《極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?》全部章節:第 91 章 - 第 100 章

134 章節

第91話 守りたいものがある服

 翌日、アトリエの空気は朝から張りつめていた。  ショーまでは、まだ二週間弱ある。  それでも現場に流れている緊張は、もう後戻りできない種類のものだった。  白い仮設ラックに、《La Distance de l’Amour(愛の距離)》は静かに吊られている。  まだ名前だけの服。  けれどショーでこれがどう評価されるかで、ルクソリアの明日まで測られる。  奥では、トワルを着せたボディが何体も並んでいた。  スタッフがメジャーを首にかけたまま、裾丈を測り、待ち針でごくわずかなずれを拾っていく。  別のテーブルには、サンプル生地とレース、ビーズ、染色違いのリボンが広げられていた。  どの素材に差し替えれば、歩いたときにいちばん長く残るか。  クレールがモデルのコンポジを見比べながら、ルックごとの重心を組み替えている。  コンポジとは、モデルの名刺兼プロフィールシートのようなものだ。  写真、身長、サイズ、所属、経歴。  その一枚を見れば、誰をどんな仕事に使えるか、おおよその輪郭が分かる。  佐伯は完成しかけた服を一着ずつ黙って見て、甘い線があればその場で切って捨てる。  今やっているのは本番前の運用じゃない。  コレクションの骨格を決める、中盤の詰めだった。  昨日、一ノ瀬から渡されたメモの文面が頭の奥で何度もよみがえった。  ヴェルネイユ。  老舗を呑み込み、整え、利益の出る商品へ均していく巨大グループ。  今日の短期コラボは、ただの話題づくりじゃない。  《アウローラ》から枝を伸ばし、まだルクソリアは死んでいないと市場へ示すための、防衛線だ。 「澪、胸元の落ち方、もう一度だけ見せて」  クレールの声で我に返る。 「はい」  ドレスの前へ立ち、指先で布を整える。  今日の午後に入るフィッティング用の、確認だった。  胸元の落差、脇線の切れ込み、歩いたときにだけ見える内側の陰。  トルソーで美しくても足りない。  人が着て、数歩歩いたときに、祈りに見えるか、それとも欲望に見えるか。  今はその境目を詰めている。  昨日の夜から、頭も胸もひどく重い。  怜司に聞かれた問いも、一ノ瀬に突きつけられた現実も、そのまま体の奥へ残っていた。  それでも手だけは迷わなかった。  今日だけは、立たなきゃいけない。
last update最後更新 : 2026-05-01
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第92話 血が分かってしまった顔

 狭い車内に、怜司の気配が近すぎた。  エンジンが静かにかかるまで、どちらも何も言わなかった。  街の灯りが流れ始めてから、ようやく怜司が口を開く。 「保育士からか」 「……はい」 「熱は」 「三十八度を超えたと」  それだけ答えると、また沈黙が落ちる。  責められていない。  それなのに、隣にいるだけで息が詰まる。  セレナの娘に向けていた、あの目。  アパルトマンで「誰の子だ」と聞いた声。  全部を知っているのは私だけで、全部を知らないのが怜司だ。  その歪さが、狭い車内ではごまかせない。  保育施設に着くと、夜勤の保育士がすぐにこちらへ気づいた。 「白川さん」  ほっとした顔のあとで、私の隣に立つ怜司を見て、ほんの一瞬だけ目を丸くする。  私は何も説明できないまま、先に頭を下げた。 「すみません、遅くなって」 「いえ。さっきより熱が上がっていて、少しぐったりしています。お水もあまり飲めなくて……」  胸の奥がきゅっと縮む。  案内された小さな部屋のベッドで、怜生は毛布に半分埋もれていた。  頬が赤い。  呼吸も、思っていたより少し速い。  でも、私を見つけた瞬間だけ、目がやわらかくほどける。 「ママ」 「うん。来たよ」  抱き上げると、いつもより体温が高い。  小さな背中が汗ばんでいて、熱が服越しにまで伝わってくる。  その重みを受け止めた瞬間、今日一日のざらついた感情が全部ほどけていく。  残るのは、母としての私だけだった。  保育士がそっと言い添える。 「一度、診てもらった方がいいかもしれません。熱の上がり方が少し急で」  私は怜生の額へ唇を寄せる。  熱い。  朝とは違う熱だと、触れた瞬間に分かった。 「……病院、行こうね」 「おうち、かえる?」 「すぐ終わるから」  怜生は安心したみたいに私の肩へ頬を乗せる。  そのとき、怜生の視線が私の肩越しに怜司へ向いた。  小さく瞬きをする。 「……知ってる」  一瞬、時間が止まったみたいだった。 「ママが好きな人」  心臓が、嫌な音を立てる。  そんなはずない。  会ったことなんて、ないのに。  なのに、子どもはときどき残酷なくらいまっすぐだ。 「名前は」  怜司の声が、低く落ちた。  私に向けた問いなのに、ひ
last update最後更新 : 2026-05-02
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第93話 止まれない

