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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 121 - Chapter 130

216 Chapters

2-46

耳に届いたあやめの泣く声。冬弥は間違えたことを理解した。反射的に、体を離す。支えを失ったあやめの体は、その場に崩れたあと、蹲るように小さく丸まる。冬弥はすぐに布団を引き寄せる。身を守ろうとするあやめの姿に躊躇が走るが、布団であやめの体を包み込むと、抱き上げる。腕の中の体温は確かに温かいのに、どこか遠い。触れているはずなのに、掴めていないような感覚が、胸の奥にわずかに刺さる。「……悪かった……」低く落とした謝罪は、普段の冬弥が謝らない男であることを示すように、ぎこちない。その言葉に対して、あやめは何も返さない。沈黙が、言葉以上に重く場に落ちる。「俺は……」言い訳か。懇願か。自分でも分からないまま続けようとした言葉は、あやめの吐いた息の音で遮られた。「……戻ったら」かすかに震えを含んだあやめの声。けれど、その芯は揺らがない。冬弥は口を閉ざした。「戻ったら、冬弥さんは安心してしまうもの」あやめの言葉は静かだった。責めるでもなく、ただ事実を並べるような響き。「……それは、いけないことか?」安定、安心、変わらない関係。誰もが望む形。それを否定する理由はない。安心を望むこと。それは間違いではないはず。そう思って問い返す声に、あやめはゆっくりと首を横に振る。否定ではない。冬弥の気持ちは、理解してくれているという仕草。「悪くないです」言葉にもしてくれる。“悪くない”。素直な肯定。しかし、その先が続かないわけではなかった。「それなら……」わずかな希望を含んだ言葉を、あやめはやんわりと断ち切る。「私だって、安心が欲しいのです」その一言に、冬弥の目が見開かれる。予想外だった。そして、予想外だと思う自分の傲慢さに気づいた。あやめはこれまで、冬弥に安心を求めることはなかった。むしろ、それを与える側。(いや、違う……)安心を必要としていないかのように、あやめは振る舞っていた。だからこそ、安心が欲しいというあやめの言葉は重い。「冬弥さんが……」言いかけて、あやめは静かに微笑む。その微笑みは優しく、同時に儚げだった。諦めにも似た、その微笑み。「安心したら、冬弥さんが来なくなってしまうのが嫌なの……」冬弥の眉が寄る。「……来る」短く、しかし確信を込めた言葉。だが、あやめは首を横に振る。そ
last updateLast Updated : 2026-02-23
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【第三章】3-1

春の風が、庭の梅を揺らしていた。まだ名残の冷たさを含んだその風は、しかし確実に季節の移ろいを告げている。枝先に残る花はわずかだが、その代わりに淡い緑が芽吹きはじめていた。冬の名残と春の兆しが同居する庭を前にして、あやめは縁側に腰を下ろした。湯呑を両手で包み込む。指先に伝わる温もりが、体の奥へとゆっくり染みていく。早苗が淹れてくれた梅昆布茶は、ほのかな酸味と塩味が混じり合い、思考を静かに整えてくれる味だった。胸の奥に残っていた微かなざわめきが、湯気とともにほどけていく。自然と、あやめの表情もやわらいでいった。あやめの視線の先に、庭の向こうには思い出深い四阿がある。冬の間はただの骨組みのように寂しく見えていたそれも、張った蔦が緑色を帯び始め、その向こうに見える景色と併せて、うっすらと色を取り戻し始めているように感じる。(最近まで、枝しかない寂しい風景だったのに)遠目にも分かるほどの変化ではない。だが、そのわずかな違いが、確かな時間の経過を物語っていた。(いつの間にか、春になっていたのね)気づかぬうちに、季節は進んでいる。その事実が、あやめの胸に静かに響いた。.「あやめ……」背後から、低く落ち着いた声がかかった。振り返らずとも冬弥だと分かる。あやめはわずかに目を細めた。冬弥が、いつものように足音を立てず近づき、そのままあやめの隣に腰を下ろす。二人並んで、同じ景色を見つめる。その距離は、安心と緊張を感じさせる。でも、居心地は悪くない。むしろこれが自分たちの自然なのだと、最近は思えるようになっている。「いつの間にか、春になっていたのか」同じ感想を口にする冬弥に、あやめの顔がほころぶ。その言葉に感情は乗っていないようでいて、どこか柔らかさが滲んでいた。そして何気ない動作で、スーツの上着を脱ぎ、あやめの肩にかける。触れること、触れられることに躊躇のない関係。夫婦だから、なのか。だから自分たちは夫婦なのか。冬弥の気づかいに目線で礼を言いながら、あやめはそんなことを考えていた。「話とは、なんだ?」簡潔な問い。(そうだった)話があると言って冬弥を呼び出したことを思い出した。あやめは冬弥を見る。その表情にわずかな緊張があることを、あやめは感じ取っていた。悪い知らせなのかもしれないと身構えるその姿に、最近父親
last updateLast Updated : 2026-02-24
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3-2

