《極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?》全部章節:第 111 章 - 第 120 章

134 章節

第111話 本物だけを身につけなさい

 胸の奥が、ひどく静かに鳴っていた。  セラフィナの指先が、ローブの内ポケットから小さなケースを取り出す。  黒いベルベット。  見覚えのある形だった。  息が浅くなる。  怜司にもらった、イミテーションのピアス。  宝石としては本物ではない。  でも私にとっては、本物以上だった。  片方だけ残ったまま、ずっと手放せなかった時間。  セラフィナに偽物だと言われた日から、その痛みだけが小さな棘みたいに残っていた。  そのセラフィナが、何もためらわず、私の前でケースを開いた。  中で、小さな光が揺れる。  本物だ。  あのピアスの光とも違う。  もっと冷たくて、もっと静かで、でも目を逸らせない光だった。  クレールが小さく息を呑む。  佐伯も、何も言わない。  怜司だけが、少し離れた場所で黙ってこちらを見ている。 「……どうして」  やっと出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。  セラフィナはケースの中を見たまま、淡々と答える。 「決まってるでしょう。あなたに渡すためよ」 「……私に」 「ええ」  そこで初めて、セラフィナが私をまっすぐ見た。  冷たい。  でも、見下してはいない。  同じ舞台をくぐり抜けた人間を見る目だ。 「偽物に、こんなものは渡さないわ」  その一言で、視界の奥が熱くなる。  黒崎に押しつけられた名前。  セラフィナに刺された傷。  自分で自分に貼りつけていた烙印。  その全部が、一瞬だけ音を立ててひっくり返る。  偽物じゃない。  はっきりとそう言われたわけじゃない。  でも、もう十分だった。  私はケースの中の光から目を離せない。  セラフィナが、ふいに低く言う。 「これは、母が初めて《アウローラ》を纏った夜につけていた石よ」  胸が、強く鳴った。  セレナ・ヴァルデ。  《アウローラ》を伝説にした女。 「恋人からの贈り物だとか、そういう甘い話じゃないわ」  セラフィナの声は、少しだけ冷える。 「あれは女神への捧げものだった。セレナ・ヴァルデを、ただの女優ではなく、神話にするための石」  黒いベルベットの上で、光が静かに揺れる。 「その夜から、母は伝説になった」  重い。  綺麗だからじゃない。  高価だからでもない。  ひとりの女を、世界が勝
last update最後更新 : 2026-05-22
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第112話 あの時とは、もう違う

 怜司の気配が、すぐそばで止まった。  振り向くより先に、低い声が落ちる。 「貸せ」  短い声だった。  顔を上げると、怜司がまっすぐ私の手元を見ている。  私は何も言えないまま、ケースを差し出した。  怜司がそれを受け取る。  指先が一度だけ、私の指に触れた。  それだけで胸の奥が熱くなる。  ケースが開く。  怜司は中のピアスをひとつつまみ上げると、私の顔を見た。 「三年前、お前に渡したものは、本物じゃなかった」  胸の奥が、きゅっと縮む。  怜司の声は低い。 「だが、俺にとっては本物と同じ重さだった」  私は息を止めた。 「だから、お前が片方を置いていった時に分かった」  怜司の指先が、ピアスを握る。 「お前は、あの重さに耐えられなかったんだと」  何も言えなかった。  あの夜、置いてきた片方の光。  残したつもりだった。  逃げたつもりだった。  でも、怜司はそれを、責めるために言っているわけじゃなかった。 「……あの時の私は」  声が、震えた。  それでも、顔は上げた。 「今は違います」  怜司が、まぶしそうに目を細める。  その表情に、胸の奥が熱くなる。 「ああ」  怜司の視線が、ケースの中の本物へ落ちる。 「だから今は、本物を身につけろ。澪」  名前を呼ばれただけで、喉の奥が震える。 「こっち向け」  私は逆らえず、少しだけ顔を寄せた。  怜司の指が、髪を耳の後ろへ避ける。  その手つきが思っていたよりずっと静かで、余計に苦しい。  耳たぶへ触れる。  金具が通る。  小さな感触ひとつなのに、全身がそこへ意識を持っていかれる。  まるで印をつけられるみたいだった。  でも違う。  所有される感じじゃない。  勝ち取ったものを、ちゃんと身につけさせられている感覚だった。  もう片方も、同じように。  怜司は何も言わず、髪を整える。  その指先が耳の後ろをかすめただけで、危うく膝が抜けそうになる。  やっと怜司が少しだけ離れた。  その目が、私の耳元の光を確かめる。  視線が離れない。  まるで、ようやく戻ってきたものと、もう二度と戻らないものを、同時に見ているみたいだった。  見ているだけなのに、人前で何かを暴かれている気がした。  抱かれているみ
last update最後更新 : 2026-05-23
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第113話 三年間、隠して守ってきたもの