 アパルトマンへ戻る頃には、夜はもうすっかり深くなっていた。  怜生は私の腕の中で眠ったまま、頬だけがまだ少し赤い。熱は少し落ち着いている。  でも、小さな体温の重みが腕にあるだけで、心のどこかがずっと張ったままだった。  玄関の鍵を開けようとして、私は手を止める。当然みたいに、怜司も後ろに立っていた。 「……ここまでで大丈夫です」  言いながらも、声にあまり力が入らない。  怜生を抱き、鞄も持ち、薬の説明も頭に入れたまま、ひとりで全部きれいにやれるほど、今の私は余裕がなかった。  怜司は答えない。  ただ、私の腕の中の怜生を見てから、短く言う。 「薬は」 「あります」 「飲ませられるか」  その問いに、一瞬だけ言葉が詰まる。  怜生は眠い時、薬を嫌がる。熱がある夜は、なおさらだ。 「……たぶん」  そう答えた自分の声が、思ったより頼りなくて嫌になった。  怜司は何も言わず、私の手から鍵を受け取る。 「開ける」  それだけだった。  拒むより先に、古い扉が静かに開く。私は息を止めたまま、中へ入った。  アパルトマンの空気は、昼間のまま少し冷えている。  机の上には開きかけのスケッチブック。トルソーにはまだ何も掛かっていない。  ランプシェードの琥珀色の下で、それでもここが私の場所だと分かる。  怜司は靴音を殺したまま、自然に奥へ入ってきた。  不思議だった。  勝手に上がり込まれたのに、拒絶より先に、妙な安堵が来る。  私は怜生をベッドへ寝かせる。  熱で汗ばんだ前髪を拭き、額に触れる。その間に、怜司は薬袋と水を手に取っていた。 「お前、座れ」 「でも」 「手が震えてる」  言われて初めて、自分の指先が細かく揺れていることに気づく。  悔しい。でも否定できなかった。  怜司は怜生のベッド脇に膝をつく。  病院で一瞬だけ見せた顔とはまた違う、静かな集中の顔だった。 「怜生」  名前を呼ぶ声が低い。  でも驚くほどやわらかい。眠りの浅い怜生が、うっすら目を開ける。 「くすり、飲めるか」  ぼんやりしたまま、小さく眉を寄せる。 「にがいの、やだ」 「知ってる」  怜司はそう言って、少しだけ口元を緩めた。  私は息を止める。  知ってる。  知るはずのないことを、まるで前から知ってい
last update最後更新 : 2026-05-03
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第94話 この服は、この線で完成する

