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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 101 - Chapter 110

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2-26

「……なん、だって?」大迫からの定期報告。その内容を聞いた瞬間、冬弥は思考が一瞬途切れた。耳に入ってきた言葉は理解できるはずなのに、意味として繋がらない。『ですから、姐さん宛てに組長さんの愛人候補から手紙が来てるんです』画面越しに大迫がひらひらと茶封筒を振る。わざとらしいほど丁寧に、送り主の名前―――【谷川美香】の部分を映し出している。『これが今日届いたやつです』「……つまり?」『続々と届いています』冬弥の眉間に深い皺が刻まれた。『どれも中身は似たようなもんです。組長さんとの愛のメモリー、ってやつですね』「そんなものはない」即答だった。間髪入れない否定。だがそれは“大迫に対して”ではなく、自分自身に対して言い聞かせるような響きを帯びていた。『まあ、組長さんがハメ取りだの事後の記念撮影だのするタイプじゃないのは分かってますよ、俺はね』嫌な断言だった。「……あやめは?」大迫の軽口などどうでもよかった。重要なのはそこではない。あやめがそれを“どう受け取ったか”。それだけだった。『“うわあお”』「は?」思わず聞き返す。聞き間違いかと思った。『“うわあお”って声出してました。感心してる感じで』「……感心?」理解が追いつかない。大迫は一枚の写真を画面に映した。冬弥の視線がそこに吸い寄せられ、その後ろで樹が「うわあお」と呟く。写真の中で、谷川美香は脚を開き、白濁した液体で濡れた秘所を晒している。露骨で、挑発的な構図。誤解の余地もない悪意の塊。冬弥の顔が、静かに歪む。「……恥ずかしくないのか」吐き出すような呟きに、大迫が楽しそうに笑う。『姐さんも同じこと言ってましたよ』サムズアップ付きで報告される内容ではない。それでも、大迫にとっては特筆すべきことではない。(つまり……この手のが多数、あやめの元に届けられている)『以上がこっちの報告です。姐さんに報告しとけって言われたんで、ちゃんとやりましたけど……組長さん、大丈夫ですか?』その問いに、冬弥は答えない。答えられない。顔色は青白く、呼吸がわずかに乱れている。表情こそ変わらないが、内側では明らかに何かが崩れていた。「だめですね」代わりに樹が前に出る。『ですよねー』大迫が軽く笑う。『いやあ、女ってえげつないなって思うことは多いですけど、こ
last updateLast Updated : 2026-02-17
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2-27

「あやめお嬢様、お久しぶりです」穏やかでよく通る声が、静かな応接間に響いた。「本日は柊大臣に誘われまして……いやあ、本当にお綺麗になられて」深々と頭を下げるのは、柊謙一が長年贔屓にしている外商の西野だった。歳を重ねた柔和な顔立ちに、場慣れした物腰。顧客の懐に入ることに長けた男だと、一目で分かる。「西野さん、お久しぶりです。本日は無理を言ってしまって申し訳ありません」あやめもまた、外の顔で応じる。声色も表情も、整えられている。最近眠れず疲れ気味であるのに、それを一切感じさせない。「いえいえ、事情は柊大臣から伺っておりますので」柔らかな笑み。だがその目は、商人らしく冷静にあやめの状態を測っているようにも見えた。そのやり取りを少し離れた位置で見守りながら、大迫は鷹見に歩み寄る。「あの人、紳士服の外商ですよね」車を降りる際に預けられたカタログを軽く振る。「……そのようだな」鷹見は短く応じる。状況は把握している。あやめ宛てに送られてきた悪意ある写真の件も含めて。(若への贈り物……対抗心で?)そう考えたが、すぐに違和感が胸に引っかかった。違和感はもう一つ。柊謙一の視線が、あやめではなく――大迫に向いている。(……ああ、そういうことか)思い至る。大迫は、かつて柊邸を襲撃した実行犯。その記憶は消えない。いくら説明され、頭で納得していても、感情は別物だ。(当然だな)鷹見は静かに目を伏せた。理屈と感情は一致しない。それはこの場にいる誰もが理解している現実だった。「俺、なんか柊大臣にめっちゃ見られてるんですけど」当の本人だけが、まるで他人事のように首を傾げる。「俺、なんかやらかしました?」呆れとともに、鷹見は小さく息を吐いた。「……自分の胸に手を当ててよく考えろ。まだ一年も経っていない」「あ、そっか」(軽い……!)思わず額を押さえたくなる。その瞬間だった。「あ、しまった」西野の声が響く。落ち着いた調子から外れた、わずかな焦りが混じった声だった。「どうしました?」あやめが問いかける。「お嬢様にお会いするのが嬉しくて、カタログを一つ、車に置いてきてしまいました」苦笑混じりの言い訳。「……大迫」鷹見が呼ぼうとしたが、西野は手を振って制した。「いえいえ、場所が少々分かりにくいので。私が取ってまい
last updateLast Updated : 2026-02-17
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2-28

