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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 141 - Chapter 150

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3-20

「あやめさんから今宮さんに贈り物です」大迫はそう言って、三人の前に置かれたテーブルへ白い大きな箱を差し出した。余計な動きは一切なく、ただ“届ける”という役目に徹している。言葉は不要なのだと、箱を見て迅は気づく。箱には金色の箔で優雅にブランド名が刻まれていた――AURELIUS。それを見た迅は少し驚いたものの、すぐに嘲笑を浮かべる。「JAPANの文字がないな」鼻で笑うように呟く。AURELIUSは日本にも店舗があるが、その中でも“JAPAN”の表記が許される本店は別格だ。本店は紹介制で、一見客は拒まれる。その価値を知っている者ほど、箱の意味を読み違えることはない。「急なお使い、ご苦労さん。どこの店舗まで行ったの?」迅の声音には、試すような色が混じる。急な帰国に合わせ、慌てて用意された取り繕いの贈り物―――そう断じている響きだった。しかし大迫は肩を竦め、あっさりと否定する。「どこの店舗にも行っていませんよ。ご自宅に届いたあやめさん宛てのそれを、さっき呼びつけられて、今宮さんに持っていけと言われてここにきただけですから」「……届いた?」その一言で、空気がわずかに変わる。AURELIUSにオンラインショップは存在しない。迅はゆっくりと箱を開ける。中に収められていたのは、一着のジャケット。迅も見たことのないデザイン。しかし、細部に宿るラインや仕立ては間違いなくAURELIUSの特徴があるものだった。「サイズは合っているはずだと言っていましたが、アメリカ生活は長いと五キロは軽く増量するらしいので一度ご試着ください」軽口のように聞こえるが、その内容は核心に触れている。迅は何も言わずにジャケットを手に取り、袖を通した。滑るように腕が収まり、肩が落ち着く。鏡など見なくても分かる。体に吸い付くようなフィット感。寸分の狂いもなく、迅のために誂えたように、ぴたりと合っている。その事実に、背筋を冷たいものが走った。迅は、自分の体型が既製品に収まるものではないことを知っている。だからこそ、この一致はあり得ない。これは既製品ではない。導き出される結論はひとつ―――AURELIUSのオーダーメイド。それが成立するためには前提が崩れている。今回の帰国も、アンバサダー就任も、極限まで情報は絞っていた。迅は、冬弥にすら知らせ
last updateLast Updated : 2026-04-20
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3-21

ぽおん、と乾いた音が社長室に響いた。大迫がわざとらしく手を叩いたのだ。その仕草は場の空気を断ち切るには十分で、張り詰めていた緊張に、ほんのわずかな綻びが入る。「あやめさんからの伝言を忘れていました」何でもないことのように言うが、その一言に迅の視線が鋭くなる。「……伝言?」短く返す声には、先ほどまでの余裕とは打って変わって、警戒が露骨に滲んでいた。「帰国が急だったので、メッセージカードの用意が間に合わなかったようです」「こんな、おっかないジャケットを用意しておいて?」迅は肩をすくめる。軽口のつもりだったが、大迫は真顔で頷いた。「あやめさんはメッセージカードに五月蠅いんです。特に季節、いつも意匠が花のカードを使っていますからね」大迫が愚痴るように、唇を突き出す。「ご存知ですか? 和装の世界では季節の花柄を少し先取りして身につけるのが粋だそうです。『これから来る季節を楽しみに待つ心』を表す、日本らしい美意識のひとつだそうです」妙に詳しい説明だった。「……美意識」迅が呟くと、大迫は指を一本立てて強調する。「お・も・て・な・し、というやつですよ。花といえば薔薇しか知らないと言った次の日、花の辞典を大量に渡されました」「……いまどき、紙……」ぼそりと零れた迅の言葉に、冬弥は『気になるポイントはそこか』と言わんばかりの呆れた視線を向ける。だが、大迫は構わず続けた。「検索にすっごく時間がかかって、日本語はもう見たくないって言ったらフランス語の花の辞典を渡されました」「英語じゃないのか」「フランスは花の飼育が盛んらしいっす。国立で園芸科があるそうで」「へえ」完全に話が逸れている。それでも迅はなぜか律儀に応じてしまっている。大迫のペースに巻き込まれていることに気づきながら、冬弥は内心で苦笑しつつも、それを指摘しなかった。.「というわけで、伝言です」「忘れていた」「忘れないでください。今宮さん、耳の穴かっぽじってよく聞いてくださいね」「耳の穴……久しぶりにそのフレーズ聞いたわ」「俺は初めて言いました。これもあやめさんからの伝言の一部です」そう言って、大迫は一度こほんと咳払いをする。わずかな間。その間が妙に長く感じられた。「“アメリカナイズされた大仰なサプライズをありがとうございました。つきましては私からもご挨拶させてい
last updateLast Updated : 2026-03-04
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3-22

