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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 21 - Chapter 30

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1-21

会議室は、重苦しい空気に包まれている。広いはずなのに、室内が妙に狭く感じていた。原因は明白だった。沈黙が重いのではない。ここにいる人間全員が、“失敗すれば終わる”と理解しているからだ。長机の向こう側。広報部長、狩野のマネージャー、法務担当者たち。いずれも神崎芸能の中枢に近い人間でありながら、いまは揃って背を丸め、まるで裁きを待つように座っていた。彼らの視線は下がり、声は硬い。誰もが、冬弥の一言を待ち、固唾を呑んでいた。対して冬弥は、机の上に肘をつくこともなく、腕を組み、背筋を伸ばして座っていた。静かすぎるほど静かに。だがその静けさが、場の空気をさらに張り詰めさせていた。あやめは、その斜め後ろに控えるように座っていた。発言権はないことは理解している。あくまで“内側に入った存在”として、同席しているだけであるとも分かっている――のはずだった。.「週刊『真実』が来週号で例の件……狩野が未成年と飲酒、その後に関係を持った件で記事を出すそうです」広報部長の声は、明らかにかすれていた。言葉を選んでいるのではない。言葉を間違えれば、それだけで自分の立場が終わるとわかっている。その緊張で掠れていた。狩野智和。神崎芸能が現在、最も力を入れて売り出している若手俳優。清潔感と爽やかさで売ってきたイメージがある。来月にはゴールデン帯の主演ドラマが控え、スポンサーには名だたる大手企業が名を連ねていた。一本崩れれば、連鎖的にすべてが崩壊する。違約金、契約打ち切り、株価、対外信用――損失は、金額では測れない規模になる。冬弥は息を吐いた。「証拠が向こうにはあるんだな」冬弥の声は低く、感情は抑えられている。だが、その“抑え方”が逆に恐ろしかった。怒鳴られる方がまだましだと、誰もが思うほどに。「は、はい……写真、複数と、やり取りの一部を掴まれています」「データを寄越せ」短い指示。広報部長はすぐにタブレット操作を行い、データを転送した。冬弥の手元に情報が届く。彼はそれを無言で見つめる。ページを送る指先はゆっくりだが、視線は鋭い。一枚一枚、確実に“価値”を測っていた。そのとき。「奥様」低い声で呼ばれ、あやめが顔を上げると、鷹見が無言でタブレットを差し出していた。共有、というより――確認させる意図があった。「ありがとうございます」あやめは躊躇なく受け
last updateLast Updated : 2026-01-26
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1-22

「この女性のほうから狩野に接触したことにしましょう」あやめの一言で、会議室の空気がわずかに揺れた。それは反論ではない。――“それができれば苦労はしない”という、諦めに近い気配だった。沈黙の中、その意味を最初に言葉にしたのは冬弥だった。「どうするんだ?」短く、だが試すような問い。あやめはその視線を真正面から受け止め――にこりと笑った。「話を作るだけです」あまりにも軽い言い方だった。だが、その軽さが逆に、この場にいる全員の背筋を冷やした。「この日程を見ると、狩野が主演のドラマ、役別オーディションはこれからですよね?」「はい……明後日からを予定していましたが、この状況では延期も――」「このまま実行してください」言葉を遮るように、あやめは即答した。迷いがない。「そして狩野自身を、オーディションの審査員として参加させてください」広報部長が目を見開く。「さらに、この女性を“オーディション参加者”だったということにします」場の空気が、はっきりと変わった。不可能だと思っていたものが、“形”を持ち始める。「履歴書はどうしますか?」「作ってください。どこかに提出されているものがあるはず。探してください」あやめはさらりと言う。