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All Chapters of 氷龍の檻姫: Chapter 31 - Chapter 40

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神崎芸能の本社ビルは、都心の一等地にそびえ立つガラス張りの高層ビルだった。 朝の光を受けて、外壁が鋭く反射する。無機質な輝き。だがその内側では、無数の人間の思惑と感情が交錯している。このビルは、華やかな芸能の世界を支える“現場”であり、同時に、情報と力が集まる戦場でもあった。あやめは、週に数回この場所を訪れている。最初はただの“同行者”だった。だが今では、明確な役割を持ってこの場所に立っている。文書の確認と法律面での相談。広報部との連携による戦略立案。タレントのリスク管理についての相談。どれも表には出ないが、確実に結果に直結する仕事だった。.「神崎様、次の会議は十時から。その後、広報部長との面談が十一時半。午後は新規プロジェクトの契約締結式がございます」淡々と、しかし正確にスケジュールを告げる声。水原玲奈。冬弥の秘書の一人であり、龍神会の分家の娘でもある女性。あやめがここに来る日は、冬弥の指示で、水原玲奈はあやめの補佐を務める。年齢は、二十七歳。あやめより二歳年上。黒のスーツを無駄なく着こなし、背筋は真っ直ぐに伸びている。余計な動きは一切なく、視線の動かし方すら計算されているようだった。 知的で、冷静で、そして―――隙がない。(見事ね)あやめは素直にそう思う。秘書としては、申し分ない。むしろ、理想的と言ってもいい。「水原さん、いつもありがとうございます」あやめが声をかけると、水原玲奈は軽く一礼し、穏やかに微笑んだ。「いえ、神崎様のご指示が的確なおかげです」(”神崎様”……)その呼び方。水原玲奈は、決して「奥様」とは言わない。それは一見、あやめ個人を尊重しているようにも聞こえる。“奥様”という誰かに付随する存在ではなく、“神崎あやめ”として扱うだが―――。(違うわよね)あやめは、直感的に理解している。個として認めているのではない。奥様とは“冬弥の妻”であることであり、水原玲奈はそれを認めないと言っている。. * .打ち合わせの合間。ふと視線を感じて、顔をあげる。ガラス張りの会議室の向こう。そこに、冬弥と水原玲奈の姿があった。並んで座り、冬弥は資料を見ていて、水原玲奈が何かを指さしている。その距離は自然で、過不足はない。補佐する者と、される者。長く積み上げてきた関係が、
last updateLast Updated : 2026-01-27
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依然として、冬弥との関係は変わらない。言葉を交わせば穏やかで、仕事では信頼もある。だが、やはり一線が引かれている。踏み込めない距離。踏み込まない距離。それが崩れることはなかった。.そんなある日。神崎邸に、あやめの姉のさくらが訪ねてきた。「お姉様がいらしています」早苗からそう告げられたとき、あやめは一瞬、耳を疑った。「……お姉様が?」思わず聞き返してしまう。あやめとさくらの関係は、“悪くはない”。互いに干渉し合わない距離を保っているから。―――いや、正確には。あやめは距離をとろうとしている。しかし、さくらは時折それを縮めにくる。(今回も、それなのかしら)あやめの胸の奥に、わずかな緊張が走る。「用件は聞いていますか?」「“妹の顔を見にきた”とおっしゃられただけです。若に確認を取り、応接間にお通しいたしました」「……ありがとう」その言葉を聞いた瞬間、あやめは小さく息を吐いた。さくらは、あやめのことをよく分かっている。どうすれば揺れるのか。どこを突けば効くのか。さくらは、それを知った上で動く人間だ。的確に動いて、自分が「柊健一郎の娘」であることを、強く主張する。それはさくらの武器であり、盾でもある。だからこそ、あやめは一瞬だけ期待した。父親の用件で来たのではないか、と。だが―――さくらは早苗に用件を告げなかった。