「鷹見を連れていけと言ったのに、頑なに嫌がったな」ふと、冬弥が今朝のやり取りを思い出して言った。「嫌だったんですもの」あやめはあっさりと返す。「どうして?」「嫌なものは嫌なのです」淡々としたやり取りの中に、わずかな棘が混じる。「鷹見の奴、娘に“お父さん臭い”と言われたとき並みに落ち込んでいたぞ」「そんなことは知りません」そっけない返答。だが、その奥にはくすぐったさが隠れている。あやめは冬弥を見る。冬弥は肩は竦める。「“大迫は連れていくくせに”」鷹見の護衛は断るくせに、大迫は当然のように連れていくあやめに冬弥が言いたかったこと。「“《大迫》のことで妙な勘繰りはやめてください”」そう言われたら、こう返しただろうという言葉をあやめは返す。わざとらしく呆れた目で。「大迫は冬弥さんが連れてきた人でしょう?」「あいつが勝手に来たんだ」「採用したのは冬弥さんではありませんか。しかも、私の愛人候補として」あやめの反撃に、冬弥は言葉に迷う。大きく息を吐く。「あやめのことも、大迫のことも信じているが、気に食わないものは気に食わない」あやめはほんの少しだけ視線を逸らし、笑うのを我慢する。自覚のある理不尽。それでもそれを口にする辺りが、冬弥は変わったとあやめは思った。「病院なら、早苗だけでも良かっただろう」「悪漢が出たら、早苗さんを盾にしろと? 嫌ですよ、そんなこと」「……大迫ならいいのか」「そのための大迫でしょう?」あやめと冬弥は顔を見合わせ、同時に小さく笑った。.「自分の口で、伝えたかったんです」あやめは静かに言った。誰かを介さず、自分の言葉で伝えるため、余計な要素は排除したかった。「私が“言うな”と言えば、大迫は拷問されても口を割りませんから」その信頼の言葉に、冬弥の眉がわずかに動く。「大迫に給料を払っているのは俺だ」「ですから、これまで通り私が払います」先日、大迫は龍神会の組員になった。それまで赤羽組から預かったという食客扱いだった大迫には、バイト代という形であやめが給料を払っていた。先日、赤羽組の組長である大迫の異母兄のところに子が生まれたことで、跡目争いを避けるために大迫は正式に龍神会組員になった。それでも大迫を使っているのは自分だからと、あやめは大迫の分は払おうとしたが。「税金対策だ」
last updateLast Updated : 2026-04-17
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3-3

