部屋に静かな沈黙が落ちた。あやめが口にした【愛人】という提案。笑い話として片づけるには具体的すぎる。しかし否定しようとすると、自分たちがこれまで積み上げてきた理屈そのものを否定することになる。迅は手元のワイングラスをゆっくりと回した。深紅の液体が静かに揺れる。(……まいったな)自分で蒔いた種だった。龍神会を守るため。神崎家の血を絶やさないため。跡取りを一人に集中させないため。そのために愛人制度は必要だと、何度も冬弥へ言ってきた。あやめにも押しつけた。爆弾入りの贈り物まで送りつけて。すべて龍神会のためだと信じて。だから今さら『愛人なんて嫌だ』とは言えない。それを口にした瞬間、自分自身の信念が崩れる。迅はゆっくり息を吐いた。「……その報酬」グラスを置く。「俳優としての契約とは別なんだよな?」冗談のような口調だった。だが部屋の空気がぴたりと止まる。樹が目を丸くする。冬弥は眉を寄せた。一方で、あやめだけは穏やかに微笑んだ。「その件は冬弥さんにご相談ください」迷いなく答える。「今宮さんは、私の手足ではありませんもの」そこには曖昧さが一切ない。自分の手足ならばメンテナンス費用は払う。迅は違う。「……なるほどね」迅は小さく笑う。冗談――そう思っていた。だが違う。(この女、本気だ)組織をどう動かすか。人をどう配置するか。そこに男女の区別はない。能力があり、忠誠があり、役に立つなら採用する。ただ、それだけ。「冬弥」迅は正面を見る。「どうする?」冬弥は腕を組んだ。しばらく考え込み、深く息を吐く。「有用なのは認める」その一言で迅は苦笑した。(そこは認めるのかよ)「だが」冬弥は額を押さえる。「少し待て」「待つ?」「ああ」真面目な顔で頷く。「心の準備が必要だ」樹が吹き出した。「若……そこですか」「重要だろう」冬弥は真顔だった。「いきなり幼馴染が愛人になると言われても整理が追いつかん」「……俺も追いついてない」迅がぼそりと呟く。その様子を見たあやめは申し訳なさそうに頭を下げた。「失礼いたしました」「ん?」「つい」少しだけ照れたように笑う。「いつもの癖で、先走って話を進めてしまいました」迅が聞き返す。「時は金なりというのか、焦ってしまうのです」冬弥は苦笑
Last Updated : 2026-03-18 Read more