Home / 恋愛 / 氷龍の檻姫 / Chapter 161 - Chapter 170

All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 161 - Chapter 170

216 Chapters

3-40

あやめが提示した【愛人】という提案。笑い飛ばすには具体的すぎ、否定するには理屈が通りすぎていた。なにより、その提案が「龍神会のため」という大義を伴っている以上、誰も安易に拒絶することができない。迅はグラスの縁を指でなぞりながら、ゆっくりと息を吐いた。(ここで否定すれば、俺が言ってきたことを自分で壊すことになる)彼自身、これまで愛人制度の必要性を説いてきた。母親のことで冬弥が愛人を持つことに抵抗があることを知っていたから、説得は執拗なほどだった。倫理に反していたことは分かっている。でも、組の存続、血の分散、標的の分散—―—そのすべてが合理に基づく判断だった。そして今回もまた、楓一人に危険が集中することを避けるという意味で、迅は自分の行動に説明がつけられる。だからこそ、あやめの提案を否定できなかった。自分の信念。龍神会のための言動をする。それが迅の生きる理由であり、過去から繋がる唯一の軸だった。「……その金額、俳優としての報酬とは別なんだよな?」冗談めいて問い掛けると、空気がわずかに動いた。樹が息を呑み、冬弥が懐疑的な視線を向けるのが分かった。ただ、あやめだけは、まるで当然の確認を受けたかのように柔らかく微笑んだ。「冬弥さんに聞いてください。冬弥さんの愛人なのですから」そこに迷いはない。線引きは明確で、曖昧さは一切排除されている。「……そうか」迅はグラスを持ち上げ、赤い液体を口に含む。重厚な香りと味が広がるが、その感覚はどこか遠い。(俺をやりこめたいだけの、冗談ではない。本気だ)あやめの笑みは穏やかだが、その奥にある目は冷静で、計算され尽くしている。個人の感情ではなく、構造としての最適解を見ている目だ。迅はその視線を理解した。「どうする?」冬弥を見る。そこにあったのは迷いではない。複雑さを抱えながらも、否定はしないという意思があった。(ああ、そうか)これは選択ではない。選択させているのは形だけ。すでに道は一本に収束している。迅はゆっくりとグラスを置いた。「……俺は、何をすればいい?」迅の了承を示す言葉に、冬弥が深くため息を吐いた。「私の希望としては……」「待て」冬弥が額を押さえながら、あやめの言葉を遮った。「迅の有用性は認めるが……話を進めるな。心の準備をしたい」その率直な反応に、あやめは小さく息を吐き、口を閉じた。
last updateLast Updated : 2026-03-18
Read more

3-41

「……気に入らねえが、納得はした」低く吐き出すように言って、迅はまっすぐにあやめを見据えた。その視線には、反発もあれば諦観もある。だが何より強いのは、自分の中で折り合いをつけた者だけが持つ静かな覚悟だった。「いいだろう。俺も冬弥の【愛人】になろう」その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに揺れた。樹が盛大にため息を吐く。「幼馴染二人が愛人って……どんな冗談だよ」ぼやきは半ば本気で、半ば現実逃避だった。「除け者が嫌なら、お前も愛人になるか?」冬弥が何の気負いもなく言う。きょとんとした顔で放たれたその一言に、樹は完全に言葉を失い、迅は堪えきれずに吹き出した。「ぶはっ……冬弥、お前、本当に変わったな」「そうか?」首を傾げる冬弥に、迅は肩を震わせながら続ける。「ああ、間違いなく嫁に似てきてる」「……俺は、別に可愛くはないぞ?」真顔で返すそのズレに、迅はさらに笑い、樹は頭を抱えた。「可愛いって、そういう意味じゃねえだろ……」「まあまあ、樹。それにしても、冬弥。愛人に妻の惚気は厳禁って知らないのか?」「そうなのか」驚く冬弥を見て、迅は苦笑する。「……なるほどな。お前の【愛人】がどういう立ち位置なのか、よく分かった気がする」「どいつも、こいつも、俺よりあやめの方が好きだからな」冬弥の言葉は冗談めいているが、本気だった。その言葉に迅は一瞬だけ目を細め、そして再び笑みを浮かべる。「なるほど、ね」軽く息を吐き、迅はグラスを置いた。それから改めてあやめを見る。「……姐さん。あなたと跡目への無礼、大変失礼しました」丁寧に頭を下げる迅に、あやめは静かに微笑む。「はい」その一言だけで、場の空気が切り替わる。対立していたはずの関係が、別の形へと再構築されていく瞬間だった。「これから、よろしくお願いします」迅はグラスを持ち上げる。あやめもそれに倣ってグラスを手にした。中身は入っていないが、その所作は完璧で、形式としての均衡は崩さない。「ええ、よろしくお願いいたします、今宮さん」「やめろ、その呼び方」思わず顔をしかめる迅に、あやめは小さく首を傾げる。「迅でいい」「では、迅さん」「“さん”もいらねえって……」「それはダメだ」横から冬弥が即座に否定する。間髪入れないその口調に、迅とあやめは顔を見合わせ、同時に吹き出した。「お前は
last updateLast Updated : 2026-03-19
Read more

