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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 111 - Chapter 120

231 Chapters

2-36 重ならない想い

「こんな夜更けに……どこかへ行くつもりだったのか?」揶揄うように問いかけると、あやめが潤んだ瞳で冬弥を睨んだ。怒っている。そう思いたいのに、その瞳にあるのは怒りよりも、押し込め続けてきた感情だった。「こんな姿で……どこへ行け、と……あっ」冬弥が腰を揺らす。あやめの唇から艶めいた声が零れた。夜会用のドレスは乱れ、肩を覆っていたチュールは滑り落ちている。結い上げていた髪はほどけ、涙で化粧も崩れていた。その乱れた姿が、かえって冬弥の視線を離させない。「……そうだな」低く笑い、冬弥はチュールを指先で退かす。露わになった肌へ唇を寄せ、強く吸う。「あっ……」小さな声が漏れる。同時に細い腰を抱き寄せる。より深く繋がる。湿った音が静かな四阿へ響いた。あやめは唇を噛み、必死に声を堪える。揺れる影が常夜灯に映り込み、夜の静けさだけが二人を包んでいた。 ◇◇◇(あ……)冬弥の唇に残るわずかな紅。何度も重ねた口づけの名残だと気づき、あやめの頬が熱を帯びる。(……恥ずかしい)壁もない。窓もない。四方へ開かれた四阿。ほとんど野外と言っていい場所で、冬弥に抱かれている。乱れた自分を。逃げることも隠れることもできず、冬弥だけに見られている。「……逃げるな」「……逃げて、いません」「嘘だ」腰を引こうとした僅かな動きを、冬弥は見逃さない。腕だけで引き寄せられる。身体が震える。「隠すな」静かな声だった。「思い切り乱れろ」ここが寝室ではない。その事実だけが、あやめの最後の抵抗だった。冬弥の思い通りになりたくない。そんな意地もあった。それを知っているかのように、冬弥は優しく、それでいて逃がさないように抱き寄せる。次第に、あやめの身体から力が抜けた。気力も。張り詰めていたものも。「冬弥さんだけ……」その言葉とともに、涙が零れる。生理的な涙ではない。心の奥から溢れた涙だった。「……あやめ」あやめは冬弥の胸を叩く。弱い拳。それでも、その一つ一つに想いが込められていた。「誰もいらない……代わりなんて、いらない……」震える声。冬弥が息を飲む気配が伝わる。「……すまない」その一言しか返ってこない。(それだけ……?)胸が締めつけられる。あやめはもう一度、冬弥の胸を叩いた。 ◇◇◇弱い拳だった。
last updateLast Updated : 2026-04-17
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2-37 花沢綾乃

冬弥がパーティー会場へ足を踏み入れた瞬間、場の空気がわずかに揺れた。ざわめきが起こるのはいつものこと。視線が集まり、囁きが生まれるのも見慣れた光景だった。しかし今回は違う。歩み寄ろうとしていた者たちが、不自然なほど一斉に足を止めた。冬弥ではない。その隣に立つ女を見た瞬間だった。顔色を変え、距離を取る者。露骨に視線を逸らし、その場を離れる者。まるで見えない炎へ触れたような反応だった。冬弥は静かにその様子を眺め、隣へ視線を向ける。言葉はない。だが、その沈黙だけで十分だった。.今夜は、冬弥の二人目の【愛人】――花沢綾乃のお披露目でもある。視線を受けた綾乃は、小さく口角を上げた。「何かしたのかって?」軽い口調。だが、その笑みには余裕がある。「何かしたのでしょうね」否定もしない。肯定もしない。その曖昧さが、かえって想像を掻き立てる。あやめより一歳年下とは思えない老獪さが、その一言だけでも伝わってきた。艶やかな黒髪はゆるくまとめられ、淡い色のワンピースが柔らかな身体の線を描く。細いヒールが床を叩く音さえ計算された演出のようだった。華やか。だが決して派手ではない。目立つのではなく、自然と目を引く。そんな絶妙な均衡を保っている。冬弥は無意識に結論づける。(男受けのいい女、か)完成された一つの型だった。だが、綾乃の武器は外見だけではない。一礼は深すぎず浅すぎず。相手の目を一瞬だけ見つめ、すぐに逸らす。意識させて、追わせる。その一連の動作があまりにも自然で、だからこそ計算され尽くしていることが分かる。「そういうのは学校で習うのか?」半ば皮肉だった。綾乃は肩をすくめる。「あやめ先輩に、こんなことができると思います?」冬弥は一瞬だけ考えた。「……独学か」綾乃は否定せず、ただ笑った。 ◇◇◇(面白い人)綾乃は内心で呟く。そして、わざと頬を膨らませてみせた。小さな抗議。妻が他の男を誘惑しなければ、それで十分。冬弥の態度は、そう言っているようにしか見えなかった。もっとも、その仕草に深い意味はない。本当に思っていることは別だった。(この人、本当に私へ興味がない)呆れるほど徹底している。だからこそ、少しだけ興味が湧いた。.始まりは、高校時代の先輩――神崎あやめから届いた一本の連絡だった
last updateLast Updated : 2026-04-17
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2-38 二人の女

