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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 41 - Chapter 50

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1-41

「冬弥さんって、極道の組長って聞いていたけれど……本当に誠実な方なのね」神崎邸の応接間。午後のやわらかな陽光がレースのカーテン越しに差し込み、磨き上げられたテーブルに淡い影を落としている。その静謐な空間に、さくらの声は妙に艶を帯びて響いた。さくらは今日も「妹に会いにきた」と言って神崎邸に来ていた。「お代わりを頂戴」まるで自分の家のような口ぶりで、さくらはカップを軽く掲げる。仕草は優雅で、当然のように振る舞う。あやめは無言でティーポットを取り、紅茶を注いだ。早苗が慌てるのが視界の端に見えたが、あやめh自分のやっていることに、違和感を感じなかった。むしろ、どこにいても「自分の場」にしてしまうのが、さくらという人間であり、あやめ自身もこうして傅くのが自然だと思えた。(女王様……)ふと、あやめの頭に浮かぶ言葉。そして同時に、以前冬弥が口にした言葉が重なる。―――キング。(それに……)さくらの「冬弥さん」という呼び方。その音の響きが、妙に甘く、柔らかく、耳に残る。あやめが同じ名を呼ぶときと、以前とは違って、今は同じ音。さくらの音にも、いまのあやめが抱くのと同じ、女としての意識が確かに滲んでいた。華やかな美貌。自信に満ちた微笑み。視線の運び方ひとつで、場の空気を変える力。(綺麗……)姉としてではなく、一人の“女”として見たとき、さくらは圧倒的だった。「冬弥さん、本当に素敵よね」 わざとらしく目を細めながら、さくらはカップを傾ける。その横顔は、どこか夢を見る少女のようでありながら、同時に狩人のようでもあった。「そうですね」あやめは、静かに応じる。すると、さくらはふっと笑みを深めた。「冬弥さん、あなたにずいぶんと優しいじゃない」その言葉に、あやめの指先がわずかに止まる。「まるで本物の夫婦みたい」さらりと言われたその一言が、胸の奥に小さな波紋を広げる。「……でも」さくらは、続ける。「そう見えるように気にかけているのかしら。あなたの立場を守らないといけないし、政略結婚なのだから」―――立場。その言葉が、あやめの胸に鋭く突き刺さった。脳裏に蘇る。―― せめて、私の立場を守ってください。あのとき、自分が口にした言葉。それがそのまま返ってきて、心を抉る。「お姉様……」思わず、さくらを呼ぶ。警告と……懇
last updateLast Updated : 2026-01-29
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1-42

あやめは、久しぶりに実家である柊邸の門をくぐった。幼い頃から見慣れているはずのその光景は、どこか遠いもののように感じられた。手入れの行き届いた庭園。整えられた植栽。無駄のない配置。すべてが変わっていないのに―――自分だけが、ここから切り離されてしまったような感覚があった。(……帰ってきた、という感じじゃないわね)むしろ『訪問』に近い。そんな違和感を抱えたまま玄関に足を踏み入れると、見慣れた執事が深々と頭を下げた。「いら……お帰りなさいませ、あやめ様」訪問者を迎える挨拶から、家人を出迎える挨拶に変えた。“おかえりなさい”。その言葉に、あやめの胸の奥がわずかに揺れた。「……ただいま」反射のように返した言葉は、どこかぎこちなかった。幼い頃から面倒を見てくれたその執事は、何も言わず、静かにあやめを先導する。その沈黙が、かえって優しかった。.案内されたのは、父、柊謙一の書斎。重厚な扉の前で、あやめは一瞬だけ立ち止まる。(呼び出されはしたものの……)理由は聞かされていない。だが、嫌な予感だけは、あやめの胸にはっきりとあった。軽く息を整え、ノックする。「入りなさい」謙一の声。扉を開けると―――そこには謙一とさくらがいた。(……やっぱり)あやめの胸の奥が、わずかにざらつく。