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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 101 - Chapter 110

231 Chapters

2-26 届いた悪意

「……なんだって?」大迫からの定期報告を聞いた瞬間、冬弥の思考が一瞬途切れた。言葉は耳に入っている。だが意味として繋がらない。『ですから、姐さん宛てに組長さんの愛人候補から手紙が来てるんです』画面越しに大迫が茶封筒をひらひらと振る。わざとらしく送り主の名前――【谷川美香】の部分を映してみせた。『これが今日届いたやつです』「……つまり?」『何通も届いています』冬弥の眉間に深い皺が刻まれる。『中身はどれも似たようなもんです。組長さんとの愛のメモリー、ってやつですね』「そんなものはない」即答だった。間髪入れない否定。その響きは大迫へ向けたものというより、その先にいるあやめに向けているようであった。『まあ、組長さんが記念写真だの証拠写真だの残すタイプじゃないのは分かってますよ。俺はね』嫌な断言だった。「……あやめは?」大迫の軽口などどうでもいい。重要なのは、あやめがそれをどう受け取ったかだった。『“うわあお”って言ってました』「は?」『感心した感じで、“うわあお”って』理解が追いつかない冬弥へ、大迫は一枚の写真を画面に映した。冬弥の視線が吸い寄せられ、その後ろで樹が思わず「うわあお」と呟く。写真には、谷川美香があまりにも露骨で挑発的な姿で写っていた。誤解を生むためだけに作られた、悪意の塊のような一枚だった。冬弥の顔が静かに歪む。「……恥ずかしくないのか」吐き捨てるような声に、大迫が楽しそうに笑う。『姐さんも同じこと言ってましたよ』そんな報告を軽くされる状況ではない。だが大迫にとっては、すでに見慣れた話題になっているらしい。(つまり、この手のものが何通も、あやめの元へ届いている)『以上がこちらの報告です。姐さんに報告しろって言われたんで、ちゃんと伝えましたけど……組長さん、大丈夫ですか?』冬弥は答えなかった。答えられなかった。顔色は青白く、呼吸もわずかに乱れている。表情こそ大きく崩れていないが、内側では明らかに何かが崩れていた。「駄目ですね」代わりに樹が前へ出る。『ですよねー』大迫が軽く笑った。『いやあ、女ってえげつないと思うことは多いですけど、この谷川美香って女は別格ですね』画面には次々と別の写真が映される。樹はそれを見て深くため息を吐いた。『明らかに事後って感じですけど、やったんす
last updateLast Updated : 2026-02-17
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2-27 父の覚悟

「あやめお嬢様、お久しぶりです」穏やかでよく通る声が、静かな応接間に響いた。「本日は柊大臣にお誘いいただきまして……いやあ、本当にお綺麗になられました」深々と頭を下げたのは、柊謙一が長年贔屓にしている外商の西野だった。歳を重ねた柔和な顔立ちに、場慣れした物腰。顧客の懐へ自然と入り込む術を知る男だと一目で分かる。「西野さん。お久しぶりです。本日は無理を申し上げてしまい、申し訳ありません」あやめもまた、政界で培った“外の顔”で応じる。声色も笑みも整えられ、最近ほとんど眠れていないことなど微塵も感じさせない。「いえいえ。事情は柊大臣から伺っておりますので」西野も柔らかな笑みを返す。しかし、その瞳は商人らしく冷静にあやめの様子を観察していた。少し離れた場所からそのやり取りを見ていた鷹見に大迫が近づく。「あの人が持ってきたの、紳士服なんすけど」車を降りる際に渡されたカタログを大迫が軽く振る。「……そのようだな」鷹見は短く答えた。しかし頭はこの不可解な状況に戸惑っていた。情報は共有している。あやめのもとへ送りつけられた写真の件も含めて。(紳士服なら、若への贈り物……か?)愛人への対抗心。仲直り。いくつか考えたが、すぐに違和感が胸をよぎる。もう一つ、気になることがあった。柊謙一の視線が、あやめではなく――大迫へ向けられたからだ。何かを測るような目。(……警戒なら分かるが)大迫は、かつて柊邸襲撃に加わった実行犯だ。柊謙一に怪我はなかったが、あやめは攫われている。その記憶は消えていないに違いない。大迫については柊謙一にも報告は入れた。彼の回答は冬弥に判断を任せるというものだった。(事情を理解していても、感情は別だろう……当然だな)鷹見は静かに目を伏せた。理屈と感情は一致しない。それは現実だった。「俺、なんか柊大臣にめっちゃ見られてるんですけど」しかし、当の本人は、まるで他人事のように首を傾げた。「俺、何かやらかしました?」(……本気で言ってんのか?)鷹見は呆れ混じりに小さく息を吐いた。「……自分の胸に手を当てて考えろ。まだ一年も経っていない」「あ、そっか」(軽いっ!)思わず額を押さえたくなる。そのときだった。「あ、しまった」西野の声が響く。これまでの落ち着いた調子から外れた、焦ったような
last updateLast Updated : 2026-02-17
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2-28 夫から贈られたもの