「……しかし、誕生日の件をまだ引きずっていたのか」冬弥の言葉に、あやめはわずかに視線を逸らし、気まずそうに口元を緩めた。「まあ、あれは私も悪いのですけれど……」その声音にはどこか懐かしさが滲んでいる。あやめにとって、あの一件は単なる失敗ではなく、自分の未熟さと、それでも伝えたかった想いが混ざり合った、忘れ難い出来事だった。何でも持っている男に、何を贈ればいいのか分からない。必要なものは自分で手に入れてしまう冬弥に対して、「あやめが選んだ」という価値をどう形にするか。悩みに悩み、ようやく辿り着いた答えが“手作りのネクタイ”だった。それを決めたのは誕生日の約一ヶ月前。紳士服の外商である西野に相談し、初心者でも扱いやすいという理由でウール混ツイルの生地を選んだ。だが問題はそこからだった。色、柄、織り方。どれもが決め手に欠け、あやめは何度もサンプルを取り寄せ、鏡の前で冬弥の姿を想像しながら組み合わせを試した。結局、最も彼らしいと感じた、控えめながらも光沢のある深い色合いの一本に決めたときには、すでに二週間が経っていた。誕生日まであと二週間前。それでも、あやめの中ではまだ余裕がある計画だった。しかし、そんなときに限って仕事は重なる。末端同士の小競り合いの調整。冬弥に近づこうとする女たちの排除。情報整理と指示出し。それらを並行して行いながらの制作は、予想以上に進まなかった。気づけば、誕生日の五日前。完成が危うくなり、あやめは苦渋の決断として冬弥の夜の訪問を拒むことにした。一日目は不審に思われなかった。二日目もまだ許容範囲だった。だが三日目、冬弥の焦りは明確な形となる。自分は部屋に入れてもらえないのに、大迫は出入りしている状況が、冬弥の神経をさらに逆撫でした。問いただしても「あやめは忙しい」「仕事だ」の一点張り。大迫は巧みに逃げ、早苗は何も知らないふりをする。積み重なる違和感に、冬弥は苛立ち、ついには組員に八つ当たりする始末だった。そんな彼に、鷹見は一言だけ告げた。「――もう少しですから、我慢してください」その“少しは”という言葉が、妙に引っかかった。あと少しで何かがある。そう考えた冬弥は、自分の記憶を辿り、ようやく自分の誕生日に思い至る。普段は意識すらしない日付に、必死に辿り着くその様は、傍から見れば滑稽で、だが
last updateLast Updated : 2026-02-24
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3-4

雨が静かに病院の窓を叩いていた。規則正しくもどこか不安を煽るその音を、冬弥は雨の雫がガラスを伝い落ちるのを見つめながら聞いていた。流れ落ちる水滴。ガラス越しの景色が不規則に歪む。その歪みは、今の自分の内側をそのまま映しているようにも思えた。(あやめに初めて会ったときも、雨だったか? いや……降ってはいなかったか)記憶を辿ろうとして、途中でやめる。入籍日が記録として残っている。あやめと初めて顔を合わせたのはその前日、記録を見れば当然分かる。それでも、その日の空模様や空気の温度といった細部は分からない。記憶も曖昧だった。あやめとは、政略結婚だった。互いに必要とし、互いに選択したわけではない。ただ、そうすることが最善だと判断されたから結婚した。だからこそ、結婚した日が記念日になるという感覚はなかった。六月の後半、互いの都合が合う日に「何年目か」を形式的に祝う。それだけの関係になるはずだった。(それがまさか、な……)ふっと、冬弥の口元がわずかに緩む。あの日のあやめの表情すら、はっきりとは思い出せない。それなのにいまは、その存在が重さを持って、冬弥の心の中に住んでいる。(組にとって重要な女になるとは思っていた。だが、俺にとってここまでになるとはな)窓の外は暗い。雨のせいか、時間のせいかも分からない。夜が続いているのか、もう朝に近いのか、その境界すら曖昧だった。病院特有の無機質な光だけが、廊下を白く照らしている。冬弥は腕時計に視線を落としかけて、やめた。時間を知ったところで意味はない。この先どれだけ待つのかも分からないのだから。.「若」鷹見の声に顔を上げると、目の前に見えたのは、差し出されたのはペットボトルの底だった。「姐さんが心配なのは分かりますが、水くらいは飲んでくださいよ」「……ああ」冬弥はそれを受け取る。ペットボトルを掴んだ瞬間、ひやりとした感触が伝わる。結露した水滴が、掌にじわりと滲んだ。未開封のキャップをじっと見つめていると、横で軽い音がした。鷹見が自分のペットボトルを乱暴に開け、一気に水を流し込んでいる。「……ったく」喉を鳴らしながら飲み干し、鷹見は息を吐く。「暦の上では秋だってのに、この暑さは何なんですかね」「そうだな……」形だけの返答をする。そんな冬弥を、鷹見は咎めるような
last updateLast Updated : 2026-02-25
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3-5