「組長さんは暈かしましたが、クレジットカードはすでに使用停止となっているでしょうね」大迫の声は軽やかだったが、その一言が落とした影は決して軽くない。「そうだな」冬弥は迷いなく頷いた。その反応の自然さに、迅は一瞬言葉を失う。「なんだそれ、そんなこと軽々しくできるわけが……しかも、経験談みたいに……」言いかけて、迅は自分の中に浮かんだ違和感を無視できなくなる。「経験者なのか?」冬弥は首を横に振る。「俺は経験していない。あやめのことが分かるだけだ」淡々とした返答。しかしその言葉には、実際に体験した者に匹敵する確信が宿っていた。「俺は経験者です」大迫がなぜか誇らしげに胸を張る。「銀行口座も、凍結されたことがあります」「フルコースだな、大迫」冬弥の呆れ混じりの言葉に、「若は感心していないで」と樹が遮る。「迅、お前のメインバンクは?」促されるまま銀行名を口にすると、樹はすぐさまスマートフォンを操作し、最寄り支店の情報を送りつけた。「とりあえず、金を下ろしてこい」その声音には冗談の余地がない。「走ったほうがいいですよ。あやめさんの兵糧攻めはえげつないです。現金生活も地味につらいですけど、現金もない生活は地獄です」樹の言葉に大迫が深く頷く。「体験談か?」冬弥の問いに、大迫は即座に首を縦に振った。「あやめさんからの電話は、朝の場合は十コール以内に出るって決まりがあります」「なんだ、その決まりは」「柊大臣の秘書をやっていたときのルールらしくて。朝九時から夕方六時の間は、三コール以内に出ないとダメです」「政治家の秘書って、大変なんだな」迅は半ば呆れたように呟く。「俺もそう思いました。それで、油断してうっかり出損ねた日のことです」「物語めいて言うな」「いや、物語みたいな見事さですよ。躾は大事と言って電話が切られ、その直後に三日間の現金生活に突入です。予告なし。俺の財布の中は三千円、一日千円の生活です」淡々と語られるが、その実態は容赦がない。「お前ならどうにかなるだろう、基本ヒモだし」樹の軽口に、大迫は首を横に振る。「頭が俺を締めたんすよ。手足の【愛人】の皆さんが助けてくれるわけないでしょう。どんなご奉仕しても五百円しかくれなかったっす」「小遣いの額が古いな。五百円じゃ弁当一つだ」「肉系は無理でした」「世知辛いな」
last updateLast Updated : 2026-03-05
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3-23

