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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 111 - Chapter 120

216 Chapters

2-36

「こんな夜に……どこかへ行くつもりだったのか?」揶揄うように言えば、あやめは潤んだ瞳で睨む。その視線には怒りよりも、押し込めた感情が滲んでいる。「こんな姿で……どこへ行け、と……あっ」冬弥が腰を揺らせば、あやめの唇から艶めいた声が零れる。夜会用のドレスの裾は乱れ、肩を覆っていたチュールはずり落ちている。纏められていた髪はほどけ、化粧も涙で崩れている。その乱れた姿が、かえって生々しく、冬弥の視線を逸らさせない。「……そうだな」低く笑い、冬弥は指先でチュールをよける。露わになった肌に唇を寄せ、そこを強く吸うと、あやめが小さく声を漏らした。「あっ……」同時にその細い腰を引き寄せる。ぐちゅりと、水音が立つ。背徳と羞恥が絡み合う気配が、空気を濃くした。「……っ」あやめは唇を噛み、声を堪えた。冬弥の視界の端で、常夜灯に照らし出されて揺れる影と、あやめの体から延びる布の動きが重なった。.*.(あ……)冬弥の唇の端、かすかに残る赤にあやめは気づく。何度も交わしていた口づけの名残だと気づき、あやめの頬がさらに熱を帯びる。(いま、すごく、恥ずかしい)壁も、窓もない、開放的な四阿。ほぼ野外のこの場所で、抱かれている。こんな場所で乱れる姿を、逃げ場のない冬弥の腕の中から、逃れられない間近な距離で、すべてを見られている。「……逃げるな」「……逃げて、いません」「嘘だ」腰を引こうとした動きを、冬弥が逃さない。腕の力だけで引き寄せられる。立つ水音。戦慄く身体。「隠すな……思いきり乱れろ」冬弥からの静かな命令。ここが寝室ではなく野外であるという事実から、あやめはしばらく抵抗した。冬弥の思い通りになりたくないという抵抗もあった。それを、冬弥も察していたのだろう。窘めるように、懇願するように、抽挿が激しくなる。やがて、あやめの体から力が抜いた。同時に、あやめの気力も消える。「冬弥さんだけ……」その言葉とともに、涙がこぼれる。今までの生理的な涙とは違う、内側から溢れる感情。「……あやめ」あやめは冬弥の胸を叩く。しかし、胸に落ちる拳は弱い。だが、確かに訴えを持っていた。「誰もいらない、代わりなんていらない……」震える声が出た。冬弥が息を飲み、言葉を失うのが分かった。「……すまない」それだけか、とい
last updateLast Updated : 2026-04-17
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冬弥がパーティー会場に足を踏み入れた瞬間、空気がわずかに揺れた。ざわめきはいつものことだ。視線が集まるのも、囁きが生まれるのも、すべて想定内の反応だった。しかし今回は、その流れが途中で不自然に途切れた。人々は冬弥へと歩み寄ろうとしたその足を止め、彼の隣に立つ女性を認識した瞬間、まるで見えない炎に触れたかのように顔色を変え、距離を取る。中には露骨に怯えたように背を向け、そのまま場を離れる者さえいた。冬弥はその異様な変化を静かに観察し、隣に立つ女へと視線を落とす。言葉はない。ただ、その沈黙だけで十分に問いは成立していた。.今日は、彼の二人目の【愛人】――花沢綾乃のお披露目でもある。視線を受けた綾乃は、ほんのわずかに口角を上げた。「何かしたのかって?」軽やかな声音。しかしその奥には、計算と余裕が透けて見える。「何かしたのでしょうね」曖昧な返答でありながら、否定でも肯定でもない。その曖昧さこそが、聞く者の想像を掻き立てる。あやめより一歳下とは思えない老獪さが、言葉の端々に滲んでいた。艶のある黒髪は緩くまとめられ、淡い色のワンピースが柔らかく身体の線をなぞる。細いヒールは歩くたびに静かな音を刻み、花沢綾乃の存在を控えめに主張する。華やかだが決して下品ではない。過剰でも不足でもない、絶妙な均衡。冬弥はその姿を見て、無意識に結論づけていた――計算し尽くされた“男受けのよい女”の完成形だと。