《極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?》全部章節:第 121 章 - 第 130 章

134 章節

第121話 檻ではない腕の中で

 怜司の喉が、わずかに動いた。  次の瞬間、唇が重なった。  静かなキスだった。  けれど、深くなるのは早かった。  怜司の手が背中へ回り、私を引き寄せる。  息が乱れて、指先が彼のシャツに沈んだ。  舌先が触れた瞬間、膝から力が抜けそうになる。  逃げたいのではなく、立っていられない。  そう思った途端、怜司の腕が支えるように強くなった。  湖の光が、まぶたの裏で揺れる。  唇を離されるたびに、呼吸が足りなくなる。  また欲しくなる。  自分から追いかけるように顔を上げると、怜司の腕に力がこもった。 「澪」  名前を呼ばれる。  それだけで、身体の奥が震えた。  私はこの声に弱い。  この人の目に弱い。  この人に欲しがられることに、まだこんなにも弱い。  けれど、今日はそれを恥じたくなかった。  怜司の指が、ブラウスの釦に触れる。  一つずつ外されるたび、肌に空気が触れた。  肩が震える。  薄い布が胸元からゆるみ、怜司の視線がそこへ落ちる。  見られている。  そう分かるだけで、背中の奥が甘く痺れた。  彼は急がなかった。  その丁寧さが、かえって苦しい。 「そんなふうに見ないでください」 「無理だ」 「怜司さん」 「見たい」  低い声が、胸元へ落ちる。 「三年、見ていない」  その言葉に、喉が詰まった。  三年。  逃げた時間。  怜生を抱いて生きた時間。  一人で立つために、何度も歯を食いしばった時間。  その全部を、この人は知らない。  でも今、知らなかった時間ごと、私に触れようとしている。  怜司の唇が、首筋に触れた。  熱い。  細く息が漏れる。  唇が離れた場所から、また別の場所へ降りていく。  首筋、鎖骨、開いた釦の端。  触れられるたびに、肌の下で熱が広がった。  ベッドへ押し倒されるのではなく、ゆっくり座らされる。  その動きだけで、大切にされているのが分かってしまう。  それが、余計に胸を乱した。  三年前、私はこの人の腕の中で、自分を失いかけた。  けれど今夜は違う。  失うためではない。  確かめるために、私はこの人に触れている。  私から、怜司のシャツに手をかけた。  指が少し震えた。  怜司が、私の手を上から包む。 「
last update最後更新 : 2026-06-01
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第122話 切った着信、重ねた体温

 朝食は、湖の見えるテラスで取った。  白いテーブルクロス。  温かいパン。  銀のポットに入ったコーヒー。  小さな皿に盛られた果物。  何もかもが、穏やかな朝だった。  なのに、私は少しも落ち着かなかった。  怜司さんがカップを持つ指を見る。  シャツの襟元を見る。  低い声で店員に礼を言う、その横顔を見る。  それだけで、昨夜触れられた場所が、遅れて熱を持つ。  おかしい。  私は、少しは落ち着くと思っていた。  あれだけ抱きしめられて、名前を呼ばれて、朝までこの人の腕の中にいたのだから。  満たされれば、もう少し冷静になれると思っていた。  でも違った。  満たされたのではない。  開いてしまったのだ。  三年間、見ないふりをして閉じ込めていた飢えが、ようやく息をしはじめた。 「澪」 「……はい」 「食べていない」 「食べています」 「パンを千切っているだけだ」  見られていた。  顔が熱くなる。  手元を見ると、皿の上には細かく裂かれたパンが散っていた。  口には、ほとんど運んでいない。 「すみません」 「謝ることじゃない」  怜司さんは、ゆっくりカップを置いた。  その音だけで、肩が小さく震える。 「眠いのか」 「眠くは、ないです」 「疲れたか」 「それも、違います」 「なら」  怜司さんの目が、少しだけ細くなる。  その視線に、胸の奥が甘く疼いた。 「まだ足りない顔をしている」  息が止まった。  言われた瞬間、昨夜の熱が一気に戻ってくる。  湖の風。  白い皿。  朝の光。  そんなものが全部、遠くなる。 「……そんな顔、してますか」 「している」 「見ないでください」 「無理だ」  昨日も、同じことを言われた。  見たい。  三年分、見ていない。  その声まで思い出してしまって、耳の奥まで熱が戻る。  怜司さんは、私から目を逸らさなかった。 「戻るか」 「どこへ、ですか」 「部屋へ」  それが何を意味するのか、分からないほど子どもではなかった。  でも、拒めなかった。  むしろ、ほっとしてしまった。  その自分に、少しだけ眩暈がする。 「……朝食が」 「あとで食べればいい」 「そういう問題では」 「ある」  短く言っ
last update最後更新 : 2026-06-02
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第123話 まだ名前も知らない入口で

 どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。 乱れた呼吸が、ようやく少しずつ落ち着いていく。 それでも肌の下には、怜司に触れられた熱がまだ残っていた。 怜司は、しばらく何も言わなかった。 ただ黙って私を見つめながら、指先で肩から腰までをゆっくり撫でている。 責められているわけではない。 むしろ、大切に触れられているのだと分かる。 それから、低く言う。「……三年前も、同じ顔をしていた」 胸が、小さく痛んだ。「え?」「俺の腕の中にいて、満たされているふりをしていた」 低い声だった。「でも、目だけは違った。どこか遠くを見ていた」 胸の奥が、きゅっと痛んだ。 三年前の朝。 怜司の部屋を出たあと、白い紙の前で立ち尽くした私。 母の工房で覚えた線が、甘くてぬるい曲線に変わっていくのを見て、息ができなくなった私。「置いていくなと、言ったはずだ」 その一言で、胸の奥が強く鳴った。 責める声ではなかった。 でも、その静かさが余計に痛かった。「俺だけじゃないな」 怜司さんの指が、私の頬に触れる。「お前は、あの時の自分ごと置いていった」 言葉が、まっすぐ入ってくる。 恋をした女も。 描けなくなるのを恐れたデザイナーも。 どちらも抱えたまま震えていた、あの頃の私も。 全部、置いて逃げた。「……ごめんなさい」 やっと出た声は、ひどく小さかった。「愛していたからです」 怜司さんの目が、わずかに揺れる。「あなたを」 声が詰まる。「愛していたから、あのままあなたの腕の中にいたら、きっと戻れなくなると思った」 母の工房も。 古いミシンの音も。 白い布をかけたトルソーも。 黒崎に奪われてもまだ手放せなかった、自分の線も。 全部、甘さの中で輪郭を失う気がした。「守られるのが幸せで、怖かったんです」 息を吸う。「描けない私になって、それでもあなたを愛したまま生きるのが、怖かった」 怜司さんは何も言わなかった。 ただ、逃がさないみたいに私の後頭部へ手を回す。「それで、逃げたのか」「はい」「俺を置いて」「……自分も、置いていきました」 言った瞬間、涙が出そうになる。「あの朝の私は、ずっと取りに戻れなかった。傷つきました?」 聞いた瞬間、怜司さんの目がまっすぐ私に落ちた。「ああ」 迷いのない返事だっ
last update最後更新 : 2026-06-03
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第124話 甘い三日目に、ルミナス・ガラの招待状が届く