神崎邸は、夜になると静かだ。広い庭に面したガラス窓の向こう、間接照明に照らされた木々が柔らかく揺れている。その光景は穏やかで、どこか現実味を欠いているほどに整いすぎていた。迅は、車の窓越しにそれをぼんやりと眺めながら、胸の奥に沈んでいく重さを振り払うように小さく息を吐く。「……俺、帰っていいかな」思わず零れた弱音に、運転席でハンドルを握る樹がくくっと笑った。「往生際が悪いぞ」軽い声音だが、その裏にある「逃げるな」という圧は隠しきれていない。さらに追い打ちをかけるように、助手席から振り返った大迫が現実を突きつける。「帰ったところでどうするんです? 残高、二百円とちょっとなんですよね」その一言で、迅は自分の逃げ道が完全に塞がれていることを理解した。「うるせえ……お前よりも多い」「目くそが鼻くそを笑ってどうする」冬弥の呆れた声が重なるが、迅は食い下がる。「どっちが天辺に近いかは重要だろう? 三十円じゃ何も買えないが、二百円とちょっとならコンビニのおにぎりは買える」その妙に具体的な反論に、大迫が楽しげに声を上げた。「天下の今宮迅もコンビニのおにぎりを食うんですね」「日本に戻って速攻で食った。値上がりしていて驚いたけれど」「シーチキンマヨネーズで、百五十円越えですからね」「そうそう、あれは驚いたよな」どうでもいい会話のはずなのに、不思議とそのやり取りは彼らの緊張をわずかに和らげていた。「お前たち、似た者同士だな」冬弥が呆れ半分に呟く。その横顔はすでに先を見据えていて、近づいてくる屋敷の気配を静かに測っていた。.やがて車は神崎邸の正面玄関に滑り込む。そこに並んでいた光景に、軽口は一瞬で霧散した。ずらりと整列した組員たち。誰一人として口を開かず、ただ無言で主の帰還を待っている。その異様な静けさに、冬弥がわずかに口元を歪める。「これは……完璧に怒っていますね」「オイタが過ぎたな」樹の言葉は冗談めいているが、実際には笑えない。迅は深くため息を吐いた。世界的に活躍し、時価で数十億の価値がつく体を持つ男が、たった一人の女に呼び出されて緊張している。その事実が滑稽で、そして何より腹立たしかった。(くそっ……笑えない)笑えないからこそ、余計に逃げたくなる。しかし逃げ場はない。車が完全に停止し、後部座席のドアが外から開かれた。冬弥が先
last updateLast Updated : 2026-03-05
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3-24

神崎邸の廊下を、迅は早苗の案内で進んでいた。磨き上げられた床板は足音を柔らかく吸い込み、静寂の中に自分たちの気配だけがわずかに浮かび上がる。幼い頃から何度も出入りしてきた屋敷であり、隣を歩く早苗は姉のように慕ってきた存在だ。それなのに、どこか落ち着かない。胸の奥に引っかかる違和感が、歩みを進めるごとにじわじわと広がっていく。(空気が、違う)廊下に飾られた花が視界に入る。以前は必要最低限の設えしかなかったはずの場所に、今は季節を意識した花がさりげなく置かれている。さらに、鼻をくすぐるのは微かに焚かれた香の香りだ。主張するほどではないが、確かにそこにあると分かる程度の気配。(女の、気配がする)迅の記憶にある神崎邸は、徹底して“男の場所”だった。血と鉄と規律の匂いしかしない家。迅たちが幼い頃も、冬弥が当主となってからも、それは変わらなかったはずだ。  『お帰りなさい』ふと、先ほど耳にしたあやめの声が蘇る。帰還を迎える言葉、そこに宿っていた確かな温度。あの屋敷には本来、存在しなかったはずのものだ。(この屋敷の管理者が変わったからか)そう結論づけるのが自然だった。神崎家は龍神会のために存在し、その当主は組の利益に資する女を妻として迎え、屋敷の奥へと囲う。それは表に出ることのない存在であり、名ばかりの「妻」。迅の知る限り、その結末が幸福に至った例は一つもない。(平安時代のお姫様じゃないんだ。この時代に閉じ込められて正気を保てと言うほうが無茶な話だ)逃げ出そうとして命を落とした女もいた。逃げられぬ現実に心を殺し、ただ形だけを保ち続けた女もいた。本来、夫婦とは互いの熱を探りながら築き上げていくものだ。しかし、その前提が最初から崩れている。自由に相手を選べる男は、政略の駒でしかない妻に熱を向ける理由を持たない。一方で、選ぶ権利を持たぬ女は、愛を求めるならば一方的に差し出すしかない。(恋愛で考えれば、不公平な取り引きだ)不公平であると理解しているからこそ、この関係に恋愛は持ち込まれない。愛人の存在はむしろ、それを正当化する装置だった。最初から愛されることを期待させないための仕組み。愛人がいると分かっている男に、心を預ける女は少ない。(先代は、金でその穴を埋めようとした)幼い頃、己の子である冬弥がいる屋敷に男を連れ込む先代夫人に、迅は嫌悪を抱
last updateLast Updated : 2026-03-06
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3-25

