Todos os capítulos de 極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?: Capítulo 71 - Capítulo 80

89 Capítulos

第71話 最後の狂気は、僕の役割じゃない

 その日の夕方、《アーク・ブレイズ》のアトリエには、ショー後特有のざわめきが残っていた。  次の商談へ向けた資料づくり。  バイヤーとの調整。  追加生産の確認。  チームは成功の余韻に浮かれている。  その中心で、私は最後の修正案を見つめていた。  数字はいい。  反応もいい。  この方向が正解なのだと、誰もが言う。  なのに胸の奥だけが、静かなままだ。 「成功した顔じゃない」  気づけば、一ノ瀬が隣に立っていた。 「そんなに分かりやすいですか」 「昨日からずっと」  彼は私の手元のボードを見る。  そこには、新しい提案ラインのラフが並んでいる。  美しい。  整理されている。  届く形だ。  でも、どれも少しだけ足りない。 「悪くない」 「ありがとうございます」 「褒めてない」  思わず顔を上げると、一ノ瀬は少しだけ笑った。 「売れるよ。通る。評判にもなる。でも」 「でも?」 「澪さんの喉元に噛みついてくる感じがない」  その言い方に、ぞくりとした。  やっぱり、この人も分かっている。 「……それ、仕事相手に言うことじゃないですよ」 「本音だから」  一ノ瀬は私のラフの一枚を、指先で弾いた。 「綺麗にまとめたね」 「まとめないと、届かないから」 「うん。でも、まとめたのは市場のためだけじゃないでしょう」  何も言えない。  その通りだった。  私は無意識のうちに、自分の牙を少し削っている。  人に届くように。  拒絶されないように。  失敗作と呼ばれないように。  そしてたぶん、傷つかないように。 「昨日、久世社長に何を言われました?」  ぴたりと手が止まる。 「……どうして」 「顔」  一ノ瀬は肩をすくめた。 「あの人に会ってからの方が、むしろ不満そうになってる」  見抜かれた。  そう思った瞬間、少しだけ苛立ってしまう。 「そんなに分かりやすいですか、私」 「僕には」  静かな返事だった。  責める響きはない。  ただ事実を置かれただけなのに、心の深いところが熱を持つ。 「……売れなかったデザインがありました」  気づけば話していた。 「私の中では、たぶんあれがいちばん私だった」  一ノ瀬は黙って聞いている。 「でも数字は伸びなかった。だか
last updateÚltima atualização : 2026-04-09
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第72話 滲む迷いは、見なかったことにした

 ル・モンドのラウンジに落ちた沈黙は、短くはなかった。  柔らかな照明。磨かれたグラス。遠くでかすかに鳴るピアノ。  どれも静かすぎて、かえって息が詰まる。  その沈黙を、先に破ったのは私だった。 「条件があります」  怜司さんはグラスにも触れず、私を見たまま頷いた。 「聞こう」 「ルクソリアに戻るつもりはありません」 「戻れとは言っていない」 「言っていなくても、そう見える話は受けません」  ぴたりと返す。  その瞬間、怜司さんの目がわずかに細くなった。  怒らせている。  分かっている。  でも、ここで怯んだら、また同じ場所へ引き戻される気がした。 「期間限定の外部コラボにしてください」 「期間は」 「一シーズン」 「短い」 「妥当です」  自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。  心臓はこんなにうるさいのに、喉だけが妙に冷えている。 「デザインの最終決定権は私に。名前の扱いは共同表記。アーク・ブレイズ所属であることは隠さない。ルクソリア専属には戻らない。怜……久世社長の私的な要求は、一切契約に混ぜない」  そこまで言い切って、私は小さく息をついた。  最後の一文だけ、あまりにも露骨だった。  怜司さんはしばらく黙っていた。 「線引きが上手くなったな」 「必要でしたから」 「誰に教わった」 「三年かけて覚えました」  そこで、怜司さんの目がほんのわずかに変わる。  怒りだけではない。  その奥に、仕事の熱が差し込む。 「……そうか」  短い返事だった。  それだけで、見られていると分かる。  昔みたいに、才能だけを見られているわけじゃない。  今は、私が自分の言葉で立っていることごと、見られている。 「報酬は」  話を進めるように怜司さんが言う。 「相場以上を出す」 「お金の話ではありません」  遮ると、怜司さんの眉がわずかに動いた。 「ルクソリア側の資料、過去五年分を見せてください」 「……売上だけでなく?」 「顧客推移、返品率、海外比率、制作体制、アウローラのライン別データも」  そこで初めて、怜司さんの口元がほんの少しだけ動いた。  笑ったわけではない。  けれど、昔の会議室で、私の答えを聞いていたときに近い顔だった。 「成長したな。  前は、そこまで自分
last updateÚltima atualização : 2026-04-10
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第73話 ひびわれた仮面から覗く愛されたい女の素顔