(鷹宮昴とは、正反対の女だな)冬弥は隣に立つ花沢綾乃を静かに観察していた。あやめの後輩という先入観を差し引いても、その立ち振る舞いは独特だった。一見すると遠慮がなく、距離感を間違えているようにも見える。だが実際は違う。決して踏み込みすぎない。相手が心地よいと感じる一歩手前で止まる。その加減があまりにも自然で、意識して行っていると気づくまで時間がかかるほどだった。(距離の詰め方が巧すぎる)警戒する前に懐へ入り込まれる。その技術には気味の悪さすら感じる。それでも冬弥は否定しなかった。むしろ冷静に評価している。周囲との距離は普段より近い。それでも誰も不快そうな顔をしない。綾乃が作り出している空気だった。(……確かに、役に立つ【愛人】だ).「花沢さんが神崎さんのお知り合いだったとは」男は穏やかに笑っていた。だが、その笑顔は引きつっている。今すぐこの場から逃げたい。そんな本音が透けて見えた。しかし両脇には妻と娘。逃げ道はない。二人は期待に満ちた目で男を急き立てる。「お父様、この方をご存じなの?」娘が一歩踏み出す。男が止めようとしたときには、綾乃のほうが早かった。「お父様とは何度か、お仕事をご一緒させていただきました」柔らかな笑み。それだけで娘は食いついた。「仕事?」「広告代理店に勤めています。花沢綾乃と申します」役職は言わない。だから相手は勝手に判断する。案の定、娘は「ただの社員」と思い込んで薄く笑う。だが父親の反応は違った。そして周囲にいた何人かも、小さく後ずさる。名前だけで十分だった。「可愛い顔をしているから、水商売の方かと思ったわ」露骨な嫌味。綾乃は微笑んだまま答える。「ありがとうございます」照れも怒りもない。自分がどう見られるかを知り尽くした者の返しだった。その余裕が、相手をさらに苛立たせる。(遊んでいるな)冬弥は判断し、そのまま綾乃へ任せることにした。冬弥は改めて会場を見渡した。三割ほどの人間が綾乃を知っている。広告代理店の社員を。(そんなわけがない)表向きの肩書きに過ぎない。本業は別だ。政財界の噂を集め、選別し、価値を付ける。必要ならば噂そのものを作り出す。それが花沢綾乃だった。まだ二十代。それでも顧客には政財界の重鎮が名を連ねる。綾乃自身も隠そ
last updateLast Updated : 2026-02-21
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2-39 藤堂結衣