「こんばんは、今宮さん」柔らかな声だった。棘も、怒気も感じられない。それでも迅は、すぐに言葉を返さなかった。ほんの数秒、沈黙を挟む。そのわずかな間に、どこまで踏み込むべきか、どの言葉ならば自分の立場を崩さずに済むかを測っていた。「……サプライズは、嫌いなのでは?」選んだのは、探りを入れる一手だった。「サプライズを、仕掛けられるのは嫌い、というだけですよ?」あやめはわざとらしく首を傾げ、同じくわざとらしく笑ってみせる。その仕草は軽やかで、場の緊張を和らげるようでいて、実際には一切の隙を与えない壁のようでもあった。「これから、どうするんだ?」迅は問いを重ねる。「どうしましょうか」困ったような声。しかしその実、困っている様子など微塵もない。「カードが“審査中”というのは困るのだが?」あやめは答えない。ただ微笑むだけだ。「朝は問題なく使えていたのに、だぞ?」「それでは、朝までだったということなのでしょう」にこり、と音が聞こえそうなほど整った笑み。(腹立たしいほど、落ち着いているな)迅は内心で舌打ちする。「何が、朝までなんだ?」「そうですね……私はカード会社の人間ではないので分かりませんが、一般的な意見としては、今宮さんご自身の価値がそこにあったのは朝まで、となるのでしょうか」「つまり、価値は落ちたと……言ってくれるね」「しいて言うなら、ですよ?」ころころと転がるような笑い声。しかしその言葉は、確実に相手の懐へと踏み込んでいる。「どうして、止めなかった?」「止めると角が立ちますでしょう? 信用情報は繊細ですから」「すでに、十分角が立ってると思うんだがね」「それは今宮さんご自身がそう感じているだけ。世間的には……疑心暗鬼、といったところで止めてあるはずです」迅はわざとらしく視線を横へ流し、冬弥を見る。自分には後ろ盾がある、その意味をあやめに示すための動作だった。「俺を信用していないのか?」しかし返ってきたのは、想定とは異なる角度の言葉だった。「私と今宮さんの間に、信頼できる何かがありますか?」あやめの瞳が、静かに、しかし明確に挑戦の色を帯びる。「まさか、冬弥さんが信じているのだから、私もあなたを信じるべきだとでも?」「普通は、そうするんじゃないか?」「そして、あなたに裏切られたら、『やっぱり』と冬弥さんを責めろ
last updateLast Updated : 2026-03-07
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3-26

「私、今宮さんには期待していました」あやめはそこで言葉を切り、湯呑みを持ち上げて静かに一口含んだ。白い指先が縁に触れ、喉がわずかに上下する。その一連の所作はどこか艶めいているはずなのに、迅の背筋を駆け上がったのは甘さではなく、刃のような威圧感だった。吐き出された一息は軽やかなのに、そこに含まれる温度は低い。「容姿を含めて、性別・年齢・背景に関係なく、求められる能力があれば評価なされる方だと、そう思っていましたのに。どこぞの世界のように、男だ女だと騒ぐことなく受け入れる方だと」あやめはゆっくりと息を吐き、わずかに視線を伏せる。「蓋を開けてみれば、大きな獲物を獲ったと自慢するだけのバ……失礼、頭まで筋肉の、オラついているだけの方だとは」「バカと言いかけたことを謝罪して、それで言い直した言葉のほうが失礼なのではないか?」迅の反論に、あやめはくすりと笑うだけだった。「口を使って話さず、頭を使って考えもせず、『女』を一世紀前と同じ目で見ている方々に、言葉を尽くせと? 女の口から出た言葉を聞く耳も、その意味を理解する脳みそもないのに?」「“方々”って……」思わず迅は視線を横に流す。冬弥はさりげなく目を逸らし、樹は露骨に「こっちを見るな」と手で制した。(こいつら、何をした?)疑問が浮かぶ間もなく、あやめが軽く笑った。「そちらの二人、浮気する夫の代わりに、私を慰めるための情夫を用意してくださったの。私の意見も聞かずに、勝手に。愉快なことをなさるでしょう?」その声音は柔らかいのに、瞳には明確な怒りが宿っている。「せめて、私に好みのタイプを聞くのが礼儀だと思いませんか?」「……さあ、それは……どうだろう……」曖昧に濁した迅に、あやめは再びため息を吐く。「まあ、こんなこと、あなた方に言っても無駄だと分かっていますけれど」その「無駄」という言葉が、迅の胸に引っかかった。(それなら、なぜ……)言う必要がないのに、なぜわざわざ言うのか。「俺を、どうして呼んだ?」問いかけには、探るような意図が込めた。しかし返ってきたのは拍子抜けするほど軽い答えだった。「クレジットカードが使えなくなった天下のスーパースターが、どんな反応をするのか見たかったからだけです」「はあ?」「それがお仕置きになるか、ちゃんと確認しないと意味がないでしょう?」さらりと言
last updateLast Updated : 2026-03-09
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3-27

