《極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?》全部章節:第 101 章 - 第 110 章

134 章節

第101話 壊れた方が、うれしいんじゃないですか

 東雲綾乃に呼ばれたのは、その日の夜だった。  ルクソリア・パリ拠点の上階にある小さな会議室は、白い壁も、細いガラス卓も、装飾のなさまで彼女そのものだった。  先に来ていた綾乃は窓際に立ち、振り向く。 「来てくれてありがとう、白川さん」 「呼ばれたので」  理性的で、理知的で、感情に溺れない女。  そういう彼女を、私は好きになろうとしていた。  少なくとも尊敬しようとはしていた。  でも違う。  本当は、怜司の妻という座にいるこの人が、ずっと憎い。  席を勧められても、私は座らなかった。綾乃も無理には促さない。その距離感が、むしろ息苦しい。 「話は簡単よ。ヴェルネイユ側が圧を一段上げた。コラボの件で、アーク・ブレイズ側にも火がついている」 「……ええ」 「あなたはいま、二つのブランドを同時に揺らしている」  否定できなかった。 「責めるために呼んだわけではないの。今ならまだ、全部まとめて壊さずに済むかもしれないから」 「全部?」 「怜司さんも、ルクソリアも、あなたも」  綾乃は資料に指先を置いたまま、淡々と続ける。 「ショーが成功すれば、ルクソリアの価値は一時的に上がる。買収防衛にもなる。でも、それはその場しのぎよ」  静かな会議室で、空調の音だけがやけに大きく聞こえた。 「中心にいるのが他社のデザイナーのままなら、市場はすぐに『この先も続くのか』と疑い始める」  アーク・ブレイズ所属。  口に出されなくても、十分だった。 「あなたがルクソリアへ戻れば、アーク・ブレイズは揺れる。戻らなければ、ルクソリアは神話の火種を他社に握られたままになる」  綺麗で、正しい。だから腹が立つ。 「それで、私に何をしろと」 「本当は、どちらかを諦めてほしいの。仕事か、怜司さんか」  率直すぎて、逆に胸は静かだった。言われると思っていた。 「でも、あなたは諦めない」  綾乃は私を見た。 「そういう顔をしているもの」  奪います。  あの言葉のあとで、私の顔はもう隠れていないらしい。 「私はね、怜司さんを助けたかっただけなの」  唐突なのに、その一言だけは真っ直ぐだった。 「あの人には経営の才能がある。誰より冷静で、誰より先を見ている。でも、アウローラだけは捨てられない」  綾乃の指先が、薬指のリングに触れる。
last update最後更新 : 2026-05-11
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第102話 僕が、二度と久世社長を見なくて済むようにする

 ショーの数日前、私は一ノ瀬に時間をもらった。  綾乃は、アーク・ブレイズ側もすでに火がついていると言っていた。  待っていれば、ルクソリアのショーに私が深く関わっている件で、必ず説明を求められる。だったら、呼び出される前に行くしかない。  待ち合わせは、オフィス近くの小さなバーだった。  昼間なのに店内は薄暗く、棚に並んだグラスだけが冷たく光っている。  一ノ瀬は奥の席にいて、珍しく笑っていなかった。 「澪さん」 「……すみません」  座る前に頭を下げると、一ノ瀬は小さく息を吐いた。 「謝るの、早いな」 「たぶん、その話ですよね」 「そう。その話」  軽口で逃がしてくれない声だった。  私は向かいに座る。 「アーク・ブレイズの出資側から確認が入ってる。澪さんがルクソリアのショーにどこまで関与しているのか、正式に説明しろって」 「……はい」 「最初に聞いていた範囲なら、僕も説明できた。少し手を貸す。その程度ならね」  一ノ瀬はスマートフォンを伏せた。 「でも今は違う。外から見れば、澪さんはルクソリアのショーの中核にいる」  否定できなかった。 「責めてるわけじゃない。正直、僕も見たかった。でも、状況が変わった」  一ノ瀬の声は静かだった。 「澪さんは、うちの人間だ。その澪さんが、外から見ればルクソリアを救ってる」  ルクソリアを救う。  そんなきれいごとじゃない。  ただ、あの服を作りたかった。  怜司のために。自分のために。あの女に負けたくなくて。 「しかも相手は久世社長だ。ルクソリアの名前も大きい。ショーが成功すればするほど、澪さんの名前は注目される。でも同時に言われる。白川澪は、アーク・ブレイズの人間なのか。ルクソリアの人間なのか」 「どちらでもないです」 「澪さんの中ではね」  一ノ瀬の声は穏やかだった。 「でも、外はそう見ない」  外。  嫌な言葉だった。  服を作っている時、私は布と線と影しか見ていない。誰の視線を奪うか。誰の心臓を掴むか。それだけで手が動く。  けれど外には、別の目がある。  契約。資本。所属。権利。 「僕は守るよ」  一ノ瀬は言った。  優しい言葉なのに、少しも甘くなかった。 「でも、守るのと無傷は別だ」  胸の奥が静かに沈む。 「澪さんが今作ってい
last update最後更新 : 2026-05-12
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第103話 抱かれない夜