 部屋の静けさを裂くように、別の着信音が鳴った。  私じゃない。怜司のスマートフォンだった。  ベッド脇の小さなテーブルに置かれていた画面が点灯する。  視線が吸い寄せられる。  名前を見た瞬間、胸の奥で何かが冷たく軋んだ。  セラフィナ・ヴァルデ。  怜司も画面を見た。  ほんのわずかに表情が変わる。  迷いではない。  でも、無視できないと決めた顔だった。 「……出るんですか」  自分でも驚くほど、声が冷えていた。  怜司はすぐに答えない。  その沈黙が、答えみたいだった。 「理由がある」  低い声。  それだけだった。  理由。  そう言われても、今の私には何ひとつ救いにならない。  怜司は私を見る。何かを言おうとして、結局言わなかった。  スマートフォンを取り、コートへ手を伸ばす。  その動作ひとつひとつが、胸の奥を静かに切り裂いた。 「澪」  呼ばれても、返事ができなかった。  怜司は部屋を出た。  扉が閉まる直前、低い声が廊下に落ちる。 「ああ、今か?」  ほんの短い間。 「……分かった。すぐ行く」  それだけだった。  たったそれだけなのに、胸の奥がひどく冷えた。  こんな時に。  怜生のことが分かった、この夜に。  それでも行くのだ。  私が止められないことまで分かったうえで。  私が聞き分けのいい女の顔をするしかないことまで、分かったうえで。  この人は、あの女を選ぶ。  分かっている。  こんなこと、言うべきじゃない。  怜生は眠っている。  怜司には怜司の事情がある。  セラフィナからの電話に、理由がないはずもない。  分かっていた。  なのに。 「……行くんですね」  声が出ていた。  自分で思うより、ずっと低い声だった。  怜司の足音が止まる。  扉の向こうで、ほんの一瞬だけ沈黙が落ちた。 「澪」 「いいです。分かっています。大事な用なんですよね」  分かっている、という言葉ばかりが口から出る。  本当は、何も分かりたくなかった。  大人みたいな顔で頷きたくなかった。  あなたが必要なんですね、と聞き分けよく譲れる女になんかなり
last update最後更新 : 2026-05-04
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第95話 その熱は、ドレスになる

 翌日のアトリエは、朝から妙に静かだった。  まだ佐伯もクレールも来ていない。  全体のフィッティング前に、怜司が先に私のラフを確認すると言ったからだ。  昨夜の熱が、まだ体のどこかに残っている。  机の上には、夜明け近くまで描き続けたラフがある。  やわらかな輪郭の内側に、牙を隠した線。  愛と嫉妬。  朝の光の下で見返すのは少し怖かった。  けれど、目は逸らさない。  扉の向こうで、足音が止まる。  顔を上げる前に分かってしまう。  怜司だ。 「……早いですね」  平静に言ったつもりだった。  でも、声が少し硬い。  怜司は何も言わず、私の前まで来る。  いつもより近い。 「あの子の具合は」  その一言が先に来る。  それだけで、胸がやわらぐ。 「熱は少し下がりました。朝はちゃんと寝ていて……さっき、病児対応のシッターさんが来てくれました」  怜司は短く頷いた。 「そうか。無理はさせるな」  怜生を案じている声で、喉の奥が詰まる。 「寝ていないだろう」 「……少しは」 「嘘だな」  責めている声ではなかった。  知っている、と言われたみたいだった。  怜司の視線が、机の上のラフへ落ちた。 「見せろ」  私は少し迷ってから、紙を差し出した。  けれど、怜司は受け取らない。  机の上のそれを、立ったまま見下ろす。 「……変ですか」 「いや」  怜司は短く息を吐いた。 「甘いだけじゃない」  その一言で、胸の奥が揺れた。  抱きしめたいだけでは足りない。  愛しいだけでも足りない。  奪われたくない。  その醜さまで混ざって、ようやく本当になる。 「……L’Amour et la Jalousie(愛と嫉妬)です」  自分で口にすると、少しだけ震えた。  怜司の目が、そこで初めて私を見る。  熱いのに、よく冷えている目だった。 「そうだな」  たったそれだけ。  なのに、息が詰まる。 「時間はない」  その言葉に、肩がこわばる。  やっぱり駄目なのだと思った。  新しい案を起こすには遅すぎる。  昨夜の線は、ただの感情の暴発だったのだと。  けれど、怜司は続けた。 「だが、これは捨てない」  顔を上げる。怜司の声は、驚くほどはっきりしていた。 「《La
last update最後更新 : 2026-05-05
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第96話 醜いから、これだ