「彼女は女優志望です。過去にどこかへ応募している可能性が高いですからね」合理的だった。そして、容赦がない。「それをひな型にして作る。年齢は……そうですね、二十三歳にしましょう」「なぜ二十三歳?」誰かが思わず聞いた。あやめは少しだけ視線を遠くにやり――ふっと微笑む。「何となくです」その答えは軽い。だが次の一言が、妙に現実的だった。「私も、そのくらいの頃は“早く大人になりたい”と思っていましたから」誰も、笑えなかった。それが“感情”ではなく、“傾向”として語られたことに気づいたからだ。あやめは再び広報部長へと視線を戻し、にこりと笑う。「これで理由ができます」「理由?」「女性が狩野に近づく理由と、狩野がターゲットになる理由です」言葉が、すっと落ちる。すべてが一本の線で繋がる。偶然ではなく、“起こり得る出来事”へと変換される。それは事実ではない。だが――『事実らしく見せる構造』だった。狩野のマネージャーが、恐る恐る手を挙げる。「女性のSNSには……その、関係を強要されたと匂わせる
last updateLast Updated : 2026-04-03
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1-23

 ・狩野のマネージャーが退室したあとも、会議は続いた。だが空気は、先ほどとはまるで違う。混乱ではなく、実行段階のそれだった。「雑誌への対応は不要です」あやめが淡々と指示を出す。「謝罪も否定も必要ありません。反応しない。よくあることだと見せる。反応すれば、向こうの思う壺です」指先で、資料の一点を示す。「スタッフは、テレビ局とスポンサー企業への直接対応に集中してください」現実的で、的確だった。さらに、いくつかの社名を指し示す。「この二社と、この雑誌には注意を。時期的に、大阪との繋がりが強いですから」「……手痛いな」誰かが呟く。「あちらからの“警告”も含まれているでしょうね」「警告?」あやめが首を傾げると、鷹見が補足する。「若の結婚を知って、朱雀会が力を誇示している可能性があります」「なるほど」あやめは納得したように頷き――微笑む。「クジャクが羽を広げて威嚇しているようなものですね」軽く言った。その例えに、思わず鷹見が吹き出す。張り詰めていた空気が、一瞬だけ緩む。だが次の瞬間。あやめの視線が、まっすぐ冬弥に向いた。「こちらも威嚇しますか?」「できるのか?」「できますよ」即答だった。「父の仕事を手伝っていた頃に、貸しのある企業がいくつかあります」さらりと言うが、それは本来、軽く扱うようなものではない。「大阪進出を検討していた企業を中心に、こちらと、こちらに声をかけましょう」指し示された企業名。それを見た瞬間、数人が息を呑む。(格が違う……)警戒していた企業どころではない。“呼べるはずのない規模”の名前だった。「ここって……お前……」冬弥ですら、呆れを含んだ声を漏らす。あやめは気にした様子もなく続けた。「報道の熱は三日で冷めます」断言。経験に基づく確信。「この三日間をどう使うかが勝負です」そして、少しだけ口元を上げる。「三日目に、新スポンサーを発表しましょう」攻めに転じる発想だった。「今回はちょうど、私たちの結婚という話題もありますから」あえて利用する。スキャンダルの上に、より大きな話題を重ねる。「神崎芸能が“どこと縁続きになったのか”――しっかり学んでいただきましょう」その言い方は、どこか優雅で、同時に完全に“上から”の発言だった。パンッ、と軽く手を打つ。「以上です
last updateLast Updated : 2026-04-03
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1-24

