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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 131 - Chapter 140

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3-10

冬弥が一歩踏み込む。距離を詰めるその速度は、相手の認識をわずかに遅らせるには十分すぎた。視界に捉えた時にはもう遅い、そう理解させる間合い。振り抜かれた拳が、正確に喉を捉える。「ぐ、ぅ……」潰れた声が漏れ、呼吸を奪われた男は言葉を失う。倒れ込むよりも早く、冬弥はその体を掴み上げて盾のように引き寄せる。残りの男たちが一斉に動いた。躊躇はなく冬弥の頭を目がけて振り下ろされる鉄パイプ。暴力的に唸る音がしたが軌道は単純で、読みやすい。冬弥は半歩だけ体をずらし、その軌道に盾にしていた男を置く。鈍い衝突音。骨が折れる、生々しい感触が手に伝わる。つんざくような悲鳴が倉庫内に響き、鉄と血の匂いが混ざり合って空気を一気に重くする。「酷いことをするな」自分がそう仕向けておきながら、冬弥は呆れたように首を振った。その声音に本気の非難はない。ただ起きた事実を述べているだけの、空虚な言葉。冬弥の呼吸は乱れない。視線は冷えたまま、次に動くべき相手を正確に捉えている。ここから先は作業だ。感情を挟む余地など、最初から存在していなかった。捕まえていた男を手放すと、その体は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。「この野郎!」男たちは威嚇の言葉を吐くが、誰も前に出ようとはしない。暴力に慣れていないわけではない。むしろ彼らにとって暴力は日常の延長線上にある行為だ。だがそれは常に“与える側”としての暴力だった。雰囲気で脅し、数で囲み、相手の腰を引かせてから一方的に振るう暴力。真正面から、しかも自分たちの想定を上回る速度と精度で“向けられる”経験が、圧倒的に不足していた。「どうした? こないのか?」冬弥は右腕を前に出し、手のひらを上にして軽く招く。その仕草は挑発というより確認に近い。来るなら来い、来ないならそれでも構わない。そんな温度の低い誘い。周囲の男たちの中から、一人が前に押し出される。自らの意思ではない。背中にかかる圧力、仲間の視線、逃げ場のなさ。たたらを踏む足と、状況を理解しきれていない驚愕の表情。生贄にされた下っ端が辿る道はひとつしかない。「わあああああっ」半ば自棄になった叫びとともに、男は冬弥へと突っ込んでくる。その声に自分自身を押し出されるような、空虚な勢いだった。冬弥に躊躇はない。間合いに入った者から片付ける
last updateLast Updated : 2026-04-20
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3-11

病室。夜明け前の青い光が、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。昼間の喧騒が嘘のように、廊下も室内も深い静けさに包まれている。機械の小さな作動音と、規則正しい呼吸だけが、この空間に命があることを示していた。楓は眠っている。まだ世界を知らないその小さな体は、呼吸に合わせてわずかに上下し、何の不安もないように穏やかな寝顔を見せている。あやめもまた、浅い寝息を立てていた。完全に眠りきっているわけではない、どこか現実と夢の境目にいるような気配。その二人を視界に収めながら、病室に入った冬弥は、ベッド脇の椅子に静かに腰を下ろした。視線は自然と、自分の手に落ちる。洗ったばかりの手は、石鹸の匂いがまだ残っている。何度も擦り、流し、落としたはずの“汚れ”。見た目には何も残っていない。血も、油も、傷さえもない。痛めてはいない。それでも、わずかな違和感が消えない。皮膚の表面ではなく、もっと奥、感覚の芯のようなところに引っかかるものがある。「ぶっ」小さな音がして、冬弥は顔を上げた。ベビーベッドを見ると、楓が目を開けていた。純然たる黒と、穢れのない白が混じる瞳は、何も映していないようでいて、確かにこちらを捉えている。「……ぁ……」さくらんぼのような紅い唇がわずかに動き、楓の表情がふっとほころぶ。その無防備な笑みに、冬弥は一瞬だけ動きを止めたあと、ゆっくりと手を差し入れる。小さな手に触れる。指先に伝わる柔らかさと、確かな体温。その温かさを感じた瞬間、楓の小さな指が冬弥の指を掴んだ。(……温かい)その感覚に、冬弥の中で別の記憶が不意に蘇る。倉庫で感じた、あの感触。骨の硬さ。肉の重さ。衝撃が伝わる鈍い反発。自分の拳が他人の体の中へ沈み込むような、あの生々しい手応え。そして今、同じ手が触れているのは、壊れることを前提にしていない柔らかさ。同じ手だ。同じ力だ。違うのは――冬弥の側にある“意味”だけだった。「冬弥さん……?」背後からの声に振り返ると、あやめが薄く目を開けていた。眠気を残したままの視線が、まっすぐに冬弥へ向けられている。「起こしたか」「はい……」小さく答えながら、あやめは再び目を閉じる。それでも口元には、安心したような笑みが浮かんでいた。「起きて、待っていたのですが……いつの間にか、寝ていました……」「…
last updateLast Updated : 2026-02-28
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3-12