3-42

静かな部屋に、小さな寝息が満ちていた。昼下がりの光はやわらかく、障子越しに淡く拡散して室内を包み込み、時間の流れすら緩やかにしているようだった。その光の中心にあるゆりかごの中で、楓は何も知らぬまま、ただ安らかに眠っている。外の世界にある思惑も、血の匂いも、権力の均衡も、この小さな命にはまだ届かない。その無垢さは、あまりにも静かで、あまりにも強かった。ゆりかごの傍らに立つ迅は、珍しく言葉を発さずに直立している。普段の軽薄さも余裕もなく、ただ目の前の存在に向き合うことに意識を集中させていた。「どうした?」背後から冬弥の低い声がかかる。「……これが、お前の息子か」迅の声は、わずかに抑えられていた。軽口を叩く余裕すらない、率直な驚きが滲んでいる。「ああ」短く返された言葉には、確かな誇りがあった。迅は一歩だけ前に出る。足音すら忍ばせるように、慎重にベビーベッドへ近づいた。視線を落とし、楓の顔をじっと見つめる。「……小せえな」思っていたよりも、ずっと。遠くから眺めるのとは違う、生々しい現実としての「命」のサイズ。触れれば壊れそうで、呼吸すら乱せば影響を与えてしまいそうで、手を伸ばすことにさえ躊躇いが生まれる。そんな存在だった。「抱いてみますか?」背後からあやめの穏やかな声が差し込む。迅は一瞬だけ眉を寄せた。「いや、いい。落としたら洒落にならねえ」「大丈夫ですよ……多分」「信用できねえよ」「大丈夫と断言できるほどの経験値がなくて」「なるほどな」軽口を交わしながらも、迅は結局、ゆりかごの中を覗き込むだけにとどめた。その距離は、近づきたいという本音と、踏み込めないという自制の境界線だった。そのとき——ふ、と楓の目が開いた。黒く澄んだ瞳が、まっすぐに迅を捉える。「……お」迅がわずかに身を引く。赤ん坊と目が合う経験など、これまで一度もなかった。むしろ、自分の存在が周囲に与える影響は理解している。強い光、鋭い空気、どこか近寄りがたい雰囲気。子どもは敏感にそれを感じ取る。だから、避けられることも多かった。(泣くか?)一瞬、そう思う。(赤ん坊だしな……)「泣くから……」自嘲気味に呟き、数歩後ろへ下がる。だが——楓は泣かなかった。じっと迅を見ている。その視線には恐れも拒絶もない。ただ、興味だけがあった。そして——。「……あー
last updateLast Updated : 2026-03-19
Read more

