All Chapters of 極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?: Chapter 81 - Chapter 89

89 Chapters

第81話 セレナ・ヴァルデの娘

 日付が変わる少し前、ようやくドレスは一本の呼吸を持ち始めた。  前身頃は閉じている。けれど完全に閉ざしているわけではない。  脇から背へ流れる二枚の布は、寄り添うようで、ぴたりとは重ならない。  歩けば、そのあいだに潜ませた影が一瞬だけ覗く。  見せるための熱ではない。  隠しているのに、抑えきれずに零れてしまう熱。  私はしばらくトルソーの前に立ち尽くした。  愛していた。  今も、たぶん愛している。  でも、そばにいたら壊れてしまうと思った。  だから離れた。  その選択が正しかったのかは、いまだに分からない。  それでも、離れていた時間まで含めて愛だったと、今だけは思える。 「……La Distance de l’Amour(愛の距離)」  口にした瞬間、胸の奥が震えた。  怜司がすぐ近くで息を止める。  低い声が落ちる。  振り返ると、怜司は思っていたよりずっと近くにいた。  工房の静けさの中で、互いの呼吸だけが妙に鮮明に聞こえる。 「この名前の意味は」  その問いに、心臓が強く打った。  まだ全部は言えない。  言えば、きっと今夜だけでは済まなくなる。 「……まだ、途中です」  私がそう答えると、怜司の目が少しだけ細くなった。 「そうか」  責めるでもなく、踏み込むでもなく。  ただ、その先があると分かった顔だった。 「でも」  怜司はトルソーのドレスへ視線を向ける。 「今までで一番、お前らしい」  たったそれだけで、胸の奥の何かがやわらかくほどけた。  認められたかった。  ずっと。  デザイナーとしても。  女としても。  今さら思い知らされるのが悔しい。 「……怜司さんは、ずるいです」  思わずそう零すと、怜司はわずかに眉を上げた。 「何がだ」 「一番言ってほしいことだけ、ちゃんと言うから」  怜司は少しだけ黙って、それから苦く笑った。 「お前も同じだ」  その声には、やさしさだけじゃなく、まだ癒えていない痛みも残っていた。  その言葉が落ちた次の瞬間、どちらが先だったのか分からなかった。  気づけば、怜司の手が私の頬に触れていた。  熱い。  触れられた場所から、呼吸が乱れる。 「……仕事だけで済まなくなるって、言ったでしょう」  私の声は少しかす
last updateLast Updated : 2026-04-19
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第82話 近づいた朝、遠いひと

 翌朝、工房の空気は昨夜よりも少しだけ乾いていた。  窓から差す薄い光の下で、私はトルソーに掛かった 「La Distance de l’Amour(愛の距離)」を見上げる。  夢ではなかった。  あのキスも。  額に落ちた短い口づけも。  距離が静かに消え始めた感覚も。  全部、ちゃんと体の中に残っている。  そのせいで、針を持つ指先だけが妙に落ち着かなかった。 「眠れたか」  背後から怜司の声がする。  振り返ると、昨日と同じ黒いシャツに袖を通したまま、コーヒーを片手に立っていた。 「……少しは」 「嘘だな」  即答されて、思わず眉を寄せる。 「どうしてそう思うんですか」 「顔」  短く言って、怜司は私の目元を見る。  その視線に、昨夜の続きみたいな熱はない。  ないのに、私はそれを探してしまう。 「怜司さんこそ」 「眠った」 「嘘ですね」  今度は私が言う番だった。  怜司の口元がほんの少しだけ動く。 「生意気だな」  そういう何でもない応酬だけで、胸の奥が甘く波立つ。  困る。  こんなふうに近づき始めたら、また仕事まで揺れる気がするのに。  でも同時に、揺れた先の方が線が深くなることを、もう知ってしまった。 「フィッティングは午後です」  私はスケジュール表を見ながら言う。 「それまでに脇の落ちをもう少し整えたい」 「なら、裾はそのまま残せ」  怜司はドレスへ近づき、影の入る角度を見ながら続ける。 「動いた時の零れ方が、昨日より良くなってる」 「……分かるんですね」 「分かる」  ためらいがない。  悔しいくらい、ない。 「お前は、感情が揺れた翌朝の方が線が正確だ」  その一言に、喉が熱くなる。  昨夜のことを、直接言っているわけじゃない。  でも、まるで全部見透かされているみたいで息が詰まる。 「そういう言い方、ずるいです」 「事実だ」  怜司はそう言ってから、私のすぐ横を通り過ぎた。  肩が触れそうになる。  それだけで、呼吸が浅くなる。  昨夜のキスは、距離を完全に消したわけじゃない。  でも、もう何もなかった頃のふりには戻れなかった。  戻れないはずなのに、胸のどこかには、昨夜最後に聞いた名前がまだ沈んでいる。  セレナ・ヴァルデ。  あの名を
last updateLast Updated : 2026-04-20
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第83話 暴力的なまでに美しい女が、そのピアスを持っていた