 夜だった。  怜生を寝かしつけたあとも、私はしばらくベッド脇から動けなかった。  小さな胸が、規則正しく上下している。頬へかかった髪をそっと払うと、怜生は眠ったまま少しだけ身じろぎした。  その頼りない動きだけで、胸の奥がやわらかく痛む。  昼間のアトリエでは、奪うことばかり考えていた。  目を奪うこと。  心臓を掴むこと。  怜司を、神話を、舞台を。  でも今、怜生の寝顔を見ていると、そのどれも少しずつ輪郭が変わる。  母であることは、もう揺らがない。  それなのに、今日はずっと揺さぶられていた。  一ノ瀬は、守ることと無傷でいることは違うと言った。  綾乃は、庇護の中にいたらまた誰かの名前で終わると言った。  セラフィナは、母の残像ではなく、自分として神話になりたいと言った。  みんな、違う角度から同じところを指していた。  私はもう、誰かに守られているだけでは足りない。  誰かに選ばれているだけでも、足りない。  最後に浮かぶのは、怜司だった。  怜司の女。  そう呼ばれるだけなら、たぶん私はどこかで腐る。  けれど、怜司の前でしか出ない火もある。  その矛盾が、胸の中でずっと暴れていた。  私は怜生をそっとベッドへ戻した。毛布を整え、額へ唇を寄せる。 「ごめん」  何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。  穏やかな母だけではいられないことか。  母の工房の中へ戻れないことか。  それとも、明日また奪いに行こうとしていることか。  その時、枕元のスマートフォンが震えた。  久世怜司。  名前を見ただけで、身体の奥に沈めていた熱が戻る。  私は通話を取った。 「……はい」 『起きていたか』 「ええ」 『怜生は』 「寝ました」  それだけの会話なのに、近い。 「何かありましたか」 『いや』  切れない沈黙が落ちる。 「じゃあ、なんで」 『声が聞きたくなった』 「えっ……」  胸が、強く鳴った。 『覚えているか。三年前のショーの夜』  喉の奥が熱くなる。  忘れるわけがない。  あの時、私は描いた。  怜司に見つけられた熱のまま、初めて、あの人との関係を服にした。  そのあと、怜司に抱かれた。  幸せだった。  そして、描けなくなった。 「……覚えています
last update最後更新 : 2026-05-13
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第104話 抱かれたままでは奪えない