この一件のあと、組員たちの態度はがらりと変わった。それは露骨な変化ではない。だが、確実に“線”が引かれた。――客人ではない。――内側の人間として扱う。視線の置き方、言葉の選び方、距離の取り方。すべてがわずかに変わっていた。そして、その変化は歓迎であると同時に――試されていることも意味していた。.「姐さん、今日は“ご挨拶”に行っていただきます」朝食を終えた頃、ダイニングに現れた鷹見が、いつもと変わらぬ低い声でそう告げた。だが、その言葉の中身は軽くない。“ご挨拶”。その意味を、あやめは一瞬で理解する。龍神会幹部の妻たちへの顔見せ。そしてそれは、単なる紹介ではない。序列の確認。立場の承認。そして――女同士の静かな戦場。「……わかりました」あやめは短く頷いた。声はいつも通り穏やかだが、内側では思考が高速で回り始めている。(外では通用した)狩野の一件。あれは、情報と構造の戦い。証拠をどう解釈させるか。世論をどこへ誘導するか。“正しさ”ではなく、“納得させる形”を作る作業。あやめにとって、それは慣れた領域だった。政治の世界で、何度も見てきた。父親の隣で、“現実”として理解してきたもの。(でも――)ここは違う。理屈ではなく、感情でもなく。もっと曖昧で、もっと厄介な領域。未知の領域。(神崎の女として、どう見られるか)それが、すべてを左右する世界。.「本日は神崎家の着物をお召しください」早苗が静かに声をかける。その所作は柔らかいが、どこか張り詰めている。「若に言われて、似合うものをご用意させていただきました」「ありがとうございます」そう答えながらも、あやめは“若が選ばせた”という一言の意味を考えていた。(冬弥さんは、ここでも線を引いている)自分の女であると、はっきり示すための装い。同時に――これは、あやめを守るための“鎧”。姐さん。その呼び方にも、まだ慣れない。数日前までは“奥様”だったものが、自然と変わっている。距離が縮まった証でもあり、同時に“役割”を与えられた証でもある。胸の奥が、くすぐったく、そしてわずかに重い。. * .案内された和室。そこに用意されていたのは、深い藍色の訪問着だった。光を吸い込むような静かな色合い。しかし、よく見れば細やかな金糸の刺繍が施さ
last updateLast Updated : 2026-01-27
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1-25

顔合わせの会場は、神崎家で最も広い和室だった。襖を開ける前から、場の気配は伝わってくる。静けさの中に、張り詰めた糸のような緊張が走る。開かれた襖を越えて、一歩、足を踏み入れる。畳の匂いが、あやめの鼻を擽る。よく手入れされた青みのある畳は、踏みしめるだけで場の格を語るようだった。控えめに焚かれた香の残り香が、空気に溶けている。主張しすぎない香りは、この場にふさわしい抑制と品位を象徴していた。整然と並べられた座布団。その中央。煌びやかな女性たちが、まるで絵巻の一場面のように整然と並んでいた。色とりどりの着物。華やかだが、決して軽薄ではない。選び抜かれた柄、季節を踏まえた色彩、そしてそれを着こなす所作。(油断はできない)ここにある、明確な“格”をあやめは感じ取った。柄の選び。帯の結び。座る位置。背筋の伸び方と、視線の高さ。そのすべてが、無言のまま序列を語っている。言葉などいらない。ここでは、存在そのものが評価であり、証明だった。.「失礼します」背後から、早苗の落ち着いた声。その瞬間。まるでそれが合図だったかのように、一斉に視線があやめに集まった。最も隠れないのは、興味。次いで、値踏み。そして―――上座に座る、あやめの親世代の女たちから感じるのは、露骨ではないが確かな警戒。さらに、その後ろに控えるあやめと同世代の女たち。そこにあるのは、隠しきれない嫉妬。(……すごい)胸の奥に、圧がかかる。視線だけでこれほどの重さを持つのかと、あやめの息が思わず浅くなる。渦巻く欲望。期待、敵意、猜疑、野心。それらが混ざり合った空気は、まるで濃度を持つ液体のように、あやめの肌にまとわりついてくる。だが―――あやめがやることは、最初から決まっている。逃げない。媚びない。抗わない。――ただ、微笑む。「初めまして。神崎あやめと申します」静かに名乗り、深く頭を下げる。角度は、深すぎず浅すぎず。相手を立てながらも、自らを下げすぎない絶妙なラインを踏む。間の取り方。視線の落とし方。呼吸の整え方。それはすべてが、あやめが幼い頃から叩き込まれ、磨き上げてきたもの。向かい合う相手が誰であれ。立つ場所が表であれ、裏であれ。―――人の上に立つ者ほど、礼を失ってはいけない。父・謙一の言葉が、ふとあやめの脳裏を