あやめと楓の退院は、黒塗りの高級車が数台、病院の正面玄関前に整然と列を作ったところから始まった。早朝の柔らかな光の中で、その光景だけが場違いなほど重厚で、まるで時代錯誤な儀式のようにさえ見える。(現代仕様で大名行列をしたら、こんな感じなのかしら)そんなことをぼんやりと思っていたあやめの前に、冬弥の腕が自然な動作で差し出される。「お願いしますね」短く言って楓を預けると、冬弥は迷いのない手つきで車の後部座席のドアを開け、あらかじめ設置されていたベビーシートへと慎重に乗せる。その動作はどこかぎこちなく、それでいて過剰なほど丁寧だった。病院でほかの新生児と並んでいたときには特別小さいとは感じなかった楓の体が、そのシートに収まるとやけに頼りなく見える。どこのメーカーの最上級クラスなのか、あやめには見当もつかない。ただ、その異様な存在感だけははっきりと分かる。流線型のフォルムと過剰なほどの保護構造は、まるでSF映画に登場する宇宙船の脱出ポットのようで、現実感が薄い。「お義父上から贈られてきたものだ。新しく買い直して最新型だが、あやめも使っていたそうだ」冬弥の説明に、あやめは思わず楓とシートを見比べる。(私も、こんなのに?)想像が追いつかない。説明はさらに続く。カーボンファイバー構造で、十四個の衝撃センサーを搭載。衝突時のエネルギー吸収性能は従来のチャイルドシートを大きく上回る設計で、世界中の要人輸送にも使用されている――そんな言葉が、淡々と積み重ねられていく。本来なら安心を与えるための説明なのだろうが、あやめにとってはむしろ現実離れした過剰さに呆れる要因でしかなかった。さらに、これは乳児用であり、一歳頃からの幼児用についてもすでに選定が進んでいるという話まで出てくるに至っては、もはや笑うしかない。(どこまで準備するつもりなのかしら)病院から神崎邸までは車で三十分ほど。万が一に備えて設備の整った病院で出産したものの、その後の検診や予防接種はすべて屋敷内で完結するよう手配が整っている。つまり、この“世界最高峰の安全装置”が実際に使用されるのは、極めて限定的な時間に過ぎない。(これ、フリマアプリで売れるのかしら)ふと現実的な考えが浮かび、あやめは小さく息を吐いた。.退院してからの数日は、まさに嵐のように過ぎていった。楓の泣き声
last updateLast Updated : 2026-04-20
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3-13