 綾乃に呼ばれたのは、その翌々日の昼だった。  待ち合わせ場所は、私が指定した。  パリ市内の小さなギャラリーカフェ。  観光客向けというより、業界人が打ち合わせに使うような静かな店で、壁には若手写真家のモノクロ作品が並んでいる。  先に来ていた綾乃は、淡いグレーのワンピースに身を包んでいた。 「来てくれてありがとう、白川さん」 「こちらこそ」 「素敵ね、このカフェ」 「穴場なんです」 「表通りから一本入るだけで、急に静かになるので。打ち合わせにも使いやすくて」  向かいに座ると、彼女はまっすぐ私を見る。  敵意はない。  でも温度もない。  理性の光だけが、静かに差している。 「怜司さんと話したのね」 「ええ」 「仕事の話でしょう」 「……そのはずです」 「そのはず、ね」  私はカップに口をつける。  コーヒーは少しぬるくて、妙に飲みやすかった。  綾乃はカップを傾け、私に一度視線を置いてから、ゆっくり店内を見まわした。 「ひとりでフランスで暮らして、こういう場所を自分のものにしていくの、簡単じゃないわ」 「……強くなったわね、あなた」  綾乃はカップを置き、静かに私を見る。 「あの頃は、もっとおどおどしていた」  少しだけ、頬が熱くなる。 「……必死だったんです」 「ええ。でも」  綾乃はそこでわずかに目を細めた。 「あの頃から、芯だけはあった。黙って震えているくせに、絶対に折れないところがあった。  ……あなたに確認したいことがあるの」 「何でしょう」 「今回の接触が、あなたをルクソリアへ戻すためのものなら、私は止めるわ」  そこまで言い切られて、かえって息がしやすくなった。 「戻りません」  私ははっきり言う。 「戻るつもりはありません。あくまで、期間限定の対等なコラボです」 「それならいい」  即答だった。  その速さに、今度は私の方が少しだけ面食らう。 「驚いた顔をするのね」 「もっと反対されると思っていました」 「反対する理由はないわ」  綾乃はカップを置く。 「ブランドに必要なら反対はしない。外からの対等なコラボなら、むしろ賛成する」  私は瞬きをする。 「……戻るのは、別?」 「別よ」  綾乃の返答は迷いがなかった。 「会社に必要でも……。  あ
last updateÚltima atualização : 2026-04-11
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第74話 送り出す男