last updateLast Updated : 2026-01-28
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1-26

表面上は、穏やかに終わった顔合わせだった。誰一人として声を荒げることもなく、露骨な対立も起きなかった。言葉は柔らかく、笑みは絶えず、形式としては非の打ち所がない。だが―――あやめの神経は、思っていた以上に消耗していた。部屋に戻った瞬間、張り詰めていた糸がふっと緩む。「……ふう」ようやく、深く息を吐く。意識して吐き出さなければ、呼吸すら浅いままだったことに気づく。本当なら、すぐに着物を解いたほうが楽だと分かっている。帯を緩めれば、身体は一気に軽くなるはずだ。だが―――身体が、すぐには動かなかった。足先から、じわじわと疲労が這い上がってくる。あやめはそのまま、部屋の隅に置かれた籐の椅子に腰を下ろした。きし、と軽い音。その瞬間、帯の締め付けが急に意識に上がってくる。肋骨を包むような圧迫感。背筋を強制的に正されていた緊張の余韻。(……疲れた)心の中でだけ、呟く。声には出さない。出した瞬間、何かが決壊してしまいそうだったから。今日一日、保ってきた均衡が崩れてしまう気がした。目を閉じる。瞼の裏に、先ほどの光景がよみがえる。無数の視線。測る目。値踏みする空気。―――そして、あの女。麗香の、あの笑み。(……厄介な人)単純な敵ではない。だが、味方とも言えない。むしろ、あの場そのものを象徴する存在だった。そのとき―――。「よくやったな」不意に、低い声が落ちた。あやめは、はっとして顔を上げる。視線を部屋の入口へ向けると、そこに立っていたのは―――冬弥だった。「……いつ、お帰りに?」問い掛ける。だが、冬弥は答えない。代わりに、ほんのわずかに口元を緩めた。それだけで、十分だった。(この人……見ていたのね)最初から。どこかで。あの場を。あやめの振る舞いを。すべてを。「かくれんぼ、ですか?」わずかに皮肉を含ませて言う。「年甲斐もないと責めるか?」返ってきたのは、淡々とした声。「いいえ」あやめは、小さく笑った。「楽しければ、何よりです」「楽しかったぞ」即答だった。一瞬の間もない。その言葉に、あやめの肩から力が抜ける。(……合格、かしら)ふと、そんな考えが浮かぶ。自分でも可笑しくて、内心で苦笑する。評価される側に立つことに、慣れていないわけではない。それでも―――冬弥の一言
last updateLast Updated : 2026-04-08
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冬弥の手にはウイスキーのグラス。中の氷が、かすかに音を立てた。「どうしました?」冬弥の視線が、あやめは気になった。観察する目だったからだ。「意外、だったと思ってな」(……意外?)「私が、ですか?」「ああ」冬弥はソファに腰を下ろす。その間も、冬弥の視線は、あやめから逸れなかった。「最初に会ったときは、乳母日傘で育った、淑やかな女だと思っていた」政治家の娘として理想的なイメージ。そう思ってもらえる振る舞いができていたのかと、あやめは満足した。そして気になるのは―――。「今は?」いまの冬弥がもつ、いまのあやめへの評価。「思ったよりも、じゃじゃ馬だ」冬弥の言葉に、思わず笑みが零れた。(じゃじゃ馬って……)「それは、褒め言葉ですか?」「好きに取れ」ぶっきらぼうな言い方。だが、その声音に否定は含まれていない。「では、褒められたことにします」あやめは資料を閉じ、立ち上がる。そして、冬弥の向かいに腰を下ろした。自然と距離が近くなる。「飲むか?」聞かれて、気づいた。机の上にはウイスキーを中心にした晩酌の用意がされている。炭酸のボトルもあった。「それでは、ハイボールを」冬弥が作るのだろうか。それとも、使用人が作るのか。そんなことを思っていたら、冬弥がグラスを手に取った。(作ってくれるみたい)氷がグラスに触れる音。ウイスキーが注がれる音。炭酸が弾ける、細やかな音。静かな夜に、それらは妙に鮮明だった。.「あなたの望む“神崎の女”とは?」