 ショーの翌朝、私はまだ昨夜の熱の中にいた。 スマートフォンを開くたび、見たことのない数の通知が流れてくる。 海外メディアの速報。 投資系ニュースの短評。 モード誌のレビュー。 画面の中には、何度も同じ言葉が並んでいた。『ルクソリア、神話を再起動』『白川澪の狂気が、市場を動かした』『セラフィナ・ヴァルデ、母の残像を超える』 読んではいけないと思うのに、指が止まらなかった。 胸の奥が熱い。 怖いくらい、嬉しかった。 私の名前が、誰かの添え物ではなく、服と一緒に語られている。 怜司さんの女としてでも、アーク・ブレイズの新星としてでもなく、白川澪の名前で。「ママ……?」 寝ぼけた声に、私はスマートフォンから顔を上げた。 怜生がベッドの上で、半分だけ目を開けている。 それだけで、胸の奥がふっと緩んだ。「起こしちゃった?」「ううん」 怜生は小さく首を振って、私の方へ手を伸ばした。 私はスマートフォンを伏せ、ベッドに腰を下ろす。その小さな体を抱きしめると、昨夜まで張りつめていたものが、少しだけほどけた。 あたたかい。 この温度を守りたい。 怜生と暮らしていけるだけのお金もほしい。愛もほしい。怜司と、ちゃんと向き合う未来も、もう欲しくないとは言えない。 でも。 画面の中に並んでいた自分の名前が、まだ胸の奥で燃えていた。 ランウェイの向こうで、会場の空気が変わった瞬間。私の線が、誰かの視線を奪った瞬間。その喜びが、どうしようもなく体の奥に残っている。 愛されることよりも。守られることよりも。生活が安定することよりも。私はたぶん、作ったものが世界へ届く瞬間を、いちばん欲しがっている。 そんな自分が、少し怖かった。けれど、否定はできなかった。 予定された記者会見までは、まだ時間があるはずだった。 けれど、伏せていたスマートフォンが震えた。 表示されたのは、一ノ瀬さんの名前だった。「……はい」『朝からごめん。今、動けますか』 声が、いつもより低かった。「何かありましたか」『ルクソリア側で、白川さんの今後について話が始まりそうです。本人抜きで進められる前に、来た方がいい』 胸の奥が、すっと冷えた。 勝った。 でも、勝ったからこそ次が来る。「……分かりました。ただ、怜生がいて」『保育所は?』「まだ開いてい
last update最後更新 : 2026-05-24
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第114話 火は欲しい。でも、檻はいらない。