「よく来たな、座れ」低く、落ち着いた声。冬弥と出会ったときと似た状況だとあやめは思った。ただ、何となく違和感があった。違和感の正体を探ろうと、あやめは謙一を見てすぐに気づいた。(……目が、違う)先ほど見た執事の目とどこか被る、あやめを懐かしむような、歓迎する目。その目を、見たことがあることを思い出した。昔のことだけど、あのときの謙一はまだあやめの上司ではなく、ただの父親だった。(……お父様?)謙一に何かあったのか。それとも、自分自身の心境の変化か。あやめが戸惑っていると―――。「どうした? 気分でも悪いのか?」謙一に気遣われた。意外なことに、あやめは声が出ず、慌てて首を横に振る。「そうか。それなら、座りなさい」「……はい」あやめは静かに椅子に腰を下ろす。「お父様、何かありましたか?」問いかけると、謙一は軽く首を振った。「私ではない。さくらから話があると言われてな。お前にも同席してほしいと」(……やっぱり)
last updateLast Updated : 2026-01-29
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1-43

(危険……?)その言葉が、あやめの中で反響する。何度も、何度も。そして―――何かが、切れた。「じゃあ」静かに、あやめは口を開く。「私は、危険な目に遭ってもいいってこと?」「……あやめ?」謙一の声が、驚きに揺れる。でも、あやめは気づかない。「私は……」あやめの脳は、まるで麻痺したように機能しなかった。あやめは何も考えず、胸の内から溢れる言葉を紡ごうとした。「当然でしょう」さくらが、あやめの言葉を遮る。「私は柊家に必要なのよ。あなたとは違うの、あなたは……」「やめなさい、さくら!」謙一の怒ったような大きな声が響く。だが、もう遅かった。「お前たちは……何を、言っているんだ……」謙一の戸惑いは、声を向けた先にいたあやめの姿にさらに大きくなる。「あ……あやめ……」静かに。あやめは、泣いていた。謙一が声をかけても、あやめの涙は止まらない。怒りでも、悲しみでもない。簡単にまとめられない感情の塊。これまで、積もり積もったもの。飲み込み続けたもの。それらが、一気にあやめの内から溢れ出していた。「私は……」あやめの声が、震える。「政略のためなら、危険に晒されても構わない」自分でも、驚くほどはっきりとした声だった。「でも、お姉様は違う。それが……お父様の判断なのですね」「何を言っている。とにかく、落ち着きなさい、あやめ」「落ち着いてなんかいられません!」あやめの声が、書斎に響く。初めてだった。あやめがこんな風に声を荒げるのは。最低限、謙一に対してこんな態度をとったことはなかった。「私は、ずっと黙ってきました!」言葉が、止まらない。「柊家の娘としてではなくてもいい。政治のサポート役でもいい。私は全部受け入れてきました!」あやめは、胸が苦しかった。止められなかった。「でも、もう……我慢できません……!」慟哭。その叫びに、訴えに、体を固くする謙一とは対照的に、さくらは肩を竦めた。あやめの慟哭交じりの訴えが重厚なインテリアの書斎に響いた。 さくらは呆れたように肩をすくめた。「珍しいわね。あやめがこんなに感情的になるなんて」苛立ちの混じった、冷たい声。「でも、癇癪を起こしたって何も変わらないわよ」「さくら、黙るんだ!」謙一の制止に、堪らずさくらは口を閉じ、謙一は深く息を吐いた。疲れた
last updateLast Updated : 2026-04-14
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1-44

