Home / 恋愛 / 氷龍の檻姫 / Chapter 191 - Chapter 200

All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 191 - Chapter 200

215 Chapters

4-17

瑛心の胸が、ひたりと冷えた。【神崎】の名前から、目が離せない。内側から熱を奪われるような感覚に、思考が一瞬遅れてついていく。.瑛心には恋人がいる。それを家族に隠しているのは、幼い羞恥心などではない。むしろ逆だ。知られれば奪われる—―—その確信に近い予感があるからだ。瑛心の家は実の父親でさえも、瑛心のものを、それが瑛心が大事にしているものだといくら訴えても、「麗娜が望んだから」という理由だけで差し出させることに躊躇いがない。それが人であっても、例外ではない。瑛心の恋人の名は、黎沈淵。巨大なマフィア組織・天覇龍門の中枢に連なる黎家の一員であり、直系でありながらも本家の後継ではないものの、権力のある男。彼が率いる分家は八十八ある系統の一つにして、ゼロから築き上げたその地位は、彼がその中で頭角を現すのに十分な実績となっている。さらに言えば、彼の財は血筋に依るものだけではない。彼自身が築き上げた資産もまた、常識の範囲を超えている。端正な容姿、柔らかな物腰、そして約束された将来—―—瑛心の家族がそれを見逃すはずがない。麗娜に差し出せと言われる未来は、容易に想像できた。だから隠していた。今回日本に向かうことは、事前に黎沈淵には伝えていた。普段は何も言わない彼が、今回は明確に難色を示した。その理由も聞いている。日本のマフィアと敵対している、と。だから危険だ、と。(……ここは、天覇龍門と敵対している……)瑛心の目の前でゆっくりと門が開いていく。重く、鈍い音を立てながら、その隙間を広げていく様は、瑛心にはまるで巨大な生き物が顎を開くように見えた。竜の唸り声—―—そんな比喩が、頭の中に自然と浮かぶ。逃げることはできない。そう告げられているようだった。.車が敷地内へと滑り込む。外界から遮断された空間は、空気そのものが違っていた。広い石畳のアプローチ、その先に佇む屋敷は、黒い影がそのまま形を得たかのような重厚さを持っている。光を吸い込むような外観は、威圧と静謐を同時に感じさせた。やがて車が止まり、スライドドアが開く。そこに立っていたのは、一人の女性だった。白い着物に黒い羽織を重ね、姿勢はまっすぐで無駄がない。年齢は瑛心と同じか、わずかに上。整った顔立ちに宿るのは、華やかさではなく、どこか影を帯びた静かな美しさ。その存在は、目立つというよ
last updateLast Updated : 2026-04-06
Read more

4-18

その瞬間だった。《瑛心はどこだ! てめえが誘拐したことは分かってんだぞ!》鋭く叩きつけるような怒声が、場の空気を切り裂いた。鼓膜に直接響くその声音に、瑛心の心臓が大きく跳ねる。反射的に振り返ったものの、そこに立っていたのは、想像していた人物ではなかった。藍色の着物を纏った背の高い男が、わずかに肩を落とし、深いため息を吐いていた。場の緊張とは無関係のような落ち着き。だがその目には、状況を俯瞰する冷静さがあった。「文句なら、俺ではなくあやめに言え」男は淡々と告げると、手にしていたタブレットを無造作に持ち上げ、神崎あやめの方へ差し出す。《あやめ!》(この声……)間違いない。瑛心が知っている声——黎沈淵のものだ。しかし、姿はどこにもなく声だけが存在しており、その不自然さが現実の輪郭を曖昧にしていた。「お久しぶりですね」《あやめ……》他の女性の名前、それも『あやめ』を呼ぶ沈淵の声音に、瑛心の胸が小さく軋んだ。初恋の女性。その名を呼ぶ響きには、自分に向けられていたものとは異なる温度が含まれているように感じられた。《てめえ、瑛心に何をしやがる!》(……え?)確かに熱っぽくは聞こえたが、この声には明らかに怒りを孕んでいた。その矛先は明確で、迷いもない。「何もするわけがありませんよ。相変わらず……馬鹿ですね」神崎あやめは一切動じることなく、呆れを含んだ声で返す。そのやり取りは長い時間を共有してきた者同士にしか出せない距離感を伴っていたが……。(……初、恋?)甘さなど欠片もなく、再会の情感などどこにも見当たらない。むしろ衝突。しかも遠慮のない、剥き出しの応酬。「よくそれで、分家の一つを運営できるわよね。部下の皆様に同情してしまうわ」神崎あやめの声音は穏やかだが、言葉は容赦がない。《お前のやり方に比べりゃマシだ。次々と誑し込んで下僕化しやがって。お前の旦那にも同情するね。愛人が全部妻の手足だなんてな》返される言葉もまた鋭く、遠慮がない。タブレットを持つ男が、その画面の向きをわずかに変え、自分自身を映す。《神崎冬弥!》沈淵の唸るような声で、瑛心は目の前の男が龍神会の組長であることに気づいた。「それについては問題ない。寧ろ余計なお世話だ」低く落ち着いた声。短いが、強い意志が滲む。《ああ、そうかい。女房の尻に敷かれたい男
last updateLast Updated : 2026-04-21
Read more