「そうは言っても、そうされる子じゃないんだけどね」「は?」急に切れた緊張に鷹見は対応できず、素の声が出てしまった。「あやめは妻に似ていると思っていたが、思いのほか私にも似ていたようだ」柊謙一の声音には、どこか誇らしさと、そして諦観にも似た響きが混じっていた。「……嬉しい、ですか?」鷹見が尋ねると、謙一は小さく肩をすくめる。「あやめは、妻を思い出させてくれる存在であり、俺がちゃんと父親として関わった証でもある。そんなあやめに俺と似たところがあるのは少しだけ嬉しい」そう言って笑うが、その笑みには苦いものもある。「少しだけ?」「似てほしくないところもあるからね」「それは……」「俺が神崎を見捨てられなかったように、あやめもまた冬弥君を見捨てられないのだろう」その言葉は断定ではなく、確信に近かった。血の繋がりとは、姿形だけでなく、性質にもある。理屈では切り捨てられても、感情がそれを許さない。謙一自身がそうであったように、あやめもまた、同じ泥濘に足を取られているのだ。.「お父様、お待たせしました」扉が開き、あやめが戻ってくる。鷹見と父の間に流れていた重苦しい空気を、あやめは一瞬で感じ取ったようだった。二人を見比べ、その瞳にわずかな理解の色が宿る。「探し物は見つかったかい?」「ええ。お父様は?」「納得はした」それ以上は語らない。しかし、そんな父親に向ける視線はどこか柔らかく、感謝と、そして覚悟を含んでいた。(柊氏はここまで読んでいるのか)鷹見は内心で舌を巻く。(しかし……)この父娘の関係は、情だけではない。互いに踏み込まない領域を知りながら、それでも支える距離を保っている。怖い父娘。思わずそんな感想が浮かぶ。.「姐さん、これ重すぎる! 一つじゃなかったんすか?」場の空気を壊すように、大迫の軽い声が響いた。その軽さが、今この場では妙に救いのように感じられる。「忘れ物をして、“そういえば”って他のものを持ってくることもあるでしょう?」「それは、そうですけど……何でこんなに? 本当に全部必要なんですか?」「必要よ。どんな服が大迫さんに似合うか分からないもの」「……へ? 俺?」間の抜けた声。鷹見も思わず目を見開く。(なぜ大迫?)だが次の瞬間、あやめはにっこりと微笑んだ。「愛人に贈り物」ひ
last updateLast Updated : 2026-02-18
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2-29