 一ノ瀬に話すのは、気が重かった。  怒られるのではなく、私と怜司さんの距離がまた少し縮まることを、この人が喜ばないのは分かっていたからだ。  でも逃げるわけにはいかない。  私はショールーム奥のミーティングルームで、真正面から彼を見た。 「外部コラボの打診を受けました」  一ノ瀬は書類から目を上げる。  表情は動かない。  けれど、目の温度だけがひどく静かになった。 「ルクソリア?」 「はい」 「受けるつもり?」  その問いに、私は一瞬だけ黙った。  それだけで、十分だったらしい。 「なるほど」  一ノ瀬は椅子にもたれ、息を吐いた。 「最悪だ」  あまりに率直で、少しだけ笑いそうになる。 「怒りますよね」 「怒るよ」  即答だった。 「三年かけて澪さんを立たせたのに、いちばんおいしいところをあの人に持っていかれる」 「おいしいって言わないでください」 「本音だから仕方ない」  言いながらも、一ノ瀬は怒鳴らない。  ただ静かに、私を見ている。 「理由は?」  私は唇を湿らせた。 「……最後のところで、まだ足りないからです」  一ノ瀬は何も言わない。 「アーク・ブレイズが足りないわけじゃないんです」 「分かってる」 「ここがなかったら、私は今も立てていません」 「それも分かってる」 「でも」  喉の奥が熱い。  言いたくない本音を、今からこの人に突きつけるのだと思うと苦しい。 「あの《アウローラ》みたいな狂気は、ここでは少し薄まるんです」  静かな沈黙。 「……そうだろうね」  あまりにあっさり返ってきて、今度は私が言葉を失った。 「否定、しないんですか」 「しない」  一ノ瀬は小さく笑う。 「僕は澪さんを救った。立たせた。世界に通した。でも、命を削るみたいな最後の狂気は、たぶん久世社長の前でしか出ない」  知っていたんだ。  最初から、少なくともどこかでは。 「……悔しくないんですか」 「悔しいよ」  即答だった。 「ものすごく」  そのまっすぐさに、胸が少し痛む。 「でも、澪さんの線が一番強く出る場所を、僕の都合で塞ぐほど子どもじゃない」  私は目を伏せた。  ありがたくて、残酷だ。 「条件は?」 「期間限定。共同表記。最終決定権は私」 「所属は」 「
last updateÚltima atualização : 2026-04-12
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第75話 気持ちよくて、怖い

 ショールームと仮縫い室を併設したルクソリアのパリ拠点は、白く、静かで、少しだけ冷たかった。  東京本社と同じく磨き上げられているのに、空気にはどこか疲労が混じっている。  新作会議の資料が並ぶテーブルを前に、私は一瞬だけその違和感を飲み込んだ。  集まっていたのは少数だった。  怜司。  佐伯。  現地ラインの責任者。  そして私。  形式上は外部コラボの初回打ち合わせ。  でも、空気はそれだけでは済まない。  席に着く前、佐伯がほんのわずかにこちらを見た。 「久しぶりね、白川さん」  東京にいた頃と同じ、熱を隠した静かな声だった。 「……はい。佐伯さんも」 「……あの工房に呼ばれて、今ではアーク・ブレイズのトップデザイナー。  ちゃんとここまで来たのね」  唐突なその一言に、息が止まりかける。 「もう、誰もあなたをシンデレラとは呼ばないわね」 「……そう見えるなら、少し安心しました」  相変わらず、遠慮がなくて、でも温かい。  そういうところは、少しも変わらない。  佐伯は資料を開きながら、口元だけ少し緩めた。 「安心するのは、これが無事に終わってからね」 「始めるぞ」  怜司の一言で、空気がすぐに締まった。  会議はそのまま動き出した。  現状の課題。  顧客層の変化。  アウローラ継続ラインの限界。  数字と現実だけを並べた資料は、どれも正しい。  正しいのに、胸は動かない。  私はページを閉じ、持参したラフをテーブルへ置いた。 「今回のコンセプトですが、新しい物語が必要です」  数人が顔を上げる。 「アウローラの続編ではなく、その神話を信じてしまった人間の、その先です」  自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。 「綺麗な夢を見たあとに、もう一度現実へ戻るための服。  傷があるままでも、前へ歩くための服」  部屋が静かになる。  現地責任者が言葉を探すように眉を寄せた。 「少し、暗すぎませんか」 「暗いです」  私ははっきり言う。 「でも今の市場は、綺麗なだけの夢にはもう飽きています」  そこで怜司が初めて、私のラフの一枚を指先で引き寄せた。  ほんの一瞬で、視線の熱が変わる。  仕事の顔だ。  でも、その熱に触れると身体が昔を思い出してしまう。布ではなく、もっと
last updateÚltima atualização : 2026-04-13
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第76話 仕事だけで済まなくなる

