あやめが提示した【愛人】という提案。笑い飛ばすには具体的すぎ、否定するには理屈が通りすぎていた。なにより、その提案が「龍神会のため」という大義を伴っている以上、誰も安易に拒絶することができない。迅はグラスの縁を指でなぞりながら、ゆっくりと息を吐いた。(ここで否定すれば、俺が言ってきたことを自分で壊すことになる)彼自身、これまで愛人制度の必要性を説いてきた。母親のことで冬弥が愛人を持つことに抵抗があることを知っていたから、説得は執拗なほどだった。倫理に反していたことは分かっている。でも、組の存続、血の分散、標的の分散—―—そのすべてが合理に基づく判断だった。そして今回もまた、楓一人に危険が集中することを避けるという意味で、迅は自分の行動に説明がつけられる。だからこそ、あやめの提案を否定できなかった。自分の信念。龍神会のための言動をする。それが迅の生きる理由であり、過去から繋がる唯一の軸だった。「……その金額、俳優としての報酬とは別なんだよな?」冗談めいて問い掛けると、空気がわずかに動いた。樹が息を呑み、冬弥が懐疑的な視線を向けるのが分かった。ただ、あやめだけは、まるで当然の確認を受けたかのように柔らかく微笑んだ。「冬弥さんに聞いてください。冬弥さんの愛人なのですから」そこに迷いはない。線引きは明確で、曖昧さは一切排除されている。「……そうか」迅はグラスを持ち上げ、赤い液体を口に含む。重厚な香りと味が広がるが、その感覚はどこか遠い。(俺をやりこめたいだけの、冗談ではない。本気だ)あやめの笑みは穏やかだが、その奥にある目は冷静で、計算され尽くしている。個人の感情ではなく、構造としての最適解を見ている目だ。迅はその視線を理解した。「どうする?」冬弥を見る。そこにあったのは迷いではない。複雑さを抱えながらも、否定はしないという意思があった。(ああ、そうか)これは選択ではない。選択させているのは形だけ。すでに道は一本に収束している。迅はゆっくりとグラスを置いた。「……俺は、何をすればいい?」迅の了承を示す言葉に、冬弥が深くため息を吐いた。「私の希望としては……」「待て」冬弥が額を押さえながら、あやめの言葉を遮った。「迅の有用性は認めるが……話を進めるな。心の準備をしたい」その率直な反応に、あやめは小さく息を吐き、口を閉じた。
Last Updated : 2026-03-18 Read more