伊吹はベッドに入ると、隣のスペースをポンポンと叩いた。「同じベッドで眠ること。これは夫婦の義務です」「何もしないのに、そこまでする必要ある?」 琴葉は言い返すが、伊吹は気にもとめない。「ありますとも。円満な夫婦関係のため、僕の良質な睡眠のため、外せません」「私の気持ちは無視ってわけね」「あはは。とりあえず3年は我慢してもらわないと」 拒否権はなかった。契約違反をすれば、500億円の違約金が待っている。「好きな人に手を出さないのは、僕だって我慢しているのになあ。あなたの気持ちを重んじたつもりなのになあ」 拗ねたような言葉は聞こえないふりをした。 そこまで気を遣ってやる義理はない。 琴葉はしぶしぶ布団に入り、照明のスイッチを切った。暗闇の中、背中合わせに横たわる。 広いベッドのはずなのに、すぐ背後に伊吹の体温を感じた。 しばらくすると衣擦れの音がして、背中にコツンと何かが当たった。 伊吹が額を押し付けてきたのだ。抱きしめてくるわけではない。 ただ、そこに琴葉がいることを確認するように、パジャマの裾を指先でちょこんと摘んできた。(……子供?) まるで雷に怯えて、母親の布団に潜り込んできた幼子のようだ。 昼間の冷徹な若き経営者の姿とはまるで違う。 この男は一体どちらが本当の姿なのだろう。 琴葉はろくに身じろぎもできず、背中の温もりを感じながら目を閉じた。 ◇ 深夜。うとうとしていた琴葉は、背後の異変で目を覚ました。 ベッドが小刻みに揺れている。伊吹が震えていた。 呼吸が荒く、うなされているようだ。「……ごめんなさい、お母さん……」 かすれた声が、暗闇い寝室に溶けていく。「ぶたないで……いい子にするから……」 悲痛な響きだった。 伊吹はさらに体を丸めて、琴葉の背中に必死にしがみついてきた。
Last Updated : 2026-01-31 Read more