4-19

《瑛心! 違うんだ、これは……とにかく、違うんだ》タブレットから響く慌てた声。画面の中では沈淵がフレームからはみ出しそうな勢いで身を乗り出し、必死に「違う」と繰り返していた。その動きは普段の彼からは想像もつかないほど大きく、余裕の欠片もない。整っていたはずの呼吸も乱れ、言葉は重なり、同じ音だけが何度も繰り返される。しかし、「違う」という否定だけが先行し、その先にあるはずの説明はどこにも辿り着かない。画面越しにそれを見ているせいか、その光景はどこか現実感が薄く、瑛心にはまるでドラマのワンシーンのように映ってしまった。(なんでこういうとき、みんな同じ反応するのかしら……)思考がふと逸れるが、すぐにその自分の感覚に反省した。(これはいま考えることじゃない)自分は当事者だ。傍観者のような感想を抱くのは、この状況に相応しくない。そう判断し、瑛心は内心で小さく首を振る。しかし、どれだけ意識を戻そうとしても、目の前で繰り広げられる光景はどこか現実離れしていた。.詳しい話は屋敷の中でしたほうがいいと早苗に言われ、瑛心は応接室に案内された。その道中、早苗は神崎邸の女中で、神崎あやめの護衛でもあると説明された。その間も、神崎冬弥が持つタブレットからは「違う」という沈淵の声が聞こえていた。「俺には、いまの黎沈淵の心境も反応も理解できるのだが……言い訳する姿というのは、いささか滑稽だな」神崎冬弥の落ち着いた声が差し込まれる。「見ていられませんね」神崎あやめが、さらりと同意する。「なぜ浮気がバレたときの反応はほぼこうなのでしょうか。“違う”ってひたすら言うだけで、こちらからすれば何が違うのか、さっぱりですわね」言葉は柔らかいのに、容赦がない。しかし……。「浮気とは限らない。秘密と言うべきだ」妻の言葉を神崎冬弥が静かに訂正する。「確かに、今回はそうですね。今回は」夫の言葉に神崎あやめは軽く頷いた。その会話は妙に噛み合っていて、自然で、そしてどこか既視感がある。(……私と、同じことを考えているみたい……だけど……)思考の方向性は一致しているが、微妙に違うことに瑛心は戸惑う。「言葉に少々トゲがあるな……俺は、あのとき浮気などしていないぞ」神崎冬弥がぼそりと付け加える。「浮気の定義は人それぞれですよ、冬弥さん」神崎あやめはあっさりと切り返した
last updateLast Updated : 2026-04-21
Read more