「まるで……パンドラの箱ですな」西野が苦笑混じりにそう言ったが、その言葉には軽い皮肉と、わずかな好奇が含まれていた。しかし鷹見には、その比喩はしっくり来なかった。パンドラの箱には最後に“希望”が残ると言われている。だが、いま目の前にあるこの箱には、そんなものが入っている気配は微塵もなかった。むしろ、蓋を開けた瞬間に溢れ出るのは、悪意と嘲笑、そして計算された毒だけだと直感的に理解できた。.あやめに促されて大迫が持ってきた箱。外見からして異様だった。蓋には無数の擦り傷が刻まれ、角は鈍く潰れている。丁寧に扱われてきたものではない。むしろ、何度も投げつけられ、叩きつけられ、それでも捨てられずに残されたような痕跡があった。その不穏さに、鷹見は無意識に息を詰める。やがて蓋が開かれ、中から取り出されたのは、冬弥と様々な女性が写った写真の束だった。光沢のある紙に焼き付けられたそれらは、一見すればただの男女の記録に見える。しかし、よく見れば不自然な点が多い。明らかに合成されたもの、冬弥の髪型や雰囲気が今とは異なる古いもの、そして意図的に親密さを強調するように切り取られた構図。どれもが見る者、つまり、あやめの感情をわざとらしく揺さぶるために選ばれている。「冬弥さんの愛人候補たちが送ってくるんです。選考のたびに」あやめの声は静かだった。だがその静けさは、感情がないからではない。むしろ、抑え込まれているからこそ、より重く響く。「書類選考は面談前だろう」柊謙一が当然のように言う。「問題はそこではありません」西野が穏やかに、しかし明確に切り返す。その言葉に、鷹見も同意せざるを得なかった。問題は手順ではない。意図だ。これらは単なる記録ではなく、明確な意思を持って送りつけられている。挑発であり、威嚇であり、そして宣戦布告に近いものだ。「お嬢様、舐められておりますね」「舐められているな」「私もそう思います」三者の言葉が重なる。あやめは静かに頷いた。その仕草はあまりにも丁寧で、逆にその内側にある感情の激しさを想像させる。「愛人候補たちだけではありません。冬弥さんも、鷹見さんも……皆、私を舐めています」その一言に、場の空気が止まった。鷹見は口を開きかけたが、何も言えなかった。否定できない。否定してしまえば、それは欺瞞になると分かっている
last updateLast Updated : 2026-04-16
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2-30

柊謙一は腕を組んだまま、値踏みするように大迫の全身を見渡した。その視線は鋭い。素材を吟味する職人のようでもあり、同時に娘を守る父親の警戒も滲んでいる。金に近い茶髪にはあからさまに眉を顰め、日焼け一つない艶やかな肌には小さくため息を落とし、着崩した細身のスーツの襟を指先でつまみ上げる仕草には、露骨な不満が込められていた。「まったく……こんなチャラついた男……どうやればコレをまともな人間に見せられるのか」その言葉は辛辣だが、同時に諦めてはいない声音でもあった。「お嬢様、柊議員。どうかご安心を。私にお任せいただければ、どんな男でも“それなり”に見せてみせます」西野は一歩前に出る。その目には迷いがなく、三十年という歳月で培われた確信が宿っていた。政財界の要人たちを相手にしてきた男にとって、人間の外見など調整可能な“条件”の一つに過ぎないのだろう。既に彼の視線は大迫を一個の素材として分解し、再構築する工程に入っていた。「まず、髪の色を変えましょう」即断だった。「この色、結構評判いいんだけどな」不満げに言う大迫に対し、西野は一切の情けを見せない。「あやめお嬢様に“信頼”を任された男には見えません。この色ではどう見ても夜の住人です。まずはそこから変えましょう」「なにそれ、つまんね……」「鷹見さん、教育的指導をお願いします」あやめの声に鷹見は頷き、拳を振り上げる。 ゴッ!鈍い音が響いた。「痛っ」頭を押さえる大迫の横で、拳を軽く振った鷹見が無言で息を整える。「大迫さん、言葉遣いも直してくださいね。性根は諦めましたから」あやめの一言に大迫はまた口を開いたが、鷹見を見て諦めた。「鷹見さん、調教をお願いしますね」「畏まりました」.「それじゃあ、スーツの色と素材を選ぶか」柊謙一の合図に、西野はタブレットを操作する。表示されるのは複数の候補。ネイビー、チャコールグレー、ミディアムグレー。どれも落ち着きと信頼感を象徴する色味で、今の大迫の赤いスーツとは対極に位置していた。「このチャコールグレーは議員の方々に人気ですが、彼の華やかさを活かすならネイビーに微光沢のある生地も悪くありません」「光沢ですか……チャラい男は背筋が寒くなるのですが……」あやめは露骨に眉をひそめる。「あやめちゃん、俺のこと嫌いなの?」「はい、生理的に嫌いです
last updateLast Updated : 2026-02-18
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2-31