あやめは、グラスを見つめたまま問いかけた。少しの沈黙。その間に、グラスの中の泡が静かに消えていく。「俺の背中を預けられる女」低く、迷いのない声。そして間のない回答に、この答えは冬弥がずっと考えていたことなのだと分かる。視線を感じた。あやめは顔を上げる。冬弥が、まっすぐあやめを見ていた。「だが―――」逃げ場のない視線。「今では、“お前”だな」言葉が、静かに落ちる。誇張も、飾りもない。ただ、事実を告げるように。あやめは、すぐに返事ができなかった。胸の奥に、何かが広がる。熱とも違う。痛みとも違う。だが、確かに形を持った感情。「お前を見ていると……」冬弥が、ぽつりと続ける。「俺の中の何かが、揺らぐ」その一言で。あやめの内側もまた、確か
last updateLast Updated : 2026-04-11
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1-28

人間は、環境に慣れる。 どれほど異質で、拒絶したくなるような場所であっても、時間がたてば、心も身体も少しずつ順応していいく。それが、生きるということなのだろう。あやめは、神崎邸の中庭に面した縁側に腰を下ろし、雨上がりの空を見上げていた。濡れた石畳が、淡く光を反射している。葉の先に残った雫が、ぽたり、ぽたりと落ちていく音。湿り気を帯びた空気は、まだ梅雨の名残を感じさせながらも、どこか軽い。見上げれば、空はすでに夏の色をしていた。深く、抜けるような蒼。「暑くなってきたわね」誰にともなく呟いたあやめの声は、庭の緑に吸い込まれて消えた。冬弥に初めて会ったのは、まだ雨が続いていた頃。あの時の空気は重く、湿っていて、先の見えない不安のようだった。それが、今はどうだろう。いまは夏。季節は移ろい、空は晴れ、風は軽い。そして、何より―――。(私が、ここにいることに慣れている)その事実に、あやめは小さく息を吐いた。呆れにも似た感情が、胸の奥に広がる。自分は、思ったよりも図太い人間だったのだのかもしれない。この結婚を、あやめは最初、檻だと思った。自由を奪われ。名前を変えられ。見知らぬ男の妻にされる。選択の余地すら与えられなかったため、いわば被害者のような心境になった。この結婚は、あやめにとって“人生の終わり”に等しかった。だが今。こうして静かな庭を眺めながら、ふと思う。(私は、もともと檻の中にいたのかもしれない)固定された価値観。固定概念という名の檻。.これまでのあやめは、柊謙一の娘として生きてきた。 それは、常に“正しさ”を求められる日々だった。 言葉遣い。姿勢。食事の作法。交友関係。服装。表情。全てにおいて「正しくあれ」と教え込まれた。逸脱は許されない。間違いは、矯正される。常に正しく。でも―――。(正しいとは、何だったのだろう)ふと、そんな疑問が浮かぶ。あの頃の「正しい」は、絶対的なものではなかった。ただ、柊家という一つの世界の中で定義された基準に過ぎない。その基準に適合すること。それこそが「正しさ」だった。そして、その体現者が――あやめの姉のさくらだった。穏やかな言葉遣い。流れるような所作。誰とでも自然に距離を縮める社交性。流行を的確に取り入れた装いで、父の望む交
last updateLast Updated : 2026-01-27
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1-29

「姐さん、明日の予定は?」背後から、声をかけられた。振り返ると、鷹見が手帳を片手に立っていた。確認ではない。指示でもない。どうするのか、という問い。だからこそ―――。「午後から神崎芸能に行って、広報と打ち合わせを。その後は自宅に戻って、冬弥さんのスピーチ原稿の確認をしようと思います」自然と、言葉が出る。自分で決めたことを、自分の言葉で伝える。「分かりました」鷹見はそれ以上何も言わず、静かに頷いた。そのやり取りに、違和感はない。誰かに決められるのではなく、自分で選び、動く。“神崎あやめ”として、ここにいる感覚。それは、あやめがこれまで味わったことのないものだった。父親の秘書だった頃は、あやめの役割はあくまで補佐だったから。 