「……なにこれは」  佐伯の声で、私はようやく手を止めた。  いつの間にか、佐伯とクレールがアトリエの入口に立っていた。  怜司とセラフィナが出ていってから、どれくらい経ったのか分からない。  机の上には昨夜描いたラフ。  その隣で、白いシーチングを纏ったトルソーが、まだ仮の形で立っている。  縫い代は出たまま、脇には待ち針が何本も刺さっていて、背中の処理も仮留めのまま。  裾の長さも、まだ決めていない。  まだ服ではない。  でも、近づいているという確信があった。 「新しいドレスです」  私はチャコを持ったまま答えた。 「《La Distance de l'Amour》の続きとして入れることになりました」  佐伯の眉が動く。 「……あなた、寝てないでしょう」 「寝ました」 「嘘」  短く言われて、返事に詰まった。  たぶん、顔に出ている。  昨夜の熱も、今朝の棘も、怜司とセラフィナが並んで出ていった背中を見送ったことも。  全部、どこかに出ている。 「まだ足りないんです」  自分でも驚くほど、声は静かだった。 「何が」 「生々しさが」  トルソーへ向き直る。  正面のラインは静かだった。  白くて、清くて、守られているように見える。愛されるために作られた服みたいに見える。  でも違う。  怜司とセラフィナが並んだ背中を思い出す。  腹が立つくらい、釣り合っていた。  彼女が少し顔を寄せたとき、怜司は拒まなかった。  きっと、仕事のはずだ。  それなのに、喉の奥が焼けた。  私は待ち針を一本抜いた。  脇の布を少し落とす。  外から見えない場所に、もう一本、線を入れる。  抱きしめるための曲線ではない。  逃がさないための線。  優しく見えるのに、内側で噛みつく線。 「何を見たの」  佐伯が言った。答えなかった。  嫉妬です、と言えば済むのかもしれない。  でも、それでは軽すぎる。  置いていかれた痛み。  見せつけられた美しさ。  拒まれなかった距離。  それでも、その身体にいちばん似合う形が分かってしまう自分。  最悪だ。こんな感情で、線が冴えるなんて。 「壊してるの?」  クレールが低く尋ねる。 「違います」  私は裂いた脇線の奥へ、新しい布を差し込んだ。
last update最後更新 : 2026-05-06
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第97話 私の傷を、商品にする

 完成した一着がトルソーへ掛けられた瞬間、アトリエにいた全員が息を呑んだ。  誰も、すぐには喋らなかった。  白い布は、朝の光の中で静かに立っている。  清らかに見えるのに、近づくほど目の奥を焼く。  クレールも、佐伯も、現地スタッフも動けなかった。  でも、賞賛はそこで終わりだった。  そのための服じゃない。  次の瞬間から、アトリエは静かな戦場になった。  歓声を上げる余裕なんてない。  生まれたばかりの一着を、ショーの流れへどう差し込むか。どのルックを押し、どの照明を削るか。  感情から生まれた服も、舞台に乗せると決めた瞬間、数字と段取りからは逃げられない。 「追加するなら、順番を動かすしかない」  クレールがタブレットを睨みながら言った。 「《La Distance de l’Amour(愛の距離)》の直後に置くと、意味は通る。でも照明が甘い。あの流れのままだと、この服の刃が鈍る」  刃。  その言葉に、指先が少しだけ熱くなる。  さっきまで私の胸の奥にあったものが、もう舞台用の言葉に変換されている。  佐伯は縫製台の上に広げた進行表へ、赤いペンを走らせる。 「甘い照明を残すなら、前の一着を削る。残さないなら、モデルの歩きで見せる。どちらにしても、白川さん、あなたの作業量は増えるわよ」 「分かっています」 「分かってない顔ね」  即座に切られて、唇を噛む。  佐伯は顔を上げた。 「一晩で生まれた線は強い。でも、そのまま舞台へ乗せればただの暴発よ。観客はあなたの昨夜なんて知らない」  胸の奥が、ちくりと痛んだ。  怜司さんに置いていかれた痛みも、セラフィナへの嫉妬も、怜生を抱いていた腕の重さも。  観客は知らない。 「だから、形にしなさい」  佐伯の声は冷たくない。  けれど、甘くもない。 「あなたの私情を、ランウェイで通用する形にするの。それができなければ、ただの自己満足で終わる」  自己満足。  少しだけ、笑ってしまった。  佐伯は相変わらず手厳しい。  でも、正しい。  私はトルソーを見た。  あれは確かに、私の中から出てきたものだ。  愛したこと。妬んだこと。奪われると思ったこと。それでも欲しかったこと。  でも、舞台に出すなら、それだけでは足りない。  ランウェイで通用する
last update最後更新 : 2026-05-07
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第98話 この服は、奪わなければ完成しない