「大迫、お前、ここで、何をしている?」冬弥の低い声が、わずかに油とソースの匂いが漂う室内に落ちた。その声音には、呆れと警戒がない交ぜになっている。問いかけられた大迫は、気負う様子もなく顔を上げた。左手には缶ビール、口の端には拭ききれていないソースの跡。場違いなほど気の抜けた姿だったが、その目だけは相変わらず底の読めない光を宿している。「兄貴の家で、お好み焼きを食ってます」あっけらかんとした返答に、冬弥の眉間の皺が深くなる。「仕事はどうした?」「仕事で来たんですよ」そう言って大迫は、まるで証拠でも示すようにスマートフォンを取り出した。口の中のものを飲み込む仕草すら、どこか余裕がある。「もしもし、俺。あやめさんに、組長さん帰ってきたって伝えてください」「……あやめ?」思わず漏れた呟きに、大迫は小さく頷いた。「はーい、分かりました」短い応答の後、通話は切れる。電話口の向こうにいる相手に軽く言い放つその態度に、冬弥の中で引っかかるものが生まれる。しかし、大迫はすでに冬弥が解雇し、あやめが再雇用した者。大迫はあやめの指示で動いていると思えば、我慢すべきだと冬弥は自制する。「相手は誰だ?」「早苗さん。組長さんに伝言、”ざまあみろ”だそうです」「……そうか」短く返しながらも、冬弥の胸の奥に小さな棘が刺さる。自分が不在の間に築かれた関係。その中で交わされる軽口の温度。それを測りかねている自分に気づき、わずかに苛立ちが滲んだ。大迫は体勢を変え、冬弥の背後に控える樹へと視線を向ける。「あやめさんが、樹さんに資料を送るので、確認してください」事務的な口調。しかしその裏にあるのは、確実に物事を進めているという自負だろう。「それを言いにわざわざ来たのか?」「あとは、この格好を見せびらかしに」そう言って両手を広げる大迫の姿に、冬弥の視線が自然と吸い寄せられる。ネイビーのスリーピース。体に無駄なく沿い、粗野だった印象を削ぎ落としている。鷹見から報告を受けていた、あやめが大迫に買い与えた服だ。「……随分と目に優しくなったな」「あやめさんに、自分のものになるならこれを着ろと煩くて」(……”自分のもの”)その言葉が、冬弥の内側に鈍い波紋を広げる。視線は自然と大迫の胸元へと落ちた。そこには、菖蒲の花が彫り込まれたネクタイピン。銀細工のような
last updateLast Updated : 2026-02-19
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2-32

 コンコン控えめでありながら、寸分の狂いもない間合いで扉が叩かれる。(約束の五分前……)冬弥は腕時計に視線を落とし、わずかに口元を歪めた。時間を守る者は多いが、この「五分前」という選択には、相手の性質が滲む。早すぎず、遅れず、そして自分の存在を誇示しすぎない。ノックも一度だけ。遠慮とも違う、迷いのなさがそこにあった。(さすが、あやめの“代理人”だな).「入れ」短く告げると、扉が静かに開く。先に姿を現したのは大迫だった。前回のような食べ物の匂いはない。代わりに、整えられた空気の中に、彼の輪郭だけが際立つ。ネイビーのスリーピースは今日も完璧に体に馴染み、無駄な皺一つない。粗野さは影を潜め、代わりに研ぎ澄まされた刃物のような印象を与える。そして、その胸元――菖蒲のネクタイピンが、静かに光を弾いていた。主張はしないが、確実に目を引く存在感。「鷹宮昴、連れてきました」大迫は半歩身を引き、後方へと手を差し出す。その仕草すら計算されているように見えた。冬弥はわずかに目を細める。愛人という言葉から連想される、派手で艶やかな女の姿を思い浮かべる。しかし、その予想は裏切られることになる。.部屋に入ってきた鷹宮昴は、装飾とは無縁の存在だった。年齢は冬弥と同程度。背丈は平均的で、特別に目を引く要素はない。だが、目を離せない。濃紺のスーツは質実剛健で、余計な飾りは一切排されている。アクセサリーもただ一つだけ――。「……菖蒲?」冬弥の視線が、自然とその一点に引き寄せられる。左の襟元に留められた銀のブローチ。菖蒲の花を模したそれは、大迫のネクタイピンと酷似していた。ただ一つの違い――鷹宮昴のそれは、花弁を開いている。「……それは……」言葉になりきらない問いを受け、大迫は自分の胸元と昴の襟元を見比べ、軽く笑う。「これは支給品です」「支給品……」その言葉の無機質さに、冬弥は苦笑する。(贈り物ではなく、支給品とは……随分と、色気がない……)だが同時に、その「色気のなさ」こそが、逆に異質な関係を意味していることにも気づく。与えられたもの、統一された意匠、そしてそこに込められた意図。個人の装飾ではなく、所属と機能の証。.「鷹宮昴です」紹介の言葉を発したのは、大迫だった。昴自身は何も言わない。ただ、まっすぐに冬弥を見る。
last updateLast Updated : 2026-02-19
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2-33