「そうは言っても、あの子はそうされる子じゃないんだけどね」「……は?」張り詰めていた空気が突然緩み、鷹見は思わず素の声を漏らした「どういう意味でしょうか」柊謙一は小さく笑う。「あやめは妻に似ていると思っていたが、思いのほか私にも似ていたようだ」その声音には父親としての誇らしさと、どこか諦めにも似た響きが混じっていた。「……嬉し、くないのですか?」鷹見が尋ねると、謙一は肩をすくめる。「あやめは妻を思い出させてくれる存在だった。そんなあやめに俺に似たところがある。それは俺が父親として関われた証。それは嬉しいが――少しだけだ」少し砕けた笑い方。俺という一人称。これが柊謙一の本音だと分かる。その笑みに滲む苦さも。「少しだけ、ですか?」「似てほしくないところは多い……そして、嫌なところが似てしまったようだ」嫌だと言うには、嫌悪感を感じない声だった。「俺が神崎を見捨てられなかったように、あやめもまた冬弥君を見捨てられないのだろう」断定ではない。しかし、それは確信に近い言葉だった。血は姿形だけでなく、性質までも受け継ぐ。理屈では切り捨てられても、感情がそれを許さない。謙一自身がそうであったように、あやめもまた同じ泥濘へ足を踏み入れている。そう感じさせる声だった。◇◇◇「お父様、お待たせしました」扉が開き、あやめが戻ってくる。鷹見と父の間に流れていた重苦しい空気を、あやめは一瞬で察したようだった。二人を見比べ、その瞳に小さな理解の色が宿る。「探し物は見つかったかい?」「ええ」あやめは静かに頷いた。「お父様は?」その問いかけに、わざとあやめが鷹見と柊謙一を二人にしたことを察した。「まあ……納得はした」それ以上は語らない。 だが、その短い言葉だけで十分だった。あやめは穏やかに微笑み返す。感謝と。(……覚悟)その両方が滲む笑みだった。(柊氏はここまで読んでいたのか)鷹見は内心で舌を巻く。(しかし……)この父娘は情だけで結ばれているわけではない。互いに踏み込まない領域を理解し、絶妙な距離で支え合っている。強い。思わず、そんな感想が浮かんだ。「姐さん、これ重すぎる! 一つじゃなかったんすか?」場の空気を壊すように、大迫の軽い声が響いた。その軽さが、今だけは妙な救いにも思えた。「忘れ物を
last updateLast Updated : 2026-02-18
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2-29 反撃の一手