 数日が過ぎた。  ショー二日前の夜だった。  最後の確認を終えたアトリエには、張りつめた空気だけがまだ残っていた。昼間まで飛び交っていた声も、布を運ぶ足音も、今はもう遠い。  佐伯もクレールも先に帰った。  残っていたスタッフも電話を切り上げ、奥の扉の向こうへ消えていく。  残ったのは、作業台の上の《L’amour et la jalousie(愛と嫉妬)》と、胸の奥で冷えきらない熱だけだった。  私はトルソーの前に立ったまま、息を吐く。  この数日、何度も針を入れた。  セラフィナの身体にも何度も合わせた。  観客を奪うための服のはずなのに、まだどこかに甘さが残っている。  優しすぎる。  赦しすぎる。  その違和感が、ずっと消えなかった。 「まだ帰っていなかったか」  低い声が背後から落ちてきて、肩がわずかに揺れた。  振り向かなくても分かる。  怜司だった。  私はゆっくり振り返る。  ジャケットを脱いだシャツ姿の怜司が、静かにこちらを見ていた。仕事の顔をしているのに、その目だけが昼間とは違う。  私を見ている。  服じゃない。  まっすぐ、私を。 「……何かありましたか」  怜司は数歩こちらへ来る。  逃げ道が消える距離で止まり、私の顔を見た。 「そろそろ答えは出たか」  心臓が、強く跳ねた。  数日前の夜から、ずっと引き延ばしてきた問いだった。  来るか。  どうする。  お前は何を奪う。  あれから数日。  私はずっと、服に触りながら考えてきた。  母であること。  怜司に欲しがられること。  白川澪として立つこと。  どれも、もう切り捨てられない。 「……まだ、全部じゃありません」  絞り出すように言うと、怜司の目がわずかに細くなる。 「だが、何かは決まった顔だ」  その言葉だけで、胸の奥が熱を持つ。  この人は本当に見抜く。  私が隠したいところほど、先に見つける。  怜司の手が伸びた。 「この数日、お前を抱くことばかり考えていた」  息が止まりそうになる。  仕事の報告みたいに静かな声なのに、言っていることだけがあまりにも熱い。 「ショーが終わるまで待てと言ったのは、お前だ」 「……はい」 「だが、俺ももう限界だ」  喉の奥が熱くなる。  嬉しい
last update最後更新 : 2026-05-14
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第105話 綺麗な顔で牙を沈める

 ショー前日の朝だった。  昨夜の熱が、まだ皮膚の上に残っている。  額に落ちた一瞬の口づけと、触れないと決めた声が、朝になっても身体の奥を煽っていた。  抱かれたい。  その欲望は消えていない。  消えていないどころか、拒んだぶんだけ行き場をなくして、胸の中で鋭くなっていた。  私はトルソーの前へ戻る。  《L’amour et la jalousie(愛と嫉妬)》は、静かに立っていた。  でも違う。  この服はまだ、どこかで赦している。  見た人間の胸を奪う前に、慰めようとしている。  今の私が欲しいのは、抱きしめる服じゃない。  綺麗な顔で爪を立て、見た人間の胸に牙を沈める服だ。  私は脇の小さな鋏を手に取った。  胸元に落としていた柔らかいドレープへ刃を入れる。  しゃり、と布が鳴った。  その一筋だけで、空気が変わる。  もう一度。  今度は、腰から流していた装飾の端を切る。  床へ落ちた布片が、ひどく軽く見えた。  優しさだった。  甘さだった。  私が自分を怖がって残していた逃げ道だった。  呼吸が浅くなる。  私は待ち針を抜き、ドレープをほどき、いちど整えた流れを自分の手で壊していく。  綺麗にまとめた線が崩れる。  その崩れた形のほうが、ずっと目を離せなかった。  そうだ。  欲しかったのはこっちだ。  抱かれたかった熱。  拒んだ痛み。  それでも欲しがっている自分。  その全部を、私は布の上へ押しつける。  ミシンの椅子を引き、座る。  針を落とす。  まっすぐ縫わない。  少しだけ角度をずらす。  本来なら滑らかに落ちるはずの線を、あえて途中で引っかける。  そのわずかな滞りが、視線を止める傷になる。  背中の留め位置を変える。  肩の落ち方を一段浅くする。  首元の余白を削る。  その詰まり方がよかった。  見た人間の胸にも、同じ詰まりを落とせる気がした。  床には、さっきまで必要だと思っていた装飾が散らばっていた。  綺麗に見せるためのもの。  上品に整えるためのもの。  言い訳のためのもの。  私はその一枚を拾い上げ、手の中で握り潰す。  もういらない。 「何をしているの、こんな朝から」  声に振り向くと、入口にセラフィナが立っていた
last update最後更新 : 2026-05-15
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第106話 こっちが、まま