冬弥は瞬きを一つした。「あやめの、代理人?」その言葉の重さを測るように、ゆっくりと繰り返す。「あやめ様の意思を公の場で言語化し、鷹宮昴として実行します」樹が思わず口を挟む。「そんなことは……」「なにか問題がありますか? もちろん、私にはそれができる能力があります」淡々とした声。その平坦さが、むしろ真実味を帯びている。「……いや」冬弥は手で制し、続きを促す。「私は男が嫌いです。ですから、女としてあなたに何かを求めることはありません。求めるとすれば、それはあやめ様の代理人として意思を伝えるときのみ」あまりにも直線的な言葉だった。「なぜ、男嫌いに?」問いに対し、昴は即答する。「“女だから”という理由で成果を奪われ、“女だから”という理由で従属を強いられました」そこに怒りはない。ただの事実。「男は欲望を満たすことしか考えていない。だから嫌いです。何も期待していません。感情も、忠誠も、善意も」「……なぜ、あやめだ」一拍の沈黙。鷹宮昴は冬弥をまっすぐに見据える。「あやめ様は女性です。男性の欲望とは無縁。そして、あやめ様もまた、利用されていました――過去形ですけれどね」「過去形、か」「はい。私が代理人になったので過去です」鷹宮昴は自らの胸に手を添える。「私はあやめ様の武器の一つ。そして、あやめ様は私にあなたの【愛人】として振る舞うことで、あなたの武器となることを望まれました」沈黙が落ちる。冬弥の視線は、鷹宮昴の胸元――菖蒲のブローチに吸い寄せられる。それは装飾ではない。標章。所有と役割を示す証。「……なるほど……ハハハッ」不意に、冬弥は笑った。可笑しくてたまらないというように。この世界が望む形式をなぞりながら、その内側で全く別の意図を通す。つまり、自分の代理人となる女に【愛人】という仮面を被せ、その実、自分の意思と力を差し込む構造。「随分とおっかねえ武器を俺に渡したもんだ」視線を大迫へ向ける。「あやめは?」尋ねられた大迫が、ニッと笑う。「伝言です。とりあえず鷹宮昴を連れてあの谷川さんにギャフンと言わせてきてください、だそうです」「なるほど」「あと、それまで口はきかない、だそうです」冬弥の視線が細まる。「つまり?」「あやめさんにいま愛を囁くなら、その言葉は俺がお預かりします……ってこと
last updateLast Updated : 2026-04-16
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2-34