 仮縫い室の灯りは、深夜まで落ちなかった。  布地を変え、角度を直し、落ち感を見直す。  ルクソリアの技術スタッフは優秀で、指示への反応も速い。  でもそれ以上に、怜司の指示が速かった。 「そこは違う」 「こっちです」  私が言うのと、彼が言うのがほとんど同時だった。  そのたびに空気が少し張って、次の瞬間にはするりと解ける。  噛み合ってしまう。  悔しいくらい、自然に。 「白川」  怜司がトルソーの前で私を呼ぶ。 「ここだ」  近づくと、彼は私のラフと仮縫いを交互に見比べながら、腰の切り替えを指した。 「今のままだと綺麗すぎる」 「分かってます」 「なら」  彼は何も言わず、一歩だけこちらへ寄る。  狭い。  トルソーと怜司の体のあいだに閉じ込められたみたいに、呼吸が浅くなる。 「白川」  低い声が、耳に近い。 「お前はいつも、最後で怖がる」  胸の奥が跳ねた。 「……今、仕事中です」 「知っている」 「だったら」 「仕事の話だ」  怜司の指先が、布越しにトルソーの腰をなぞる。  触れているのは人形なのに、なぜか自分の腰を撫でられたみたいに熱が走る。 「綺麗にまとめるな」  その声は命令に近かった。  けれど同時に、誰よりも私の怖さを知っている声でもある。 「怖がると、お前の線は急につまらなくなる」  悔しい。  悔しいのに、その通りだ。  私は唇を噛み、仮縫いの裾を一気に引いた。  ラインが崩れる。  でも、布の落ちる角度が一瞬で変わった。  空気が変わる。  スタッフたちの目が、一斉に集まった。 「……それだ」  怜司の声が、低く落ちる。  その一言だけで、背筋がぞくりとした。  見抜かれた快感。  認められた熱。  それが、仕事のものだけではないと身体が知っているから厄介だ。 「次」  私は視線を逸らし、次のピンを取る。 「胸元、少し崩します」 「やりすぎるな」 「一・五ミリでしたよね」  がほんの少しだけ笑った。 「覚えていたか」 「忘れるわけないでしょう」  言った瞬間、周囲の空気がほんのわずかに止まる。  近すぎる会話だった。  昔を知る者なら、気づく距離感。  私は遅れて口を閉じる。  でも怜司は動じない。 「なら、もっと寄せろ
last updateÚltima atualização : 2026-04-14
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第77話 後戻りできない形

 翌日の夕方、試作はルクソリアのパリ拠点にそのまま残されていた。  仮縫い室の空気はまだ熱を持っていて、昨日のやり取りが布の皺の中に残っているみたいだった。  そこへ、何の前触れもなく一ノ瀬が現れた。 「なんで来るんだ」  怜司の声が、露骨に嫌そうに落ちる。  一ノ瀬は少しも怯まず、トルソーの前へ歩いてきた。 「敵情視察」  さらりと言ってから、私の方を見る。 「それに、澪さんの上司だし」 「帰れ」 「冷たいなあ」  一ノ瀬はそう笑いながらも、もうドレスの方へ意識を切り替えていた。  トルソーに掛けられた試作を前に、しばらく何も言わない。  白に近い、冷えた銀灰。  正面は端正で、無駄がない。  けれど裾にかけて、ほんのわずかに均衡を崩した線が残っている。  歩けば光を飲み、止まれば静かに閉じる。  悪くない。  むしろ、かなりいい。  だからこそ、胸の奥に残る鈍い物足りなさをごまかせない。 「どうですか」  私が先に問うと、一ノ瀬は腕を組んだまま、穏やかに言った。 「綺麗だよ」  その一言だけで、胃の奥が少し縮む。  褒め言葉なのに、足りない。 「でも、綺麗なだけだ」  喉の奥がぐっと詰まる。  一ノ瀬は私から目を逸らさないまま、続けた。 「売れると思う。ちゃんと褒められるし、ちゃんと評価も取れる」  けれど、彼はそこで言葉を切らなかった。  そうだろう。そういう人だ。  安全な賞賛で止まる人間なら、アークブレイズの先頭には立っていない。 「そういう服って、だいたい安全圏で終わるんだよね」  部屋が静かになる。  怜司は何も言わない。  けれど視線だけで、それを否定していないと分かってしまった。 「澪さん、もっと尖れるでしょ」  その瞬間、喉の奥が熱くなった。  悔しい。  悔しいのに、その通りだと思ってしまう。 「今のこれは、ちゃんと売れる服です」  一ノ瀬はトルソーに近づき、胸元の流れを見ながら続ける。 「でも、『アウローラ・クレプスキュール』——黄昏の初光みたいに人を躊躇なく酔わせる残酷さも、『ヴィエルジュ・ノワール』——黒い聖母みたいに、静かな顔をしているのに奥で熱を持つ感じも、まだここにはない」 「誰かを失うのが怖くて、先に逃げ出した服に見える」  指摘は正確だった。
last updateÚltima atualização : 2026-04-15
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第78話 断層のルーブル