つまり、今回の訪問理由は“柊健一郎の娘”としてではない。あやめを、揺るがせるために来た。(……仕方がない)あやめは、覚悟を決める。正直に言えば、会いたくはなかった、だが、すでに冬弥が許可を出している。さくらは、柊家を継ぐ者。ここで拒めば、柊家と神崎家に無用な影を落とす。姉妹の不仲という噂は、それだけで価値を持ってしまう。(逃げるわけにはいかない).「失礼します」応接室の扉を開ける。そこにいたのは、“お姉様らしい”とあやめが感じるさくらの姿だった。上質なワンピース。計算されたヘアスタイル。優雅に紅茶を口にする仕草。すべてが完成している。まるで舞台の中央に立つ主役のように。「あやめ。元気そうで安心したわ」柔らかな声。だが、その奥にある者を、あやめは知っている。「お久しぶりです、お姉様……その、急に、どうなさったのですか?」「妹が極道の妻になったって聞いたら、普
last updateLast Updated : 2026-01-27
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軽やかな言葉。まるで、冗談のように。だが、あやめには分かる。これは本気だ。さくらは、そういう人間だ。欲しいものは、手に入れる。どんな手段を使ってでも。そしてそれを、隠そうともしない。その傲慢さ。その強さ。あやめは、ずっとそれを恐れてきた。そして同時に―――どこかで、憧れてもいた。 「それだけ言いたかったの。それじゃあ、帰るわね」さくらが立ち上がる。本当に、用事はそれだけだったようだ。柊家の使者としてではない。ましてや、あやめの姉としての訪問でもない。宣戦布告ですらない。さくらにとっては、ただの報告。「……お気をつけて」頭は紺頼していても、長年の習慣で反射的に言葉が出る。そのあやめの態度に、さくらは僅かに眉をひそめた。つまらなそうだ。「ねえ、あやめ」さくらは微笑む。「あなた、ちゃんと冬弥さんを満足させているの?」空気が凍りつく。あまりにも露骨な言葉。この場に、鷹見と早苗がいると知っていての発言。あやめの顔が、一瞬で熱を帯びる。言葉が出ない。無難な答えでいなすことはおろか、否定することもできない。沈黙。それが答えになってしまう。「ほらね」さくらが、笑う。「やっぱり私のほうが”妻”に相応しいじゃない」そのまま、さくらは振り返ることなく部屋を出ていった。残された空気は、重く、張りつめていた。あやめは、その場に立ち尽くす。何も言えなかった自分。何もできなかった自分。そして何より―――心の奥に生まれた、確かな恐怖。奪われてしまう。その感覚が、消えなかった。.*.数日後。神崎芸能主催のチャリティーガラが開催された。 冬弥は主催者として出席する。あやめは準備に関わったが、当日は出席していない。安全のため。あやめも納得していた。それは自然な判断だった。―――のはずだった。だから、知らなかった。誰も、あやめに教えてくれなかった。「……どうして?」夕食の席。テレビに映し出された映像を見て、あやめは小さく呟いた。早苗が、その声に反応する。あやめの視線を追い、早苗もテレビ画面を見る。そして、早苗は息を飲んだ。そこに映っていたのはタキシード姿の冬弥。その隣に―――イブニングドレスを纏ったさくらの姿。真紅のドレス。大胆でありながら、下品さはない。むしろ、さく
last updateLast Updated : 2026-04-12
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「どうした?」低く落ちてきた冬弥の声に、あやめは我に返った。「……いえ、ニュースを見ていただけです」努めて平静を装いながら、冬弥の問いに答える。その声が、わずかに硬いことを自分でも自覚していた。あやめの言葉を受けて、冬弥はゆっくりとテレビへ視線を向ける。冬弥は普段、食事中にテレビをつけることはなかった。食事中にニュースを見るのはあやめの習慣で、特にこだわりがなかったため、そうしているだけ。だから、数日前のチャリティーガラの様子が報道されていたことに、初めて気づいた。煌びやかな照明。