昴は指先を持ち上げ、色をのせた自分の爪をじっと見つめる。均一に整えられた曲線。控えめでありながら確かな存在感を放つ色味。薦められたネイルサロンで、数あるメニューの中から彼女自身が選び取ったもの。数少ない「自分の意思」の証。与えられた役割でも、誰かの意図でもない、自分で選んだもの。だからこそ、その小さな装いに、昴は無意識のうちに執着していた。「この世界で純愛って、生きにくくないですか?」何気ない調子で放たれた問いは、しかし軽さとは裏腹に、鋭く核心を突くものだった。隣に座る神崎冬弥は、視線を前方に据えたまま、わずかに間を置いて答える。「今回は、正直堪えた」その声音には、普段見せることのないであろう疲労が滲んでいた。強固な意志で塗り固められた男の、ほんのわずかな綻び。「そうでしょうね」昴は短く応じる。その言葉には同情も慰めもない。ただ、因果として当然の帰結を受け止めているだけだった。その間にも、神崎冬弥は何度もスマートフォンへと視線を落とす。通知が来ているわけでもないようだ。ただ、そこにあることを確認するかのように、指先で触れ、画面を点けては消す。その反復は、理性では抑えきれない感情の表出だった。「あやめ様、首を長くしてお待ちですよ」昴の口元が、ほんのわずかに緩む。自分がそんな、親切心みたいなことを発揮したことが、おかしかった。もちろんこれは揶揄ではない。観察の結果としての一言。「……なにか、聞いているのか?」「いいえ」昴は首を横に振る。「なんとなく、勘です」そう答えながらも、その勘が的中していることを理解していた。沈黙が車内に落ちる。しかしそれは居心地の悪いものではなく、思考のための余白だった。昴は意識を内側へと向け、これまでに得た情報を静かに再構築する。神崎冬弥の【愛人】は現時点で自分一人。だが、大迫から提示された他の候補者たちは、いずれも龍神会に明確な利益をもたらす女たちだった。その段階では、極めて合理的な人選だと理解していた。しかし、「本来の候補」との比較が、その認識を覆す。神崎あやめが用意した女たちは、単なる代替ではない。すべてが上位互換。役割、能力、影響力、そのいずれにおいても、神崎冬弥が“選んだ”候補を上書きする精度で配置されている。(そして、谷川美香の上位互換が私)昴は自分自身を、その構造
last updateLast Updated : 2026-02-20
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2-35

「お帰りなさいませ」屋敷の門をくぐった冬弥を、整然と並んだ組員たちが出迎える。だが、その列の中に求める姿はない。冬弥は形式的な頷きだけを返し、足を止めることなく奥へ進んだ。胸の奥が、落ち着かない。帰還した気がしない。帰る場所がここであることに変わりはない。しかし、帰り着くべき相手が見当たらない。それだけでこんなにも空白が広がるものかと、冬弥の中に自嘲すら浮かぶ。「あやめは?」短く問えば、誰もが答えようと口を開きかける。しかし、何かを伺うように「それ」を口にはしない。我慢しきれず、冬弥はもう踵を返していた。答えを聞くよりも先に、身体が向かう場所を分かっていた。(あやめがいるなら、あそこだ)夜気の中、迷いなく四阿へと向かう足取りは速いというより、焦りを押し殺した抑制の速度だった。背後で早苗が「ああ」と小さく笑い声を漏らす。「伝え損ねましたね」肩を竦めながらも、その口元は笑っていた。「勘がよいことで」集まっていた者たちへ軽く手を振り、解散を促す。誰も追わない。追う必要がないと、全員が理解していた。.四阿が冬弥の視界に入る。今夜は新月で、庭は墨を流したように暗い。灯りはない。人の気配も、風に紛れて曖昧だ。冬弥は一度足を止める。わずかな違和感――いるはずだという確信と、見えない現実との齟齬。暗い四阿。(……いない、のか?)ここではないかのか、と冬弥が踵を返そうとした。そのときだった。ふっと、四阿の奥で淡い光が灯る。息をするほどの弱さで、しかし確かにそこに在る灯り。(……いた)走ってきたからか、それとも緊張か。冬弥は乱れていた呼吸を整え、足音を殺して近づいた。強く踏み込めば、冬弥の気配を察すれば、消えてしまいそうなほど儚い光の存在だった。壊れ物に触れるときのように、距離を詰める。柱の影を抜け、内部が見えた瞬間。四阿の常夜灯の淡い明かりの中に、細いシルエットが浮かぶ。肩に落ちる髪。わずかに俯いた横顔。安堵が胸の奥から溢れ、知らず吐息が漏れた。ここに、許可なく入れるのは一人だけだ。それでも、あやめだと知るまで、「ここにいる」と冬弥は思うことができなかった。「あ……」あやめの名を呼ぼうとした声は、喉の途中で止まる。スマートフォンの画面の光が、あやめの顔を下から照らした。白磁のような肌に
last updateLast Updated : 2026-02-20
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