 ルクソリア支店での打ち合わせを終え、工房へ向かう車を降りたときだった。 セーヌ川の向こうには、午後の陽光を反射するガラスのピラミッドが見えた。「……久世さん、工房へ行く前にルーブルに寄ってもいいですか」 私の唐突な提案に、怜司は足を止めた。「観光のつもりか」「まさか」 私は彼を見ずに、正面のピラミッドを見据えたまま答える。「今の私に足りないのは、単なる美しさではありません。それを壊すための、もっと鋭い何かです。それを、今の私自身の内側からは見つけられない」 怜司はそれ以上何も言わなかった。 彼と並んでピラミッドをくぐり抜けるとき、エスカレーターで地下へと降りていく浮遊感とともに、ひどく心拍が乱れる。 仕事のためだ。そう自分に言い聞かせても、呼吸の仕方が少しずつ変わっていくのを隠せない。ガラスのピラミッドを通り抜け、巨大な石の建築物の中に飲み込まれるたび、私は自分の中の「デザイナー」としての殻が、彼の放つ重圧によって薄く削られていくのを感じていた。 三年前と同じように、私の輪郭が内側から崩れていく。 迷路のような展示室を抜け、私はある彫像の前で足を止めた。 それは、広大な回廊の隅に置かれた、二体の石像だった。 大理石の白い肌は所々が欠け、修復された跡が痛々しく残っている。けれど、その二体は触れ合っていないにもかかわらず、交わされる視線だけで、この世の何よりも強く結ばれているように見えた。 正面から見たときは、重なり合う一つのシルエット。 けれど角度を変えれば、その間には剃刀の刃一枚分ほどの、研ぎ澄まされた空気の層がある。 触れていない。けれど、離れてもいない。 その絶望的なまでの「距離」にこそ、今の私が求めるべき、傲慢なまでの美が潜んでいる気がした。「……これ」 私はスケッチブックを開いた。その「触れられない距離」に潜む緊張感をなぞるように、尖った鉛筆を走らせる。紙を削る音だけが、耳元でやけに大きく響いた。「……そこか」「っ……」 不意に、すぐ真後ろから声がした。 避ける隙も、振り返る猶予もない。怜司の体温が背中に触れる寸前の距離まで迫り、私の肩越しに、節くれだった大きな手がスケッチを指し示した。 耳元で、低い声が響く。「今の線の方が、お前らしい」 鼓膜に直接吹き込まれる、怜司の吐息。仕事の温度をした声なのに、
last updateÚltima atualização : 2026-04-16
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第79話 La Distance de l’Amour(愛の距離)