「まるで……パンドラの箱ですな」西野が苦笑交じりに呟く。軽い皮肉と、わずかな好奇心が滲む声音だった。だが鷹見には、その例えはしっくりこなかった。パンドラの箱ならば、中には“希望”があるはずだ。しかし、この箱にはそんなものは入っているとは思えない。蓋を開ければ溢れ出すのは、悪意と嘲笑、そして計算し尽くされた毒だけ。鷹見にはそうとしか思えなかった。.あやめに促され、大迫が運んできた箱。見た目からして異様だった。蓋には無数の擦り傷が刻まれ、角は潰れている。どう見ても、大切に扱われてきた箱ではない。何度も投げられ、叩きつけられ、それでも捨てられることなく残された――そんな痕跡だった。箱から滲む不穏さに、鷹見は無意識に息を呑む。そんな鷹見の緊張感をよそに、あやめが蓋を開く。中から現れたのは、冬弥と様々な女性が写る大量の写真だった。一見すれば、男女の思い出を収めた写真。だが、よく見れば不自然なものばかりだった。明らかに合成されたもの。今とは髪型も雰囲気も違う、何年も前の写真。それでも、写真の意図は分かりやすい。親密さだけを強調するよう意図的に切り取られた構図。どれも、見る者――つまり、あやめの心を揺さぶるためだけに選ばれている。「冬弥さんの愛人候補たちが送ってくるんです。選考のたびに」あやめは淡々と言った。その静けさが、かえって胸に刺さる。感情がないのではない。押し殺しているからこその静けさだった。「書類選考は面談前だろう」「問題はそこではありません」柊謙一の言葉を西野が穏やかに切り返した。鷹見も同じ考えだった。このさい手順などどうでもいい。問題は――あやめの意図だ。これを見せて仕返しを求めるような、そんな感情的な無駄をあやめがするとは思えない。鷹見は思わず柊謙一と西野を見た。鷹見は理解していた。彼らはあやめの意図が分かっている。.「お嬢様、舐められておりますね」「舐められているな」「私もそう思います」三人の言葉が重なる。あやめは静かに頷いた。「愛人候補たちだけではありません」一度、言葉を区切る。「冬弥さんも、鷹見さんも……皆、私を舐めています」場の空気が止まった。鷹見は口を開きかけ、閉じる。否定できなかった。夫にとって都合のいい愛人を与えられるなど、妻からしてみたら“舐めてい
last updateLast Updated : 2026-04-16
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2-30 代理人

柊謙一は腕を組んだまま、大迫を頭の先から足元までゆっくりと見渡した。その視線は鋭い。素材を吟味する職人のようでもあり、同時に娘を守る父親の警戒も滲んでいる。金に近い茶髪に眉をひそめる。日に焼けていない白い肌に小さく息をつき、着崩した細身のスーツの襟を指先でつまみ上げた。「まったく……こんなチャラついた男を、どうやればまともな人間に見せられるのか」辛辣な物言いだった。だが、その声には諦めではなく、どう料理するかを考える響きがあった。「柊議員、お嬢様。どうかご安心ください」西野が一歩前へ出る。「私にお任せいただければ、どんな方でも"それなり"には見せてみせます」迷いのない声だった。三十年以上、政財界の要人を相手にしてきた男にとって、人の外見とは調整可能な条件の一つに過ぎない。その目はすでに、大迫という素材を分解し、組み直し始めていた。「まずは髪ですね」即断だった。「この色、結構評判いいんだけどなあ」不満そうな大迫に、西野は情けを見せない。「この髪色では、お嬢様から信頼を任された方には見えません。どう見ても夜の住人です」「なにそれ、つまんね……」「あら」あやめが微笑む。「鷹見さん、教育的指導をお願いします」「畏まりました」ゴッ。鈍い音が響いた。「痛っ!」頭を押さえてうずくまる大迫の横で、鷹見は軽く拳を振る。「あとは言葉遣いですね」あやめは淡々と言う。「性根は諦めましたので」大迫が何か言い返そうとした。しかし鷹見と目が合うと、口を閉じる。「鷹見さん、調教もお願いします」「承知しました」.「では、スーツを選びましょう」柊謙一の一言で、西野がタブレットを操作する。画面にはネイビー、チャコールグレー、ミディアムグレー。どれも落ち着きと信頼感を与える色だった。「議員の方々にはチャコールグレーが人気ですが、この方ならネイビーもよろしいでしょう」西野が説明する。「上質なウールにシルクを少量混ぜた生地です。光の当たり方で深みが出ます」「光沢ですか……」あやめが露骨に眉を寄せる。「チャラい男に艶なんて、背筋が寒くなるのですが」「あやめちゃん、俺そんなに嫌われてる?」「はい」即答だった。「生理的に嫌いですよ」「辛辣な即答!」「ご安心ください」西野は穏やかに続ける。「夜のスーツのような派手
last updateLast Updated : 2026-02-18
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2-31 妻から贈られたもの