 二日だけのはずだった。  けれど、二日目の昼過ぎ、怜司さんは何でもない顔で言った。 「帰りの便を変えた」  私は、湖の見える窓辺で振り向いた。 「……変えた?」 「ああ」 「いつですか」 「さっき」  あまりに平然としていて、言葉が出なかった。  怜司さんはシャツの袖を留めながら、こちらを見る。 「嫌なら戻す」  その声は静かだった。  昔みたいに、決めたことを押しつける響きではない。  選ばせる声だった。  だから、余計に困る。 「綾乃さんに怒られます」 「怒るだろうな」 「分かっていて?」 「ああ」  怜司さんは、少しだけ目を伏せた。 「二日で足りると思っていた」  胸の奥が、どくりと鳴る。 「……足りませんでしたか」 「足りると思うか」  低い声だった。  それだけで、昨夜から朝にかけての熱が、身体の奥でまた息をしはじめる。  私は視線を逸らした。  窓の外では、湖が何も知らない顔で光っている。  あれだけ触れられたのに。  あれだけ名前を呼ばれたのに。  落ち着くどころか、もっとひどくなっている。  少しでも怜司さんの声が低くなると、身体のどこかが勝手に反応する。  馬鹿みたいだと思う。  でも、もう知らなかったことにはできない。 「……戻さなくて、いいです」  声にすると、顔が熱くなった。  怜司さんが私を見る。  次の瞬間、手首を取られた。  強くはなかった。  拒めば、すぐにほどけるくらいの力だった。  それなのに私は、逆らわなかった。  引き寄せられる。  腰に腕が回る。  気づいた時には、怜司さんの膝の上に座らされていた。  背中に腕が回ったまま、逃げ道だけは残されている。  立ち上がろうと思えば、たぶん立ち上がれる。  なのに、動けなかった。  怜司さんの体温が、シャツ越しに伝わってくる。  昨夜、何度も知った熱だった。  それなのに、昼の光の中で触れられると、また違うものみたいに身体が固まる。  膝から降りればいい。  距離を取ればいい。  そう思うのに、私はその場所にいた。 「本当に?」 「聞かないでください」 「聞く」  同じ言葉だった。  昨夜も、今朝も、この人は私に聞いた。  そのたびに、私は自分で選んでしまう。 「
last update最後更新 : 2026-06-04
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第125話 黄金の神話を支配する男

 ヴィラ・アウレアは、湖の北側にあった。  ホテルから車で三十分ほど。  道は途中から細くなり、石垣と糸杉のあいだを抜けていく。  窓の向こうには、朝の光を受けたコモ湖が静かに広がっていた。  甘い三日間を包んでいた水の色が、今は少し違って見える。  穏やかなだけではない。  底に何かを沈めている色だった。  怜司は、隣で黙っている。  つい数時間前まで同じベッドにいた人なのに、今はもう仕事の顔に戻っていた。  でも、完全には戻っていない。  指先が、私の手に触れるか触れないかの距離にある。  それだけで、昨夜の熱がまだ体の奥に残っていることを思い知らされる。  おさまっていない。  むしろ、ひどくなっている。  その飢えを抱えたまま、私は次の舞台へ向かっていた。 「見えてきた」  怜司が低く言った。  顔を上げると、湖畔の高台に、古い館が見えた。  淡い金色の石壁。  湖へ向かって開いた大きなテラス。  左右に伸びる回廊。  屋根の上には、獅子の飾りがある。  美しい。  けれど、近づくほど胸の奥が冷えていく。  歓迎されている感じがしない。  選別されている感じがした。 「ヴィラ・アウレア」  私は小さく呟いた。 「黄金の館、か」  怜司の声が硬くなる。 「名前からして、趣味が悪い」 「きれいですけど」 「きれいな場所ほど、人の欲を上品に飾る」  その言葉に、何も返せなかった。  門を抜けると、すでに何台もの車が停まっていた。  黒い車。  運転手つきのリムジン。  ブランドのロゴが目立たないように入った関係者用のバン。  華やかなのに、静かだった。  誰も大声で笑わない。  誰も無駄に動かない。  けれど、その静けさの中で、金と権力だけが音もなく行き来している気がした。  館の入口で、セラフィナが待っていた。  黒いパンツスーツ。  赤いリップ。  髪はきつくまとめられている。  舞台の上の彼女とは違う。  今日は、戦いに来た顔だった。 「遅い」  最初の一言がそれだった。 「突然呼ばれたんですけど」 「来たなら同じよ」  セラフィナは私を見て、それから隣の怜司を見る。  ほんの一瞬、彼女の目が細くなった。 「休暇中に悪かったわね」 「悪いと思ってる
last update最後更新 : 2026-06-05
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第126話 メゾンの王は、ミューズに「まだ早い」と告げた