「……お父様?」さくらの浮かべていた笑みが、ゆっくりと形を崩した。それは、これまで見たことのない表情だった。自信に満ち、どこか余裕を含んでいたさくらの顔に、初めて“戸惑い”が差し込む。「どういう意味?」さくらの声は、硬い。謙一は、さくらを真っ直ぐに見据えた。その眼差しには、父親としての厳しさと、政治家としての冷静さが同居している。「お前は」さくらに言葉の意味を認識させようとする間。「冬弥君や龍神会の者たちを、スーパーマンか何かと勘違いしていないか?」静かに、しかしはっきりと指摘する。「当然だが、彼らは人間だ。万能ではない。お前を守り続けることなど、できない」さくらの眉が、ぴくりと動いた。「お前をって……じゃあ、あやめなら守れるとでも言うの?」その問いには、わずかな苛立ちが滲んでいる。「違う」謙一は即座に否定した。「あやめが特別に守られるわけではない」そして――。「あやめは、”守られる”ということを理解している」その言葉は、静かに、しかし深く響いた。「さくら。守られるというのはな、ただそこにいればいいというものではない。守る側の動き、状況、危険を考え、自分の行動を制御する――それがあって初めて、守ることが成立する」「私にだって……」反論するさくら。だが、謙一は首を横に振り、それを遮った。「お前には無理だ」まるで未来が見えるかのように、謙一は断定する。迷いはない。「お前につけた護衛が、これまで何人が重傷を負ったと思っている」その言葉に、さくらは戸惑う。考えたこともなかった。それが、さくらの態度に現れていた。「それは……でも、それは、あやめだって……」「あやめにつけた護衛に重傷者はいない」謙一の言葉に、あやめは咄嗟に否定するため口を開きかける。そんなあやめを、謙一は見て制する。「ああ、そういえば一人だけいたな」さくらの顔に喜色が戻りかけたが、口元を緩めた謙一の表情に顔を強張らせた。「転びかけたあやめを支えようとして、一緒に転がって頭にたんこぶを作った奴が」場違いなほど軽いその言葉に、張り詰めていた空気がわずかに緩む。あやめは、思わず息をついた。だが、さくらは違った。「だって護衛なんだから!」さくらの声が強くなる。「守るのが仕事でしょ!? それができないなら意味がないじゃない!」さく
last updateLast Updated : 2026-01-30
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1-45

「私……」言葉が、あやめの口から自然と零れた。「お父様は、お姉様さえいればいいと……思って、いました」無理やり出す言葉は、喉が痛くなった。「お姉様が大事だから……危険なことは、私に……」震えた声でのあやめの告白に、謙一は目を伏せた。“押しつける”。あやめの伏せた言葉を、謙一は正確に感じ取った。沈黙。やがて―――。「すまない」もう一度、同じ言葉。「私の言葉が、足りなさすぎた」そう言ったあと、謙一は首を横に振る。「違う……違うが、結果としては、同じことか……」謙一は肩を落とす。その姿は、これまで見てきた姿と違っていた。あやめは、一歩、近づく。「お前は、母親に似ている」その言葉に、あやめは息を飲んだ。謙一が妻、あやめにとって母親のことを出すとは思わなかった。「お前の母は、表に出るよりも、誰かの傍で支えることに長けていた」遠くを見るような目。「お前が“人前に出るのが苦手だ”と言ったとき……私は、彼女を思い出した」謙一の懐かしむ目。その愛しむような目は母親に向けられたものだろうが、零れ落ちて自分にも注がれるようで、あやめの胸も静かに震えた。「無理に表に出る必要はない。俺はいつだったか彼女にそう言った。だから、お前もそれでいい、そう思った」謙一は一息つく。「幸い、さくらは社交的だった。姉妹で補い合えばいい。そう考えた」 あやめは、言葉を失った。あやめは、知らなかった。謙一の、父親としての考え。そして、父親としての思い。(お父様が、お母様のことを話すのも、初めて聞いたかもしれない)「私は……お母様に似ているのですか?」謙一は、ゆっくりと頷く。「お前の母は、私の秘書だった」静かに語られる過去。「表舞台にはあまり立たなかったが、私の全てを支えてくれた」謙一の声には愛情のほか、確かな敬意があった。「彼女がいたから……彼女と、彼女によく似たお前がいたから、私はここまで来られた」あやめの胸が熱くなった。「お前が秘書として傍にいてくれたとき……私は、あの頃を思い出していた。お前が、そこにいてくれるだけで……心強かった」小さく、しかし確かな言葉。「だが……私は、それを一度も言葉にしなかった」謙一の声に、後悔が滲む。「お前は、分かっていると思っていた」苦い、笑み。「違ったのだと……冬弥君に言われて