 午後のフィッティングには、佐伯と、ルクソリア・パリ拠点の制作責任者クレール・ルーセル、それにモデルが一人だけ入った。  モデルが同席すると聞いたとき、セレナ・ヴァルデの娘だったらどうしよう、と思った。  でも、入ってきた瞬間に分かった。  違う。  綺麗だ。けれど、あの神話の系譜に触れるような冷たさではない。  そのことに、胸の奥でひそかに息をつく。  クレールは三十代後半のフランス人で、現場叩き上げらしい無駄のない所作をしている。  余計な人間は呼ばない。  それが、今のこのドレスには正しかった。  モデルが「La Distance de l’Amour(愛の距離)」に袖を通した瞬間、部屋の空気が静かに変わる。  正面から見れば端正だ。  けれど歩き始めると、脇から背へ流れる二枚の布のあいだにだけ、抑え込んでいた熱がちらりと覗く。  誰にも見せるつもりのない感情が、動いた瞬間だけ零れる。 「……これは」  クレールが、先に言葉を漏らした。 「すごくいいですね」  その一言に、私は思わず顔を上げた。  フランス人は、なかなかこういうふうには褒めない。  せいぜい綺麗、悪くない、そのくらいで止まる。  だから、この「すごくいい」は、ほとんど最上級だ。 「綺麗なのに、不穏だ」 「そうでないと意味がないんです」  私はモデルの肩線を直しながら答える。  そのすぐ後ろで、怜司が何も言わずに見ている気配がする。  昨日から、近い。  でも触れない。  その触れなさが、かえって熱い。 「白川」  怜司の声が落ちる。 「裾を一センチ上げろ」 「上げすぎると軽くなります」 「今は重い」 「重いからいいんです」  言い返した瞬間、室内が少しだけ静かになった。  佐伯が、あからさまではないけれど、私たちを見る。  気づいている。  この空気に。言葉の温度に。  それでも怜司は動じなかった。 「なら、歩かせろ」  低い声。  私はモデルへ顎を引く。  ランウェイ代わりの床を歩かせると、裾の影が一瞬だけ揺れて、全員の目がそこへ吸われた。 「……そのまま」  今度は私より先に、怜司がそう言った。  視線が重なる。  同じ場所を見ていた。  同じ瞬間に、同じ答えへ届いていた。  そのことが、悔しい
last updateLast Updated : 2026-04-21
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第84話 あなたはまだ、本物を知らない

 女は怜司の手元を見て、唇だけで、うっすら笑う。「そのピアス」 彼女はそう言って近づくと、ためらいもなく怜司の腕に指先を添えた。 その仕草の自然さが、ぞっとするほど場違いだった。「よくできた偽物ね。本物と見間違えるところだったわ」 頭の奥で、何かがひっくり返る音がした。 偽物。 本物。 その二語だけが、異様にはっきり胸へ刺さる。 初めて怜司と二人で食事をした夜、渡されたピアス。 あのとき彼は、これは預けるだけだと言った。 君が本物を作ったとき、そのとき初めて、これは君のものになる、と。 あの言葉を、ずっと胸の奥で抱えてきた。 デザイナーとしての私を見つけてもらえた気がして。 ようやく本物になれたのだと、信じたくて。 なのに今、この女のひと言だけで、その夜そのものが足元から崩れていく。 模造品。 石だけじゃない。 愛まで。 私まで。 そう言われた気がして、胸の奥が鈍く痛んだ。 怜司の目が、すっと細くなった。「勝手に入るな」 低い声。 なのに、突き放す響きではなかった。 むしろ逆だ。 警戒しているくせに、目が離せない。 そんなふうに見える。「呼ばれたから来てあげたのよ。 私が必要なんでしょう」 女は肩をすくめた。 それから、まっすぐ怜司を見る。「久しぶりね、怜司」 その呼び方に、喉が詰まる。 怜司を名前で呼ぶ女は少ない。 しかも、こんなふうに当然みたいに。 怜司は何も答えない。 答えないまま、彼女を見ている。 熱い。 さっきよりも、もっと。 まるで亡霊でも見るみたいに。 でも、目を逸らせない男の目だった。 胸の奥が、じわじわ冷えていく。「会いたがっていたのはあなたでしょう?」 女はそう言って、耳元の石を揺らした。 その仕草ひとつまで、美しい。 神話の残り香を、自分の身体で当然みたいに鳴らしている。 媚びているわけじゃない。 甘えた声も、挑発めいた身振りもない。 ただ、自分が何を背負ってこの場に立っているかを知っている。 だからこそ、冷たい。 だからこそ、目を離せない。「……お前が来るとは聞いていない」「なら、今知ったじゃない」 言ってから、今度は私を見る。 視線が触れただけで、背筋が粟立つ。「あなたが、白川澪?」 値踏みではない。 でも、もっと残酷な種類
last updateLast Updated : 2026-04-22
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第85話 醜い嫉妬