 ショー当日の朝は、信じられないくらい静かに始まった。  昨日ほとんど眠れなかったはずなのに、目が覚めた瞬間から頭だけは異様に澄んでいる。  怜生は、もうすっかり元気だった。  少し前に熱を出したことが嘘みたいに、朝からベッドの上で膝立ちになって、私の支度を眺めている。  椅子の背には、二着の服を掛けていた。  一着は、黒のジャケット。形も色も控えめで、会場の空気に馴染む。誰の邪魔にもならず、誰の視線も奪わない服。  もう一着は、昨夜最後まで迷って、結局しまいかけた服だった。  少し強すぎる。  今の私が着たら、気持ちまで見透かされそうな気がする。 「怜生」 「ん?」 「どっちがいいと思う?」  怜生は二着をじっと見た。  眠たげだった目が、少しだけ真剣になる。  それから、迷いもなく片方を指さした。 「ままは、こっち」  強すぎる服。  胸の奥を、不意に押された気がした。 「……こっち?」 「うん」 「どうして?」  怜生は首をかしげて、それからもう一度言った。 「こっちが、まま」  その言い方が、ひどく怜司に似ていた。  似合うかどうかじゃない。  きれいかどうかでもない。  その服を着た私が、私としてそこに立っているか。  この子は、そこだけを見ている。  私は小さく息を吐いて、黒のジャケットから手を離した。  無難な方を選べば、波風は立たない。  でも今日は、波風を避けるための日じゃない。  私は怜生が選んだ服を手に取った。 「じゃあ、こっちにする」  怜生は満足したように頷いた。 「まま、いる」  たったそれだけの言葉で、胸の奥に残っていた迷いが消えた。  シッターに預ける支度をしながらも、昨日の夜の熱がまだ身体の芯に残っている。  澪。  名前を呼ばれたときの痛みみたいな熱。  抱かれかけて、それでも止めた瞬間の震え。  抱かれたままじゃ、奪ったことにならない。  その言葉だけが、今も静かな火になって胸の奥に残っていた。  今日は証明する日だ。  恋じゃない形で。  舞台の上で。  支度を終えて玄関を出る直前、スマートフォンが震えた。  一ノ瀬さん。  名前を見た瞬間、胸の奥が少しだけ固くなる。 「……はい」 『朝から悪い』  電話の向こうの声は、いつも
last update最後更新 : 2026-05-16
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第107話 私はすべてを奪う

 ショー会場の関係者入口へ着くと、空気が一気に変わった。  古い石造りの劇場を、一夜だけモードの聖堂みたいに仕立てた会場だった。  高い天井も、磨かれた黒い床も、いまはルクソリアの神話を受け止めるためだけに息を潜めている。  客席にいるのは、ただ拍手を送る人たちじゃない。  批評家、バイヤー、顧客、投資筋。  この一夜で、ルクソリアの値段まで見定める人間たちだ。  スタッフの足音。  搬入の声。  照明チェック。  メイクの匂い。  布の擦れる音。  全部が、ひとつの巨大な呼吸みたいに脈打っている。  その入口の脇に、ひとりだけ動かない男がいた。  細い銀縁眼鏡。痩せた頬。笑っているようで、まるで笑っていない目。 「白川澪」  呼び止められた瞬間、クレールのメッセージを思い出した。  ジャン=ポール・ルメール。  意地が悪く、偏屈で、誰かの美談をそのまま記事にすることを嫌う記者。  それでも本物だと思ったものだけは、どんな利害の中にあっても拾い上げる人だと聞いたことがある。 「ルクソリアの救世主として来たのか。それとも、アーク・ブレイズを裏切った女として来たのか」  ずいぶん失礼な聞き方だった。  でも、その視線は私の顔より先に、服を見ていた。 「どちらでもありません」 「では、誰の名前の下に立つ」  一瞬だけ、喉が詰まる。  ルメールはその沈黙を見逃さなかった。 「まだ持っていないのか。自分の名前を」  胸の奥が、鋭く痛んだ。  でも、足は引かなかった。 「ショーで魅せます」  私がそう言うと、ルメールの目が初めてわずかに細くなった。 「なら、見せてもらおう」  私はバックステージへ足を踏み入れた。  佐伯がすぐこちらに気づく。 「来たわね」 「はい」  その顔を見ただけで、もう余計な言葉はいらないと分かった。  クレールが資料を抱えたまま駆け寄ってくる。 「前半の流れ、少しだけ順を詰めた。あとで確認して」 「分かりました」 「それと」  一瞬だけ声を潜める。 「綾乃さん、さっき来た」  胸の奥が、ひやりとした。 「何て」 「数字は跳ねるって」  クレールは苦い顔で笑う。 「その代わり、今日で終わらせないなら次の話が要る、って」  やっぱりだ。  ショーはゴールじゃ
last update最後更新 : 2026-05-18
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第108話 愛の距離は、欲情に変わる