フラッシュの嵐。そして―――冬弥の隣に立つ、さくらの姿。「この前のチャリティイベントか」淡々とした声音。だが、その一言で場の空気がわずかに引き締まる。冬弥は一度姿勢を戻し、改めてあやめを見る。「いつもよりかなり評判が良かった。お前の要所要所でのアドバイスに助けられたと、社員からは聞いている」誉め言葉。評価。それは、あやめがこれまで求めてきた“正しさの証明”に近いものだった。だが―――。「そう、ですか」あやめの視線は、時折テレビに向けられる。冬弥はその様子を見て、片眉をわずかに上げた。そして、冬弥もテレビへと目を向ける。その瞬間。冬弥の眉間に、はっきりとした皺が刻まれた。「鷹見」低く、短い呼びかけ。「テレビ局に抗議を入れておけ。要らぬ噂が流れる、不快だ」その言葉は、明確な拒絶。冬弥とさくらが並ぶ映像に対する拒絶。そこに含まれる、さくらが冬弥のパートナーと臭わせる、その意図に対する拒絶。あやめは、意識してゆっくりと瞬きをする。(……やっぱり)分かっていた。あの映像が、ただの偶然ではないこと。さくらのやり方は、いつも同じだ。外堀から埋める。周囲に、“そう見える状況”を作る。そして、既成事実へと変えていく。だが。それでも。「どうして、お姉様と?」あやめは、確認せずにはいられなかった。冬弥の口元が動く。出過ぎた真似をしたかと、あやめの体に力が籠る。冬弥は、わずかに息を吐いた。その仕草には、面倒くささはあっても、苛立ちはない。あやめは、体の力をわずかに抜いた。「柊家の紹介でついたスポンサー企業の専務が連れてきた」「ああ……」納得する。そして同時に、あやめの胸の奥がざらつく。正当な理由がある。そ
last updateLast Updated : 2026-01-28
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静かな問い。試すようでもあり、確かめるようでもある。 あやめは、すぐには答えなかった。沈黙。呼吸を整える。言葉を選ぶ。―――逃げるか。それとも。「気にします」はっきりと、そう答えた。一瞬、空気が止まる。今度は、冬弥が息を飲む番だった。その反応を見て、あやめは小さく笑った。「私を、試すつもりでしたか?」「……まあ、そうなのだろうな」わずかに苦い声音。あやめは、そのまま言葉を続ける。「私は、自分の自己満足のために表に立とうとは思いません」一拍。「でも」あやめは、冬弥を見る。視線を逸らさない。「あなたの隣に、誰かが立つのは嫌です」その言葉はまっすぐで、曖昧さがない。冬弥の目がわずかに見開かれる。 あやめは、視線を逸らさずに続けた。「あれは、仕事です。理解もしています」それでも。「私は、あなたの妻です」その一言には重みがあった。「たとえ形式だけでも―――あなたの隣に立つのは、私でありたい」沈黙。冬弥は、何も言わなかった。 ただ、あやめの目をじっと見つめていた。その視線から、あやめは逃げなかった。.*. その夜。あやめは眠ることができなかった。夕食の席で自分の内側をさらけ出した。それが、想像以上に心を揺らしていた。あのあと、夕食の席はいつも通り進んだ。だが、会話は少なく、空気は張りつめていた。言葉にしてしまったものは、もうなかったことにはできない。あやめは、静かにベッドを抜け出す。そしえ窓辺に腰を下ろした。月明かりが庭を照らしている。風が木々を揺らす。その音が、やけに遠く感じられた。胸の奥が、ざわついていた。 ―――私のほうが妻に相応しい。さくらの言葉が、何度も蘇る。逃げるように、あやめはドレッサーの前に座る。鏡の中の自分と、視線が合う。「……私、どうしてこんなに苦しいの?」答えは、返ってこない。胸元に手をあてる。そこにあるのは―――確かな痛み。冬弥が、他の女性と並ぶ姿。それを見ただけで、胸が締めつけられる。「これって……」言葉が途切れる。あやめは、目を閉じる。深く息を吐く。そして―――。 「……恋、なの?」その言葉を口にした瞬間、何かが静かに確定した。あやめは、これまで“恋”を知らなかった。役割。責任。期待。それらに囲
last updateLast Updated : 2026-04-12