 その空気が、ふっと変わったのは、怜生が私の手を握り直した時だった。 「ママ……?」 「大丈夫」  そう答えた声が、自分でも少し硬いと分かった。  怜司の視線が、怜生へ落ちる。  ほんの一瞬、仕事の顔が揺れた。  その揺れを、綾乃も見ていた。  彼女は資料をそろえる手を止める。  視線が怜生へ落ちた。  目元。  横顔。  眠そうに瞬きをする癖。  綾乃の表情が、ほんのわずかに変わった。  誰の子か、分かってしまった顔だった。  けれど、それは本当に一瞬だった。  次の瞬間には、彼女はいつもの冷静な顔に戻っている。 「……ちょうどいいわ」  その声は、さっきより少しだけ低かった。 「白川さん。まず、その子も含めて話しましょう」  怜生の手が、私の指をきゅっと握った。  その小さな力で、私はようやく気づいた。  昨夜、世界に届いたのは私の名前だった。  でも今日、値段をつけられようとしているのは、私の才能だけではない。  私の生活も。  私の愛も。  この子の未来も。  全部だった。  喉が、きゅっと狭くなる。  生唾を飲み込んでも、胸の奥の緊張はほどけなかった。 「座って」  綾乃が言う。  私は怜生を隣の椅子に座らせた。  一ノ瀬が、何も言わずに怜生の前へミネラルウォーターを置いてくれる。 「飲める?」 「うん」  怜生が小さく頷く。  その何でもないやり取りを、怜司が見ていた。  父親として何かしたいのに、まだ何をすればいいのか分からない顔だった。  胸の奥が、少し痛む。  けれど今は、そこへ触れている場合ではなかった。 「昨夜のショーは成功したわ」  綾乃は資料を一枚、テーブルへ置いた。 「速報ベースでは、反応は想定以上。ルクソリアのブランド価値は一時的に持ち直す。ヴェルネイユも、これで簡単には買い叩けない」  買い叩けない。  その言葉で、昨夜の拍手が別の意味を持って胸に落ちる。  私たちは勝った。  服で。  線で。  でも、その勝利はすぐに数字へ変えられていく。 「ただし」  綾乃の声が冷える。 「市場は次を見る。昨日の熱が続くのか。それとも一夜だけの奇
last update最後更新 : 2026-05-25
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第115話 私は自分の名を取り戻す

「でも……それよりも大事なものがあります」  そう言った瞬間だった。  怜司、綾乃、一ノ瀬、そして私の手元で、スマートフォンの通知音がほとんど同時に重なった。  会議室の空気が、ふっと変わる。  綾乃が真っ先に画面を見た。その目が、ほんの一瞬だけ冷たく細くなる。  驚いた顔ではなかった。  一ノ瀬も、すぐに自分のスマートフォンを確認した。  いつもの笑みが消える。 「……最悪ですね」  胸の奥がざわつく。 「何が、ですか」  私も震えるスマートフォンを手に取る。  画面には、海外メディアの速報が並んでいた。 『ルクソリア、白川澪を専属クリエイティブパートナーへ』 『アウローラ復活の立役者、久世怜司社長のもとへ復帰か』 『白川澪、幼い少年と病院へ。久世家との関係に憶測』  病院。  息が止まった。  記事を開く。  画面に映っていたのは、今日の会議室ではなかった。少し前、怜生が熱を出した夜。病院から出てきた私たちが、怜司の車へ戻ろうとしている写真だった。  横から撮られていて、怜生の顔はぼかされている。それでも、眠くて頬を私の肩に押しつける癖も、コートを握る小さな指も、その横に立つ怜司の黒いコートも分かった。  あの夜の怜生だ。  タクシーがつかまらなくて、怜司が車を出してくれた夜。苦しそうな怜生の額に、私は何度も触れていた。  ただ、この子を守らなきゃと思っていた。  その時間まで、誰かに撮られていた。 「……どうして」  声が震えた。  怜司がスマートフォンを見た瞬間、その横顔から温度が消えた。 「佐々木。今すぐパリ側の広報と法務をつなげ。記事の配信元も洗え」  声が、氷のようだった。  私は怜生の手を握る。小さな指が、不安そうに私の指を握り返した。 「ママ?」 「大丈夫」  そう言ったのに、自分でも大丈夫ではないと分かった。 『才能も家族も、ルクソリアの神話へ回収されるのか』  回収。  その言葉が、胸に突き刺さった。  私はまだ何も選んでいない。  何も承諾していない。  それなのに、私の名前も、仕事も、怜生の存在まで、もう誰かの都合のいい物語に書き換えられそうになっている。  そんなことはさせない。 「すぐに止める」  怜司が立ち上がった。  その言葉に、胸が一瞬だけ縋りそ
last update最後更新 : 2026-05-26
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第116話 私の名前は、私のものです