3-43

「……理解に苦しみますな」低く重い声が、神崎組本部の会議室にじわりと広がった。空気そのものに染み込むようなその声音は、単なる意見ではなく“拒絶”の意思として場を支配する。上座に座る冬弥は、感情を表に出すことなく視線を巡らせた。並ぶのは、長年血と金で組を支えてきた古参たち。彼らの忠義も、実績も疑う余地はない。だからこそ厄介だった。彼らは正しいがゆえに、変われない。(変化を嫌う……いや、変化の必要を認めない)冬弥は内心でそう整理する。彼らにとって組とは守るべき“完成された形”であり、更新すべき“過程”ではないのだ。「愛人を持つこと自体は、問題ではありません」慎重に言葉を選びながら発言したのは蛟組の水原だった。場の空気を壊さぬように、しかし議論を前に進めようとするその姿勢は評価に値する。だが——。「何を言っている!」辰組の塩沢が、堪えきれないとばかりに声を荒げた。その声音には苛立ちと焦燥が混じっている。先代から組を引き継いだばかりの新参者。しかし、古参に知らぬ者のいない父親の名を背負い、かつて筆頭だった誇りを取り戻そうとしていた。だが現実には、組員は蛟組へと流出し、その力は明確に衰えている。塩沢と、蛟組の水原は同年代。そのライバル関係もある。「……言葉を遮って、申し訳ない」形式的な謝罪を口にしながらも、その目は一切引いていない。「しかし……迅は、美形ですが、男、ですよ?」その一言に、場の空気が固まる。誰もが思っていたが、誰も明言しなかった核心。「男と……そういう関係を持つなど、聞いたこともない!」続けざまに吐き出された言葉は、常識の代弁であり、同時に限界の露呈でもあった。その言葉に、場の全員が沈黙のまま同意する。明確な反論はない。ただ、空気が“それが当然だ”と語っている。塩沢はわずかに口元を緩め、勝利を確信したように冬弥を見た。「若、今回の件は再考願いたい」(……想定通りだな)冬弥は心の中で呟く。驚きはない。むしろ、この反応こそが自然であり、自分自身もかつては同じ側に立っていただろうとすら思う。(だが、それは“今まで”の話だ)あやめが導入した新たな枠組みは、すでに“愛人”という概念を別物へと変えている。「何の問題がある?」静かに放たれたその問いに、場が引き締まる。「迅は芸能に通じ、裏も知る。何より——」一拍置き、全
last updateLast Updated : 2026-03-20
Read more

3-44

「……終わりか?」冬弥の低い声が、会議室に静かに落ちた。その一言は確認でありながら、同時に“これ以上は無意味だ”という線引きでもあった。「え、ええ……」歯切れの悪い返答が返る。先ほどまで勢いよく代替案を口にしていた幹部たちも、どこか尻すぼみになっている。冬弥は軽く頷くと、隣に座るあやめへ視線を向けた。「俺は三人、だな。あやめは?」淡々とした問いに、あやめは指先で軽く顎に触れ、わずかに考える素振りを見せたあと、すぐに答えた。「一人、ですね」その短い答えに、場の空気がわずかに揺れる。冬弥は顎を引き、ゆっくりと言葉を重ねた。「いま上がった者の中で、名前と顔が一致したのは、俺が三人、あやめは一人だ」それは単なる記憶力の問題ではない。情報の質と、存在の重みを測る言葉だった。「社長夫妻ですら知らない【愛人】に、どんな価値がありますの?」あやめが静かに言い添える。その声音には嘲りはない。ただ、事実だけを並べている。「そんな女を献上されても、効果はろくに望めんな」冬弥が引き取る。冷静な分析だった。個人的な好みでも倫理でもなく、純粋に“使えるかどうか”で切り分けている。「知名度、今後の期待値、そして龍神会への忠誠心」一つひとつ、言葉を置くように続ける。「龍神会の資金源である神崎芸能の主な分野を任せられる【愛人】に、迅以上に相応しい奴はいるか?」静まり返る場。誰も即答できない。出てくるのは、沈黙だけだ。冬弥はその反応を確認し、ゆっくりと視線を巡らせた。「迅以上がいないなら、それで決まりだ」一拍。意図的に間を置き、全員の意識を引き寄せる。「——異論は認めない」断定だった。議論の余地を断ち切る、絶対の宣言。それでも——。「しかし……」塩沢が食い下がる。声にはわずかな震えが混じっていたが、それでも引かない。引けない、という方が正しい。ここで黙れば、自分の立場が完全に失われると分かっているからだ。「男、ですよ?」その言葉は、論ではなかった。ただの感情。長年染み付いた価値観の吐露だった。「気に入らん、ということか」冬弥が問う。返答はない。否定も肯定もできない沈黙。その曖昧さを見て、冬弥はふっと笑った。「愛人を持つ気はないといった俺に、お前たちは愛人は必要だと言ったな」視線が鋭くなる。「気に入らないという感情は我儘だ、と」塩沢
last updateLast Updated : 2026-03-20
Read more