「早苗さん、いま妻か愛人が妊娠中って組員はいますか?」あやめは、部屋の隅に積まれた新生児用オムツの山から視線を外し、何気ない調子で問いかけた。だがその問いの裏には、余剰になりそうな物資の使い道を考える、極めて現実的な計算があった。「樹の女が妊娠中ですよ」返ってきたのは、あまりにもあっさりとした答えだった。「え?」思わず間の抜けた声が漏れる。予想していたのは“組員の誰か”であって、身近な人物の名が出てくるとは思っていなかった。ましてや、樹は独身である。「私、おばさんになるんですよ」続けて放たれた早苗の言葉は、さらに状況の理解を追いつかせない。「え、あ……おめでとう、ございます?」反射的に口をついて出た祝いの言葉は、自分でも驚くほどぎこちなかったが、「ありがとうございます」と早苗はごく自然に受け取った。その落ち着きに引き戻されるように、あやめの思考も徐々に整っていく。「樹さん、いつの間に……」戸惑い混じりの問いに、早苗は肩を竦める。「いつの間にというか、一夜限りの関係ですからね」その軽さに、あやめは一瞬だけ言葉を失う。早苗によれば女性の側から誘い、それに樹が応じた――それだけの話だという。呆れたように言う早苗の口調とは裏腹に、その事実はあやめにとって十分に納得のいくものでもあった。(樹さん、結構モテそうだものね)冷静に見れば、樹は整った容姿と実務能力を兼ね備えた男だ。無口で愛想はないが、その分だけ余計なことを言わない安心感もある。(ただ冬弥さんほどではないと言うだけで、大迫よりは何倍、いえ、何十倍も素敵だわ)自然と比較対象が浮かび、その差に思わず心の中で頷く。そこで、あやめはふと別の疑問に行き当たる。「冬弥さんはそのことを知ってるのですか?」組織の中枢に関わる問題であれば、把握していないはずがない――そう思っての確認だったが、早苗は首を傾げた。「どうでしょう。もしかしたら知らないかもしれませんね」「こういうことは早めに言ったほうが……」祝い事であると同時に、管理すべき事柄でもある。そう言いかけたあやめに、早苗はさらりと続けた。「相手の女性は若の【愛人】の一人ですから、樹も言いにくいのかもしれませんね」「えええっ?」今度こそ、はっきりとした驚きの声が上がる。思考が一瞬止まり、次の瞬間には複数の前提が一気に
last updateLast Updated : 2026-03-01
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3-14

「【愛人】と言っても、お相手の女性は水無瀬さんのところの信者です」早苗の説明は簡潔で、余計な含みがない。その一言で、あやめの中で膨らみかけていた苛立ちが、すっと形を変えた。「ああ、水無瀬さんのところ」思わず漏れた言葉に、自分でも意外なほど冷静さが戻っていることに気づく。先ほどまであやめの怒りは、【愛人】についての報告を怠った大迫へと向かっていた。情報の遅れは、それだけで管理の綻びを意味する。だが、早苗の言葉によって、その前提が整理された。「水無瀬さんにもお話しましたが、成人した男女のしたことなので特に気にしてはいないと仰られていました」補足される事情に、あやめは軽く息を吐く。新興宗教の教祖である水無瀬澄江は六十代。年齢的に冬弥の【愛人】として振る舞うことは難しく、そのため必要に応じて信者の女性を“名代”として隣に立たせている―――それはすでに周知の構造だった。樹の相手は、その中の一人に過ぎなく、水無瀬澄江にとっては、いくらでも補充の利く存在。(あら、でも……)そこで、あやめの思考が一歩踏み込む。「水無瀬さんのところの信者ということは……」水無瀬澄江の信者たちは、彼女を“母”として慕っている。その中でも名代に選ばれるほどの女性となれば、信仰はより強く、より個人的なものへと近づいているはずだ。ならば当然、“母であること”への憧れもまた、強くなる。(でも、あそこは水無瀬さん以外への依存を認めることはない)あやめの知る限り、恋人や子どもなど“他”ができた信者は自立という形で破門されている。(破門されると知れば……女性は、どちらを選ぶ?)「彼女は、破門を受け入れたのですか?」あやめの問いに、早苗は一拍置かずに答えた。「姐さんのご想像通り、女性自身はやはり“娘”でいたいということで、子どもの養育は放棄するそうです」それは、予想通りだった。「もう少し早くそれに気づけば堕胎も可能でしたがそれには遅く、樹とも話し合い、私たちで引き取ることにしました」それは、あやめにとって意外な選択だった。「それで、いいのですか?」確認するように問い返すと、「ええ」と早苗は即答する。「子育て経験のある鷹見のマウント発言にはイラッとしていたところなので丁度良かったです」(えっと……そういう問題?)一瞬、思考がずれる。だがその軽口の裏にある本
last updateLast Updated : 2026-04-20
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3-15