 フィッティングを終えてアパルトマンへ戻る頃には、パリの空はすっかり暮れていた。  部屋に入るなり、スマートフォンが震える。  保育士からのメッセージに、私は反射的に肩の力を抜いた。 『怜生くん、今日はご機嫌でした』  短い動画つきだ。  小さな手でクレヨンを握り、紙いっぱいにぐるぐると線を引いている。  途中で顔を上げて笑う目元が、怜司を思わせる。  胸の奥が、やわらかく痛んだ。  返信を打ちかけたところで、ドアがノックされた。  開けると、やはり怜司だった。 「……なんでこんなところに」  契約書に住所は書いた。知っていても不思議じゃない。  それでも、来るとは思っていなかった。 「約束でしたよね」  仕事の話は、仕事の場所だけにする。  そう線を引いたはずだった。 「仕事だ」  怜司は表情を崩さないまま、薄い封筒を差し出した。 「追加の資料だ」  けれど視線は、私ではなく、まだ消していなかったスマートフォンの画面へ落ちる。  私は反射的に伏せた。 「……ありがとうございます」 「大事な連絡か」  責めているわけではない。  なのに、遠い声だった。 「……わかるんですか」 「顔で」  短い返事に、喉の奥が熱くなる。 「誰からだ」  昨日までなら、こんな聞き方でも嬉しかったかもしれない。  でも今は違う。さっきの眼差しが、まだ焼きついている。 「仕事とは関係ありません」 「そういう答え方をしている時点で、関係がある」  少し苛立って、顔を上げた。 「怜司さんこそ。今日、仕事だけじゃない目をしていたのは、私じゃないでしょう」  言った瞬間、胸がざらついた。  セレナの娘に向いた眼差しへの、醜い嫉妬だ。  そんな自分が嫌だった。  こんなこと、言いたくない。なのに。  一瞬、空気が止まる。 「誰の話をしている」 「分からないなら、もういいです」 「澪」  名前を呼ばれただけで、胸が痛む。  近づいたと思った。同じ服を見て、同じ場所へ手を伸ばして、並べた気がした。  なのに、たった一人現れただけで、私はこんなに簡単に外へ押し出される。 「……私、邪魔でしたか」  怜司の眉がわずかに寄る。 「何の話だ」 「《アウローラ》の話です」  嘘だ。  でも全部を恋だと言ってしまう
last updateLast Updated : 2026-04-23
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第86話 だから今夜は、帰ってもらえますか