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「姐さん、若の秘書の水原から連絡があったのですが……」戸惑いを隠しきれない表情でやってきた早苗の手には、電話機の子機が握られていた。いつも落ち着いている早苗が、こうして躊躇いを見せるのは珍しかった。「どうしたのですか?」あやめは落ち着いた声音で問いかける。その落ち着きは、場の空気を一度鎮める力を持っていた。「若が『至急、神崎芸能に来てほしい』と仰っているそうです」「……会社に?」(なにか、あったのかしら) あやめと冬弥は、お互いの予定を共有している。冬弥は今日、海外のテレビ局と重要な契約を締結する予定だった。契約書については、その作成にあやめも関わっている。「冬弥さんに確認は?」「若はいま電話にお出にならず、鷹見もいま移動中で連絡がつかなのです」判断に迷う答えだった。「水原さんは……まだ電話は繋がっている?」早苗が頷くと、あやめは静かに手を差し出し、子機を受け取った。「お電話代わりました」 『神崎様。社長からのご伝言をお聞きになりましたか?』整った声だった。感情の揺れは一切ない。「ええ、冬弥さんは?」『社長はいま会議中です。迎えを送っておりますので、社長室までお越しください』それだけを告げると、水原玲奈は一方的に通話を切った。受話器越しの沈黙が、不気味に残る。「……向こうから切るなんて、失礼にもほどがあります」早苗が低く呟くが、あやめは首を横に振った。「……準備をお願いします。迎えの車が来るそうです」「若が、こちらに迎えを?」早苗の問いに、あやめは答えなかった。呼び出しも、迎えを送ったと言ったのも、冬弥から直接ではない。どちらも水原玲奈の言葉。あやめの態度に早苗は何かを感じたのか、表情を引き締めた。「分かりました。準備を急ぎます」.準備を整えて玄関に出ると、すでに車が到着していた。車のナンバーは、あやめが記憶している組のものだ。しかし、その場の空気は妙に張り詰めていた。運転手も、いつも冬弥の運転手を務めている組員。若い組員が、その者に詰め寄っていた。「おい、姐さんに外出の予定なんてあったか?」「兄貴からの指示だ。あ、姐さん。お迎えにあがりました」そう言って向けるのは、軽薄にも見える笑顔。しかし、これはいつものこと。「冬弥さんから直接指示されたのかしら?」「水原秘書から、兄貴の
last updateLast Updated : 2026-01-28
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(杞憂、だったようね)神崎芸能の本社ビル。役員専用エレベータの扉が閉まる。ここまで何事もない。幹部たちの集まる役員専用フロアに着くまで完全に安心はできないが、少しだけ緊張がほどけた。「早苗さん、ごめんなさい。大騒ぎにしてしまって」「いいえ。それで何もなければ、それが最善です」その言葉に、あやめは小さく微笑む。ふと、早苗の姿に目が止まる。黒いジャンプスーツにジージャン。黒髪は結い上げられている。しなやかで、獣のような鋭さをもつ立ち姿だった。(……格好いい)いつもは和装の早苗の、見慣れぬ姿にあやめは見惚れる。こんな状況でと思ったが、これも余裕が生まれた証拠だと、あやめは内心苦笑してしまった。「ご安心ください。鷹見程度ならば、私が一人で制圧できます」「頼もしいわ」鷹見の強さは分からない。だから早苗のレベルをあやめは測れない。でも、早苗の自信満々の目に、あやめは安心した。.社長室の前に立つ。ノックしたが、冬弥からの返事がない。許可がでないため、どうするかあやめは困る。「若が着替え中でしたら、悲鳴をあげて二人で逃げましょう」「……ええ」半ば冗談のようなやり取り。だが、扉を開けた瞬間―――その軽さは消えた。「……水原さん?」応接スペースにある、大きなソファ。そこにいたのは、水原玲奈だった。大きなワイシャツを纏い、素肌を隠すその姿。床には、乱雑に散らばる衣類。明らかに男女のもの。その光景が意味するものは、一目で理解できた。「お待ちしておりました、神崎様」勝ち誇った、水原玲奈の微笑み。