「へえ、そうか」樹の子どもの話を冬弥に伝えたとき、その反応はあやめの予想以上にあっさりとしたものだった。驚きも、喜びも、苛立ちも見せない。淡々と事実を受け止めただけの声音に、あやめは一瞬だけ言葉を失い、それから小さく苦笑した。あまりにも“いつも通り”すぎて、逆に分かってしまった。「冬弥さん、職業選択の自由をご存知ですか?」軽く冗談めかして問いかけると、「知っているが……」と返しながら、冬弥の眉間に皺が寄る。その反応の速さは、あやめの意図をある程度察した証でもあった。「それは……楓に、家を継がせたくないということか?」わずかな間を置いて出てきた言葉は、的を射ているようでいて、核心からはずれている。あやめはゆっくりと首を横に振った。「子どもたちが自分で進み道を決めるまで、ふたりをちゃんと守りましょうということです」“ふたり”。その一語が、静かに空気を変えた。冬弥の視線がわずかに揺れ、次の瞬間には目を見開く。そして、観念したように息を吐き、視線を落とした。「気づいたのか」「なんとなく、ですよ……ただ楓の傍に同じ年の男の子がいれば、標的はどちらかと迷いますからね」あやめはそう言いながら、ベビーベッドへと目を向ける。そこには何も知らず、穏やかな寝息を立てている楓の姿があった。その小さな体は、守られることを前提として存在している。だが同時に、その存在が新たな“狙い”を生むこともまた、この世界では避けられない現実だった。冬弥は何も言わない。否定も、肯定もせず、ただ沈黙を選んでいる。その沈黙が何を意味するのか、あやめには分かっていた。すでに動いている。準備も、手配も、計算も終えている。だからこそ、言葉にする必要がない。「責めてはいませんよ。私も、同じ選択をするでしょうから」静かにそう付け加えると、冬弥はわずかに顔を上げた。その表情には、驚きとも安堵ともつかない複雑な色が混じっている。責められる覚悟はあったのだろう。だが、返ってきたのは理解だった。それが逆に、彼の中に小さな揺らぎを生んでいた。あやめは視線を楓へ戻す。規則正しい呼吸、柔らかく閉じられたまぶた、小さく握られた手。そのすべてが、守るべきものの象徴のように見える。(この子を守るために、別の子を巻き込む)頭では分かっている。合理的な判断だ。標的を分散さ
last updateLast Updated : 2026-03-02
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3-16

「失礼します」朝食の席に珍しく姿を見せた樹が、控えめな声とともに冬弥の傍へ歩み寄る。そのまま屈み込み、耳元で短く何かを囁いた。内容はあやめの位置からでは聞き取れない。だが、その一瞬で冬弥の表情がわずかに引き締まったのを見て、軽い話ではないことは明白だった。「どうしましたか?」あやめはカップを置き、静かに問いかける。「会社でトラブルが起きた……食事中ですまないが、俺は行く」簡潔な説明に、余計な言葉はない。「はい、行ってらっしゃいませ」あやめはすぐに頷く。引き留める理由はないし、聞き出す必要もない。冬弥が立ち上がり、樹とともにダイニングを後にする。見送りは不要だと言われ、その言葉に甘えてあやめは席に残った。.静けさが戻る。さきほどまでの緊張が嘘のように、食卓には穏やかな時間が流れる。あやめはそのまま食後のコーヒーに口をつける。香りがゆっくりと広がり、思考が落ち着いていく。焦る必要はない。情報は、必要な分だけ後から集めればいい。そう割り切っているからこそ、あやめは慌てない。.ダイニングを出る際、壁際に控えていた早苗に目を向ける。「早苗さん。書斎にいるので、楓が起きたらよんでください」「畏まりました」短いやり取りを終え、あやめはそのまま廊下へ出る。足音を響かせないように歩きながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。通話先は大迫。コール音がいつもより長い。数秒の沈黙の中で、あやめは無意識に状況を推測する。(女性と一緒かしら)そんな考えが浮かんだところで、コール音が止まった。『はい』少しだけ息の乱れた声。「神崎芸能で何かが起きたみたいなの。探って頂戴」簡潔な指示に、『あー…………分かりました』と間延びした返事が返る。その微妙な間から、あやめは大迫が冬弥の【愛人】の誰かといるのかを察した。誰かまで聞く必要はない。あやめはそれ以上何も言わず、通話を切った。情報は入ってくる。自分から詰める必要はない。それが、今の彼女の立ち位置だった。. * .「姐さんに何も言わずに出てきていいのですか?」移動中、樹が淡々と問う。冬弥は手にしたタブレットから視線を上げることなく答えた。「あやめなら、必要なだけ探るだろう」確信に近い口調だった。あやめの背後には五人の【愛人】がいる。情報収集と調整を
last updateLast Updated : 2026-04-20
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3-17