 会議室を出ると、廊下の奥が騒がしかった。 受付の方に、数人の記者が集まっている。 カメラ。 スマートフォン。 早口のフランス語と英語。 私の姿を見つけた瞬間、視線が一斉に刺さった。「白川さん」「ルクソリアへ戻るというのは事実ですか」「久世社長との関係について」「写真の少年について、コメントは」 写真の少年。 その言葉で、胸の奥が冷たくなる。 怜司が一歩前に出ようとした。 私は、その袖をそっと掴んだ。 怜司が止まる。 私は息を吸った。 怖い。 けれど、ランウェイの前も怖かった。 成瀬の盗作を暴く時も怖かった。 久世怜司から逃げた時も。 怜生を産むと決めた時も。 一人でアトリエの鍵を開けた朝も。 ずっと怖かった。 それでも、私はここまで来た。「白川澪です」 自分の声が、思ったよりはっきり響いた。 記者たちの動きが止まる。「記事に出ているルクソリア専属復帰について、私は同意していません」 ざわめきが走った。 怜司の気配が、すぐ隣にある。 一ノ瀬が少し後ろにいる。 綾乃は会議室の扉の前で、怜生を守るように立っている。 みんながいる。 でも、話すのは私だ。「私は、ルクソリアの専属には戻りません」 言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。 怜司の方を見たくなる。 でも見なかった。「アーク・ブレイズにも、これまで通り所属するわけではありません」 一ノ瀬の気配が、ほんの少しだけ遠くなる。 それでも、彼は止めなかった。「私は、白川澪のアトリエを立ち上げます」 その瞬間、記者たちが一斉に声を上げた。「独立ですか」「ルクソリアとの契約は」「アーク・ブレイズとの関係は」「写真の件は、プライバシー侵害だと考えていますか」 質問が重なる。 でも、不思議と逃げたいとは思わなかった。 私はもう一度、息を吸う。「ルクソリアとは、必要があれば仕事で組みます。アーク・ブレイズとも、外部パートナーとして向き合います。でも、私の服は、私の名前で出します」 指先まで、じわりと熱が上がってくる。 それでも言った。「私の服にも、私の生活にも、私の子どもにも、誰かの都合で値段をつけさせません」 廊下が静かになった。 自分で言った言葉が、胸の中で震えている。 私の子ども。 そこまで言ってしまった。 けれど、
last update最後更新 : 2026-05-27
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第117話 ガラスの靴を壊して

 その日の午後、ルクソリアの広報室は異様な熱を帯びていた。  専属復帰の記事は、澪自身の否定で勢いを失い、代わりに独立発表の記事が伸びていた。 『白川澪、自身のアトリエ設立へ』 『ルクソリアでもアーク・ブレイズでもない第三の選択』 『アウローラの神話は、誰のものになるのか』  綾乃は広報担当から戻されたタブレットを受け取り、数字だけを見た。 「初動は?」 「想定以上です。専属復帰の記事は否定で流れましたが、独立発表の方が伸びています。ルクソリアとの協業可能性にも反応があります」 「そう」  綾乃は画面を一度だけ見て、すぐに閉じた。  そこへ、怜司が戻ってくる。 「綾乃」  低い声だった。 「何かしら」 「お前か」  問いではなかった。綾乃は否定せず、淡く笑う。 「何の話?」 「ふざけるな」  怜司の声が、廊下の空気を沈ませた。  広報担当が気配を消すように離れていく。 「白川さんは、あなたが守ろうとすればするほど、あなたの影に入る」 「怜生まで晒した」 「顔は出していないわ」 「そういう問題じゃない」 「ええ。そういう問題じゃない」 「あなたも、一ノ瀬さんも、白川さんを大事にする。守ろうとする。待とうとする。けれど結局、二人とも強い場所を持っている男なの。彼女が迷えば、どちらかの場所へ吸い込まれる」  怜司は黙っていた。 「だから、先に世界へ出した。白川澪が、自分の口で否定するしかない形に」 「お前は、彼女を追い詰めた」 「そうね」  綾乃は静かに認めた。 「でも、そうしなければ、あなたが手を伸ばしたでしょう」 「ルクソリアの法務も、広報も、資金も、全部使って。彼女と子どもを守るという名目で、世界中にこう見せたはずよ。白川澪は久世怜司の庇護下に戻った、と」  怜司は何も言えなかった。  綾乃は、ほんの少しだけ目を伏せる。 「それを止めたかったの」 「俺を?」 「あなたを。ルクソリアを。……そして、私自身を」  綾乃は顔を上げる。 「私も、楽な方へ行きたかった。白川さんを専属に戻せば、数字は安定する。ヴェルネイユへの牽制にもなる。あなたの空洞も少しは埋まる。私の結婚にも、経営判断にも、説明がつく」 「でも、それをしたら、私はあなたの檻を作る女になる」 「そんな役、もうごめんだわ」  
last update最後更新 : 2026-05-28
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第118話 今夜だけ、奪いたい