ホテル。その一言を聞いた瞬間、冬弥はわずかに目を細めた。三人目の【愛人】に会ってほしい――大迫の申し出自体は想定の範囲内だった。しかし、指定された場所がホテル、それもロビーやラウンジではなく客室となれば話は別だ。密室。そこには必ず何かしらの意図がある。罠である可能性も十分に考えられた。それでも冬弥は了承した。相手の狙いを知るには、自ら踏み込むしかない。車へ乗り込むと、大迫が静かに口を開いた。「組長さん、藤堂結衣の名前は?」「知っている」企業コンサルタントとして名高い女だ。特に監査分野での実績は群を抜いており、彼女が関与を公表した企業は市場から絶大な信頼を集める。株価が連日上昇することも珍しくない。その名は経済界では一種のブランドになっていた。「まさか、あやめと縁があったとは」そう漏らすと、大迫の表情がわずかに曇る。「……縁、ですか」「どうした?」「……会えば分かります」妙に歯切れが悪い。違和感はあったが、それ以上追及しても答えは返ってこないと判断し、冬弥は口を閉ざした。やがて車はホテルへ到着する。静まり返った廊下を歩き、大迫が指定された部屋の扉を叩いた。「はい」落ち着いた女の声が返ってくる。「どうぞ」鍵が外れる音とともに扉が開いた。姿を現した女を見た瞬間、冬弥は思わず目を細める。初対面のはずだった。だが、どこか見覚えがある。記憶の奥を刺激する、不思議な既視感。「失礼だが、どこかで会ったことは?」率直に尋ねると、女は微笑みながら首を振った。「いいえ」その笑顔すら妙に懐かしい。考え込む冬弥の横で、樹がぽつりと呟く。「なんか、姐さんに似てますね」その一言で、違和感の正体が繋がった。――あやめ。髪型。化粧。服装。細かな雰囲気に至るまで、目の前の女は意図的にあやめへ寄せられていた。偶然で済ませられる一致ではない。「私、あやめちゃんに似ていますか?」柔らかな笑みを浮かべる女。だが冬弥が引っかかったのは、その問いではなかった。「あやめちゃん」その呼び方だった。そんな距離感であやめを呼ぶ人物を、冬弥は知らない。「改めまして、藤堂結衣と申します」「神崎冬弥だ」「ええ、存じておりますわ」視線が交わる。熱を帯びた瞳。甘く艶のある声音。その瞬間、冬弥は悟った。この女は、自分
last updateLast Updated : 2026-04-17
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2-40 あやめに似た女

冬弥は、目の前の女を静かに見つめていた。藤堂結衣は陶酔したような表情で、そっと冬弥の腕へ指先を滑らせる。「ああ……これが毎夜あやめちゃんを抱いている腕なのね」その手つきは妙に落ち着いていた。撫でているというより、筋肉の付き方や骨格、体温まで確かめるような動きだ。「……毎夜ではない」反射的に訂正する。しかし口にした瞬間、それが意味のない言葉だと理解した。この女にとって重要なのは回数ではない。『あやめを抱いた男』という事実――その一点だけなのだ。冬弥は小さく息を吐き、大迫へ視線を向けた。「大迫……これは何なんだ」観念したように肩を落とした大迫が口を開く。「説明します。藤堂結衣さんは……あやめさんを超愛してるストーカーなんです」「……なるほど」その一言で、すべてが繋がった。隣では樹だけが目を丸くしている。「ストーカー?」「正確には少し違います」大迫は苦笑した。「恋愛というより、同一化願望ですね」好きだから近づきたい。近づくだけでは足りない。理解したい。再現したい。そして――あやめになりたい。冬弥は目の前の女を改めて見つめた。だから髪型も化粧も服装も似せている。「私、あやめちゃんと同じスリーサイズなんです。頑張りました」誇らしげな笑顔だった。「頑張って、どうにかなるものか? それに、あやめのサイズなんてどこで」「愛のなせる業です」即答だった。冬弥はゆっくりと大迫を見る。「……大迫」「藤堂結衣さん、数字には異常なくらい強いんです」「つまり……目測か」理屈は理解できた。理解できてしまうからこそ恐ろしい。(大型犬に懐かれていると思えばいい)そう割り切るしかない。腕を触られようが、距離を詰められようが、この女に悪意はない。方向性がおかしいだけなのだ。「藤堂結衣さんの情報分析能力は本物です」大迫は真面目な顔で続けた。「あやめさんも、その能力だけは高く評価しています」「あやめが?」その名前が出た瞬間だった。「はうん……」藤堂結衣が幸せそうに身を震わせ、その場で悶え始める。肩が震え、呼吸まで乱れている。冬弥は思わず大迫を見た。「……外へ出して問題ないのか」「普段は超優秀です。ただ、あやめさんが絡むと別人になります」「今は?」「五倍くらいハイテンションですね」「なぜだ」興味本位
last updateLast Updated : 2026-02-21
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2-41 重すぎる愛