 セラフィナがアトリエへ入ってきた瞬間、空気が変わった。  誰かが声を上げたわけでもない。  でも、その場にいた全員の視線が、ひとつの身体へ吸い寄せられる。  骨格から違う。  その感覚が、今日も胸の奥を刺した。  細いのに、弱く見えない。やわらかいのに、触れた方が傷つきそうな立ち方をしている。  そのままセラフィナは、トルソーの前で足を止めた。  《L’amour et la jalousie(愛と嫉妬)》を見る。  何も言わない。  表情もほとんど変わらない。  その沈黙だけで、ドレスの方が呼吸を止めたみたいだった。  私は唇の裏を噛む。  褒めるだろうか。切るだろうか。  どちらでも嫌なのに、待っている自分がもっと嫌だった。 「……悪くない」  クレールが小さく息を吐く。  でも私は、そこで安心できなかった。  悪くない、の先がある。  この女はそういう言い方をする。  セラフィナは一歩、トルソーの脇へ回る。  ひそかに裂くみたいに入った線へ、視線を落とした。 「ちゃんと痛い」  佐伯の目が、わずかに細くなる。 「昨日までのあなたなら、ここまでは来なかったでしょうね」 「……ええ」  喉が少しだけ乾く。 「あなたのおかげで」  言ってから、自分でひどいと思う。棘を隠す気もない。  でもセラフィナは怒らなかった。  ただ、ほんのわずかに口元を動かした。 「そうね。 少なくとも、何かは削れたんでしょうね」  削れた。  その言い方が腹立たしい。私は削られたんじゃない。ただ傷ついただけだ。  そう思うのに、反論できない。  セラフィナはようやく私を見た。  冷たい目だった。  人を見下すというより、切れ味を確かめるみたいな目。 「でも、まだ本物じゃない」  空気が止まった。  クレールが顔を上げ、佐伯も黙る。  私だけが、その一言を真正面から受ける。 「……何が足りないっていうの」  自分でも驚くほど、声は平たかった。  怒っているのに、冷えている。  セラフィナは私へ歩み寄る。  ヒールの音が、静かに床を叩いた。 「きれいすぎる」  昨日、私が自分で切った言葉と同じだった。 「嫉妬は入ってる。執着もある。痛みもある」  セラフィナの視線が、脇線の奥へ沈む。 「で
last update最後更新 : 2026-05-08
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第99話 あなたが嫌いでも、私はあなたが必要