「……冬弥さんは?」「シャワーを浴びていらっしゃいます。いろいろと、汗もかくので」その言葉に、あやめの心臓が跳ねた。そんなはずはないと否定しても、否定しきれない。どうしても『浮気』の二文字があやめの頭の中を回る。「ご自分の立場を理解していただきたくて」「……立場?」「冬弥さんが愛しているのは私です」静かに告げられる言葉。明確で、聞き間違えようのない言葉。「分かったら、出ていってくださいませんか?」「……なぜ?」「一度では終わらない方ですから」そう言って、水原玲奈は自分の半裸を見下ろしてみせた。だからまだ、この格好で冬弥を待っているのだと言わんばかりに。疑念が、確信に変わる音がした。それでも
last updateLast Updated : 2026-04-12
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あやめは踵を返し、シャワールームへと向かった。(なんだか……ドラマみたい)思うのは、さきほどの早苗とのやり取り。こんな状況なのに、そんなことを考えていたのだが、扉に手をかける前にそれを打ち消すようにあやめは頭を振った。ノックもせずに扉を開けた瞬間、白い蒸気があふれ出す。あやめの視界が一瞬霞む。その向こうに―――バスタオルを腰に巻き、濡れた髪をかき上げている冬弥の姿があった。「……あやめ?」目を見開く冬弥。 驚いていた。その表情には、普段の冷静さの欠片もなかった。「え、なんで、もう?」「水原さんから、“至急来てほしい”と。冬弥さんからの伝言だと聞きました」「は?」冬弥の短い声には戸惑いがあった。表情は、理解が追いついていなかった。「ですから、水原さんから、会社に来いと」冬弥の眉が、ぴくりと動いた。 そのまま無言で近づいてきて、あやめの肩に手を置く。「え?」次の瞬間、あやめの身体はくるりと回転していた。あやめの視界が反転する。目の前には、開け放たれたままの扉。「待ってろ」低く短い命令。背中を押されてあやめは脱衣所へ。そのまま後ろで扉が閉められる。「……」あやめは、ぽかんと立ち尽くした直後、バスルームから慌ただしい物音が響く。何かを落とす音。引っかかる音。焦るの様子がありありと伝わってきて―――。(さっきの……)あやめの脳裏に、濡れた髪と露わな肌の記憶が蘇る。あやめの頬が一気に熱くなった。.「待たせた」扉が開き、冬弥が出てくる。シャツとズボンは身につけているが、どこか着こなしが乱れている。「……もう少し待ちますので、ボタンをちゃんと……いや、チャックのほう?」あやめの指摘に、冬弥は一瞬だけ固まり、それから小さく息を吐いた。自分以上に動揺しているあやめの姿に、先ほどの動揺がわずかに抜け、少しだけ冬弥は冷静になれた。ズボンをちゃんとはいて、ボタンを二つほど適当に留めた。ここでようやく、冬弥は社長室の惨状に気づく。荒らされているわけではないが、水原玲奈は床に転がっていた。簀巻きの状態で、早苗に完全に拘束されている。先ほどまでの余裕は、跡形もない。(……当然よね)あやめは、どこか冷静に思っていた。「水原」冬弥の声が、低く落ちる。「お前が、あやめを呼んだのか?」「……社長が
last updateLast Updated : 2026-01-29
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「顔を洗ってくる」短くそう言い残し、冬弥はバスルームへと消えた。先ほどまでの緊張と怒気をまとったままの背中だったが、その足取りには迷いがなかった。自分の中の何かを整理しに行くような、そんな静かな決意が感じられた。すぐに冬弥は戻ってきた。まるで先ほどの出来事が幻だったかのように、冬弥はいつもの整った姿に戻っていた。髪は軽く整えられ、シャツの襟元もきっちりと閉じられている。乱れはない。だが、あやめを見るその視線の奥には、まだ消えきらない何かが残っていた。背中を走る何かにあやめは慌て、冬弥の視線と絡まないよう僅かに自分の目を逸らす。「早苗は?」冬弥の声は、変わらない。自分の反応は変ではないと、あやめは肩の力を抜く。