「大迫、お前……ここで何をしている?」冬弥の低い声が、油とソースの匂いが漂う室内へ落ちた。呆れと警戒が入り混じった声音だった。呼ばれた大迫は、気負う様子もなく顔を上げる。左手には缶ビール。口元には拭ききれていないソース。どう見ても仕事中には見えない姿だったが、その目だけは相変わらず底が読めなかった。「兄貴ん家で、お好み焼き食ってます」あっけらかんと答える。冬弥の眉間の皺が深くなる。「仕事はどうした?」「仕事ですよ」大迫は当然のようにスマートフォンを取り出した。口の中のものを飲み込み、どこか余裕のある動作で通話を繋ぐ。「もしもし、俺です。組長さん帰ってきたって、あやめさんに伝えてください」「……あやめ?」思わず漏れた呟きに、大迫は軽く頷く。「はい、お願いしまーす」それだけ言って通話を切った。「相手は?」「早苗さんです」大迫は肩をすくめる。「組長さんへの伝言で、『ざまあみろ』だそうです」「……そうか」短く返したものの、胸の奥へ小さな棘が刺さる。自分のいない一か月半。その間に築かれた関係。そこで交わされる軽口。それを自分は知らない。(……いや)大迫はもう自分が雇っている人間ではない。解雇し、あやめが雇い直した。ならば、あやめの指示で動くのは当然だ。そう思って、自分を抑える。大迫は今度は樹を見る。「あやめさんから資料が送られるんで、確認お願いします」事務的な口調だった。だが、その裏には仕事を進めている自負が滲んでいる。「それを言いに来ただけか?」「あと、この格好を見せびらかしに」そう言って両腕を広げる。冬弥の視線が自然と吸い寄せられた。ネイビーのスリーピース。無駄なく身体に沿い、粗野な印象を驚くほど削ぎ落としている。鷹見から報告を受けていた。あやめが選び、買い与えた服だ。「……随分と目に優しくなったな」「でしょう?」大迫は得意げに笑う。「あやめさんが『私の代理人になるなら、このくらい着こなしてください』ってうるさくて」(……代理人)冬弥の胸に鈍い波紋が広がる。視線は自然と胸元へ落ちた。そこには菖蒲を模したネクタイピン。精巧な銀細工。紫金の七宝で彩られた花弁が、光を受けるたび青紫から赤紫へ色を変える。花の根元には細い蔓。銀の蔓がワインレッドのネクタイへ絡みつき、逃
last updateLast Updated : 2026-02-19
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2-32 神崎あやめの代理人

 コンコン――。控えめでありながら、寸分の狂いもない間合いで扉が叩かれた。(約束の五分前か)冬弥は腕時計へ視線を落とし、小さく口元を緩める。時間を守る者は多い。だが、この「五分前」という距離感には、その人物の性格が滲む。早すぎず、遅すぎず。存在を誇示することもない。ノックも一度だけ。遠慮とも違う。迷いのなさだけが残る音だった。(……あやめの代理人らしい)「入れ」短く告げる。静かに扉が開いた。最初に姿を見せたのは大迫だった。前回のようなお好み焼きの匂いはしない。整えられた空気の中に、その姿だけが浮かび上がる。ネイビーのスリーピース。身体へ無駄なく沿い、一つの皺もない。以前の粗野さは影を潜め、代わりに研ぎ澄まされた刃物のような印象を与えていた。胸元では、菖蒲のネクタイピンが静かに光を返している。主張しない。だが、確かな存在感があった。「鷹宮昴さん、お連れしました」大迫は半歩下がり、後方へ手を差し出す。その動作まで洗練されていた。冬弥はわずかに目を細める。愛人。その言葉から連想するのは、華やかで艶やかな女。しかし――その予想は外れた。部屋へ入ってきた鷹宮昴は、装飾とは無縁の存在だった。年齢は冬弥と同じくらい。背丈も平均的。派手さはない。それなのに、不思議と目が離せなかった。濃紺のスーツ。実用だけを追求したような仕立て。余計な装飾は一切ない。身につけているアクセサリーも、一つだけ。冬弥の視線が自然とそこへ吸い寄せられる。「……菖蒲か」左襟に留められた銀のブローチ。菖蒲を象ったそれは、大迫のネクタイピンと酷似していた。違うのは一つだけ。昴の菖蒲は、花が大きく開いている。「……それは」言葉にならない問いに、大迫が笑う。自分の胸元と昴の襟元を交互に示した。「支給品です」「支給品……」その無機質な言葉に、冬弥は苦笑する。(贈り物ではなく、支給品か)色気がない。あまりにも。だが同時に、その色気のなさこそ、この関係を物語っていた。所属を示す印。機能を果たすための証。個人への贈り物ではなく、役割を与えられた者だけが身につけるもの。「鷹宮昴さんです」紹介したのは大迫だった。昴自身は名乗らない。ただ真っ直ぐ冬弥を見る。媚びない。挑まない。評価もしない。ただ静かに
last updateLast Updated : 2026-02-19
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2-33 愛人の正体