「本当に、“藤堂結衣”だったんだな」冬弥は感心したように呟いた。先ほどまでとは別人だった。資料へ視線を落とす藤堂結衣の表情に、先ほどまでの狂気じみた熱はない。黒髪を低い位置でまとめ、あやめが愛用するブランドのデザイナーズスーツを着こなした姿は、仕事のできるキャリアウーマンそのものだった。「何を言っているんですか?」首を傾げる仕草も自然だ。先ほどの異様な様子を知っているからこそ、その落差に違和感を覚える。「どうにも同一人物には見えなくてな」「ああ……先ほどは失礼しました」結衣は素直に頭を下げた。「禁断症状が出てしまいまして」あまりにも平然とした口調だった。羞恥も罪悪感もなく、ただ事実を報告しているだけ。冬弥は小さく息を吐く。「……推し活だと思うことにする」その言葉に、結衣の表情がぱっと明るくなった。「ありがとうございます。ストーカーより素敵な表現です。さすが、あやめちゃんの旦那様」(結局、評価基準は『あやめ』か)苦笑しながらも、冬弥は本題へ入る。「聞きたいことがある」「何でしょう?」「あやめとは、どうやって知り合った」結衣は少しだけ目を伏せた。そして静かに語り始める。「助けられたんです」その一言だけで、部屋の空気が変わった。「当時の私は、上司から仕事を押し付けられて毎日が限界でした。疲れ切って……このまま死んだら楽になれるのかなって考えていた頃です」そのとき現れたのが、あやめだった。「あのとき天使が舞い降りたかと思いましたが、あやめちゃんにはそうでもなかったようで」結衣は柔らかく笑う。「次に会ったとき、『どうしちゃったんですか?』って本気で驚いていましたから」あやめにとっては何気ない行動。だが結衣にとっては人生を変えられた出来事だった。「あの勢いで迫ったのか?」冬弥が呆れ半分で尋ねる。「いえ。当時のあやめちゃんは大学生になったばかりなので自重しました」「……大学生、か」「ええ、とても初々しくて、お肌なんて本当に綺麗で……毛穴どこなのかなって観察していたら『やめてください』って照れた声で――」「話を戻せ」冬弥は即座に遮った。放っておけば延々と続く。「どうして企業コンサルタントになった」「あやめちゃんのお婿さん候補のリストを手に入れたからです」結衣は迷いなく答える。「九割が経営者でし
last updateLast Updated : 2026-02-22
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2-42 三枝真琴

「【愛人】のアクが強すぎる」ホテルを出た冬弥は、思わず本音を漏らした。隣を歩く樹が肩をすくめる。「まあ、愛人ってインパクトも大事ですし」「五人全員がこうだったら、俺の神経がもたん」「三人は採用済みですから。もう折り返してます」「それは励ましているのか?」「ファイト!」あまりにも軽い返事だった。冬弥は呆れて息を吐く。だが、この軽さに救われている自分もいた。張り詰めたままでは、人はいつか折れる。樹は、それをよく分かっている。「……あと二人か」冬弥はそう呟き、次の【愛人】候補との面会場所へ足を向けた。 ◇◇◇三枝真琴。その女を見た瞬間、冬弥はこれまでとは違う違和感を覚えた。(……この女は違う)鷹宮昴とも違う。花沢綾乃とも違う。藤堂結衣とも違う。いや、これまで出会ったどの人間とも違っていた。そこに立っている。確かに存在している。それなのに、不思議なほど圧を感じない。敵意もない。緊張感もない。空気へ自然に溶け込み、その場の輪郭さえ曖昧にしてしまうような存在感。(油断した瞬間、全部持っていかれる)そんな直感だけが、静かに胸へ残った。「どうしました?」穏やかな笑みを浮かべる三枝真琴。ショートカットの髪に、白いシャツとグレーのジャケット。仕事のできる女性らしい装いだ。「いや……」冬弥は短く返す。笑顔に隙はある。だが、その隙すら演出なのではないかと思わせる何かがあった。「広報部長補佐、三枝真琴か」肩書きを確認するように口にすると、真琴は小さく微笑んだ。「社長と直接お話しするのは初めてなので、少し緊張しています」そう言いながら、表情はまったく変わらない。声と表情が噛み合っていない。だが、それが妙に自然だった。冬弥は静かに過去を思い返す。朱雀会との抗争。情報操作で大きな役割を果たしたのは広報部だった。その中心にいたのが三枝真琴。あやめが頻繁に広報部へ出入りしていたことは知っていた。だが、冬弥に届くのは部長からの報告だけ。三枝真琴の名は記録の中にしか存在しなかった。(まさか、そこから【愛人】候補を連れてくるとはな)あやめらしいと言えば、あやめらしい。冬弥は事前に樹へ調査を命じていた。その報告書には、一つの異名が記されている。――霧の魔法使い。彼女がほんの少しだけ情報の流れを変え
last updateLast Updated : 2026-04-17
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2-43 水無瀬澄江