「水原さんを連れていきました」どこに、は早苗に聞かなかった。それを聞いて、先を知る覚悟があやめにはなかった。「そうか」冬弥も、それ以上は問わない。その沈黙は、互いに踏み込まないという暗黙の了解のようでもあり、同時に、踏み込めば壊れる何かを避けているようでもあった。静寂が落ちる。時計の針の音さえ聞こえてきそうなほど、空気が張り詰める。やがて、あやめが口を開いた。「……水原さんを、どうするおつもりですか?」声は静かだった。だが、その奥には確かな意志があった。「水原はクビだ。組への出入りも禁止する」即答だった。迷いは一切ない。「俺の命令だと偽って、あやめを危険に晒した。それだけで、十分だ」合理的な判断。さきほどの冬弥の発言から、水原は秘書としてあっても冬弥の傍に置かれ、組への出入りも自由だったとと分かる。そんな水原玲奈に対して、冬弥は情ではなく規律で判断した。それが神崎冬弥という男のやり方。「愛人として、囲うおつもりは?」あやめの一言に、空気が凍りついた。「……なんだって?」「私は“政略上の妻”です。ですから、あなたが愛人を持つのであれば……それも受け入れる覚悟はあります」あやめの口から、その言葉は滑らかに出てきた。政略結婚における妻の心得のように。だが、その一語一語は、胸を切り裂くように痛かった。冬弥の目が、ほんの一瞬だけ見開かれる。なぜか。それを探る前に、すぐにその表情はいつも通りに引き締められた。「そんなつもりはない」低く、はっきりとした否定。「あれに愛人はできない。今回の
last updateLast Updated : 2026-01-29
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「……すまなかった」低く、押し殺した冬弥の声。「嫌な思いをさせた」謝罪。それ以上でも、それ以下でもない言葉。「そうですね……嫌な思いをしました」あやめは、小さく微笑んだ。それ以上は、言わなかった。言えなかった。.*.それから、数日が過ぎた。神崎邸の中庭に面した書斎。柔らかな陽光が差し込み、風に揺れる木々の影が机に落ちる。穏やかな時間。だが―――あやめは、ため息を吐いた。(……だめね)資料をめくる指先は動いているのに、内容はまったく頭に入ってこない。原因は、分かっている。一つしかない。あの日から―――冬弥は何も言わない。避けているわけではない。態度が冷たくなったわけでもない。むしろ、これまで通りだ。それが、余計に堪えた。(なかったことに、するつもり……?)あの告白を。あの時間を。(いえ……)違う、かもしれない。(こういうものなのかしら)応えられない想いに対して、無理に答えを出さない。法律的には、夫婦。どうしたって夫婦としての関係を続ける以上は、関係を壊さないために沈黙を選ぶ。(気まずくなるくらいなら、何もなかったことに……)あり得る。むしろ、それが合理的だ。この結婚は政略によるもの。感情は前提に含まれていなかったし、今後も含まれる必要はない。離婚はない。逃げ場もない。政略である以上、好き、嫌い、といった個人の問題ではない。(分かっている)あやめも、頭では理解している。だが―――心が納得していない。胸の奥に、ぽっかりと空いた空白。それは、拒絶された痛みではない。ただ―――“なかったことにされたこと”への寂しさ。冬弥が自分をどう思っているのか。“妻”としてではなくてもいい。一人の人間としてでもいい。その答えをあやめは求めていて―――。(言ったのに)自分は伝えた。ならば、ほんの少しでいい。何か、返してほしかった。「それに応えてくれるくらいの情はあると思ったのに……」小さな呟きが、静かな書斎に溶けていく。(私は……何を期待していたんだろう」最初から分かっていたはずなのに。この関係に、“愛”などないと。それなのに―――。(あのとき、どこかで……)期待していた。「愛している」と。「……馬鹿みたい」あやめは目を閉じた。 じんわりと胸が痛む。そ
last updateLast Updated : 2026-04-13
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