案内されたのは、分娩室の隣の扉。扉を開けると、そこにはベッドに横たわるあやめの姿があった。 顔色はまだ蒼白く、髪は汗で湿っていた。あやめの横には、透明の箱が乗せられた台車。あやめの目が“見て”というように透明の箱に向いたから、それに従って冬弥は透明な箱の中を覗き込む。「……っ!」そこには、小さな命が眠っていた。「……冬弥さん」あやめが掠れた声で名前を呼んだが、冬弥はそちらを見ることができなかった。目の奥のツンとした痛みを堪えるのが精一杯だった。涙を誤魔化すため、いま自分は赤ん坊を見るのに忙しいのだという振りをして、冬弥は透明な箱の淵に手をかけて、中をジッと見つめていた。そんな冬弥の心境を察したあやめは、小さく笑うと、そのまま放っておくことにした。.(……小さい)この大きさのものが人の体から出てきたと思うと大きいのだが、自分の手のひらの半分もない大きさの赤ん坊の顔を見ながら冬弥はそう思った。その顔は、まだしわくちゃで、真っ赤。眠っているのか目を閉じたまま、かすかに口を動かしていた。「……これが、俺たちの子か」「ええ。私に似ていると言われたのだけれど、冬弥さんに似ていると思いませんか?」(俺……?)最後に鏡で見た自分の顔を思い出し、冬弥は首を傾げる。(目つきが悪くて不愛想で、お世辞にも柄が良いとは言えない俺とは、似ていないだろう) 「いや……どう見ても、あやめに似ている」「そうですか? 冬弥さんがそう言うなら、そうかもしれませんね」あやめが、くすりと笑った。 その笑顔に、冬弥はようやく息を吐いた。親子の対面がひと段落付いたと判断した看護師が、冬弥に近づく。「抱いて、みますか?」冬弥は一瞬、戸惑った。次に感じたのは……。(どうやって?)箱の形状からして、赤ん坊を“抱く”には、赤ん坊を持ち上げる必要がある。どこに手を置く?力加減は?冬弥は一気にパニックに陥る。パニックに陥っていて、肯定も否定もできずにいた冬弥に、「抱いてみたいらしい」と判断した看護師はひょいっと慣れた手つきで赤ん坊を包むように抱き上げた。そして、冬弥に差し出す。あやめも、まさか冬弥がパニックに陥っていると思わず、看護師を止めなかった。「お父さん、緊張しなくて大丈夫ですよ」(“お父さん”!)こういうときの一般的な呼び名に冬弥の
last updateLast Updated : 2026-02-25
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3-6

楓が生まれた日から、龍神会の空気は一変した。それまで張り詰めていた緊張や、抗争の余韻のようなものはどこかへ消え去り、代わりに敷地全体を満たしたのは、浮かれきった祝いの熱気だった。朝から晩まで、晩から朝まで、どこからともなく「乾杯!」という声が響き、盃のぶつかる音と笑い声が絶えない。祝い酒は運び込まれた端から消費され、まるで底なしのように飲み尽くされていった。門前には祝いの品を持った者たちが列をなし、そのすべてが検分のうえで屋敷の奥へと運び込まれていく。その贈り物の量はすでに一室では収まりきらず、急遽「楓坊ちゃま専用」と銘打たれた部屋がいくつも用意される始末だった。「祝いの品って、置き配じゃだめなんすかね」運び込まれてくる段ボールを前に、大迫がぼやく。「道にはみ出したら御近所さんのご迷惑だからね」早苗が淡々と返す。「置き配の場所を指定すればいいじゃないっすか」「危険物があったら困るでしょう……ほら、これみたいに」そう言いながら、早苗は手慣れた様子で段ボールの封を切った。中から現れたのは、祝いの品とは到底呼べない無機質な金属の塊と、規則的に点滅する赤い光。場の空気がわずかに張り詰める。早苗は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐにゴム手袋をはめ、冷静に内部を観察し始めた。「信号は単独……外部通信なし。古いタイプの起爆装置ね」独り言のように呟きながら、配線を目で追っていく。「大迫、どれだと思う?」「……黄色?」その答えに、早苗はくすりと笑うと、迷いなく赤いコードを切断した。次の瞬間、点滅していた光はあっさりと消える。「残念。また死んだわね」「……くっそ」大迫は力なくその場に座り込み、そのまま大の字に寝転がった。そして視線を部屋の隅へと向ける。そこに積まれているのは、ベビーグッズ――だったものの残骸。腹や首を裂かれたぬいぐるみ、分解され原型を留めていないモービル。祝いの裏に潜む悪意の数を、物言わぬ残骸たちが雄弁に語っていた。「仕込まれてるの、坊ちゃん宛てばかりっすね」「そりゃあね。坊ちゃまは正妻のあやめ姐さんが産んだ男児。龍神会が安泰だと喜ぶほど、その象徴を潰したい連中も増えるでしょうね」早苗の声音は淡々としているが、その言葉の重さは軽くない。「やっぱり【愛人】の誰かに妊娠してもらうべきだったっすかね」大迫の軽口に、早苗
last updateLast Updated : 2026-04-20
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3-7