 音が落ちた。  会場の照明がゆっくり沈み、細く長いランウェイだけが白く浮かび上がる。  私は舞台袖の闇に立ったまま、呼吸を整えた。  いよいよだ。  最初に現れるのは、《La Distance de l’Amour(愛の距離)》。  愛だけでは終わらない物語の、その表側。  セラフィナが位置につく。  私は袖口の落ち方を、最後に指先で確かめた。  布は静かだ。  でも、見た目よりずっと張りつめている。 「白川さん」  佐伯の低い声に、私は振り向いた。 「最初の三歩で決まるわ」 「はい」 「愛は、見せびらかすものじゃない。見ている方に、勝手に欲しがらせるの」  胸の奥が、すっと冷えた。  そうだ。  このショーは説明じゃない。  欲しがらせる場だ。  私は乾いた唇を、舌先でゆっくり濡らした。  佐伯が一瞬だけ目を見開く。  それから、呆れたように小さく笑った。  私は、奪う。  見られるのを待つんじゃない。  欲しがらせて、奪いにいく。  音が、さらに一段落ちる。  開幕。  セラフィナが歩き出した。  最初の一歩で、空気が変わる。  客席のざわめきが止む。  音楽も照明もまだ派手じゃない。  なのに、視線だけが一斉にひとつの身体へ吸い寄せられていく。  《La Distance de l’Amour(愛の距離)》は、舞台の上で静かに光を拾っていた。  大げさに揺れない。  媚びるみたいに広がらない。  でも、歩くたびに裾の浅い波が遅れてついてくる。  その遅れそのものが、未練みたいに美しい。  三歩。  四歩。  愛している。  でも届かない。  抱きしめたい。  でも触れられない。  その距離そのものが、ドレスの線になって立ち上がる。  ターン。  照明が裾の端を掠めた。  その瞬間、白い光が布の内側へ入り、影が身体の線に深く落ちる。  触れていない。  誰の腕も、そこにはない。  なのに、その一瞬だけ、ドレスは誰かの胸に強く抱き込まれているように見えた。  逃げようとする身体を、もう一度引き寄せるように。  離れかけた熱を、無理やり重ねるように。  白い布が、清らかな顔をしたまま、ひどくいやらしく光った。  客席の空気が、そこで変わった。  服を見てい
last update最後更新 : 2026-05-19
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第109話 このショーは歴史に残る

