であれば分かる。あの子は間違いなく何らかの虐待を受けていた。  ひどく痩せていて栄養が足りず、汚れたボロボロの服を着ていた。  琴葉の祖父母が食事を用意すると、夢中で食べていた。 当時の琴葉も母を病気で亡くしたばかりで、ひどく傷ついていた。  父は社長の仕事が多忙で琴葉のケアに手が回らず、やむなく娘を妻の両親(祖父母)に預けた。(あの頃の記憶は曖昧だわ。20年も前だし、私もお母さんが死んでしまって、ショックを受けていたせいだと思う) あのやせっぽっちの幼子を思い出すと、心が痛む。  今頃は大人になったであろう彼の幸せを願わずに
last updateLast Updated : 2026-01-31
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23:遊園地デート

 翌朝、リビングのテーブルには、前日と打って変わって洋食の朝食が並んでいた。 焼きたてのクロワッサンに、彩り豊かなサラダ。 紅茶の良い香りが部屋を満たしている。 伊吹は昨夜の悪夢などきれいさっぱり忘れたように、晴れやかな笑顔を浮かべていた。「おはようございます、琴葉さん。昨日はありがとう。おかげでぐっすり眠れました。あんなによく眠れたのは、いつぶりか分からないくらいです」 爽やかすぎる挨拶に、琴葉は少し調子が狂う。 昨夜、背中にしがみついて泣いていた子供のような姿は既にどこにもなかった。「それは何よりだわ」 紅茶を一口飲む。 彼女が昔から気に入っている、アッサムのセカンドフラッシュの銘柄だ。 ミルクがたっぷり入っていて、濃厚な味わいが舌に楽しい。「その銘柄、お好きでしょう? ミルクティーにするのが好きだと言っていましたものね」「……そうね」 好みを完璧に把握されていて、琴葉は内心でため息をついた。 しかし本当は最近の彼女はコーヒー党。紅茶好きだったのはずいぶん昔のことだ。 興信所を使って調べたにしても、情報の精度と古さが妙にちぐはぐなのが引っかかる。「琴葉さん、これを」 伊吹が内ポケットから封筒を取り出した。 中から出てきたのは、遊園地のペアチケットだ。 それもただのチケットではない。金色の縁取りがされた「プレミアム・パスポート」だった。「今日は日曜日です。約束、果たしに行きましょう」「約束?」 琴葉がカップを置く。「また忘れてしまったんですか?『泣き止んだら、いつか遊園地に連れて行ってあげる』と約束したでしょう」 琴葉は瞬きをした。その言葉には聞き覚えがある。 でもそれは、昔近所に住んでいた「いずみくん」とした約束だ。泣き虫だった彼を励ますために、指切りをした記憶がある。(どうしてこの人がその約束を知ってるの?)「…&helli
last updateLast Updated : 2026-02-01
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24

「恥ずかしいからやめて。私、帰るわよ」「なぜですか? あなたを1秒たりとも待たせたくないんです。時間は有限ですから」 伊吹は本気で不思議そうな顔をしている。 琴葉は腰に手を当て、溜め息交じりに説教を始めた。「あのね、伊吹さん。遊園地っていうのは、並んでる時間にああだこうだ話すのが楽しいの。『あのアトラクション怖そう』とか『次はあれに乗ろう』とか。日曜日だもの、混んでるのは当たり前でしょ! 効率だけで動きたいなら、1人で工場見学にでも行ってなさい!」 伊吹が目を丸くする。まるで未知の物理法則を聞かされた学者のような顔だ。「……なるほど。待ち時間も、あなたと過ごすためのコンテンツということですか」「そうよ。お金で時間を買えばいいってもんじゃないの」「分かりました。ではSPは下がらせます」 伊吹が指を鳴らすと、黒服たちは瞬時に姿を消した。 黒服が消えたのを確かめてから、彼はふうとため息をついた。「本当は遊園地を貸し切りにしようと思っていたんですよ。でも昔、あなたが『にぎやかな遊園地は楽しい』と言っていたものだから。無人より人がいた方がいいと考えたんです」「……うん。貸し切りにしなくてよかったわ」 伊吹は少し不服そうだったが、しぶしぶ一般客の最後尾に並ぶことを承諾した。 これほど広大で有名な遊園地を貸し切りにしたら、いったいいくらかかることか。 金持ちの常識はずれの思考回路に、琴葉は頭を抱えたくなった。◇ 1時間ほど並んでジェットコースターに乗り、その後ベンチで休憩を取った。 伊吹が売店から戻ってくる。両手には、パンダの顔をしたアイスクリームと、長いチュロスが握られていた。「お待たせしました」 仕立ての良い高級スーツを着たイケメン経営者が、パンダのアイスを真剣な顔で持っている。 そのシュールな絵面に、琴葉は思わず吹き出しそうになった。「あんたねぇ、アイスはそん
last updateLast Updated : 2026-02-01
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25