「龍神会に、神崎冬弥は装置として必要だ」迅は迷いなく言い切った。その言葉には、個人的な情ではなく、組織全体を俯瞰した上での確信がある。「それには同意します。神崎冬弥の判断は龍神会のためにあるべきですから」あやめはあっさりと頷いた。その即答は、迅の想定をわずかに外れる。もっと感情的な反発、あるいは個人的な擁護が返ってくると予想していたのだろう。その意外さを悟ったのか、あやめは楽しそうに口元を緩めた。「冬弥さんのことを思って、“物扱いするなんて酷い”といって泣くとでも?」「そういう女が、多いだろう」「そういう女しか周りにいなかったのですね、お気の毒に。早苗さん」あやめが廊下へ向かって声をかけると、静かに襖が開き、早苗が入ってくる。その手に抱えられていたものに、迅は思わず眉をひそめた。「呪いの箱?」天面には無数の刺し傷のような痕が刻まれ、段ボールはどこか不吉な気配を漂わせている。「ああ、言われてみれば、そうですね。新しい箱を探すのも面倒でこのままでしたが……まあ、いいでしょう」あやめは軽く受け流しながら蓋を開ける。中から取り出されたのは、冬弥がさまざまな女性と写っている写真の束だった。「これは……」「身を引けという脅しです。合成されたっぽいものもありますし、本物っぽいものもありますが、まあ、それはどうでもいい話です」(どうでもいいなら、こんな箱にはならないだろう)迅は内心で呟く。箱の傷は、蓋を閉じるたびに抑え込んできた感情の跡に見えた。「男が成長しないから、女も成長しない。自分たちで何も考えない。こんなことをした結果を想像しない」あやめは一番上の写真を指先でなぞる。その仕草は優しいのに、そこに込められたものは温度を感じさせない冷たさだった。迅は写真に写る女に見覚えがあった。記憶を辿り、ゾッとする。「その女の家の会社を、潰したのは……?」「私ですが、何か? 売られた喧嘩を買ったらいけないとか? まさか、相手が女だからといって泣いて尻尾を巻いて逃げ出すとでも?」さらりと答えるあやめは、次の瞬間「あ」と小さく声を上げて笑う。「今宮さんも、そうでしたね。そうでした、そうでした……忘れていましたわ」「忘れるなよ、人のカードを止めておいて」「今宮さんみたいな輩が多過ぎて、多過ぎて……おかげで銀行の方とも顔見知りになりまして、最近では資
last updateLast Updated : 2026-03-09
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3-28

