翌日、アトリエの空気は朝から張りつめていた。 ショーまでは、まだ二週間弱ある。 それでも現場に流れている緊張は、もう後戻りできない種類のものだった。 白い仮設ラックに、《La Distance de l’Amour(愛の距離)》は静かに吊られている。 まだ名前だけの服。 けれどショーでこれがどう評価されるかで、ルクソリアの明日まで測られる。 奥では、トワルを着せたボディが何体も並んでいた。 スタッフがメジャーを首にかけたまま、裾丈を測り、待ち針でごくわずかなずれを拾っていく。 別のテーブルには、サンプル生地とレース、ビーズ、染色違いのリボンが広げられていた。 どの素材に差し替えれば、歩いたときにいちばん長く残るか。 クレールがモデルのコンポジを見比べながら、ルックごとの重心を組み替えている。 コンポジとは、モデルの名刺兼プロフィールシートのようなものだ。 写真、身長、サイズ、所属、経歴。 その一枚を見れば、誰をどんな仕事に使えるか、おおよその輪郭が分かる。 佐伯は完成しかけた服を一着ずつ黙って見て、甘い線があればその場で切って捨てる。 今やっているのは本番前の運用じゃない。 コレクションの骨格を決める、中盤の詰めだった。 昨日、一ノ瀬から渡されたメモの文面が頭の奥で何度もよみがえった。 ヴェルネイユ。 老舗を呑み込み、整え、利益の出る商品へ均していく巨大グループ。 今日の短期コラボは、ただの話題づくりじゃない。 《アウローラ》から枝を伸ばし、まだルクソリアは死んでいないと市場へ示すための、防衛線だ。 「澪、胸元の落ち方、もう一度だけ見せて」 クレールの声で我に返る。 「はい」 ドレスの前へ立ち、指先で布を整える。 今日の午後に入るフィッティング用の、確認だった。 胸元の落差、脇線の切れ込み、歩いたときにだけ見える内側の陰。 トルソーで美しくても足りない。 人が着て、数歩歩いたときに、祈りに見えるか、それとも欲望に見えるか。 今はその境目を詰めている。 昨日の夜から、頭も胸もひどく重い。 怜司に聞かれた問いも、一ノ瀬に突きつけられた現実も、そのまま体の奥へ残っていた。 それでも手だけは迷わなかった。 今日だけは、立たなきゃいけない。
最後更新 : 2026-05-01 閱讀更多