 夕暮れ時になって、2人は観覧車に乗り込んだ。 ゴンドラがゆっくりと高度を上げていく。地上の喧騒が遠ざかり、茜色の空が視界を埋め尽くした。「綺麗……」 琴葉が窓の外を見つめる。 しばらくの沈黙が流れて、やがて対面に座る伊吹が静かに口を開いた。「あの日以来、あなたの言葉だけを支えに生きてきました」 伊吹の視線は、景色ではなく琴葉にだけに注がれている。「僕の人生は色々あって……。ほとんどが辛い記憶ですが、たった一つだけ輝いている思い出がある」 琴葉が視線を戻すと、正面から彼の目にぶつかった。「いつかあなたとここに来るんだと、約束を果たすのだと。それだけを夢見て耐えてきました」 その言葉の重さに、琴葉は思わず言葉を詰まらせた。 ただの子供の気休めの約束が、この男にとっては生きるための「信仰」だったのだ。 伊吹は琴葉の手を取り、強く握りしめた。「もう、夢じゃありません。僕には力がある。この景色も、この時間も、すべてあなたのものです」 ギリギリと痛いほどに力が込められる。「だから、もう二度と僕の前から消えないでください」 命令口調だが、その手は微かに震えていた。 それは強引な支配者の手ではない。迷子の子供の手だ。琴葉は彼の目を見つめ返した。「子供の頃の約束がそんなに大事? そんなに執着するほど、大事なの?」「ええ、大事です。誇張なく、僕のすべてですから」 清々しいほどの肯定だった。「私は忘れていたわ。覚えていないことをそこまで重くされても、迷惑だけど?」 正直な気持ちだった。 彼が「いずみくん」なのかどうかは、だんだん分からなくなっている。 たとえ伊吹があの時のあの子であったとしても、気の毒だとは思うけれど、琴葉の人生を賭けて付き合ってやる義理はない。 琴葉にとって伊吹は、突然彼女の人生に割り込んできた異物だ。 会社の立て直し
last updateLast Updated : 2026-02-02
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26

 遊園地デートの翌朝。琴葉が目覚めてリビングへ向かおうと、ベッドから足を下ろした時だった。  歩き出した瞬間、右足のかかとにチクリとした痛みが走った。「っ、いた……」 思わず小さく呻いて、足を止める。  昨日の遊園地で、慣れない新品のパンプスで歩き回ったせいだ。  かかとを見ると、小さな水ぶくれができている。  どうやら靴擦れを起こしてしまったらしい。(ちょっと痛いけど、まあ大したことないわ) 少し足を引きずりながら歩き出した、その時のこと。「琴葉さん!?」 キッチンの方から悲鳴のような声が上がった。  伊吹が血相を変えて彼女を見ている。「どうしました、足! 引きずっているじゃないですか!」 彼は持っていたコーヒーカップを放り出す勢いで、駆け寄ってきた。  顔色は蒼白で、まるで琴葉が銃で撃たれたかのような慌てぶりだ。 あまりの大げさな様子に、琴葉は顔をしかめた。「ちょっと、大声出さないでよ。ただの靴擦れだから」「動かないで!」 琴葉の言葉をさえぎって、伊吹が手を伸ばす。  抱き上げるつもりだ。  琴葉はとっさに身を引き、手で制した。「やめて。自分で歩けるから!」「でも、あなたが痛がっている……! 主治医を呼びます。すぐに来させますから」 伊吹は本気でスマートフォンを取り出そうとしている。  琴葉は呆れてため息をついた。「靴擦れで医者呼ぶバカがどこにいるの。大げさよ。絆創膏(ばんそうこう)があれば十分」「そんな……!」「いいから、救急箱出して」 伊吹はハッとして、弾かれたように走り出した。  数十秒後、彼が抱えて戻ってきたのは、家庭用とは思えない巨大な医療用キットだった。 ◇ 「失礼します」 伊吹はソファの前に膝をついて、琴葉の足に触れようとした。  その目は爆弾処理に挑む兵士のように真剣で、どこか怯えが見える。「消毒します。あと化膿止めの軟膏と、ガーゼと……」「ストップ」 琴葉は足を引っ込めた。「自分でやるから、貸して」「だめです。ばい菌が入ったらどうするんですか。処置が遅れて壊死して、足を切断することになったら……」「なるわけないでしょ!」 大げさを通り越して、もはや飛躍しすぎた妄想に入ってしまっている。 ツッコミを入れながら、琴葉は伊吹の手から消毒液と絆創膏を奪い取った。「見てて
last updateLast Updated : 2026-02-02
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27