「……出ます」  怜司の脇をすり抜け、玄関へ向かう。  モニターに映っていたのは、一ノ瀬だった。  ドアを開けると、彼はいつもの余裕を崩さないまま、細く息をつく。 「遅くにごめん。大事な話だから、直接話したかった」  そう言いながら、室内の気配を読んだらしい目が、わずかに奥へ向く。 「……取り込み中だった?」 「いえ」  即答した声が、思ったより硬かった。  一ノ瀬は私ではなく、背後の怜司を見る。  ほんの数秒。  それだけで、二人の間に見えない火花が走った気がした。 「久世社長、こんな時間まで熱心ですね」  軽い声。  けれど少しもやわらかくない。  怜司も一歩も引かない。 「お前こそ、他人の部屋にずいぶん気安い」 「澪さんはうちの人間ですから」  空気がまた張りつめる。  私の肩が無意識に強ばった。  怜司の目が細くなる。 「今はルクソリアの案件を任せている」 「任せている、ね」  一ノ瀬は笑う。  でも、目だけが笑っていない。 「まるで、自分のもののような言い方だ」 「必要なら、取り返す」  低い一言。  あまりに怜司らしくて、胸の奥が痛む。  その言葉に、今うれしいと思ってしまう自分もいるから、なおさらだ。 「久世社長」  一ノ瀬の声が、今度は少しだけ冷える。 「今夜来たのは、澪さんを守るためです」  息が止まった。  怜司の視線が私へ一瞬だけ落ちる。 「どういう意味だ」 「ヴェルネイユの件」  その一言で、空気が変わる。  怜司の目が、わずかに細くなった。  欧州の巨大ラグジュアリーグループだ。  老舗メゾンを次々と傘下に収め、伝統と職人技を守る顔をしながら、数字に合わないブランドは容赦なく切り分ける。  しかも、ヴェルネイユはアーク・ブレイズの株式を九・八パーセント押さえていた。  筆頭ではない。けれど、無視できる数字でもなかった。 「もちろん、久世社長が知らないわけないですよね」  静かな声なのに、挑発にしか聞こえない。  私は息を呑む。  怜司は数秒黙ったまま、一ノ瀬を見返した。 「知っている」  短い返答。  でも、その短さがかえって重かった。 「ど
last updateLast Updated : 2026-04-24
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第87話 第三の選択肢

 ドアが閉まる音は静かだった。 でも、さっきよりずっと重かった。 残された私は、しばらくその場で動けない。 一ノ瀬はそんな私を急かさず、ようやくテーブルへタブレットを置いた。「ヴェルネイユの投資ファンド、方針が変わったのは知ってるでしょう」 私は小さく頷いた。 もともとヴェルネイユの後ろにいたのは、欧州系の、比較的長い目でブランドを見る資本だった。 でも今は違う。 入ってきたのは、短期間で利益を回収したいアメリカ系ファンド。 つまり、神話や伝統より、今いくら稼げるかを優先するということだ。「……はい。前よりずっと、利益しか見なくなったって」「ええ。神話や歴史に金を払うんじゃない。数字になるものだけ拾う」 淡々とした声だった。 けれど、その冷たさが逆に現実味を帯びさせる。「それが今、アークにもルクソリアにも影響を与えてる」 胸の奥が、わずかに強張った。「……どういうことですか」 一ノ瀬は少しだけ間を置いてから、静かに続けた。「アークでは、編成を見直す動きが出てる。ヴェルネイユ傘下の他ブランドとも親和性の高いデザイナーを前に出したいって声が強くなってるんです」 一瞬、意味が分からなかった。 でも次の瞬間、血の気が引く。「……それって」「澪さんを外して、新しいデザイナーを入れたい連中がいる、ということです」 息が止まる。「守るためには、すぐ戻るのがいちばんいい」 意味を飲み込むまで、一瞬かかった。「……今のコラボを捨てて、ってことですか」「そうです」 一ノ瀬の返事は静かだった。「守ろうにも、いないんじゃお話にならない」 ショーはまだ終わっていない。 ドレスだって、終わっていない。 デザインは、ほとんどできている。 形も、線も、もう逃げないところまで来ていた。 でも本当に大事なのは、ここからだった。 ランウェイに魂を入れる。 服を、ただの完成品じゃなく、生きた一着に変える最後の作業。 いつだって、いちばん過酷で、いちばん削られるのはそこからなのに。「もっと遊ばせてあげたかったんですけどね」 その一言に、胸の奥がかすかに痛んだ。 遊ばせる。 試させる。 尖らせる。 一ノ瀬はずっと、そういうふうに私を扱ってくれていた。 壊れないぎりぎりのところで、自由を許してくれていた。 でも、それがも
last updateLast Updated : 2026-04-25
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第88話 そのドレスは、私を離さない