五人目の【愛人】に会うため、冬弥は自ら足を運んだ。これまでとは違う。相手の本拠地へ赴かなければならなかったからだ。案内されたのは、新興宗教・光輪会の総本山。表向きは穏やかで清廉な宗教法人。だが、その実態が信者の数に支えられた巨大な人的ネットワークであることを、冬弥は把握していた。「こちらへ、どうぞ」通されたのは、簡素ながらも手入れの行き届いた和室だった。畳の香りに混じり、ほのかに香が漂う。強く主張する香りではない。それでも、この空間の空気そのものを支配していた。(……宗教は苦手だ)冬弥は座布団へ腰を下ろしながら内心で息を吐く。理屈が通じない。責任の所在が曖昧。個人ではなく集団として機能する。宗教という存在は、昔から最も扱いづらい相手だった。静かに襖が開く。「失礼いたします」穏やかな声とともに現れた人物を見て、冬弥はわずかに目を見開いた。控えめな和装。年齢は六十代半ば。派手さは一切ない。だが、その存在感だけは圧倒的だった。「冬弥さん。宗教法人・光輪会代表兼実務総責任者、水無瀬澄江様です」大迫の紹介は短い。しかし、その肩書きだけで十分だった。代表という看板だけではない。実務まで取り仕切る、本当の責任者。そして何より――。(この目……)冬弥は澄江の瞳に違和感を覚えた。信仰に身を委ねる者の目ではない。神という概念を理解し、それを道具として扱う者の目だった。「はじめまして、神崎冬弥様」澄江は静かに頭を下げる。無駄のない所作には、長い年月で培われた品格が滲んでいた。「【愛人】がおばあちゃんで、驚かれましたか?」「……正直に言えば」率直に答えると、澄江は楽しそうに笑った。「謙一さんのお話どおり、素直な方ですね」そのまま冬弥を静かに見つめる。まるで心の奥まで見透かすような眼差しだった。やがて小さく首を横へ振る。「あなたを、私の愛人にはできそうにありません」「……何?」予想外の言葉だった。だが澄江は穏やかな笑みを崩さない。「謙一さんから、娘婿の力になってほしいと頼まれたとき、一つ条件を出しました」静かな声が和室へ響く。「救いを求める男性なら、私の愛人にしよう、と」そこで言葉を切り、冬弥を見る。「ですが、あなたは何も求めませんでした」「……何も?」「母へ求める優しさも。妻へ求める
last updateLast Updated : 2026-02-22
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2-44 「ただいま」