 田舎の河川敷で、4歳の伊吹と6歳の琴葉が遊んでいた時のこと。『めかけの子がいるぞ! 石投げてやれ!』 近所の悪ガキたちが投げた石が、運悪く琴葉に直撃してしまった。 石は額の髪の生え際に当たって、鮮血が肌を伝って流れ落ちる。 派手な出血に、伊吹は恐怖で声を上げた。『おねえちゃん、血が……!』 思ったよりも血が出てしまって、悪ガキたちにも動揺が走った。『おい、あれ、やばいぞ』『どうしよう』 けれど琴葉は泣かなかった。額の血を手で拭い、「痛くないよ、へいき」と笑って見せたのだ。 そして次の瞬間、彼女は足元に落ちていた枝切れを拾い上げた。『いずみくんをいじめるなー!』 琴葉は自分より背の高い上級生の男の子に向かって、猛然とダッシュした。 枝をブンブンと振り回し、鬼のような形相で追いかけ回す。悪ガキたちはその迫力に、「うわあ!」と悲鳴を上げて逃げ出した。 血まみれの琴葉が怖かったのもあるかもしれない。 夕陽の中、琴葉は枝を片手に仁王立ちしている。 4歳の伊吹にとって、どんな絵本やアニメの主人公よりも強くて、頼もしいヒーローだった。 けれど家に帰って傷の手当をした時、額の傷は深くて、病院で縫わなければならなかった。『僕が弱いからだ。僕が何もできないから、お姉ちゃんを守れなかった』 あの日の鮮烈な憧れと、消えない罪悪感。 それが今の伊吹の過剰な守護欲の根源だった。 ――今度こそ僕が守らなければならない。 ――琴葉お姉ちゃんには、傷1つ付けてはならない。◇「ほら、もう平気。ありがとう」 琴葉は立ち上がって、軽く足踏みをして見せた。 伊吹は床に膝をついたまま、うなだれていた。「……僕は、あなたを守りたいだけなんです」 消え入りそうな声だった。 琴葉は少しだけ表情を緩めて、しゃが
last updateLast Updated : 2026-02-03
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28:ツギハギのうさぎ

 その日の午後、マンション最上階のペントハウスは珍しく静かだった。 急なトラブルが起きたとかで、伊吹が外出していたからだ。「すぐに戻ります。絶対におとなしくしていてくださいね。誰が来てもインターホンに出てはいけませんよ」 彼は玄関で、やけに悲壮な顔をして何度も琴葉に言い聞かせて出て行った。 琴葉は広いリビングに1人で残される。 足の靴擦れは、きちんと手当てしたのが効いてもう痛みは引いていた。 彼女はコーヒーを淹れ直し、部屋の中をあてもなく歩き回った。 コーヒーを飲み終えてしまったら、手持ち無沙汰になる。 本を読む気分ではないし、動画も飽きてしまった。(急に暇になっちゃったわ。お父さんと会社のみんな、元気にしているかしら……) 何せ伊吹がいるとべったりとくっついてきて、うっとうしいことこの上ない。 振り払っても振り払ってもめげないし、そもそも琴葉は契約で縛られる身。家出するなどの極端な手段は取れない。 ふと、視線が廊下の突き当たりに向いた。 立派な扉がある部屋は、伊吹の「書斎」だ。普段は鍵がかかっているはずのその扉が、今日はわずかに隙間を開けていた。 彼が慌てて出て行ったせいだろう。(……覗くなら、今しかない) 罪悪感よりも好奇心が勝った。 琴葉は自分がどんな男に買われたのか、まだ何も知らないに等しい。 彼の内面に触れるヒントが、あの部屋にあるかもしれない。 琴葉は半ば無意識に忍び足で近づき、ドアノブに手をかけた。◇ 部屋の中に入った瞬間、空気が変わった気がした。 リビングの温かみのある照明とは対照的な、黒とシルバーで統一された冷徹な空間が広がっている。 壁一面に巨大なモニターが設置され、そこには複雑なグラフや数値――おそらく株価や、世良グループの工場の稼働状況――が目まぐるしく変動していた。 まるで宇宙船のコックピットだ。世界を動かしている男の
last updateLast Updated : 2026-02-03
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29