3-45

腐女子(ふじょし)。それは主に、男性同士の恋愛を好む女性を指すサブカルチャー用語であり、長らく日陰の趣味として語られてきた領域だった。だがいま、その存在は決して小さなものではない。むしろ、ある種の“潮流”として社会のあちこちに根を張り、時に無視できない力を持つに至っている。そして龍神会の年かさの幹部たちが抱いた懸念——男同士の関係など受け入れられるはずがないという思い込みは、その潮流の前ではあまりにも時代遅れだった。彼らの想定を嘲笑うかのように、腐女子たちはいま、熱狂の渦中にいた。. * .神崎芸能の社長室。重厚な調度品に囲まれた静かな空間の中で、樹の声が軽やかに響く。「見ました?」その声音には、どこか楽しげな響きが混じっていた。書類から顔を上げた冬弥は、わずかに眉を寄せる。「何をだ?」樹は答える代わりにタブレットを差し出した。その画面を一瞥した瞬間、冬弥の視線が止まる。表示されているのは、見覚えのある特徴を持つ二人の男が、過剰なまでに劇的な構図で絡み合うイラスト。そしてその上に躍るタイトル。【俺様組長と俺様俳優 #107】——派手で、扇情的で、そしてどこか滑稽ですらある見出しだった。「……107話までいったか」冬弥が呟く。樹はすかさず肩を竦めた。「ポイントはそこではありませんけどね」(……理解はできん)正直な感想だった。だが同時に、別の評価も浮かぶ。(だが——使える).その作品は、都内のとある女子高の漫画研究部が、公式SNS上で公開しているショート漫画だった。軽いタッチの絵柄に、過剰なほどドラマチックな展開。いわゆる“二次創作”に分類されるそれは、現実の人物をモデルにしながらも、現実とは大きく乖離した関係性を描いている。だが重要なのは、内容の正確性ではない。拡散力だ。もともと腐女子という存在自体は新しいものではない。1970年代の少女漫画や同人誌文化を源流とし、長い時間をかけて独自の文化圏を形成してきた。表には出にくいが、決して小さくない層。そして一度火がつけば、その拡散速度は極めて速い。今回も例外ではなかった。攻めと受けの解釈違い、関係性の再構築、さらにはα×αといった特殊設定まで持ち込まれ、無数の派生作品が生まれている。結果として、最初に火をつけた女子高の漫研の公式SNSはフォロワー数を爆発的に伸ばし、ひ
last updateLast Updated : 2026-03-21
Read more

3-46

「結局は、女を舐めていたってことなんだろう」冬弥の低い呟きは、どこか呆れと納得が混じっていた。「高校の漫研ってもっと趣味かと思っていましたが、すごいっすよね。この子ら一人一人がクリエイターとして起業してるんすよね」樹は素直に感心した声を漏らしながら、手にしていた学校説明用資料の冊子をぱらぱらとめくる。「時代ということだろう。女とか、高校生とかで線引きした時点で勝ち目はない」冬弥の言葉は簡潔だったが、その裏にはこれまでの価値観が崩れ去っていく現実を認めざるを得ない苦さがあった。樹は冊子に目を落としながら苦笑する。「頭のいいお嬢様高校って目で見ていましたが、認識を改めます」「そうしろ。何と言っても、あやめや花沢綾乃を生んだ学校だからな」「聞いた話ですけど、姐さんの先輩がAURELIUSのチーフパターンナーらしいっす」「それで、迅のジャケットが作れたのか」点と点が繋がるように、冬弥は小さく頷いた。「姐さんの同窓ネットワーク、すごいですね」「経済制裁もそこからと思うと、笑えんな」軽口のようでいて、その実、笑えない現実だった。人脈という見えない力が、組織の力学すら書き換えようとしている。冬弥は再びタブレットへと視線を落とした。そこに並ぶのは、数えきれないほどの反応。数字はすでに常識の範囲を超え、桁が増えている。「本当に、笑えん」思わず漏れた本音に、樹も苦笑を深める。画面には熱狂的なコメントが並んでいた。【やばい、絵面が強すぎる】【美形×美形とか最高かよ】【実写もいいんだよ、これ】【実写も尊い】「……なんだこれは」冬弥は率直な困惑を口にした。漫画として描かれている内容は明らかに創作であるにもかかわらず、現実の写真や出来事が織り交ぜられ、虚構と現実の境界が曖昧になっている。迅が帰国した際に自分のもとへ挨拶に来た、その一場面すら、別の意味を持たされて拡散されているのだ。「完全に“コンテンツ”ですね」樹の言葉に、冬弥はわずかに眉を寄せる。「コンテンツ……」理解しがたい概念だった。だが、無視できない力を持っていることだけは分かる。【俺様俳優が囲われる側なの意外】【格上がり!】【強い男に選ばれるのエモい】「……格上がり? なぜ、上がる?」不倫や愛人関係は、本来であればスキャンダルのはずだった。スキャンダルは価値を下
last updateLast Updated : 2026-04-25
Read more

