あやめの泣き声を聞いた瞬間、冬弥は自分が一線を越えたことを悟った。反射的に身を引く。支えを失ったあやめの体は、その場へ力なく崩れ落ち、小さく身を丸めた。冬弥はすぐに布団を引き寄せる。身を守るように縮こまるあやめをそっと包み込み、そのまま静かに抱き上げた。腕の中にある体は温かい。それなのに、どこか遠い。触れているはずなのに、届いていない。そんな感覚が胸を締めつけた。「……悪かった」ぎこちない謝罪だった。謝ることに慣れていない男の、不器用な一言。だが、あやめは何も答えない。沈黙だけが、二人の間へ重く落ちた。「俺は……」何を伝えようとしているのか、自分でも分からなかった。言い訳なのか。願いなのか。その言葉は、あやめの静かな声に遮られる。「……戻ったら」震えている。それでも、その声の芯は揺らいでいなかった。「戻ったら、冬弥さんは安心してしまうもの」責める響きではない。ただ、事実を告げる穏やかな口調だった。冬弥は静かに問い返す。「……安心することは、悪いことか」安心。変わらない関係。帰る場所があること。それは誰もが求めるものではないのか。あやめはゆっくりと首を横へ振った。「悪くないです」その言葉に偽りはない。だからこそ冬弥は、わずかな希望を抱く。「それなら――」「でも」あやめは静かに続けた。「私だって、安心が欲しいのです」その一言に、冬弥は息を呑んだ。予想もしなかった言葉だった。あやめは、いつも与える側だった。不安を見せず、寄りかからず、冬弥を支え続けてきた。だからこそ、自分も安心したいと願っていたことが胸へ重く響く。あやめは寂しそうに微笑んだ。「安心したら……冬弥さんが来なくなってしまうのが嫌なの」「……来る」冬弥は即座に答える。迷いのない返事だった。しかし、あやめは静かに首を振る。「あやめ」呼びかけても、その意思は変わらない。「"必ず"と、言えますか?」その問いに、冬弥は言葉を失った。必ず。未来を断言する、その一言。口にした瞬間、自分を縛る言葉だと知っている。だから沈黙した。その沈黙だけで、答えは出てしまう。「……でしょう?」あやめは小さく笑った。責める笑みではない。どこか諦めを含んだ、優しい笑みだった。「だから、このままでいたい」静かな声が続く
Huling Na-update : 2026-02-23 Magbasa pa