last updateLast Updated : 2026-04-14
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1-46

「あやめ、よければ夕飯を食べていかないか?」謙一の声は、どこか控えめだった。それは、これまでの彼からは考えられないほどだった。「でも……お姉様は?」先ほど憤って部屋を出ていったさくらを二人は思い出す。謙一は僅かに顔を歪める。気まずくなると分かっている夕食の席にあやめを誘うのに躊躇したとき、窓の外からタイヤが砂利を踏む音がした。思わず、二人揃って窓の外を見る。さくらが車に乗り込む姿が見えた。「……大丈夫、でしょうか?」「護衛もついている……さくらも、一人で考える時間が必要なのだろう」謙一はあやめを見る。あやめは、気まずそうに目を逸らす。神崎邸に戻る時間、翌日の予定、そして――自分の置かれた立場。様々な考えが頭をよぎった。その迷いを見て、謙一の胸に、わずかな痛みが走る。あやめを嫁がせたことを、急に実感したからだ。「……そうだ、な」謙一自身は、表情に出したつもりはなかった。だが、ほんのわずかに落ちた視線と、声の余韻に滲んだ寂しさを、あやめは見逃さなかった。(あ……)胸が、じんと温かくなる。その感情が、自分でも少し意外だった。「……帰る時間が、遅くなるから」あやめは、小さく息を整えてから言った。「泊っていっても、いいですか?」謙一の目が、わずかに見開かれる。そして、ゆっくりと細められた。「もちろんだ」柔らかな声。「あの部屋はいつでも使えるようになっている」「え、でも……」あやめは思わず戸惑う。柊邸にあったもの、必要なものは全て、結婚の際に神崎邸に送られたはずだった。「送ったものと、同じものを揃えてある」謙一は、少し言いにくそうに言葉を続ける。気恥ずかしそうに、ネットは便利だという謙一にあやめはさらに驚く。(使用人に頼んだのではなくて、お父様が自分で……)「違和感はあるだろうが……その……不快かもしれないが……やはり、部屋が空のままというのは……」言葉が途切れる。その不器用な優しさが、あやめには見えた。「ありがとうございます」あやめは、少しだけ笑う。「あの……書斎から、本を借りてもいいですか?」「本?」「はい。昔みたいに、本を読んで……少し朝寝坊して……そんな風にしたいです」そんな風に過ごしていたのは、いつだったか思い出せないほど昔のこと。年数でいえば、そんな数ではない。でも毎日が
last updateLast Updated : 2026-01-30
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1-47

夕食のあと、謙一が紅茶を淹れてくれた。「お父様が……」あやめが驚くと、謙一は少し照れたように笑う。「結構得意なんだ……お前の母に、教わったからな」その一言だけで、十分だった。湯気の立つカップから、柔らかな香りが広がる。ふたりは、向かい合って座る。親子でいた時間よりも、政治家と秘書でいた時間が長かった。だから、会話は相変わらず政治や経済の話が中心だった。けれど、それでよかった。とりとめのない話の中に、確かな温度がある。言葉の間に流れる静かな時間が、あやめの心を少しずつほどいていく。あやめは、窓から外を見る。庭がよく見えるこの部屋は、客がきたときに使うやや広い部屋。謙一が選んだ。夜の庭は静かで、昼間とは違う表情を見せている。「お前が小さい頃」ふと、謙一が口を開いた。「よくこの庭で転んで泣いていたな」「ああ……」あやめは、目を細める。「そうでした……」記憶が、ゆっくりと蘇る。「なんで忘れていたんでしょう」小さな自分。泣いている自分。そして―――。「お父様が、抱き上げてくださって……」泣いて、駆けていく先は、いつも謙一だったこと。腕を広げて待ち構える謙一の隣に、「また甘やかして」と呆れつつも笑った顔の母親がいたこと。あやめの胸が、じんとする。「私が泣き止むまで、ずっと抱っこしてくれて……」言葉にしながら、思い出していく。「ああ……思い出しました」「……私もだ」謙一は、少し照れたように笑った。そして、ぽつりと続ける。「……あの頃は、私も若かった」遠い目。