龍神会本部では、若頭である冬弥の“育児奮闘”が、いつの間にかひとつの噂として広がっていた。それは決して表立って語られるようなものではないが、酒の席や廊下の端で、ぽつりぽつりと漏れ出す種類の話題だった。「若、また病院にいるらしいぞ」「ああ、時間があれば顔出してるって話だな。たとえ一分でも寝顔を見るとか」「……あの若が、か」「想像つかねえよな。あの顔で赤ん坊抱いてんのかよ」「“よしよし”とか言ってたらどうする?」「やめろ、腹筋が死ぬ」くすりと笑いが広がる。恐れられる存在であるはずの冬弥の、まるで別人のような姿。その落差が、彼らの緊張をほどくのだろう。だがその笑いの奥には、確かな安堵があった。龍神会の未来が、確かに繋がったという実感。それが、組員たちの表情を柔らかくしていた。.その日の夜、病室は静まり返っていた。昼間の喧騒が嘘のように、空気は穏やかで、わずかな機械音と規則正しい寝息だけが響いている。ソファに腰を下ろした冬弥は、しばらく目を閉じていたが、ふと目を開けた。視線の先には、眠るあやめと、その隣で小さく息を立てる楓。(……気が抜けるな)それは安心という感情だが、冬弥が知らなかった感情。胸の奥に広がりかけた感情は油断だと判断した冬弥は、それを押し戻すように立ち上がった。足音を殺し、ベビーベッドへと近づいた。「……お前、すごいな」眠る楓に、低く囁く。「いろいろなことを感じさせてくれる……」その言葉に応えるように、楓が小さなくしゃみをした。ぴくりと体を震わせ、また静かに眠りへと戻る。その様子に、冬弥は思わず身を乗り出し、ベッドの縁に手をかけた。眉間に皺が寄る。「……風邪か?」その真剣な声音に、背後から柔らかな声が返る。「違いますよ。くしゃみ、赤ん坊もするそうです」振り向くと、いつの間に起きたのか、あやめが目を開けて微笑んでいた。気恥ずかしさに冬弥はわずかに視線を逸らし、咳払いをひとつ落とす。あやめはゆっくりと起き上がり、そのまま自然な動作で冬弥の隣へと歩み寄った。母としての表情を一度外し、ひとりの女として冬弥に寄り添う。その距離の近さに、冬弥の口元がわずかに緩む。華奢な肩を抱き寄せると、あやめは素直に身を預けた。「……俺は、父親に見えるか?」ぽつりと零れた問いに、あやめは少しだけ考えるように目
last updateLast Updated : 2026-02-26
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3-8