 その夜、私は一ノ瀬に指定されたバーへ向かった。  場所は、白川澪のアトリエとして借りたばかりの仮オフィスからも近い、小さなバーだった。  昼間でも薄暗い店内は、夜になるとさらに輪郭が沈む。  磨かれたグラスだけが、棚の奥で冷たく光っていた。  一ノ瀬は、いつもの奥の席にいた。  けれど、今日は少し違った。  グラスが、もう半分以上空いている。 「珍しいですね」  私が向かいに座ると、一ノ瀬は小さく笑った。 「何がですか」 「酔ってます?」 「少しだけ」  あっさり認められて、かえって言葉に詰まった。  一ノ瀬は、いつも余裕がある人だった。  救う時も、突き放す時も、こちらに選ばせる時も。  その人の指先が、今夜はほんの少しだけ遅い。 「手続き、終わりました」 「聞いてます」 「アークとは、外部パートナーとして」 「ええ」  会話は仕事の形をしていた。  でも、グラスの縁をなぞる一ノ瀬さんの指先だけが、仕事の温度ではなかった。 「……後悔してます」  ぽつりと落ちた声に、私は顔を上げた。 「何を、ですか」 「紳士でいたことを」  胸の奥が、きゅっと縮んだ。  一ノ瀬は笑っている。  いつものように。  けれど、その笑みの奥に沈んだ欲だけが、今夜は隠しきれていなかった。  怖い、と思う。  それなのに、その危うさから目をそらせなかった。 「待とうとしたことを。澪さんが自分で選べるように、逃げ道だけ用意して、最後の一線は越えないでいたことを」 「一ノ瀬さん」 「久世社長みたいに、欲しいものを欲しいと言える男の方が、案外、正直だったのかもしれませんね」  言葉が、静かに刺さった。  一ノ瀬は、私を救ってくれた。  ルクソリアから消えた私に場所をくれた。  言葉をくれた。  世界へ通すための目をくれた。  この人がいなければ、私は今ここにいない。 「本当に、感謝しています」  そう言うと、一ノ瀬さんの目が、ほんの少しだけ揺れた。 「それ、ずるいですね」 「……すみません」 「謝るところまで、ずるい」  低い声だった。  その声が、いつもより近く聞こえた。  気づけば、一ノ瀬さんは少し身を乗り出していた。  テーブルは狭い。  グラスとグラスのあいだにある距離なんて、ほんのわ
last update最後更新 : 2026-05-29
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第119話 二人だけの搭乗口