あやめのやることは全て、父親の意志によるもの。言葉さえも、父親の意志を代弁するもの。そこに、自分の判断が入り込む余地はほとんどなかった。だが、今は違う。動くのは、自分の判断。言葉は、自分の言葉。その責任も、結果も、すべて自分が納得できる形で返ってくる。それが―――こんなにも自由で、こんなにも息がしやすいものだとは思わなかった。. * .次の日の夕方。神崎芸能での打ち合わせを終えたあやめは、同じく仕事を終えた冬弥と同じ車に乗り、屋敷へと戻っていた。窓の外には、夕焼けに染まる街並みが流れていく。オレンジ色の光が、車内に柔らかく差し込んでいた。「今日は、楽しそうだったな」不意に、冬弥が言う。あやめは少し驚いて、冬弥を見てわずかに首を傾げた。「そう見えました?」「ああ」短い肯定。「広報部長は完全にお前に懐いたな。お前の姿を見るだけで尻尾を振ってみせる犬だ」「まあ……」思わず苦笑が漏れる。「それ冬弥さんの妻だからではありませんか?」今回の仕事は、あくまでも相談役。広報部長の上司は冬弥だ。冬弥が影響しているのは間違いない。そう思っての言葉だった。だが―――。「あいつが、俺に対してあんな態度をとったことはない」即座に否定される。「俺には、必要な報告しかしない。ああいう顔は見せない」淡々とした声。だが、その内容は明確だった。「あれは、お前だからだ」その一言が、胸の奥に静かに落ちる。言葉は強くない。だが、重い。逃げ場のない、事実としての響き。あやめは、息
last updateLast Updated : 2026-04-11
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1-30

神崎邸で「神崎」の姓を持つのは、冬弥とあやめの二人だけだ。だが、その広大な屋敷で暮している人間は、その二人だけではない。龍神会の組員たち。住み込みの家政婦。警備にあたる者たち。それぞれが役割をもち、それぞれの領域で動いている。神崎邸は、一つの家でありながら、同時に一つの組織でもあった。その中で、「神崎」のプライベート空間と、それ以外の領域は暗黙の了解という形で区切られている。外部の人間が立ち入ることを許されない、静かな領域。あやめの一日は、そこから始まる。.朝。身支度を整えたあやめは、静かに扉を開ける。柔らかな光が、廊下に差し込んでいる。磨き上げられた床板は、淡く光を返し、足音をほとんど吸い込んでしまう。庭の緑は、毎日手入れされているのだろう。露に濡れた葉が、朝の光を受けてきらめいていた。空気は澄んでいて、どこまでも整っている。整然とした美しさ。乱れのない日常。何もかもが満たされている―――はずだった。だが。最近のあやめの胸の奥には、説明のつかない“空白”があった。何かが足りない。けれど、それが何なのかは分からない。満たされているはずなのに、どこか満たされていない。そんな矛盾した感覚が、静かに居座っている。ダイニングに入ると、すでに朝食の準備は整っていた。「おはようございます」早苗が、いつもの穏やかな声であやめに挨拶する。 「おはようございます」あやめも、自然に微笑みを返した。椅子に腰を下ろす。テーブルの上には、栄養バランスの整った和食が並んでいた。炊きたての白米。香ばしく焼かれた魚。彩りの良い小鉢。味噌汁から立ち上がる湯気が、ふわりと空気に溶ける。完璧な朝食。どこにも不足はないが―――。「早苗さん、冬弥さんは?」朝食は一人分だけ。そこに、あやめの意識が向かう。「本日は撮影現場の視察に行くそうで、早朝に出られました。午後には神崎芸能本社に戻られる予定です」「そう。ありがとう」それだけのやり取り。いつもと変わらない。あやめは箸を取る。味噌汁を一口、口に運ぶ。―――薄い。味が、しないわけではない。だが、遠いと感じるほど、舌に触れているのに現実味がない。(……どうして?)食欲が、わかない。.あやめと冬弥は、寝室が別にしている。政略結婚において、それは珍しい形で
last updateLast Updated : 2026-01-27
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