4-20

「瑛心小姐は、この黎沈淵の素性はご存知かしら?」神崎あやめの問いは穏やかだったが、その奥には確実に“確認”ではなく“照合”の意図があった。瑛心は一瞬だけ言葉を選び、それから静かに口を開く。沈淵の一族が中華系マフィア「天覇龍門」を率いていること、そして彼自身がその一角を担う存在であり、グループ会社の一つでCEOを務めていること。聞かれるままに、事実だけを淡々と並べていく。その説明の最中、神崎あやめは一度も口を挟まず、ただ静かに耳を傾けていた。やがて、ふと別の角度から問いを差し込んできた。「そういえば、二人の出会いは?」「高級中学の同級生なんです」短く答えると、神崎あやめはわずかに首を傾げた。「高級中学って、日本の高校よね。黎沈淵と同じ高校って、瑛心小姐は蘇家のご令嬢ではないの?」その指摘は的確だった。蘇家といえば、歴史ある豪商の家系。その名を持つ者の多くは、“貴族学校”と揶揄されるほどの高額な私立高校へ進学するのが常である。実際、異母姉の麗娜も例外ではなく、地元の私立高校で華やかな学生生活を送っていた。《瑛心は先妻の娘。父親と継母の間に異母の姉がいると言えば想像がつくだろう?》タブレット越しに黎沈淵が簡潔に補足する。その声音は先ほどまでの荒さを残しつつも、どこか落ち着きを取り戻していた。(高級中学のときは、沈淵が言うほど不幸ではなかったのよね)瑛心は内心で静かに振り返る。異母姉の麗娜は本拠地である大都市の私立高校へ進学し、取り巻きに囲まれた典型的な“令嬢”としての生活を満喫していた。一方で瑛心は、地元から離れた中規模都市の公立高校へ進学することになる。その決定は、継母たちにとっては“島流し”と同義であり、嘲笑の対象でもあった。だが瑛心自身にとって、それは決して不幸ではなかった。あの家から離れられた。それだけで十分だった。継母たちの視線から解放され、父の再婚以来初めて“自分の時間”を持てた。息を詰めるような日々から解放されただけで、世界は驚くほど広く、軽やかに感じられ、世間体を気にする父親が、それなりの資金と使用人を付けたことで、生活はむしろ快適だった。《俺としては、瑛心が貴族学校であの姉のような女にならなくて良かったと思う》沈淵が軽く言う。当然ながら、私立高校に通う全員が麗娜のようになるわけではない。しかし、彼女は悪い意味で
last updateLast Updated : 2026-04-09
Read more

4-21

《瑛心、幻滅したか?》その問いは静かだったが、言葉の選び方はどこか不器用で、まるで自分自身に向けた確認のようでもあった。(……“幻滅”?)瑛心は一瞬、意味を取り違えたのかと錯覚する。だが、画面の中の沈淵の表情は変わらない。冷たい無表情。しかし、その奥にわずかな揺らぎがあることを、瑛心は見逃さなかった。長い時間を共にしてきたからこそ分かる、ごく微細な変化。言葉には出さないが、彼は確かに怯んでいる。「確かに、こんなあなたを、私は初めてみたわ」瑛心はゆっくりと言葉を選ぶ。責めるでもなく、庇うでもなく、ただ事実として提示する。その声音には、驚きはあっても拒絶はない。《……》沈淵は何も言わない。ただ、わずかに視線が揺れた。「でも、あなたはあなた。幻滅はしないわ」言い切ったあとで、瑛心はほんの少しだけ唇を引き結ぶ。だがその内側では、別の感情が小さく芽を出していた。隠されていたこと。演じられていたこと。そのすべてを許してしまうのは、どこか癪だった。「幻滅するほど、あなたという人に夢を見てはいないもの」意地の悪い一言。柔らかく、だが確実に棘を含んだ言葉。《……瑛心》沈淵の声が、わずかに低くなる。「あなたは、あなた。これまでのあなたであれば私は十分よ」瑛心はそこで、ふと首を傾げた。「もしかして、私があなたを怖がるとでも思った?」問い返すその声音は軽いが、核心を突いている。《だって、お前、怖がりだろう》即座に返ってきた言葉に、瑛心は小さく目を伏せた。蘇家での記憶が、断片的に浮かび上がる。常に響いていた大きな声。罵倒と叱責。むち打ちはなかったが、平手打ちは珍しくもなかった。音と衝撃に、体が強張る感覚。「大きな声や音は苦手。暴力は怖いわ。でも、あなたは怖くない」静かに言い切る。《無理をしなくても》沈淵の声には、わずかな躊躇が混じる。「それじゃあ、別れる?」間を置かずに投げられた言葉。《嫌だ》即答だった。その速さに、瑛心は思わず微笑む。「私も嫌。だから、そんなことは言わないで」柔らかなやり取り。しかしその奥では、互いに譲れないものを確かめ合っている。《怖がらせたくない》沈淵がぽつりと漏らす。「嘘。あなたが怖がられたくないだけでしょ?」即座に否定を返す、柔らかな声で。演じていただろうが、その優しさは本物。そうで
last updateLast Updated : 2026-04-09
Read more