「さて、行くか」立ち上がり、社長室を出ようとする冬弥に樹が声をかけた。「美容部門から人を呼んだんで、身だしなみを整えてください」予想外の指示に、冬弥はわずかに眉をひそめる。「あれの隣に並ぶんですよね?」「そうだが?」何が問題なのか理解できない様子に、樹は一拍置いて言った。「それ、姐さんも見ますよ。もしかしたら、比べられるかも」その一言で、冬弥の動きがわずかに止まる。テレビの向こうでは歓声が一層大きくなり、自動ドアが静かに開くのが見えた。画面越しでも、空気が変わるのが分かるほどの存在感。「急いでくれ」「了解です」短く応じ、樹は動き出す。冬弥は小さく息を吐き、ほんの一瞬だけ表情を整えた。.一階まで降りたエレベータを出た冬弥の視界に、ひときわ鮮やかな軌跡を描くように、長身の男が歩み入ってくる。黒のロングコートが空気を切り裂き、わずかな動きで裾がはためいた。その内側には、光沢を抑えたダークグレーのスーツ。過剰な主張はないが、すべてが計算され尽くした調和の中にある。歩幅は一定で、無駄な揺らぎが一切ない。視線はまっすぐ前へ―――迷いも、逡巡も感じさせない。周囲の喧騒とは無関係に、彼はただ自分の速度で空間を支配していた。フラッシュが連続して爆ぜる。「迅さん! ハリウッドデビュー、おめでとうございます!」「今宮さん、アンバサダー就任の感想は!」無数の声が投げかけられるが、今宮迅は一度も足を止めない。ただ、柔らかく、完璧な角度で微笑むだけ。その笑みは距離を測り間違えない。近づきすぎず、遠ざけすぎず、求められる分だけを正確に返す―――それが彼の“演技”ではなく、“習慣”であることが伝わってくる。「ありがとうございます」低く、よく通る声がロビーに響く。その声は、ただの発声ではない。渇いた空気を潤すように、聞く者の意識へ滑り込む。彼の体だけでなく声そのものにもパーソナル・アシュアランスがかけられているという噂は、もはや周知の事実だった。声帯損傷時には数億円規模の補償が下りる。それほどまでに、この男の“声”は価値を持つ。「すべては神崎芸能のおかげです」その声が紡ぐ言葉に、社員たちの間に熱が走る。それが単なる社交辞令ではないことは、知られている。今宮迅は十代の頃から所属を変えていない。その事実は、かつては“もった
last updateLast Updated : 2026-03-03
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3-18