 ミラノ行きの搭乗口で、私はもう一度だけスマートフォンを見た。 二人分のチケット。 怜司さんには、あなたから伝えてください。 許可ではありません。 必要だという判断です。 東雲綾乃。 何度読んでも、逃げ道のない文章だった。 怜生は、綾乃さんが手配してくれた預け先にいる。 朝、少しだけ唇を尖らせたけれど、最後には小さな手を振ってくれた。「ママ、がんばって」 そう言われて、胸が痛くなった。 仕事ではない。 たぶん、休暇でもない。 それでも私は、怜生を置いてここにいる。 怜司さんと、二人で。「澪」 低い声に、顔を上げる。 怜司さんが立っていた。 黒いコート。 片手に小さな鞄。 会社の廊下でも、アトリエでも、会議室でもない。 空港。 搭乗口。 二人分のチケット。 それだけで、この人が少し知らない男みたいに見えた。「……来たんですね」「お前が連絡してきた」「しましたけど」「来るなとは言われなかった」 その言い方が少しだけ怜司さんらしくて、胸の奥が緩みそうになる。 けれど、すぐに緊張が戻ってきた。「アトリエはどうだ」「大変です」 それだけで、十分だった。 独立はまだ、名前ばかりで追いついていない。 怜生がいない。 一ノ瀬さんもいない。 綾乃さんもいない。 私と怜司さんだけだ。「怜生は」「大丈夫です。少し寂しそうでしたけど」「そうか」 短い返事だった。 けれど、その声が少しだけ硬い。「……気になりますか」「ああ」 迷わない返事だった。「気になる。父親らしいことを、何もしてこなかった」 胸の奥が、少しだけ痛んだ。 悪いのは、告げずに逃げた私だ。 それでも、怜司さんが怜生を見る時の顔を、私はもう知っている。 あれをなかったことにはできない。「……たまに、会いに来てください」 自分で言って、少し驚いた。 怜司さんが私を見る。「いいのか」「怜生、怜司さんのことを気に入っています」 怜司さんの喉が、小さく動いた。「そうか」 それだけだった。 でも、その声はさっきよりずっと低く、やわらかかった。 たったそれだけなのに、胸が苦しくなった。 ほんの少しだけ、まだ名前のない家族の形が、遠くに見えた気がした。 搭乗案内が流れる。 怜司さんが、当然のように私の鞄へ手を伸ばし
last update最後更新 : 2026-05-30
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第120話 魂のないドレス

 ミラノでの視察は、予定より早く終わるはずだった。  少なくとも、怜司さんはそのつもりだったらしい。  ショールームを二つ回り、若手ブランドの展示を見て、革と布地のサンプルをいくつか確認する。  それだけ。  休暇だと言われて連れてこられたはずなのに、ミラノの街を歩けば、どうしても目が服を追ってしまう。  石造りの建物。  ガラスのショーウィンドウ。  淡い照明の中に吊られたドレス。  まだ名前の知られていないブランドの、妙に強い線。  そのどれもが、今の私には眩しかった。  白川澪のアトリエ。  まだ名前だけの場所。  でも、ここに並ぶ服たちを見ると、その名前が急に現実の重みを持ちはじめる。 「顔が変わった」  隣で怜司さんが言った。 「何の顔ですか」 「仕事の顔だ」 「ミラノに連れてきた人が言うことですか」 「休暇だ」 「無理があります」  そう返すと、怜司さんが低く笑った。  その笑い声だけで、胸の奥が少し甘くなる。  だめだと思う。  仕事の話をしていても。  服を見ていても。  この人が隣にいるだけで、どこかがずっと熱い。  最後に寄ったショールームで、私は一着のドレスの前で足を止めた。  黒に近いグレー。  装飾はほとんどない。  けれど肩の角度も、腰の落ち方も、裾の重さも、怖いくらい計算されていた。  綺麗だとは思わない。  でも、目が離れない。  怜司さんも、その服の前で足を止めた。  ほんの数秒だった。  けれど、その沈黙で分かってしまった。  反応している。 「……強いな」  低い声だった。  胸の奥が、少しだけ冷えた。  私はドレスの横に置かれたネームプレートを見る。  ELENA MOREAU(エレナ・モロー)。 「知っているのか」 「はい」  小さく息を吐いた。 「アトリエ・ド・ラ・メールの同期です」 「同期」 「ええ」  私は、もう一度そのドレスを見る。 「魂のない人、って呼ばれていました」  怜司さんが、私を見た。 「悪口か」 「半分は」  唇が、少し乾く。 「でも、たぶん褒め言葉でもありました。あの人は、感情で服を作らないんです」  怒りも。  嫉妬も。  愛も。  そういうものを、針に乗せない。 「全部、設計する人で
last update最後更新 : 2026-05-31
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