ああーん、と、か細くも確かな泣き声が障子の向こうから届いた瞬間、張り詰めていた空気がほどけるように動いた。先ほどまで室内を満たしていた緊張は、目に見えない糸で固く結ばれていたかのようだったが、その糸がふっと緩む。もちろん、それは「……あの役立たずが」と小さく零れた早苗の舌打ちのせいではない。「冬弥さん。楓が泣いているようなので、行ってきますね」あやめは何事もなかったかのように立ち上がる。その声音には先ほどまでの冷たい刃はなく、ただ淡々とした日常の延長がある。「あやめ」呼び止める声をかけたが、あやめは振り返らない。「私はもう気がすんだので、適当にお見送りをしてください」それだけ言い残し、足音も軽く部屋を出ていく。その背中には未練も余韻もなく、ただ用事を終えた者の潔さだけがあった。残された三人の間に、ふたたび静寂が落ちる。だがそれは先ほどとは違う、どこか拍子抜けしたような空白だった。「はあ……」その空気を破ったのは迅の深いため息だ。「おっかな過ぎ……え……俺のカード、どうなる?」「気にするのはそこか?」冬弥が呆れたように返すが、迅は真顔で言い切る。「お前も止められてみれば分かる」「そのときは樹に支払わせる」「はあ?」即座に上がる樹の素っ頓狂な声。それに被せるように、早苗が鼻で笑った。「若のカードが使用停止になるなら、樹のカードも同じく。二人は一蓮托生ですからね」「……そうか」あっさりと納得する冬弥に、樹は言葉を失う。理不尽の連鎖が、あまりにも自然に成立している。やがて冬弥は立ち上がり、簡潔に指示を出した。「樹、車を回すように言ってくれ。会社に戻る。早苗、塩沢老がこっちにきたら社のほうに行くように言ってくれ」「分かっております」早苗が静かに応じて部屋を出ていくと、残された男たちは自然と口を閉ざした。先ほどの一連の出来事を、それぞれが別の角度から咀嚼している。その沈黙を破ったのは、冬弥が取り出したスマートフォンだった。呼び出された名前は藤堂結衣。数コールの後、軽やかな機械音声が流れる。『はい、藤堂です。ただいま電話に出る気はありません。あやめちゃん以外の方はピーッという発信音のあとに交渉を開始してください。ピーッ』一拍置いて、冬弥は短く言った。「あやめの写真をやる」『はい、何ですか! 何でも聞いてください!』即座に
last updateLast Updated : 2026-03-10
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3-29

神崎邸の応接室は、午前のやわらかな光に満ちていた。庭の木々の間を抜けてきた風が、わずかに開けられた窓から静かに入り込み、白いレースのカーテンをゆるやかに揺らす。その動きは規則的でありながら、どこか気まぐれで、部屋の空気に柔らかな流れを与えていた。あやめはソファに腰掛け、テーブルの上に広げられた資料に視線を落としている。紙の端を軽く押さえる指先は無駄なく整い、読み進める目の動きにも迷いがない。「こちらに置いておきます」「ありがとうございます、早苗さん」早苗が淹れたばかりの紅茶からは、穏やかな香りが立ちのぼり、室内にほんのりと温もりを添えていた。やがて廊下の奥から、落ち着いた足音が近づいてくる。一定の間隔を保ち、焦りも躊躇いも感じさせないその足取りは、訪れる者の性格をそのまま表しているかのようだった。  コンコン控えめなノック。「どうぞ」「失礼します」自ら扉を開けて入ってきたのは、蛟組の組長である水原壮一だった。護衛として早苗はいるものの、鷹見や大迫の先導なしにここまで通される者は限られている。それは単なる便宜ではなく、あやめの判断による信頼の証だった。「お久しぶりです」長身の体をわずかに縮めるようにして、水原壮一は頭を下げる。かつては粗野さを隠さなかった男だが、その所作には明らかな変化があった。娘の玲奈を冬弥の相手にと考えていた頃には、あやめに対してあからさまな敵意を見せていた男が、今は自ら距離を測り、礼を尽くしている。その変化を、あやめは特に言及することなく受け入れていた。「お元気でしたか?」柔らかな微笑みとともにソファへと促す。水原は「失礼します」と応じ、端に控えめに腰を下ろした。その姿に、早苗がせき込む。「早苗、笑いたければ笑え」「まあ、なんて心優しいお言葉。数年前の水原組長からは想像もできませんわ、感激でございます」からかうように言いながら、早苗は静かに紅茶を差し出す。「ありがとう」「あらま、感謝の言葉まで」早苗はわざとらしく窓の外に視線を向ける。「槍が降ってきますかね」「……姐さんが丁寧に接する相手に、俺が粗野な振る舞いなんてできるわけがないだろう」軽く咳払いをし、水原はソーサーごとカップを持ち上げる。その動きは無駄がなく、どこか洗練されていた。「今日はどういったご用件で?」あやめが穏やかに問うと、水
last updateLast Updated : 2026-03-10
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