夜の屋敷は静まり返っていた。昼間は人の気配で満ちている廊下も、今は靴底が床を踏む音だけが静寂へ溶け込んでいく。冬弥は自室の前で足を止めた。目の前にある扉は、かつてあやめと二人で過ごした部屋へ続いている。互いの気配が溶け合い、どちらの部屋とも言えなくなっていた空間。だが、大阪へ向かう前――【愛人】の件をきっかけに、あやめは部屋を移った。今ここは、再び冬弥一人の部屋になっている。(もう深夜か)あやめは、とっくに眠っているだろう。そう思いながら扉へ手を伸ばす。しかし、そのまま開けることができなかった。部屋へ入れば、一人しかいない現実を突きつけられる。その静けさを想像しただけで、指先から力が抜けた。冬弥はゆっくりと手を離し、来た道を引き返す。風呂上がりの髪はまだ乾ききっていない。雫が頬を伝い、首筋へ落ちる感触だけが妙に鮮明だった。東西へ長く伸びる廊下を歩く。自分の部屋は東側。あやめの部屋は西側。朝はゆっくり眠りたいという彼女のために用意された部屋だった。以前は気にも留めなかった距離。それが今では、二人の心の距離を形にしたように長く感じられる。(こんなに遠かったか)歩き続け、ようやく西棟へ辿り着く。そのときだった。(……起きている)扉の隙間から細い光が漏れている。完全には閉じられていない扉。拒絶でも歓迎でもない、曖昧な隙間だった。冬弥は小さく息を吸う。「……あやめ」返事を待たず、扉を押し開けた。ノックはしなかった。開いていたのだから問題ない。そんな言い訳を、自分へ言い聞かせながら。「お帰りなさい」穏やかな声が返ってくる。驚きはない。まるで冬弥が来ることを知っていたかのような自然さだった。けれど、「待っていました」という熱は感じられない。その違いが、ほんの少しだけ胸へ引っ掛かった。部屋へ入ると、柔らかな香りが鼻先をくすぐる。あやめの香りだった。かつて二人で使っていた部屋にも満ちていた匂い。それなのに、どこか違う。ここには、自分の匂いがない。あやめだけの空間。和紙越しの灯りが室内を優しく照らし、一人掛けのソファへ腰掛けたあやめの姿を浮かび上がらせていた。長い髪をほどき、静かに櫛を通している。「遅かったですね」責めるでもなく、労うでもない。ただ事実を告げる穏やかな声。冬弥は今日一
last updateLast Updated : 2026-04-17
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2-45 戻れない約束

行為を終えた静かな寝室に、二人の荒い呼吸だけが残っていた。「……ん」体の奥から冬弥がゆっくりと離れていく感覚。あやめは吐息が混ざる声を漏らし、小さく背を反らせた。額へ落ちた冬弥の口づけは、驚くほど優しかった。まるで余韻が落ち着くのを待つように、冬弥はそっと覆いかぶさったまま動かない。「……ん?」不意に冬弥が小さく声を漏らす。何かを探すように手が動いていることに気づき、あやめは頬を染めた。(あ……)後始末に必要なものを思い出したのだ。「……テーブルの上にあります」そう伝えると、冬弥は起き上がろうとして――途中で動きを止めた。視線が重なる。思わず身を縮めようとしたあやめの肩へ、冬弥の手がそっと添えられた。「じっとしていろ」耳元へ落とされた低い声。――そこままでいろ。その意味がとれて、あやめの体は再び熱を帯びる。冬弥と結婚したときから、この結婚は子どもを望む政略結婚だった。だから避妊をしたことは一度もない。それでも以前の冬弥は、子どもを意識させるような言葉を口にすることはなかった。変わったのは、あの日からだった。――俺の子どもを、産んでくれないか。あの願いに頷いて以来、冬弥の愛し方は少しずつ変わっていった。優しさは変わらない。けれど、その優しさの奥にあるものが変わった。以前は包み込むような穏やかさだった。今は、逃がすまいとする強さがある。曖昧さは消え、代わりに執着が色濃く滲んでいた。その熱は行為が終わったあとも消えず、あやめの体へ残り続ける。嫌ではない。それを一番知っているのは、あやめ自身だった。だからこそ――。「……あやめ」冬弥に名を呼ばれただけで、胸の奥が熱くなる。けれど体力は限界だった。無意識に身を引く。その小さな動きを、冬弥は見逃さなかった。眉が寄る。次の瞬間、あやめは体勢を変えられていた。強く抱き寄せられ、抗う間もなく再び冬弥の温もりに包まれる。解れた体は素直に受け入れてしまい、そのたびに感覚だけが鮮明になっていく。視界が揺れる。息が乱れる。何も考えられなくなりそうなほど意識が遠のいた、そのときだった。冬弥が耳元へ唇を寄せる。「戻ってこい」低く、静かな声。その一言だけで、ぼやけていた意識が現実へ引き戻された。あやめは小さく息を呑む。(……また)以前にも一度、同
last updateLast Updated : 2026-02-23
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