 ――20年前。3月下旬の風が強い日だった。 祖父母の家の縁側には、段ボール箱が積み上げられていた。 ようやく仕事に区切りをつけた父が、琴葉を迎えに来たのだ。 琴葉は4月から小学校への進学を控えている。 それに合わせての帰郷だった。 6歳の琴葉はリュックを背負って、庭先に来ていた男の子に向き合った。『やだぁ……いかないでよぉ……』 4歳の「いずみくん」は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。 琴葉の服の裾を握りしめて、足元にしがみつくようにしている。 母親に虐待され、近所の子にいじめられていた彼にとって、琴葉がいなくなるのは、世界の終わりと同じだったのかもしれない。『泣かないで、いずみくん。もう4歳でしょ?』 琴葉はお姉ちゃんらしく振る舞いながらも、胸を痛めていた。 この子を置いていくのが心配だった。 だから彼女は、リュックの中から一番大切なものを取り出した。『これ、あげる』 白いウサギのぬいぐるみ。耳にはチェックの布地が入った、琴葉のお気に入りだ。 いずみくんが、涙で潤んだ目を見開く。『うさぎさんがいれば、寂しくないでしょ。私がいない間は、この子が一緒にいてくれるから』 いずみくんは涙をこぼしながら、ぬいぐるみを受け取った。『でも、これ。おねえちゃんの宝物だよね?』『うん、でもいいの。……大人になったら、また絶対に会いに来るから。だから、泣かないで待っていて』 琴葉が言うと、いずみくんはしゃくり上げながら、必死に涙を堪えた。『ぜったいだよ。ぜったい、またあえるよね?』『もちろん』 琴葉は彼の頭を撫でて、精一杯の強がりで笑ってみせた。『それまでに、強くてかっこいい男の人になっておくのよ! 泣き虫は卒業!』 その言葉を聞いた瞬間、いずみくんの瞳に小さな火が灯ったのを、琴葉は覚えている。
last updateLast Updated : 2026-02-04
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30

 伊吹はゆっくりと近づいてきた。その足取りには迷いがない。 彼は琴葉の横に並ぶと、ガラス越しに愛おしそうにぬいぐるみに触れた。「僕の守り神です」 うっとりとした声だった。「辛い時も寂しい時も、この子がいたから耐えられた。あなたが僕にくれた最初のプレゼントであり……契約の証ですから」「……契約?」「ええ。『かっこいい男の人になったら、お嫁さんになってくれる』という約束ですよ」 頭の中が混乱する。伊吹の言っていることは、琴葉の記憶と一致する。 でも何かが決定的に噛み合わない。「違うわ」 琴葉は一歩後ずさった。「私がそれをあげたのも、約束をしたのも、『いずみくん』よ。あなたじゃない」 目の前にいるのは、世良伊吹だ。世界的規模の財閥の御曹司で、冷徹な経営者。 貧しくて、いつもお腹を空かせて泣いていた「いずみくん」とは、住む世界も名前も何もかもが違う。(まさか、この人がいずみくんから奪い取ったの? それとも、いずみくんが手放したものを偶然拾ったの?)「あなたは……誰?」 琴葉の混乱をよそに、伊吹は寂しげに微笑んだ。「名前なんて、ただの記号に過ぎません。受け取ったのは僕です。約束をしたのもこの僕ですとも」「どういう意味よ。いずみくんはどこ? 彼とどういう関係なの?」「関係も何も……」 伊吹はガラスケースを開けた。中から古びたぬいぐるみを、壊れ物を扱うように両手で取り出す。「僕は約束を守りましたよ、お姉ちゃん」 彼はぬいぐるみの顔を自分の方に向け、話しかけるように呟いた。「どんな時に苦しくとも泣くのは止めて、かっこいい男になる。誰よりも強くて、力のある男になる。そうすれば、あなたが迎えに来てくれると信じていたから」 その瞳には、狂気と純粋さが同居していた。 今の彼の地位も財力も、磨き上げ
last updateLast Updated : 2026-02-04
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