だが、綾乃の“男受け”は外見だけに留まらない。深すぎず、浅すぎない一礼。男の視線を一度だけ受け止め、すぐに逸らす仕草。意識させて、引く。その一連の流れは自然に見えて、すべてが計算されている。「そういうのは学校で習うのか?」冬弥の問いは半ば皮肉だったが、花沢綾乃は気にした様子もなく肩をすくめた。「あやめ先輩にこれができるとでも?」その返しに、冬弥は一瞬だけ考え込む。「お前の独学か」短い結論。花沢綾乃は否定しない。ただ、笑った。.*.(面白い人)綾乃は内心でそう呟きながら、わざとらしく頬を膨らませてみせた。妻が他の男を誘惑しないなら問題ない――そう言わんばかりの態度を崩さない冬弥に対する、小さな抗議のポーズ。しかし、その仕草に込めた意味は表層的なものに過ぎない。綾乃の本心は別のところにあっ
last updateLast Updated : 2026-04-17
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(鷹宮昴とは、真逆のタイプの女だな)冬弥は内心でそう結論づけながら、隣に立つ花沢綾乃の横顔を静かに観察していた。あやめの後輩というフィルターを差し引いても、綾乃の立ち振る舞いは独特だった。一見すると遠慮がなく、距離感を誤っているようにも見える。しかし、実際には決して踏み込みすぎない。その一線の見極めがあまりにも自然で、意識してやっていると気づくまでに時間がかかるほどだった。(距離の詰め方が自然すぎて、警戒が遅れるところは気味が悪いがな)そう思いながらも、冬弥はその技量を否定しなかった。むしろ、使える人材であると冷静に評価している自分がいる。周囲を見渡せば、普段よりもわずかに人との距離が近い。二歩分ほど、侵入されている。それに気づいてなお不快感が薄いのは、花沢綾乃の手腕によるものだろう。冬弥は改めて視線を向ける。(確かに、役に立つ【愛人】だ).「花沢さんが神崎さんのお知り合いだったとは」声をかけてきた男は、表面上は穏やかな笑みを浮かべていたが、その実、今すぐこの場から逃げ出したいという焦燥を隠しきれていなかった。しかし、両脇を妻と娘に固められ、逃げ道は完全に塞がれている。妻と娘は【神崎冬弥の愛人】になろうと、明らかに期待のこもった視線で男を急き立てるものの、男は乾いた笑いを浮かべるだけで応じなかった。「お父様、この方をご存知なの?」痺れを切らした娘が一歩踏み出す。その瞬間、男の顔色が変わり制止しようとするが、それよりも早く花沢綾乃が一歩前へ出た。「お父様とは何度かお仕事で、御一緒させていただきました」柔らかく、それでいて思わず深読みしてしまう言葉。「仕事?」案の定、娘は訝し気だが、花沢綾乃は微笑みを崩さず答える。「広告代理店に勤めております、花沢綾乃と申します」役職は名乗らないことで、相手に勝手な判断をさせる余地を与えた。案の定、娘は彼女を“ただの社員”と見なして嘲笑を浮かべたが、父親である男の反応は違った。そして周りにいる何人か―――花沢綾乃の名前だけを知っている者たちも後ずさる。「可愛い顔をしているから、水商売の方だと思ったわ」露骨な嫌味。しかし花沢綾乃は一切気にした様子を見せず、「ありがとうございます」と微笑んで返す。可愛いと言われたことに対する恥じらいも照れもない。“自分がどう見られているか”を完
last updateLast Updated : 2026-02-21
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「ホテル?」冬弥の声には、わずかな警戒が滲んでいた。三人目の【愛人】に会ってほしい――大迫のその申し出自体は、これまでの流れからすれば不自然ではない。むしろ想定内ですらあった。だが、指定された場所がホテル。それもロビーやラウンジではなく“客室”だとなれば、話は別になる。公の場ではない密室。そこには必ず、意図がある。冬弥は一瞬だけ思考を巡らせ、しかし最終的には了承した。罠であろうと、意図を知るためには踏み込むしかない。.「組長さん、藤堂結衣の名前は?」移動の車内で大迫が切り出す。「知っている」短く答えながら、冬弥の頭にはすぐに人物像が浮かび上がった。