【第4部】4-1

「冬弥さん……」情事の余韻がまだ肌に残るまま、あやめは火照った体をすり寄せ、上半身を重ねるようにして覆いかぶさった。細くしなやかな腕が首元に絡みつく感触に、冬弥はわずかに首を傾げる。「どうした? 物足りなかったか?」あやめの体力を考えて切り上げたが、望むなら応じるのはやぶさかではない。むしろ、その求めに応えること自体は歓迎だった。「……それは、勘弁してください」弱々しくもはっきりした拒絶に、冬弥は思わず内心で苦笑する。(どう見ても誘うようなこの態勢で、つれないことを言うな)そう思いながらも、いまにも目を閉じそうなあやめの表情を見れば、からかい半分の言葉も引っ込む。眠気を堪えているのか、それとも甘えたいだけなのか、その境界は曖昧だった。あやめはそのまま冬弥の裸の胸に顔を押しつけ、ぴたりと寄り添ってくる。(……煽るな)無意識に見せる甘えた仕草に背筋が粟立つが、彼女の体力をよく知る冬弥は深く息を吸い込み、衝動を押し込めた。その呼吸に合わせて胸が上下したせいか、あやめは楽しそうにふにゃりと笑い、頬をすり寄せる。「あやめ……」「……眠い」「鬼か……ったく、話なら朝起きてからでも聞くぞ?」呆れ混じりに言えば、あやめはむにゃむにゃと曖昧に言葉を返しながら、さらに強く腕を回してくる。柔らかな体温が押しつけられ、冬弥は一瞬息を飲む。(まったく……)理性と本能のせめぎ合いを自覚しながら、彼は問いかけた。「誰に吹き込まれた?」「綾乃か、藤堂さんか……あれ、どっち……」(この時点で、ろくでもなさそうなんだが)呆れはするが、完全に否定できないあたりが厄介だ。「それで、お願いって?」あやめはふわりと笑った。その無防備な表情に、冬弥は思わず視線を逸らして、体を落ち着かせようと息を吐く。(ここで、この顔は狡いだろう)「神崎芸能のワンフロア、丸ごと私にください」「丸ごと?」「いまの体制では……不安なので、備えたい……備え、ないと……」言葉は途中で途切れ、そのままあやめの意識は沈みかけていく。腕の力がゆるみ、呼吸が静かに整っていくのを感じながら、冬弥は小さく息を吐いた。「……寝たか。言うだけ言って」だが、その寝顔を見下ろす眼差しに苛立ちはない。むしろ、どこか愉しげですらあった。. * .二ヶ月後。「何の前線基地です、これ?」眼前
last updateLast Updated : 2026-03-22
Read more