4-22

(この人は、こんなに野心家だったのか……違う。ただの野心家じゃない。野心なんて、そんな軽いものじゃない)瑛心は胸の奥で静かに首を振る。沈淵に野心がないとは思っていない。むしろ、その逆だ。野心があるからこそ、彼は天覇龍門という巨大組織の中で、八十八ある分家のうち本拠地にある一家を潰し、その座を奪い取った。誰もが躊躇するような一手を迷いなく選び、結果としてその存在を無視できない位置まで押し上げた。それは偶然でも幸運でもない。明確な意思と、冷徹な判断の積み重ねの結果だ。その程度のことは、瑛心にも理解できる。だが—―—だからこそ違和感があった。沈淵の“進撃”は、そこで止まっていた。中堅とはいえ、あくまで八十八分家の一つの当主。その座に収まり、それ以上を望む素振りは見せない。むしろ、現状を維持することに徹しているようにさえ見えた。まるでそれで十分だと、自分の居場所はここだと納得しているかのように。そのことに、沈淵は自分という存在を認めてもらえればそれでいい—―—誰もが、瑛心でさえ、そう思っていた。だからこそ、今の言葉は理解の外にあった。.「あなた、黎家の次期当主になることを拒否したんですってね」(―――え?)神崎あやめの静かな一言が、場の空気を変える。沈淵が目を見開く。瑛心もまた、同じように息を呑んだ。次期当主—―—それは、天覇龍門の頂点に最も近い位置を意味する言葉だ。黎老大。黎沈淵たちの祖父。その名はすでに過去のものとなっているはずなのに、その影響力はいまだ色濃く残っている。現在の頂点に立つのは、黎沈淵たちの父、通称「黎首領」。その権威は絶対的だが、それでもなお、黎老大の残した影は組織の隅々にまで及んでいる。《祖父さんか……あやめ、祖父さんに気に入られていたからな》沈淵が低く呟く。「気に入ってくださっていたと思う」神崎あやめは淡々と応じる。その目は、相手の奥底を測るように細められていた。「それを、あなたは分かっていたはず。だから、黎老大が私を守るから、黎沈烈の執着を私に向けさせたのでしょう?」静かな断定。その言葉に、沈淵の視線がわずかに揺れる。《……お見通し、か》小さく息を吐き出す。その声音には、諦めと納得が混じっていた。やがて彼は、ゆっくりと語り始める。.大都市で、実の両親のもとで育った黎沈烈。対して、
last updateLast Updated : 2026-04-21
Read more

4-23

沈淵が初めて兄に会ったのは、すでに互いが“役割”を背負いきった後のことだった。しかし、顔を合わせる以前から二人は相手の存在を知っていた。両親、とりわけ“双子を産んだ母”という事実に酔っていた母親は、その存在を隠そうとはしなかったからだ。ただし語られ方は歪んでいた。両親の語る【黎沈淵】は生まれつき身体が弱く、空気の良い地方都市で療養しなければならない、か弱く不幸な存在として扱われた。その“弱さ”と“哀れさ”は、対になる形で黎沈烈に「選ばれた者」という実感を与えるための布石でもあった。弟が弱くあるほど、兄は強くあれる。弟が不幸であるほど、兄は正当化される。沈淵はその構図を、言葉にされるより先に空気で理解していた。ではなぜ、黎沈烈はそこまでして弟の【不幸】を必要としたのか。その理由を知ったのは、十八の春だった。両親に呼ばれ、初めて天覇龍門のパーティーに参加した夜。煌びやかな会場で沈淵が見たのは、兄の周囲に群がる人々の“表と裏”だった。表では媚び諂い、持ち上げ、次期当主として讃える。だがひとたび視線が外れれば、声のトーンが変わる。跡取りとしての資質の欠如、器の小ささ、判断の甘さ。それらを批難し、嘲笑する。直接耳に届かずとも、雰囲気だけで分かるものがある。とりわけそれが“悪意”であるとき、その輪郭はむしろくっきりと浮かび上がる。やがてその“悪口”は形を変え、別の標的へと向いた。予備の跡取り——沈淵へ。《あのときの兄貴の目―――この男は危険だと思った》沈淵の瞳がわずかに細くなる。《どうしても俺が不幸でなければ許せない。俺の幸せを、何が何でも奪うんだろうなって》静かな断言だった。そこに誇張はなく、ただ観察の結果として導かれた結論だけがある。沈淵の視線が、ゆっくりと瑛心へ向けられる。熱を帯びた瞳。沈淵の言う“俺の幸せ”の中に、自分が含まれている—―—その事実に気づかないほど、瑛心は鈍くはなかった。「沈淵……」思わず名を呼ぶ。《……瑛心》応じる声は低く、わずかに柔らかい。空気が変わる。二人だけの世界に沈みかけた、その瞬間だった。「やはり、あやめには似ていないな」横から差し込まれた声に、流れが途切れる。「冬弥さん?」神崎あやめが不思議そうに首を傾げる。「あやめは恋愛方面はからっきし。恋愛の駆け引きなどしても、恋愛回路が死んで
last updateLast Updated : 2026-04-10
Read more