 伝説の工房、アトリエ・ド・ラ・メール。  孤高のデザイナーが遺し、今は選ばれた人間だけを極秘に招くと言われる、パリの聖域。ここから巣立った者たちは、いまやメゾンの中核を担っている。  工房はセーヌ左岸から少し入った、古い石畳の路地の奥にある。  表通りからは看板も見えない。知る人しか辿り着けないみたいに、古いアパルトマンの一階にひっそり息を潜めている。  灯りをつけると、古いランプシェードの下にやわらかな琥珀色が落ちた。  壁際には使い込まれたトルソー、棚には色の褪せた布見本帳と先生の分厚いノート。裁断台の角には細い傷が残り、窓辺のラックには、途中でほどかれた仮縫いがそのまま吊るされていた。  三年、ここで暮らした。  縫って、ほどいて、怒鳴られて、泣いて、それでも翌朝にはまた針を持った場所。一ノ瀬が私へ差し出した、もう一つの人生そのものだった。  奥の作業台では若い生徒たちが無言で針を動かしている。誰もこちらを見ない。  みんな自分の線へ沈んでいる。  その無遠慮な集中が、この工房らしかった。  けれど今夜の私には、その気配さえ少し遠い。  隣に怜司がいるだけで、すべてが違って見えた。自分の心臓の音だけが、いつもより少しうるさい。  怜司は扉のそばに立ったまま、室内を静かに見渡していた。  私は裁断台に指先を置く。乾いた木の感触が、少しだけ心を落ち着かせた。 「……ここだったのか」  責めるでも探るでもない。ただ、有名な名前と私の三年が結びついた驚きだけが滲んでいた。 「……知らなかったんですね」 「名前は知っていた。去年、メゾン・ヴァレールで最年少のデザイン責任者になった女も、ここ出身だったな」 「ええ。同期でした」 「調べれば、辿れたのかもしれない」  そこで一度、言葉が切れた。 「でも、途中でやめた。……忘れようとしたからだ」  胸の奥が、鈍く痛む。  怜司さんの視線が、棚の見本帳から壁際のトルソーへ移る。 「まさか、お前がここに入っていたとは思わなかった」 「……ごめんなさい。一ノ瀬さんが、招待状をくれたんです」 「あいつは」  怜司さんが小さくため息をつく。 「招待状があっても、すぐ受け入れてもらえたわけじゃありませんでした。最初の三か月は、まともに線を引かせてもらえませんでした」 「何をして
last updateÚltima atualização : 2026-04-17
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第80話 もう、手放されたいとは思っていない

 それからしばらく、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。  夜の工房は、昼よりもずっと静かだった。灯りの届く場所だけが、かろうじて息をしているみたいだった。  さっき裁断台に走らせた線の続きを、私はそのまま机の上へ広げる。  並んでいるのは、二枚の布だった。  ひとつは、チョークみたいに乾いた白のウールシルク。光を鈍く吸って、輪郭だけを静かに残す色。  もうひとつは、角度によってわずかに艶を返す墨黒のシルク。黒なのに重すぎず、触れなくても熱を含んでいるように見える。  重ならない線。触れていないのに、切れていない距離。そこまでは見えた。  でも、まだ服にはなっていない。 「白川」  怜司が、静かにトルソーを寄せる。 「今のお前の線だと、綺麗に寄りすぎる」 「分かっています」  私は白の布を持ち上げたまま答える。 「だから、この工房まで来たんです」  ここは、誰かに見せるためじゃなく、まず自分の中の本音を掴むための場所。  私はチョークホワイトの前身頃をトルソーに当てながら、静かに言った。 「……この服、愛の服なんです」  怜司さんは何も言わない。だから私は続けた。 「でも幸福の服じゃない」  針を刺す。ウールシルクが、かすかに張る。 「離れたから残った愛の服です」  言った瞬間、指先が震えた。ここまで言ったのは初めてだった。  怜司に向かって、ではない。  でも、怜司のいる場所で。 「……続けろ」  低い声。責めない。その代わり、逃がさない。 「正面は閉じていたい」  私は布端を指先で整えながら、線を引き直す。 「見せつける愛じゃないから。  誰にでも分かる形じゃなくていい。  誓いの指輪みたいに、外へ向けて示すものでもない」  その一言に、胸がきしむ。  綾乃の指輪。あの三年。口にしなかったことも、飲み込んだままだったものも、全部が一瞬で喉元まで上がってくる。 「……ああ」  怜司さんが、ゆっくり頷く。 「でも、内側にはちゃんと残ってる」  そこで私は、脇から背中へ流れる線に、墨黒のシルクを差し込んだ。  表から見えるのは、あくまで白だけ。静かで、閉じた、傷ひとつない顔。  けれど脇から背へ抜けるところだけ、ぴたりとは重ねない。ほんの指一本ぶん、空気を通す。  その隙間の奥で、墨黒が
last updateÚltima atualização : 2026-04-18
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