藤堂結衣――企業コンサルタントとして名を馳せる女。特に監査分野での手腕は高く評価されており、彼女が関与を公表した企業は市場からの信頼を一気に獲得する。株価が連日高値を更新することすら珍しくない。その影響力は、単なるコンサルタントの域を超えていた。「まさか、あやめと縁があったとは」「……縁……」大迫の呟きは、どこか歯切れが悪い。それに違和感を覚え、冬弥はわずかに眉を寄せる。「どうした? 変な顔をして」「……会えば、分かります」曖昧な返答。だが、それ以上を語る気はないらしい。冬弥はそれ以上追及せず、代わりに沈黙を選んだ。.ホテルの廊下は静まり返っていた。厚い絨毯が足音を吸収し、外界から切り離されたような感覚を与える。指定された部屋の前で、大迫が扉をノックする。「はい」内側から返ってきたのは、落ち着いた女の声だった。「どうぞ」鍵の外れる音とともに扉が開く。現れた女を見た瞬間、冬弥はわずかに眉をひそめた。初対面のはずだ。しかし、どこかで見たことがあるような既視感が、確かにあった。「失礼だが、どこかで会ったことは?」率直に問う。「いいえ」藤堂結衣は微笑みながら即座に否定する。その笑みすら、どこか記憶を刺激する。「なんか、姐さんに似てますね」樹の言葉に、冬弥の中で違和感の正体が繋がった。(ああ、そうか……)髪型。化粧。服装。どれもが、あやめに寄せられている。偶然ではあり得ない精度。(似せている……?)冬弥の眉が寄る。「私、あやめちゃんに似ていますか?」柔らかな声で問う藤堂結衣。“あやめちゃん”。その呼び方に、冬弥はわずか
last updateLast Updated : 2026-04-17
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2-40

「ああ、これが毎夜あやめちゃんを抱いている腕なのね」藤堂結衣は、陶酔したような目で冬弥の腕にそっと触れた。その指先は軽い。だが、ただ撫でているのではない。筋肉の張り、骨格の位置、皮膚の温度――まるでデータを採取するかのように、一定のリズムで確かめている。「……毎夜ではない」訂正はしたものの、冬弥自身、その言葉にさほど意味がないと分かっていた。重要なのは頻度ではなく、“事実”そのものなのだと、目の前の女が証明している。藤堂結衣は、冬弥を見ていない。正確には、“個人としての冬弥”を見ていない。その視線は、もっと別のもの――あやめへと向けられている。「大迫……これは……」低く問いかける冬弥に、大迫は観念したように息を吐いた。「説明します。この方、藤堂結衣さんはあやめさん超大好きのストーカー女なんです」「……なるほど」あまりにも端的で、しかし的確な説明だった。冬弥はすぐに腑に落ちたが、その隣で樹が遅れて反応する。「ストーカー?」戸惑いを隠せない声に、大迫はわずかに言葉を選ぶ。「ストーカーというより恋……いや、同一化願望、ですかね」あやめが好き。好きだから、近づきたい。近づくだけでは足りない。理解したい。再現したい。最終的には――“なりたい”。(藤堂結衣はそういう類の人間か)冬弥は内心で整理する。「あやめちゃんと同じスリーサイズです。頑張りました」誇らしげな声音。だがその内容は常軌を逸している。「頑張って、どうにかなるもの……いや、あやめのスリーサイズなんて、どこで」「愛のなせる業」「……大迫」「藤堂結衣さんは数字にめちゃくちゃ強いんです」「……つまり、目測……」冬弥は一瞬だけ沈黙した。理屈としては理解できる。だが、それを実行する執念は別の次元にある。(今、自分はハイテンションの大型犬に懐かれているのだな)そう思うことで、冬弥はようやくこの状況を受け入れることにした。ぺたぺたと触れてくる手も、過剰な距離の近さも、すべて“そういうもの”として処理することにした。.「藤堂結衣さんの情報分析能力、その精度にはあやめさんも一目置いています」「あやめが……」その名が出た瞬間だった。「はうん……」甘く蕩けるような声を上げ、藤堂結衣がその場で悶え始める。呼吸が浅くなり、肩が小刻みに震えている。「
last updateLast Updated : 2026-02-21