 ガラス扉が開いた。  最初に入ってきたのは、光だった。  湖から反射した朝の光を、男の金髪が受けている。  華やかなのに、下品ではない。むしろ、その場の空気の方が、彼に従っているみたいだった。  笑っていた三人が、同時に口を閉じる。  セラフィナの目が、わずかに細くなった。 「レオーネ」  その顔は、事前に渡された資料の中にあった。  レオーネ・ヴァルカ。  ルミナス・ガラの主催者にして、才能が神話に変わる瞬間を所有する男。  ヴァルカ家は、ルミナス・ガラを三代にわたって支えてきた古い家だ。  レオーネ自身も財団の会長であり、いくつものメゾンと美術館に席を持つ。  けれど、本当に恐れられているのは肩書ではない。  彼が選んだモデルは、翌年には世界中の表紙に出る。  彼が退屈だと言ったメゾンは、どれほど歴史があっても次のシーズンで席を失う。  彼が一度だけ拍手を送った新人は、その拍手の長さまで記事にされ、投資家の会食で名前を出される。  そんな噂を、何度も読んだ。  誇張だと思っていた。  でも、目の前に立たれると分かる。  この人は、服を見ているだけじゃない。  服の後ろにある金、人脈、欲望、未来の値段まで見ている。  だから皆、黙るのだ。  レオーネはまっすぐ怜司を見た。  初めて会うはずなのに、その目には、ようやく見つけたと言いたげな温度がある。 「久世怜司。ついに会えたな」 「初対面の言い方じゃない」 「服と数字と噂が、先に握手を済ませている」  火花が散る、という言葉が一番近かった。  静かなのに、二人の間だけ空気が鋭い。  レオーネは楽しそうに笑う。 「ルクソリアはうまくやった」  その声には、社交辞令の丸みがなかった。 「欲望を服にした。綺麗なだけではない、少し嫌なものまで縫い込んだドレスだった」  レオーネは、楽しそうに目を細める。 「それを売れる形で市場へ出した。あの尖った服を、商品として通した。ルクソリアの手腕も見事だ」  それから、彼は少しだけ顎を引いた。 「ヴェルネイユの買収を退けたのも愉快だった」  怜司の目が、ほんの少し細くなる。 「……ずいぶん細かく見ているな」 「当然だ。見えない
last update最後更新 : 2026-06-06
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第127話 この人の中で永遠に君臨し続けたい

 テラスの空気が、急に静かになった。  さっきまでこちらを馬鹿にしていた三人も、今は興味を隠さない顔で見ている。  屈辱だと思う。  でも、逃げるよりはましだった。  セラフィナが大階段の中央へ立つ。 「余興は簡単」  そう言って、両腕を軽く広げた。 「この館で、今年のテーマをどう歩かせるか。ここで決めなさい」 「今?」 「今」  彼女は、逃げ道を一つも作らない。 「衣装もないのに?」  さっき笑っていた女が言う。 「だから余興になるのよ」  セラフィナは振り向きもしない。 「服がなくても見えるなら、本番で形にできる」  そのとき、怜司が低く言った。 「階段の途中で、一度だけ視線を切れ」  振り向きそうになる私に、彼は続ける。 「全部を見せるな。失ったものを、客に探させろ」  それは助言というより、刃物みたいな一言だった。  私はゆっくり息を吸う。  風が強い。  湖の光が白く反射して、目の奥まで差し込んでくる。  愛の喪失。  私は一度、怜司を失った。  自分で手を離して、逃げて、三年分の時間を失った。  それなのに、また手に入れてしまった。  名前を呼ばれるだけで身体の奥が疼くほど、深く。  また失うのだろうか。  もしそうなったら、私はどうするのだろう。  泣くのか。  諦めるのか。  それとも。  だったら。  私はその喪失を、ただ泣くためのテーマにしたくなかった。 「歩かない」  気づけば、口にしていた。  セラフィナがわずかに顎を引く。 「何?」 「失った瞬間を、歩かせません。この館で見たいのは、失って泣く女じゃない。愛を失ったって気づいた、その次です」 「次?」 「奪い返そうとして、初めて前を向くところ」  胸の奥が、強く鳴る。  失うのが怖い。  でも、そこで終わる女ではいたくない。  怜司の目を引きたい。  あの人がよそを見るたびに、こんなふうに削られるのはもう嫌だ。  私の服から、視線を逸らさせたくない。  その欲が、静かに燃えている。 「最初は背中を見せる」  私は大階段を見上げた。 「でも、途中で振り向く」  セラフィナの目が、少しだけ細くなる。 「失ったことに気づいたから?」 「違います」 「取り返すって決めたから」  さっき
last update最後更新 : 2026-06-07
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第128話 消費された女たち