4-24

「黎沈淵、あやめを『初恋の君』に仕立てあげたのは、黎沈烈の目から蘇瑛心を隠すためか?」神崎冬弥の問いは簡潔で、核心を突いていた。《ああ、そうだ。兄貴は俺が目を合わせただけで、子どもだけではなく家族丸ごとを町から追いやった。やったのは俺ではないが、原因は俺だ。おかげで俺は腫れもの扱いだ》沈淵は淡々と答える。その声音には怒りも誇張もない。ただ、事実だけが並べられる。だがその内容は重い。たった一度、視線が交差しただけで、誰かの生活が破壊される。そんな理不尽が日常として存在していたということだ。瑛心の胸が、じわりと冷える。どれだけ慎重に振る舞っても、沈淵は周囲にいる人間を排除され続けてきた。《目くらましになればと兄貴に女を送り込んだこともあるが、厄介なことに、兄貴は自分から来る女には、虫ほどの興味も示さない》沈淵はわずかに口元を歪める。《金を握らせて女に兄貴を誘惑させても、一晩どころか数時間ももたないからな》その言葉には皮肉が滲んでいた。普通ならば有効であるはずの手段が、ことごとく通用しない相手。自分から奪うことには執着するのに、差し出されるものには価値を見出さない—―—歪んだ欲求の形が、そこにはあった。.沈淵が手をこまねいている間に、黎沈烈は不祥事を起こす。その火消しのため、両親は彼を日本へと“逃がした”。そして、その地で神崎あやめと出会う。《兄貴はあやめと結婚したいと騒ぎ出した。両親はその話を嬉々として進めようとしたが、柊家から正式に断られた。この時点では黎老大は兄貴があやめとの婚約を望んでいることを知らなかったが、兄貴が柊家に報復しようとしてそれが露見した》「報復など、フラれたと大々的に公表するようなこと……恥ずかしくないのか」神崎冬弥の呆れた言葉に、瑛心も内心で強く同意する。しかし沈淵は首を横に振った。《力づくで奪おうとしたんだろうさ、今までそれが赦されていたからな。でも、あやめは別だった》「あやめが柊家の娘だからか」《そうだ。黎老大にとって、母親の恩がある柊家は聖域そのもの。黎老大は勝手に柊家に縁談を持ち込んだ両親を叱り、フラれた腹いせに襲撃しようとした兄貴に厳罰を与えた》沈淵は当時を思い出すように小さく笑う。《祖父さんの叱責が、恩を仇で返すつもりかって……仇だぜ、仇》その言葉に含まれる皮肉は深い。「実孫の縁談を祖
last updateLast Updated : 2026-04-21
Read more

