東雲綾乃に呼ばれたのは、その日の夜だった。 ルクソリア・パリ拠点の上階にある小さな会議室は、白い壁も、細いガラス卓も、装飾のなさまで彼女そのものだった。 先に来ていた綾乃は窓際に立ち、振り向く。 「来てくれてありがとう、白川さん」 「呼ばれたので」 理性的で、理知的で、感情に溺れない女。 そういう彼女を、私は好きになろうとしていた。 少なくとも尊敬しようとはしていた。 でも違う。 本当は、怜司の妻という座にいるこの人が、ずっと憎い。 席を勧められても、私は座らなかった。綾乃も無理には促さない。その距離感が、むしろ息苦しい。 「話は簡単よ。ヴェルネイユ側が圧を一段上げた。コラボの件で、アーク・ブレイズ側にも火がついている」 「……ええ」 「あなたはいま、二つのブランドを同時に揺らしている」 否定できなかった。 「責めるために呼んだわけではないの。今ならまだ、全部まとめて壊さずに済むかもしれないから」 「全部?」 「怜司さんも、ルクソリアも、あなたも」 綾乃は資料に指先を置いたまま、淡々と続ける。 「ショーが成功すれば、ルクソリアの価値は一時的に上がる。買収防衛にもなる。でも、それはその場しのぎよ」 静かな会議室で、空調の音だけがやけに大きく聞こえた。 「中心にいるのが他社のデザイナーのままなら、市場はすぐに『この先も続くのか』と疑い始める」 アーク・ブレイズ所属。 口に出されなくても、十分だった。 「あなたがルクソリアへ戻れば、アーク・ブレイズは揺れる。戻らなければ、ルクソリアは神話の火種を他社に握られたままになる」 綺麗で、正しい。だから腹が立つ。 「それで、私に何をしろと」 「本当は、どちらかを諦めてほしいの。仕事か、怜司さんか」 率直すぎて、逆に胸は静かだった。言われると思っていた。 「でも、あなたは諦めない」 綾乃は私を見た。 「そういう顔をしているもの」 奪います。 あの言葉のあとで、私の顔はもう隠れていないらしい。 「私はね、怜司さんを助けたかっただけなの」 唐突なのに、その一言だけは真っ直ぐだった。 「あの人には経営の才能がある。誰より冷静で、誰より先を見ている。でも、アウローラだけは捨てられない」 綾乃の指先が、薬指のリングに触れる。
最後更新 : 2026-05-11 閱讀更多