 一ノ瀬の指が離れたあとも、手首の内側だけが熱を持っていた。  逃げてもいい。  その言葉は、あまりにも甘かった。  今すぐ頷けば、たぶん一ノ瀬は本当に連れ出してくれる。怜司の怒りも、ヴェルネイユの数字も、アークの再編も、今夜だけは見えない場所へ隠してくれる。  でも、私はもう知っている。  見えない場所へ逃げても、朝になれば針は残る。  切りかけの布も、預けたままの決断も、そのまま残る。  何より、あのドレスが残る。  まだ息をしていないくせに、もう私の喉元へ指をかけているみたいな服。  目を逸らせば、私の中のいちばん醜い感情まで引きずり出す服。  逃げたら、きっとあれに一生呼ばれる。 「……行きません」  声は、思ったより静かに出た。  一ノ瀬は少しも驚かなかった。  ただ、目だけを細くする。 「僕のところへ?」 「はい」 「アークへも?」  息が止まる。  ずるい聞き方だと思った。  けれど、逃げ道を断つなら、そこまで答えなければいけない。 「今すぐには、戻りません」  一ノ瀬の表情が、わずかに変わった。 「それがどういう意味か、分かってます?」 「分かっています」  嘘ではない。  怖い。  アークでの居場所を失い、一ノ瀬が作ってくれた場所を、自分の手で危うくするのかもしれない。  その先を想像した瞬間、背筋が冷えた。  私の肩書きが消える。  積み上げた信用も、次の契約も、怜生を預ける保育料も、少しずつ指の間から零れていく。  失うのは、私の場所だけじゃない。  怜生の朝も、これから選べるはずだった道も、私の選択ひとつで狭くなるかもしれない。  そう思うと、足元が崩れそうになる。  それでも、今ここでドレスから手を離したら、私はたぶん一生、あの布の前に立てなくなる。 「アークが私を育ててくれたことは、分かっています。一ノ瀬さんが、私に世界の見方を教えてくれたことも」  喉の奥が熱くなる。 「でも、今のドレスは途中です」  一ノ瀬は黙っている。 「途中のまま置いて、守られるためだけに戻ったら、私はまた、誰かに決めてもらった人生に戻ります」  その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが決まった。  そうだ。  私はずっと、それが嫌だった。  奪われること。  黙らされること。
last updateLast Updated : 2026-04-27
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第89話 愛されているうちに、勝たないと

 一瞬、息の仕方が分からなくなった。  一ノ瀬は笑っている。  でも、その目は笑っていなかった。 「……そういう言い方、しないでください」  ようやく返した声が、少し掠れた。 「澪さん、久世社長に奪われますよ。仕事だけじゃなく」  息が止まる。  テーブルを挟んでいるのに、近い。  さっき手首に残った熱が、まだ皮膚の下でほどけずにいる。 「僕でも少し、欲しくなった」  心臓が跳ねた。  口説き文句に聞こえるのに、たぶんそれだけじゃない。  今の私が女として欲しいのか、デザイナーとして欲しいのか、燃えかけた作品ごと欲しいのか。  境目をわざと曖昧にしてくる。  この人は、いつもそうだ。  救う顔をして、ぎりぎりの場所まで踏み込んでくる。  それなのに最後の一線だけは、私に選ばせる。  私は視線を逸らさなかった。 「一ノ瀬さんには、渡しません」  言った瞬間、彼の目が一瞬だけ鋭く光った。 「には、ね」  軽い声だった。  でも、逃がす気のない目をしていた。 「久世社長には?」  胸が詰まる。 「……それは」 「答えなくていいです。今の顔で十分なので」  悔しそうで、どこか嬉しそうな声だった。  一ノ瀬は身を引き、さっきテーブルへ置いたタブレットを起動する。  画面にいくつかの資料が並んだ。 「話を戻します」  声の温度が、仕事へ戻る。  その切り替えに、私は少しだけ救われた。 「澪さんが今のコラボで勝てば、守れるものが二つある」 「二つ……?」 「一つは、アークでの澪さんの立場です」  一ノ瀬は指先で画面をスクロールした。 「戻ってこいと言う連中も、外せと言う連中も、結果を出したデザイナーは簡単に切れない」  言葉が、まっすぐ入ってくる。 「もう一つは、ルクソリアです」  胸が小さく鳴った。 「コラボが成功すれば、ルクソリアはまだ市場を動かせると示せる。ヴェルネイユに安く買い叩かせない材料になる」  一ノ瀬は私を見た。 「つまり、今やってるコラボに勝てば、アークでの澪さんの席も守れる。ルクソリアも守れる」  すべてを救えるわけじゃない。  でも、今選べる中でいちばん強い道だった。  勝つ。  その言葉が、胸に落ちる。  守られるのではなく、勝つ。  三年前に見た、あの景色
last updateLast Updated : 2026-04-28
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