「母さんが死んだあとは、庭で隠れてよく泣いているのが見えた。思い返すと、昔のお前は泣き虫だった……もっと、ちゃんと向き合えばよかったな」「いいえ」あやめは、首を振る。「今、こうして話せていますから」その夜、あやめは母親の遺した日記を手に取った。そして、ページの端に、小さく書かれた言葉。【謙一さんは不器用だけど、優しい人】 【言葉にしないだけで、いつも私を見てくれている】「……不器用で……言葉にしない……」思わず、苦笑がこぼれる。「どこかの、誰かさんみたい……」あやめは、そっとページを閉じる。 その温もりを抱いたまま、あやめは目を閉じた。.*.神崎邸に戻ると、冬弥が玄関に立っていた。(……え?)あやめの足が止ま
last updateLast Updated : 2026-04-14
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あの日以来、あやめは柊邸へ足を運ぶ回数を増やしていた。とはいえ、最初のように泊まることはない。夕暮れが近づけば、必ず神崎邸へと戻る。それが自分に課した一線だった。―――ここはもう、私の“帰る場所”ではない。そう、自分に言い聞かせるように。そうなのだと、誰かに宣言するように。それでも、「遠慮なく言ってくれ」と告げた冬弥の言葉は、あやめの心に静かに残っていた。完全に距離を断ち切ることはできず、かといって素直に甘えることもできない。その曖昧な立ち位置のまま、あやめは柊邸へと通い続けている。父との関係を修復するため——そう自分に理由を与えて。けれど本当は、それだけではない。冬弥と、距離を置いてみよう。そうやって逃げているのだと、あやめ自身が一番よく分かっていた。.帰省するたび、あやめには気にかかることがあった。「お父様、お姉様はどうしていらっしゃるのですか?」何度訪れても、さくらの姿を見ない。社交的なさくらが、家にいないことは珍しくはない。しかし、前回の別れの気まずさから、広い屋敷の中で、さくらの気配はありつつも、その存在がぽっかりと抜け落ちているような、奇妙な空白がある。(私が来ることで、お姉様が気まずい思いをなさるなら……)自分が出ていった身でありながら、戻ってくることで誰かを遠ざけてしまうのなら——帰省の回数を減らすべきなのではないか。そう考えたとき、あやめの胸にかすかな痛みが走る。ようやく築き始めた父との関係を手放すのは惜しい。それでも、とあやめが思い詰めかけたときだった。「気にすることはない。これは、さくらの問題だ。心を落ち着ける時間も必要だろう」穏やかに告げる謙一の声。その表情をよく見れば、突き放しているわけではないことが分かる。むしろそこには、さくらに対する揺るぎない信頼があった。(……少し前の私なら、“放置している”と思っていたかもしれない)だが今は違う。干渉しないこともまた、相手を信じるという選択なのだと、あやめは理解し始めていた。「さくらの護衛からは、友人の別荘に滞在していると報告を受けている」「ご友人、ですか」あやめの警戒する声。謙一はわずかに苦い表情を浮かべた。彼自身もまた、常に警戒と隣り合わせの立場にある。だが、あやめが置かれている状況は、それ以上に危うい。いつ襲われてもおか
last updateLast Updated : 2026-01-30
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柊邸の門前に、一台の黒い車が静かに停まったのは、午後七時を回る少し前のことだった。詰所にいた警備員がそれに気づく。予定にない車両。慎重に記録を確認し、異常を認識した警備員は、警戒を強めながら黒い車へと近づいた。窓を叩こうと手を上げた、その瞬間。警備員の視界の端で、後部座席のガラスに何かが映った。「―――っ」反応する間もなかった。背後から腕を回され、口を塞がれる。同時に、首筋に押し当てられる冷たい感触。スタンガンの電流が体を貫き、警備員の意識は一瞬で奪われた。その隙に、別の男が詰所へ侵入し、手際よくゲートのロックを解除する。「コードは問題なし。侵入開始だ」「ど……うして……」掠れる声。だが、その疑問が最後まで言葉になることはなかった。