冬弥は一度だけ瞬きをした。「あやめの……代理人?」その言葉の意味を確かめるように、ゆっくりと繰り返す。「はい」昴は迷いなく頷いた。「あやめ様の意思を公の場で言語化し、鷹宮昴として実行します」「そんなことは――」思わず樹が口を挟む。昴は静かに視線を向けた。「何か問題がありますか?」落ち着いた声音。「もちろん、その能力はあります」感情の起伏がない。だからこそ、その言葉には揺るぎない自信だけが残る。「……いや」冬弥が片手を上げ、樹を制した。「続けろ」「私は男が嫌いです」あまりにも真っ直ぐな言葉だった。「ですから、女としてあなたに何かを求めることはありません」一拍置く。「求めるとすれば、それはあやめ様の代理人として、意思を伝えるときだけです」冬弥は昴を見つめた。「なぜ、そこまで男を嫌う」「男だから、です」即答だった。「"女だから"という理由で成果を奪われ、"女だから"という理由で従属を求められました」怒りはない。恨みさえ感じさせない。ただ、事実だけを並べている。「男は欲望を満たすことしか考えていない」昴は淡々と続ける。「だから嫌いです」静かな声。「期待もしていません。感情も、忠誠も、善意も」冬弥は短く息を吐く。「……それなら、なぜあやめなんだ」わずかな沈黙。昴は冬弥を真っ直ぐ見据えた。「あやめ様は女性です」その一言だけで十分だった。「男性の欲望とは無縁です」さらに続ける。「あやめ様もまた、あなたたちに利用されてきた方だったから」「……だった?」「過去形です」昴は迷わず答える。「私が代理人になりましたので」そう言って、自らの胸へ手を添えた。「私は、あやめ様の武器の一つです」その視線は揺るがない。「あやめ様は、私にあなたの【愛人】として振る舞わせることで、あなたの武器にもなることを望まれました」室内が静まり返る。冬弥の視線は、昴の胸元にある菖蒲のブローチへ落ちた。装飾ではない。標章。役割を示す証。「……なるほど」ぽつりと漏らす。そして。「ハハハッ」突然、冬弥が笑い出した。可笑しくてたまらない。そんな笑いだった。「この世界が望む形を使って、その中身だけ全部すり替える気か」笑いながら呟く。「愛人という仮面を被せ、その中であやめの意思を動かす」冬弥はゆ
last updateLast Updated : 2026-04-16
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2-34 鷹宮昴