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2-41

「本当に、“藤堂結衣”だったんだな」冬弥は、わずかに目を細めながらそう呟いた。先ほどまでの異様な高揚状態とは打って変わり、目の前にいる女は真剣な目で資料に目を通している。大迫が渡したものだ。黒い髪は低い位置でまとめられ、あやめが愛用しているブランドのデザイナーズスーツに身を包んだその姿は、洗練されたキャリアウーマンそのものだった。「何を言っているんですか?」藤堂結衣は小さく首を傾げる。その仕草すらもどこか計算されたものに見えるが、先ほどの狂気じみた熱量と比べれば、あまりにも整いすぎていた。「どうにも、そう見えなくてな」藤堂結衣は納得した顔をする。「先ほどはすみません。禁断症状が出てしまって」さらりと謝罪する声音には、羞恥も罪悪感もない。ただ事実を述べているだけのような平坦さがあった。冬弥は小さくため息を吐く。「……推し活だと思うことにする」「ストーカーよりもいい表現をありがとうございます。流石、あやめちゃんの旦那様ですね」即座に返ってくる言葉。そのどれもに、“あやめを基準にした評価”が含まれている。(何をするにも、あやめの“次”か)冬弥は内心で苦笑する。「あやめとは、どうやって出会ったんだ?」問いは単純だが、その裏には確認の意図がある。藤堂結衣という存在が、どのように形成されたのか。その核心に触れる問いだった。「助けられたんです」藤堂結衣は少しだけ視線を落とし、記憶をなぞるように言葉を紡ぐ。「当時の私は、上から押しつけられる仕事でボロボロで……疲れちゃって、どうでもよくなって。このまま死んだら楽になれるかなって思ったとき……あやめちゃんが救世主のように現れたんです」淡々と語られるその内容は重い。しかし、その語り口はどこか柔らかい。「あやめちゃんにとっては、何でもないことだと思います。次に再会したとき、“どうしちゃったんですか?”って、本気で驚いていたから」藤堂結衣は小さく笑った。その笑みには、救われた側だけが持つ種類の執着が滲んでいる。「……あのテンションで迫ればな」冬弥の一言に、藤堂結衣は軽く肩をすくめる。「当時は大学生になったばかりで、初々しくて、お肌とかツルツルで、毛穴どこなのって観察していたら“やめてください”って照れた声で……もうキュンッときちゃって」その回想は明らかに方向が逸れている。冬弥
last updateLast Updated : 2026-02-22
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「【愛人】のアクが強すぎる」思わず漏れた冬弥の本音に、隣の樹は軽く肩をすくめた。「まあ、愛人っていうのはインパクトも大事ですし」どこか他人事のような口調に、冬弥はじろりと睨みを利かせる。「五人全員がこうだったら、俺の神経がもたん」「三人は採用済み。もう、折り返してはいます」「それは、応援か?」「ファイト!」軽い。あまりにも軽い。だが、この軽さに救われている部分があることも、冬弥は理解していた。張り詰め続けるだけでは、人間は保たない。.*.(……この女)三枝真琴。この女を見た瞬間、冬弥はまた別種の「軽さ」を感じ取った。三枝真琴の存在は、これまでに会った三人と違う。(いや、これまで会ってきたどの人間とも……異質だ)例えるなら、重力が違う。そこにいるはずなのに、圧がない。張り詰めた空気も、敵意も、緊張も感じられない。だが――油断すれば、すべてを持っていかれる。そんな予感だけが、確かにあった。「どうしました?」柔らかく問いかける声に、「いや……」とだけ返す。ショートカットの髪に、白いシャツとグレーのジャケット。いかにも“できる女”の装いだが、鷹宮昴のような冷徹さも、花沢綾乃のような作為も表に出ていない。ただ、笑っている。何も隠していないようで、何も見せていない笑顔。(それが一番、厄介だ)「うちの社内に、【愛人】か……広報部長補佐、三枝真琴」冬弥は肩書きを確認するように呟く。「社長と面と向かって話すのは初めてで、緊張しますね」そう言いながらも、表情は一切崩れない。声色と表情が一致していない。