 音が切り替わった。  それだけで、会場の空気が変わる。前半の余韻に浸りかけていた客席が、もう一度息を止めるのが分かった。《La Distance de l’Amour(愛の距離)》で引き寄せた視線が、まだほどけきっていない。  だからこそ、次に落ちるものは強い。  私はセラフィナの前に立つ。ローブはもう開いている。その下にある《L’amour et la jalousie(愛と嫉妬)》は、さっきまでの前半とはまるで違う顔をしていた。  同じ物語の続き。でも、戻れない。  愛したまま待っていた女が、そこで終われずに奪い返しにいく服。  セラフィナが私を見る。何も言わない。でも、その目だけで十分だった。  行くわよ。  そう言っている。  私は背中のラインへ最後に指を入れた。ずれはない。甘さももうない。残っているのは、欲しがったまま手放さない意志だけだ。  佐伯が少し離れた場所から低く言う。 「ここで優しくしたら終わりよ」 「しません」  即答だった。クレールが息を呑む気配がする。でも、もう誰も止めない。ここまで来たら、綺麗にまとめる方が敗北だ。  セラフィナがゆっくり顎を上げた。母の残像をなぞるための角度じゃない。それを踏み越えるための顔だ。その瞬間、ぞくりとした。  この女もまた、本気で全部を奪いにいっている。ルミナス・ガラ。母の神話。自分の名前。私とは違うものを欲しがっているのに、向いている方向だけは同じだった。だからこそ、ここまで来られた。  スタッフが合図を出す。  出番だ。  私は一歩下がる。  セラフィナが、暗い舞台袖から光の方へ踏み出した。  最初の一歩で、空気が裂けた。さっきの前半みたいな、静かな吸引じゃない。もっと直接的で、もっと危ない。  会場の視線を、奪う。  そうとしか言いようのない歩き方だった。  細いランウェイの中央へ、セラフィナの身体がまっすぐ進んでいく。《L’amour et la jalousie(愛と嫉妬)》は、その歩みに合わせて揺れるというより、噛みつくみたいに空気を切っていた。  腰の線。脇の落ち方。胸元に残したぎりぎりの余白。  すべてが「見て」とは言わない。見ないでいられるなら見ないでみろ、と挑発している。  客席のどこかで、はっきり息を呑む音がした。続いて、押し殺したざ
last update最後更新 : 2026-05-20
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第110話 神話を売れる家

 拍手が、しばらくやまなかった。  最後のルックが戻り、音が落ちてもなお、会場の熱だけが残っている。客席から押し寄せる拍手は、賞賛というより、まだ冷めない欲と恍惚が手のひらからこぼれる音に近かった。  勝った。  まだ誰も口にしていないのに、空気の方が先にそう言っていた。  その瞬間、まっ先に怜司の顔が浮かんだ。  見ていたなら、分かったはずだ。  私が渡さなかった熱が、どんな形で会場を奪ったか。  褒めてほしいわけじゃない。  ただ、その目で欲しがってほしかった。  社長としてではなく、男として。  そう思った瞬間、膝が少し笑いそうになった。終わるまで立っていた緊張が、今さら遅れて身体へ戻ってくる。  スタッフの足音は慌ただしい。でも、その慌ただしさの奥に、隠しきれない高揚が混ざっていた。 「白川さん」  クレールが駆け寄ってくる。  頬が赤い。  いつもよりずっと興奮した顔で、タブレットを押しつけるように差し出した。 「もう出てる」  画面には速報記事が並んでいた。  写真つきの短評。  海外メディアの即時レビュー。  投資系の速報欄。  どれも、さっきまで私たちがいた舞台のことを、もう値段と物語に変え始めている。  指先が少しだけ冷たくなる。 「見て」  クレールが半分笑いながら、最初の記事を開く。  大きな見出し。  『ルクソリア、神話を再起動』  その下に続く本文を、私は黙って追った。  白川澪の狂気を神話として成立させられる器は、いまなおルクソリアしかない。  そして、その狂気を恐れず市場価値へ変えられるメゾンもまた、ルクソリアだけだった。  今夜証明されたのは新しい才能だけではない。  ルクソリアが依然として「神話を売れる家」だという事実である。  喉の奥が、熱くなる。  記事に書かれたのは私の名前なのに、そこにあるのは私だけじゃない。  ルクソリア。  怜司。  アウローラ。  全部まとめて、今夜の価値になっている。 「来たわね」  佐伯が後ろから言った。  いつもと変わらない低い声なのに、今日はその奥にわずかな熱がある。 「ええ」  クレールがタブレットを握ったまま、少し早口になる。 「投資筋も反応してる。ルクソリアの神話価値が戻ったって」 「短期なら、十分す
last update最後更新 : 2026-05-21
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