昴は指先を持ち上げ、色づいた爪を静かに眺めた。均一に整えられた曲線。控えめでありながら、確かな存在感を放つ色味。薦められたネイルサロンで、自分の意思で選んだデザインだった。役割として与えられたものではない。誰かに決められたものでもない。数少ない、「自分で選んだもの」。だからこそ、その小さな彩りに、昴は無意識のうちに執着していた。「この世界で純愛って、生きにくくないですか?」何気ない口調だった。しかし、その問いは思いのほか鋭かった。隣に座る冬弥は、前を向いたまま少しだけ間を置く。「今回は、正直堪えた」短い返答。その声には、普段見せない疲労が滲んでいた。揺るがないと思っていた男の、ほんの小さな綻び。「でしょうね」昴は淡々と答える。慰める気はない。同情する気もない。因果として当然の結果を受け止めただけだった。冬弥はその間にも何度もスマートフォンへ視線を落とす。通知は来ていない。それでも画面を点け、消し、また点ける。無意識なのだろう。理性で抑え切れない感情だけが、その動作に現れていた。「あやめ様、首を長くして待っていらっしゃいますよ」昴は思わず口元を緩める。自分がこんな言葉を口にするとは思わなかった。揶揄ではない。ただ、観察した結果を伝えただけだ。「……何か聞いているのか」「いいえ」昴は首を振る。「勘です」そう答えながら、その勘が外れていないことも理解していた。沈黙が落ちる。だが、不快ではない。考えるための静けさだった。昴は意識を内側へ向ける。これまで集めた情報を、一つずつ整理していく。神崎冬弥の【愛人】は、現在は自分だけ。だが、大迫から提示された候補者たちは、どれも龍神会へ利益をもたらす女ばかりだった。最初は合理的な人選だと思っていた。しかし、本来の候補と比較して考えると、その印象は一変する。あやめが選んだ女たちは、代用品ではない。すべて上位互換だった。役割。能力。影響力。どれを取っても、冬弥側が用意した候補を上書きしている。(そして、谷川美香の上位互換が私)偶然ではない。選ばれた。明確な意図を持って。旧財閥系ファンドの中枢に囲われた自分へ接触することが、どれほど難しいかは誰よりも理解している。情報は遮断される。接触も制限される。監視も厳しい。その閉ざされ
last updateLast Updated : 2026-02-20
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2-35 「おかえりなさい」

「お帰りなさいませ」屋敷の門をくぐった冬弥を、整然と並んだ組員たちが迎えた。だが、その列の中に、探している姿はない。冬弥は形式的に頷くだけで足を止めず、そのまま屋敷の奥へ進む。胸の奥が落ち着かなかった。帰ってきた。そのはずなのに、帰ってきた気がしない。帰る場所は変わらない。だが、帰り着くべき相手が見当たらない。それだけで、心のどこかにぽっかりと穴が開く。(……俺も重症だな)自嘲が漏れそうになる。「あやめは?」短く尋ねる。誰もが答えようと口を開きかける。しかし、その前に冬弥は踵を返していた。答えを聞くまでもない。身体のほうが先に向かう場所を知っていた。(あやめがいるなら……あそこだ)夜気の中を歩く。速くはない。焦りを押し殺した速度だった。.冬弥の背中を見送って、早苗は小さく笑った。「伝え損ねましたね」肩をすくめながら、楽しそうに続ける。「勘がよろしいことで」早苗の言葉に、数人が笑う。早苗は集まっていた者たちへ軽く手を振る。「解散してください」誰も冬弥のあとを追わない。追う必要がないことを、皆が理解していた。 ◇◇◇四阿が視界へ入る。今夜は新月。庭は墨を流したように暗い。灯りはない。人の気配も感じられない。冬弥は足を止めた。いるはずだという確信。見えない現実。その食い違いに、胸がざわつく。(……いないのか)違ったか。そう思い、踵を返しかけた。その時。ふっと。四阿の奥で、小さな灯りがともる。呼吸をしたら消えてしまいそうなほどに弱い光だった。それでも、仄かな光は確かにそこにあった。(……いた)冬弥は乱れた呼吸を静かに整える。走ってきたせいか。それとも緊張か。自分でも分からないほど、呼吸が荒い。足音を殺しながら近づく。強く踏み込めば消えてしまいそうなほど、その灯りは儚かった。(もう、逃げられたくない)壊れ物へ触れるように、一歩ずつ距離を詰める。柱の影を抜ける。その瞬間、常夜灯の淡い明かりに、一つの細い影が浮かび上がった。肩へ流れる髪。少し俯いた横顔。胸の奥から安堵が込み上げ、知らず息が漏れる。ここへ許可なく入れるのは、一人しかいない。それでも。姿を見るまでは、冬弥は「あやめがいる」と思うことができなかった。.「あ……」名を呼ぼうとした声が止
last updateLast Updated : 2026-02-20
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