そのズレが、逆に自然に見える。(……この女の真価はこれではない)冬弥は過去の記憶を辿る。朱雀会との抗争の際、情報操作で大きな役割を果たしたのが広報部だった。その中心にいたのが、三枝真琴だという。あやめが頻繁に出入りしていたことは知っているが、広報部長からの報告を受けるだけで三枝真琴のことは名前でしか知らなかった。(しかし、そこで【愛人】を見つけるか?)そして三枝真琴を冬弥の【愛人】に推薦するあたり、あやめの人選は突拍子もない。(……この能力を思えば、適任か)冬弥は社内の噂に興味はなかったが、【愛人】候補にあがったとき三枝真琴について樹に調べさせた。三枝真琴は“霧の魔法使い”と呼ばれている。彼女が
last updateLast Updated : 2026-04-17
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2-43

五人目の愛人には、これまでとは違う手間がかかった。冬弥自身が足を運び、相手の本拠地とも言える場所へ赴く必要があったからだ。.「こちらへ、どうぞ」案内された先は、簡素でありながら手入れの行き届いた和室だった。畳の匂いに混じって、かすかに香が漂う。その香りは強くはないが、確実に空間の空気を支配していた。(……宗教は、苦手だ)座布団に腰を下ろしながら、冬弥は内心で舌打ちする。宗教というものは、彼にとって最も扱いづらい存在の一つだった。理屈が通じない。責任の所在が曖昧。そして何より、数が多い。個ではなく群れとして機能するそれは、力を持ちながらも統制が効かない厄介な存在だった。今日訪れたこの場所も、その一つ。新興宗教・光輪会の総本山。表向きは穏やかで清廉な組織だが、その実態は信者の数に裏打ちされた巨大なネットワークであることを、冬弥は把握していた。.「失礼いたします」静かな声とともに襖が滑るように開く。入ってきた人物を見た瞬間、冬弥はわずかに目を見開いた。控えめな和装に身を包み、派手さはないのは構わない。ただ、女の年齢は六十代半ば。(だが……)ただの女ではないと、一目で分かる。空気が違う。存在の重みが違う。「冬弥さん。宗教法人・光輪会、代表および実務総責任者の水無瀬澄江様です」大迫の紹介は簡潔だった。“代表”という肩書きだけなら宗教的な象徴に過ぎないが、“実務総責任者”という現実的な肩書きが並ぶことで、この女がただの神輿ではないことが明確になる。(この女の目……)冬弥はその視線に違和感を覚えた。そこにあるのは盲信ではない。むしろ逆だ。神を信じているのではなく、神という概念を道具として扱い、それを自覚している目だった。「はじめまして、神崎冬弥様」水無瀬澄江は静かに頭を下げる。その動きには年齢を感じさせない芯の強さがあった。「【愛人】が、こんなおばあちゃんで驚いたかしら」「……正直に言えば」率直な返答に、水無瀬澄江はころころと笑う。「謙一さんの仰る通り、意外と素直な方ですね」そう言いながら、じっと観察するように冬弥を見つめる。そして、ゆっくりと首を横に振った。「あなたを、私の愛人にすることはできそうにないですね」「なん、だって……?」予想外の言葉に、冬弥は思わず声を漏らす。だが水無瀬澄江は楽し
last updateLast Updated : 2026-02-22
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夜は、静かだった。屋敷の奥、灯りの落ちた廊下を歩くたび、靴底が床を踏む音だけがやけに大きく響く。昼間は人の気配に満ちているはずのこの場所も、夜になるとまるで別の建物のように感じられた。冬弥は足を止める。視線の先、手を伸ばせば届く距離に、自分の部屋の扉がある。一時期はあやめと共に使っていた部屋。互いの気配が溶け合い、どちらのものともつかない空間だった場所。しかし、大阪へ向かう前にそれは消えた。愛人の件をきっかけにあやめがこの部屋を出ていって、それからここ再び冬弥一人の部屋へと戻ってしまっていた。(もう、深夜だ)そう思いながら、冬弥は扉に手をかける。(あやめも、もう寝ているだろう)わずかに力を込める。だが、その扉を開けることができなかった。