―――夜。病院の屋上は、昼間とはまるで別の場所のように静まり返っていた。昼間は看護師や患者の気配が漂っていたはずの空間も、今は無機質なコンクリートと鉄柵だけが存在を主張している。遠くの道路を走る車の音が、かすかな波のように寄せては返し、現実を辛うじて繋ぎ止めていた。冬弥はフェンスに背を預け、煙草を指先で弄ぶ。火はつけていない。吸う気がないからだ。それなのに、この一本を取り出したのは、落ち着かないからだった。落ち着かないという感情を、彼自身がはっきりと自覚している。それが余計に、指先の動きを無意味に繰り返させた。煙草を指の間に挟み、くるりと回す。普段ならば迷いなく火をつけ、肺に煙を入れることで思考を整えるはずなのに、今日はそれをする気になれない。その理由は分かっている。認めたくないだけで。階段を上がってくる革靴の音が、静寂を乱す。規則正しく、それでいて急ぐでもなく、確実にこちらへ近づいてくる足音。冬弥が顔をあげるより早く、扉の近くにいた樹が無言で動き、ドアを開けていた。樹が頭を下げたタイミングで、鷹見が屋上に姿を現す。コンクリートに響く乾いた足音が、空気の温度をわずかに下げたように感じられた。「若、例の“祝いの品”の送り主が一部ですが分かりました……関西ではなく、関東です」低く抑えられた報告。余計な感情は一切排除されているが、その内容の重さは隠しようがない。「……分かった」短い返答。だがその一言の裏に、冬弥の思考が一気に加速しているのは明らかだった。生まれたばかりの息子、楓に贈られた“祝いの品”。それが意味するものは、祝福ではなく明確な敵意であり、組の内外に対する挑発であり―――何よりも重大な裏切りだった。犯人は新参の関西勢力であってほしい、という願望にも似た予測を、冬弥は静かに切り捨てる。新参者ならば、冬弥の気持ちはもっと軽かった。だが関東、すなわち内側に近い存在である可能性が浮上した時点で、裏切られたという気持ちは重い。「やるか……」ぽつりと零れた言葉は、決意というより確認に近い。命が狙われたのであれば、本来は警察に任せるべき案件だ。ましてや狙われたのが楓であるならば、その祖父である柊謙一が強権を発動し、表の力で徹底的に排除する未来も容易に想像できる。(関西だったなら、そうした。見せしめも兼ねて、派
last updateLast Updated : 2026-04-20
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3-9

廃倉庫。港から離れた古い資材置き場は、長い年月の放置をそのまま形にしたような場所だった。錆びた鉄骨と剥き出しのコンクリート。ところどころ崩れた壁面からは潮風が入り込み、湿った空気とともに海の匂いだけが濃く残っている。灯りはほとんどなく、遠くに見える港湾の光がぼんやりと影を浮かび上がらせていた。シャッターは半開きで、その隙間から仄かな灯りが漏れている。完全な闇ではないが、安心できる明るさでもない。人の気配が、確かにある。しかも一人や二人ではない。複数の息遣いが重なり合った濁った気配だ。「あそこか?」冬弥は暗い海に一瞬だけ視線を投げる。「ゴミ捨て場に近くて助かるな」ポケットから煙草を取り出してくわえた。躊躇はない。だが火は自分ではつけない。すぐ隣で、鷹見が無言のままライターを差し出し、火を灯す。小さな炎が一瞬だけ冬弥の横顔を照らし、その表情の硬さを浮かび上がらせた。同じように、後方の車内にいた男たちも一斉に煙草を吸いはじめる。緊張を誤魔化すためか、それともこれから始まる“仕事”への合図のようなものか。「大迫、どうした?」煙を吐きながら、隣で煙草を吸うことなくボンヤリしている大迫に問う。冬弥の記憶では、大迫は煙草を吸っていた。「禁煙って言われているんで」大迫から気まずそうな返答が返ってくる。「……あやめに、か?」半ば冗談のように口にしたものの、冬弥は自分の手元に視線を落とす。自分の指に挟まれた煙草。その先端で燻る火を見つめながら、ふと考える。あやめ自身は煙草を吸わないが、だからといって強く嫌悪を示された記憶はない。それでも―――。(子どもが生まれたから、少しは控えるべきだな……)自然とそんな考えがよぎるあたり、自分でも変わったものだと内心で苦笑する。「三枝真琴が、かなりの嫌煙家なんです」「……そうか」あやめではないと分かった瞬間、冬弥の興味は露骨に失われた。「自分の【愛人】なのに」「【道具】の管理を任されているのはお前だろう? 頑張って奉仕して、きっちり磨き上げてこい」軽口とも命令ともつかない言葉を投げながら、冬弥はわざと大きく煙を吐き、大迫の顔面に向けて吹きかける。「うわっ」「これでシャワーを浴びざるをえなくなっただろ。お前も、しっかり働け」「彼女、結構激しいのがお好みだから体力を温存しておき
last updateLast Updated : 2026-02-27
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