柊邸の門を解除するコードは定期的に更新され、知るものか限られている。内部の情報が漏れている。それだけを認識し、警備員は闇に沈んだ。「縛って詰所に押し込んでおけ」黒い車は、何事もなかったかのように門を通過する。屋敷の構造を熟知しているかのように、迷いなく進む。「正面は避ける。右手の勝手口から入るぞ」低く指示を出すリーダー格の男。その声には一切の感情もなかった。. 「うっ」キッチンでは、夕食の準備をしていた家政婦が背後から襲われた。口を塞がれ、拘束され、そのままパントリーへ押し込まれる。抵抗する暇もなかった。「お前、警報を解除しておけ。お前は俺と目標を探す」リーダー格の男が指示を出す。「柊大臣には傷を負わせるな。目的は——神崎あやめだ」目的が明確になったことで、空気が一瞬で変わる。これは強盗ではない。明確な“標的”を持った作戦行動。「二十代後半、黒髪の女だ」屋敷に侵入した黒ずくめの男たちは、音もなく屋敷を制圧していく。何も知らされていない使用人はもちろん、虚を突かれた警備員も次々と無効化されている。全て、リーダー格の男が一人でやっていた。その動きはあまりにも滑らかで、迷いがない。訓練されている。慣れている。そして、それ以上に―――内部を知りすぎている。表面上は静まり返った屋敷。その奥で、何も知らないまま、あやめは謙一が待つダイニングに向かおうとしていた。自分の立場が、どれほど危うい均衡の上に成り立っているのかをあやめは忘れていた。. ピコンッ乾い
last updateLast Updated : 2026-01-30
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1-50

「この状況で騒がない、泣かない。へえ、すごいじゃん。品もあるし……うん、お姫様って感じだ」軽い調子で笑いながら、スーツの男はスマートフォンを操作する。だがすぐに手を止め、首を傾げた。「そうだよね」男の視線が、あやめに向く。教えろと。言葉には出さないが、拒否する選択肢があやめにはない。ここで無意味な抵抗をしても、状況は悪化するだけ。「……一、一、二、九」自分の声が、遠くに聞こえる。「イイニク……なにこれ、ダサ。お姫様が、肉って、ウケる」 男はくすくすと笑いながらロックを解除し、すぐにカメラを起動した。レンズが向けられる。「はい、撮影開始。……お、いいね、この絵」男に押さえつけられているあやめの姿。その異様な光景を、まるで遊びのように記録していく。「これ動画だぞ? せっかくだし、もうちょっと“それっぽい”反応してくれよ」あやめは顔を背けた。拒絶の意思表示。その瞬間。あやめの後ろで舌打ちが聞こえた。背後の男があやめの腕を掴み、無理やり後ろへと捩じ上げた。「っ……!」関節が悲鳴を上げる。鋭い痛みが走り、あやめは思わず唸り声をあげる。撮っているスーツ男の顔が喜悦に歪むのが見えた。(……見せない)あやめは、深呼吸をする。息を整える。表情を、消す。その様子を見て、カメラの向こう、スーツの男の顔が更に喜悦に歪む。(……間違えた?)「おや、我慢強いねえ。でもさ——」カメラを向けたまま、スーツの男は楽しげに言った。「これを見た神崎冬弥は、もっと残念がると思うけど?」その名前が出た瞬間。―――ドクン。あやめの心臓が、大きく脈打つ。(……なぜ)思考が一瞬、乱れる。どうしてここで、その名前がでるのか。そして―――なぜ、“残念”なのか。ほんの一瞬。本当に一瞬だけ。(……まさか)この男たちの背後にいるのが、冬弥なのではないかという疑念が、頭をよぎった。だが、すぐに打ち消す。(違う)冬弥が、こんな回りくどい真似をする理由がない。あやめが邪魔なら、離婚すればいいだけ。これは、柊家と対立する形。龍神会にとって意味がないどころか、不利益になる。荒れ狂いかける感情を、必死に理論で抑える。(……違う、絶対に)あやめがその結論に至って気を落ち着けたとき。「あはは、ほら」スーツの男が場違いな声で笑
last updateLast Updated : 2026-04-14
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