静寂の中で、ためらいだけがやけに大きく膨らむ。結局、冬弥は手を離し、来た道を戻った。風呂上がりの髪はまだ濡れており、滴る水が顎の輪郭を伝って落ちる。その感触すら、妙に意識に引っかかった。屋敷の東西に延びる廊下は長い。それがまるで、二人の距離のように冬弥は感じる。自分の部屋は東側。そして、朝は眠っていたいと言うあやめのために用意された部屋は西側にある。屋敷の広さが、物理的なもの以上に心理的な隔たりとして冬弥の胸に重くのしかかる。あの日まで、廊下の長さなど気にも留めなかった。それが、あの日以来この廊下はひどく長く感じられた。.最低限にまで照明を落とした廊下を進み、冬弥は足を止める。(……起きてる)細く伸びる明るい光が、あやめの部屋の扉の隙間から漏れていた。わずかに開いた扉。完全に閉ざされていないその状態が、拒絶とも受容ともつかない曖昧さを孕んでいる。「……あやめ」声をかけると同時に、返事を待たずに扉を開けた。ノックはしなかった。開いていたのだから問題はない、という自分への言い訳が、ほんの少し遅れて追いつく。突然の訪問だったが――。「お帰りなさい」あやめの声は静かで……。(いつも通り、だな)驚く様子もなく、あまりにも自然だった。まるで、来ることが分かっていたかのような声音。それなのに、“待っていた”という温度は感じられない。その差異が、冬弥の胸にわずかな引っ掛かりを残す。あやめの部屋に足を踏み入れると、ふわりと甘い香りが漂った。かつて自分の部屋にもあっ
last updateLast Updated : 2026-04-17
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2-45

「……んうぅ」ずるりと身の内から冬弥の抜け出た感触に、あやめは背を反らす。ぞわりとした感触が、背を駆け抜ける。額に、薄く見えるけれど意外と柔らかい冬弥の唇の感触。落ち着くのを待っていたかのように、冬弥の体がぐっと覆いかぶさってくる。「……ん?」冬弥の声が、あやめの体に響く。戸惑いの混じる音に、どうしたのかと顔の向きを変える。冬弥の手が、何かを探すように動いていた。(あ……)行為の後始末にティッシュが必要なことを思い出し、思わず顔が赤くなる。「……テーブルの上にあります」冬弥が動こうとした。しかし、途中で動きを止める。見下ろされ、恥ずかしさから姿勢を変えて体を隠そうとした。「じっとしていろ」冬弥の手が肩に触れる。唇が、耳に寄せられる。「……零れるぞ」冬弥の、明け透けな言葉にあやめの顔に熱が溜まる。冬弥との結婚は”子ども”も視野に入れた政略結婚。初めての日から、冬弥が避妊をしたことはない。(でも……)言葉で、『子ども』を意識させるようなことはしなかった。(以前と……違う……)“以前”。―― 俺の子どもを、産んでくれないか?その言葉に頷いた日から、冬弥の触れ方は変わった。求め方が、明確になった。行為の時間が、甘いことは変わらない。(でも……甘さが、違う)それまでは、ケーキのスポンジで包むような柔らかな甘さ。でも今は、シロップに突き落とされて溺れてしまうような甘さに浸らされる。(それに、激しい……)曖昧さが削ぎ落とされ、代わりに執着が濃くなったように、息苦しささえ感じている。足の付け根が痺れて痛むほど長く脚を広げさせられ、息が詰まるほど強く、何度も奥まで押しつけられる。あやめの中に残る余韻は、行為が終わった後も消えず、じんわりと熱を持ち続ける。それが嫌ではないことを、あやめ自身が一番よく分かっている。だから。「……あやめ」冬弥の低い声に、熱がぶり返し、体はすぐに火照り出す。(でも、もう……)嫌なわけではない。体力の問題だ。反射的に、体が冬弥から逃げる。冬弥の眉が、不快さを隠さず中心に寄る。しまったと思ったときには―――遅い。体が反転させられる。うつ伏せになった腰を引き上げられたと感じた次の瞬間、一気に突き入れられる。先ほどまで抱かれていた体は解れていて、痛みはない。痛みで逃が
last updateLast Updated : 2026-02-23
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