4-25

神崎あやめは、にこりと柔らかく微笑んだ。その笑みは場の空気を和らげるようでいて、同時に何かを見透かしているような深さを持っている。「大丈夫。あなたのことは黎沈淵が守るわ」(……“私が”じゃないんだ)瑛心は一瞬だけ苦笑する。守ると言いながら、自分ではなく他者の名を堂々と出す。その潔さに、あやめという人物の在り方が滲んだ気がした。《俺に丸投げするな》沈淵が即座に抗議する。「でも、私には何もできないもの」神崎あやめはさらりと受け流す。その言葉は謙遜ではない。現実の力関係を正確に理解した上での断言だった。「柊家という盾は、いまの黎家には効かない。龍神会という盾も、天覇龍門の巨大さには歯が立たない」絶望的な状況を淡々と並べながらも、その表情に陰りはない。むしろ、どこか冷静に“次の一手”を考えているような静けさがある。「降伏するか」冗談のような口調。しかし、その選択肢すら現実に含まれていることを示している。「あやめ大姐」瑛心が思わず声を上げる。「―――上を挿げ替えるしか私たちにはできないのよ」さらりと告げられた言葉に、場の空気がわずかに張り詰める。《……トップを挿げ替えるって発想にいきつくお前が怖い》沈淵が呆れを隠さず言う。「黎沈淵、あなたにその気がないのなら私はこんな提案をしなかった」あやめの視線がまっすぐ沈淵へ向けられる。「黎老大からあなたがトップに立つ気はないと聞いたとき、私は諦めた。だから―――」言葉を区切り、神崎あやめは瑛心の手を取ると、そのまま、自分の耳の後ろへと導いた。(……何か、ある)指先に触れたのは、皮膚の下に埋もれた硬い異物の感触。(これ……)思わず確かめるように力を込めてしまう。「痛っ」「あ、ごめんなさい」神崎あやめがわずかに顔をしかめ、目に涙をにじませる。その反応で確信に変わる。《瑛心? どうした?》沈淵の声が画面越しに届く。瑛心は息を整え、言葉を選ぶ。「あやめ大姐の耳の後ろ―――埋め込まれている」(ここに、埋め込むなら……)「多分、GPS」《なんで、そんなところに?》当然の疑問だった。ほんの少し触れただけで強い痛みが走る場所。わざわざ選ぶには不自然すぎる。(でも、そこじゃなければ、いけなかった理由がある)瑛心は静かに神崎冬弥を見る。「……迎えに、きてもらうため……ですね
last updateLast Updated : 2026-04-10
Read more

4-26

「なんてことだ……」ぽつりと零れたその一言は、自宅マンションの広いリビングに響いた。大きな窓からは、多くのビルを見下ろすような形で見える。同じくらいの高さの高層ビル群が歪んで見えた。「……サロメかよ」軽口のようでいて、その奥にある理解の深さが、逆に重く響く。―――愛されないなら、殺す。―――拒絶されるくらいなら、命を奪う。(……同じだ)沈淵は思わず天を仰いだ。乾いた息が喉を通り過ぎる。サロメの物語は知識として知っていた。だが、いま目の前で語られているそれは、物語ではない。現実として、しかも血のつながった兄の本質として突きつけられている。愛されなければ意味がない。拒絶されるくらいなら存在ごと消してしまう。歪んだ所有欲。死をもって完成する愛。その発想は狂気に近いはずなのに、黎沈烈という存在に当てはめた瞬間、不思議なほど違和感が消えた。「……じゃあ、瑛心も……」無意識に漏れた言葉は、問いかけというより確認に近かった。《私の場合はあっさり殺されると思うわ。あやめ大姐のように執着されていないもの。彼にとっては替えがきく玩具でしかないわ》淡々とした瑛心の声。そこには自嘲も恐怖もなく、ただ事実を述べる冷静さがあった。「……玩具、か……」沈淵は低く繰り返す。胸の奥に、じわりと熱が溜まっていく。怒りとも焦燥ともつかない感情。兄ではない。“沈烈という男”として見れば、全てが腑に落ちる。やりかねない。むしろ、やるだろう。そう断言できるだけの材料が、すでに揃っている。「瑛心、俺がどうして分家の当主になったか話したことはなかったな」話題を切り替えるように、しかしどこか覚悟を決めた声で沈淵が言う。タブレットの向こうで、瑛心が小さく頷いた。その姿は飾り気がなく、隣にいるあやめの洗練された佇まいと比べると、どうしても素朴に映る。だが、その素朴さこそが、沈淵にとっては何よりも価値のある、昔から欲しかった“安らげる場所”だった。しかし、瑛心は蘇家の令嬢。その血筋は揺るがない。たとえどれだけ冷遇されようと、彼女は正妻の娘であり、正統な存在だ。その瑛心を娶る。そのために必要なのは、対等以上の立場。だから沈淵は選んだ。最短で、最も確実な道を。黎家の血を利用し、八十八ある分家の一角を奪い取るという方法を。力で示すしかなかった。自分が“選ばれる
last updateLast Updated : 2026-04-11
Read more
PREV
1
...
171819202122
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status