【過去回想】六月の終わり。湿気を含んだ空気が、窓の外の景色を鈍く滲ませていた。国会議事堂近くにある柊謙一の議員事務所。その最上階の応接室で、神崎冬弥は壁際に立ったまま、無言で腕時計に視線を落とした。予定時刻まで、あと三分。龍神会の若頭補佐である樹が後ろに控えていたなら、間違いなく「座ってお待ちください」とでも言っただろう。しかし冬弥は座らなかった。ここは龍神会の本部ではなく、柊謙一の領域だ。客として呼ばれている以上、余計な縄張り意識を見せる必要はない。もっとも、目の前の男――柊謙一もまた、そういう無駄を嫌う人間だった。「娘は優秀ですよ」先ほどから柊謙一は、そう何度も口にしている。仕事の話をする時の声のようでもあるが、その声には情、親が子を語る響きを『評価』で隠しているように感じられた。それだけで、冬弥にはある程度理解できた。世間的には、柊あやめという女は、この男の「娘」である前に「政治の駒」として育てられてきたのだと言われている。それは間違いはないだろう。実際に、駒として利用するのだから。でも、父親として娘に対する愛情もある。そして信頼も。どの信頼故に、その駒が今日、自分の前に差し出されるのだ。.冬弥にとっても、この縁談は突然だった。いや、正確には突然ではない。まず、必要性は理解していた。関西の朱雀会が勢力を伸ばし始めてから、東京の均衡は崩れかけている。警察、政界、経済界。あらゆる場所で綱引きが始まっていた。その中で、龍神会が単独で立ち回るには限界がある。だからこそ、柊家との結びつきは必要だった。表と裏を、一時的にでも完全に接続するための楔。理屈は分かる。必要性も理解している。だが――。「……娘さんは、この話を了承しているんですか」冬弥がそう尋ねた時、柊謙一はわずかに沈黙した。もう一つの「突然ではない」理由は、この話は柊謙一によって先延ばしにされていて、結婚話が出たのは前のこと。本来なら婚約期間ももつつもりだったが―――。「了承する」それだけだった。説得する、ではない。了承“させる”。その言葉だけで、これから来る娘は何も知らないのだと理解できた。 コンコン。不意に扉が叩かれる。冬弥は視線を向けた。柊謙一の肩が大きく震えたのは、見なかったことにした。「入れ」柊謙一の低い声が返され、扉が開いた。入ってきた女
Last Updated : 2026-05-08 Read more