 そのまま地続きの空気で、再フィッティングが始まった。  トルソーから外されたドレスが、作業台の上で白く息を潜めている。  私はその前に立ったまま、針を一本ずつ掌へ並べていた。  指先が妙に静かだ。  内側だけが、焼けるみたいに熱い。 「着るわよ」  セラフィナの声で顔を上げる。  もう迷いはない。  佐伯がドレスを持ち上げる。  クレールはタブレットを胸に抱えたまま、立ち位置と時間だけを見ている。  怜司は少し離れた位置で、何も言わない。  でも、その沈黙がいちばん心を乱す。  セラフィナが腕を通す。  白い布が、骨格へ沿って落ちる。  そこで初めて、私ははっきり息を止めた。  似合う。  腹が立つほど。  この女の身体は、少し線を置くだけで物語を始めてしまう。  だから嫌いだ。  私がどれだけ削って作っても、この女は立っただけで半分奪っていく。 「白川さん」  佐伯の低い声で我に返る。 「見惚れてる場合じゃないわ」 「……分かってます」  近づく。  セラフィナの真正面へ立つ。  私は脇線へ手を入れる。  待ち針を打ち直す。  布をつまみ、少しだけ持ち上げる。  セラフィナの呼吸が変わる。 「そこ?」 「まだ守ってるから」  ここは、まだ愛されたい女の逃げ道だ。  拒まれた時に傷つくための余白。  奪うなら、こんな場所はいらない。  私はもう一段深く、線をえぐる。  クレールが小さく息を呑む。 「攻めすぎじゃない?」 「足りません」  即答だった。  セラフィナが鏡を見る。  その目が、ほんのわずかに揺れる。  たぶん彼女も分かったのだ。  さっきまでのドレスとは、もう違う。  これは守りながら刺す服じゃない。  刺しながら、奪いに行く服だ。 「……よくなってきたわね」  セラフィナが、鏡越しに言う。  その一言で、背骨の奥がひりついた。 「あなたが嫌いです」  言った瞬間、布を押さえた指がかすかに震えた。  アトリエが、しんと静まる。  セラフィナは怒らなかった。  鏡の中の私を見たまま、低く返す。 「知ってる」  その平然とした顔が、また癪に障る。  私は腰のラインへ回り込む。  背中を見つめる。  ここだ、と思った。  まだこの背には、選
last update最後更新 : 2026-05-09
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第100話 綺麗な恋で済むはずがない

 再フィッティングが終わっても、指先の熱だけが引かなかった。 「十分だわ」  セラフィナが先にドレスから抜けながら、鏡越しに私を見る。 「あとはその熱を冷まさないことね」  言い残して、さっさと奥へ引っ込んでいく。  クレールも佐伯も次の段取りを口にしながら出ていき、扉が閉まった途端、アトリエが急に静かになった。  残ったのは、私と怜司だけだった。  奪うと決めた。  そう思った途端、世界の見え方まで変わってしまった。 「澪」  振り向くと、怜司がすぐ後ろにいた。  近い。  近すぎる。  さっきまで鏡越しにしか見なかった目が、今はまっすぐ私を射抜いている。 「……楽しんでいるでしょう」  私がそう言うと、怜司の目がわずかに細くなる。 「何をだ」 「セラフィナを連れてきて。私がこうなるのを」  短い沈黙が落ちた。  怜司は否定しない。  それが余計に腹立たしい。 「……嫌な人」  掠れた声で言うと、怜司がほんの少しだけ笑った。 「今さらだろう」  一歩、近づく。  背中が作業台へ触れた。  逃げ道がなくなる。  怜司の指が、私の手首を掴む。  強くはない。  でも離す気のない掴み方だった。 「だが」  低い声が、喉の奥へ触れる。 「お前がそんな顔をしてる時が、俺はたまらなく好きだ」  胸の奥が、ぞくりと震えた。 「嫉妬で醜くなって」 「……怜司」 「それでも針を持つ」  逃げたい。  でも逃げたくない。  この男は、私がいちばん隠したいところばかり見抜いて、そこを欲しがる。 「そういう時のお前が、いちばん綺麗だ」  ひどい。  最低だ。  私自身が嫌悪している顔を、この人は欲しいと言う。 「そんな俺を、お前はまだ愛してる」  低い声。  その一言だけで、喉が熱くなる。  背筋が細く震えて、下腹の奥まで甘く痺れた。  悔しいのに、身体が先に答えてしまう。 「だったら、奪いたいか」  胸の奥が、ひどく静かに煮える。  もう逃げない。  待たない。  傷ついたまま、選ばれるのを待つ女ではいたくない。 「ええ」  自分でも驚くほど、声は静かだった。 「奪います」 「まだ震えてる」 「あなたのせいです」  ひどい男だと思う。  でも、そのひどさに私がいちば
last update最後更新 : 2026-05-10
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