4-2

「ここは、鷹宮さんの部屋ですね」樹の言葉に、冬弥は静かに頷いた。足を踏み入れた瞬間に感じるのは、徹底して削ぎ落とされた“無”の空間だった。鷹宮昴の部屋は、驚くほど何もない。白い机と椅子、そして壁一面を占めるモニター群。それ以外に視界に入るものはほとんど存在せず、装飾も生活感も、個人の趣味を感じさせる要素すら排除されていた。にもかかわらず、不思議と空虚さは感じない。むしろ、そこにあるのは張り詰めた意志のようなものだった。(鷹宮昴の物が何もないのに、何もないことが鷹宮昴らしいというから面白いな)必要なもの以外を一切置かないという選択。それ自体が、彼女の性質を雄弁に物語っている。機能に徹し、無駄を嫌い、結果だけを求める女。その在り方が、この空間にはそのまま刻まれていた。.「向かいの、花沢さんの部屋は真逆ですね」「目がおかしくなりそうだ」ドアを開けた瞬間、視界が一気に色で埋め尽くされる。花沢綾乃の部屋は、まるで少女の夢を現実に引きずり出したような空間だった。パステルカラーのクッションが無造作に積まれ、ぬいぐるみがあちこちに配置され、壁や天井にはリボンやハート型のライトが飾られている。机の上にはキラキラと光る文房具や小物が散らばり、全体として統一感があるようでいて、どこか計算された“散らかり”が演出されていた。甘く、柔らかく、可愛らしい――だが、それだけで終わる空間ではない。(おっかない聖域だな)この可愛らしさが単なる趣味ではなく、明確な武器であることを知る者にとって、この部屋はむしろ警戒すべき領域だった。油断を誘い、距離を詰め、気づいたときには絡め取られている。そんな危うさが、この空間には潜んでいる。冬弥は無意識に一歩、距離を取っていた。.「これ、地震が来たら、ひとたまりもありませんね」「三枝に地震対策をきちんとするように言っておけ」「この部屋でケガをしたら、労災になるんですかね?」軽口を叩く樹の視線の先には、三枝真琴の部屋がある。そこはまた別の意味で圧倒的だった。壁一面を埋め尽くすファイルラックには、隙間なく資料が並び、タグや分類票によって完璧に整理されている。机には開きっぱなしのレポートが何部も重なり、複数のモニターには絶えず分析ログが流れ続けていた。情報の洪水。それを制御し、意味を見出し、体系化するための空間。無機質であり
last updateLast Updated : 2026-04-25
Read more

4-3

「今宮さん!」一仕事を終えて神崎芸能のビルへ戻った迅は、トップクラスの所属タレントにのみ与えられる自室へ向かう途中、その声に呼び止められた。歩みを止めて振り返ると、そこに立っていたのは大迫だった。華やかな容姿は場の空気を自然に引き寄せ、周囲の人間たちも無意識のうちに視線を向けてしまう。芸能人が行き交うこの場所ですら、その存在感は埋もれない。「お久しぶりです。改めまして、大迫です」関東では耳に馴染まない、関西特有の柔らかなイントネーション。そして“大迫”という名前。龍神会に属する者であれば、その名を知らぬ者はいない。振り返った数人が小さく囁く――花園の管理人。「ずいぶんと雅な二つ名だな」迅が皮肉を込めて言えば、大迫は肩をすくめて笑った。「俺は“神崎あやめの犬”のほうが気に入っているんですけどね」軽やかで、どこか楽しんでいるような言い回しに、迅は思わず口元を緩める。「冬弥が嫌がりそうだ」「だから面白いんですよ」(いい性格をしているな。早苗姉さんや鷹見兄さんが面白がって鍛えるわけだ)その軽口の裏にある芯の強さと、他者の反応すら愉しむ余裕に、迅は内心で評価を改める。「それで、用件は?」「招待状をお持ちしました」「招待状?」差し出された真っ白な封筒に手を伸ばしかけ、迅はその動きを止めた。封に刻まれた菖蒲の花紋。その意味を理解した瞬間、わずかに眉が寄る。「……受け取るのが怖いな」「気持ちは分かります」大迫は深く頷いた直後、迅の躊躇を見逃さず、その手に半ば強引に封筒を押しつけた。「おいっ」「すみません、俺も我が身が可愛いんで」「……だろうな」苦笑混じりに封を受け取る。拒めば面倒になることも、受け取った時点で既に巻き込まれていることも、迅は理解していた。. * .「……なんだ、これは?」指定されたのは神崎芸能ビルの十二階。あやめが冬弥に“ねだって”手に入れたというワンフロア。噂は耳にしていたが、実際に足を踏み入れた瞬間、迅は思わず言葉を失った。そこに広がっていたのは、常識から逸脱した空間だった。宇宙艦隊のブリッジを思わせる設計。視線は自然と中央へと誘導され、一段低くなった円形のスペースが中心に据えられている。会議室のようでもあり、舞台のようでもあるその構造は、場にいる者すべての意識を無意識に統制する力を持っていた。(
last updateLast Updated : 2026-03-24
Read more
PREV
1
...
1516171819
...
22
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status