「ただいま、冬弥」社長室の扉が閉まった瞬間、それまでロビーで見せていた完璧な“今宮迅”の仮面が外れる。次の瞬間には、長身の男が弾けるように距離を詰め、大型犬のような勢いで冬弥に抱きついた。数十億の価値を持つと評される美丈夫が見せるにはあまりにも無防備な振る舞いだったが、「ああ、おかえり」と返す冬弥は慣れたものだった。背中に回された腕を軽く受け止め、子どもをあやすようにぽんぽんと叩く。その仕草には拒絶も驚きもない。長年積み重ねられた関係性が、その距離感を当たり前のものにしている。「樹も、ただいま」冬弥に抱きついたまま、迅は顔だけを横に向け、にっこりと笑った。その笑顔は、先ほどロビーで見せていた計算された微笑とは違い、どこか無邪気さを帯びている。普段は口元をわずかに緩めるだけのこの男の、屈託のない笑顔。その価値を金額に換算するなら、いったいどれほどになるのか―――そんな無意味な思考を浮かべながら、樹は視線を逸らし、社長室の一角にあるミニバーへと向かった。「おかえり。何を飲む」「カシオレ。カシスリキュールたっぷり、で頼む」即答だった。高級ブランデーを静かに揺らしながら嗜む姿が似合う男でありながら、その実態はかなりの甘党。樹はグラスを手に取りながら、小さく息を吐く。「糖尿病になるぞ」「二人の前でしか飲めないからさ」軽く肩をすくめるようなその言い方に、計算はない。視線は自然とミニバーへ向けられ、そこに並べられたボトルを確認する。カシスリキュールと、未開封のオレンジジュース―――どちらも、自分のために用意されているものだと一目で分かる配置だった。その事実に、迅の目がわずかに細まる。満足げなその変化を見て、樹は内心で苦笑した。(こういう強火の愛情、最近も見たな)ふと、藤堂結衣の姿が脳裏をよぎる。あやめに向けられていたあの熱量と、目の前の男が冬弥へ向ける感情は、質こそ違えど方向はよく似ている。.「あっちはどうだった?」「食事が好みじゃないことを除けば、楽しかったよ」冬弥の問いに軽く答えながら、迅は差し出されたカシスオレンジ―――というより、ほとんどカシスリキュールに近いそれを一気に飲み干した。グラスの底が見えるまでに要した時間は、ほんの数秒。甘い香りが室内に広がる。「あそこは、お前好みの甘党の国だろう?」冬弥の眉間に
last updateLast Updated : 2026-03-03
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3-19

殺気を孕んだ冬弥の怒りが、社長室の空気そのものを重く沈ませていた。温度が下がったわけではないのに、肌に触れる気配は冷たい。視線一つで人を縛り上げるような圧が、静かに広がっている。その中心にいる冬弥とは対照的に、今宮迅はまるで別の空間にいるかのように平然としていた。グラスを指先で遊ばせながら、わずかに口角を上げる。その笑みは挑発でも防御でもなく、ただ“当然の反応”としてそこにあった。「どうして分かった?」「AURELIUSのベビー服を入れた箱に爆弾を仕込んでおいて、どうしたも何もないだろう」軽い調子で投げられた問いに、冬弥は呆れたように返す。その声音には怒りが混じっているが、同時に“想定内”という諦観も含まれていた。今宮迅はそれを聞いて、楽しげに笑う。「さすが、早苗姐さん。俺からの贈り物でも、油断しなかったか」「お前がどういう奴だと分かっているのだろう」即答だった。信頼しているから疑わないのではない。理解しているから疑う。そこに遠慮は存在しない。その関係性を前提として、今宮迅はわざとらしく肩を落とし、不貞腐れた顔を作る。「俺は間違ったことはしていない。唯一は狙われる、自分の過去を考えればお前だって分かっているはずだ」軽口の延長のような口調だが、言っている内容は重い。「増やせと言いたいのだろう」「そうだ」冬弥の言葉に即答する迅の目には、先ほどまでの柔らかさはなかった。「俺たちの時代なら、俺や樹が撒き餌になってお前を守れた。でも、分かるだろう? いまの時代でそれは難しい。ピンポイントで子どもを狙える武器なんざわんさかとある。樹がガキを作ったようだが、身代わりなど役にも立たない時代だ」淡々と語られる現実は、情を挟む余地を許さない。技術の進歩は、守る側に多くの選択肢を与える。選択肢が増えるだけ、危険が増す。迅は視線を外さずに冬弥を見据える。「血統にこだわりがないとは言わない。ただ、お前の血統ならいい」それは挑発ではなく、提案でもなく、ただの結論だった。「俺は、子どもをあやめ以外に産ませるつもりはない」返答は迷いなく、揺らぎもない。「神崎の血統を途絶えさせる気か?」「それで途絶えるなら、それまでということだろう」短い応酬の中で、互いの立場ははっきりと分かれる。「お前がそんなことを言う男だとは、な……これは、平
last updateLast Updated : 2026-03-04
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