「今年のテーマは、Amore Perduto」  レオーネが甘く発音した。 「失われた愛だ」  その言葉が、今度はまっすぐ私の内側へ落ちた。  失われた愛。  奪い返そうとする女。  値段をつける場所。  その三つが、ばらばらの言葉ではなくなっていく。  レオーネは湖へ向いたまま、楽しそうに続けた。 「君の母親も、特別枠でここへ来た」  世界が静かになる。 「……母を、知っているんですか」 「名前だけは」  レオーネは、ひどくやわらかく笑った。 「白川亜希子。あの女は、美しく負けた。だが、負け方が良すぎた」 「どういう意味ですか」 「泣いている女は売れる。壊れた女は語られる。だが、その先へ歩く女は、舞台に嫌われる」  腹の底が、冷たく沈んだ。  レオーネは、そこで少しだけ怜司を見た。 「セレナ・ヴァルデは、久世の父に愛された女だった」  怜司の空気が変わる。  鋭く、冷たい。  でも、レオーネはその温度さえ分かっていて言葉を続けた。 「正妻ではない。正式に選ばれた女でもない。だが、彼は彼女を《アウローラ》の完成形のように扱った。女としてではなく、神話としてね」  セラフィナの横顔が、ほんの少しだけ硬くなる。 「セレナが本当に欲しかったものが何だったかは知らない。愛か、名前か、舞台か、全部か。だが、世界が欲しがったのはその答えじゃない」  レオーネは、湖の光の方へ目を向ける。 「選ばれなかった女が、それでも一番美しく立っていた瞬間だ」  胸の下が、いやな形で痛んだ。  振られた女。  選ばれなかった女。  けれど、それでも美しい女。  それは、物語として分かりやすい。  だから売れる。  だから語られる。  だから、そこから先へ進むことを許されない。 「白川亜希子は、失恋で負けたんじゃない」  レオーネの声が、ひどく静かになる。 「失恋した瞬間だけを、世界に保存された」  母は、久世の父に選ばれなかった。  けれど、本当に奪われたのは、そのあとだ。  愛されなかった女。  届かなかった女。  それでも白いドレスにすべてを賭けた女。  そんな美しい負け方だけを、舞台は欲しがった。  才能がなかったからではない。  美しくなかったからでもない。  傷を、傷のまま商品にされたから。
last update最後更新 : 2026-06-08
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第129話 火と設計図

 薄い灰色の目が、私を捉える。 「久しぶりね。ミオ」  セラフィナが私を見る。 「知り合い?」 「アトリエ・ド・ラ・メールの同期です」  エレナは私の耳元のアレクサンドライトと、手首のブレスレットを一瞥し、最後に怜司を見た。  それで十分だった。  彼女は、私がここにいる理由をほぼ見抜いた顔をした。 「また感情で勝ったのね」 「褒めているの?」 「ええ、少しは」  エレナは淡く笑う。 「でも、感情は素材として不安定よ。怒りも嫉妬も愛も、翌朝には形が変わる」  その一言が、痛いほど近くに刺さった。  さっき私は、怜司への執着で線を引いた。  レオーネへの反発で布を動かした。  セラフィナへの苛立ちで、喪失を奪い返す形に変えた。  でも、それは本当に服として残るのだろうか。  熱が冷めたあとも。  涙が出ない朝も。  怜司が隣にいない夜も。  同じ強度で、人を奪えるのだろうか。 「私は、変わらないものだけで服を作る」  エレナの声は平らだった。 「骨格。視線。照明。市場。批評家の語彙。富裕層が財布を開く瞬間」  さっきまで黙っていた三人のうち、誰かがにやりとした。  馬鹿にする笑いではない。  肯定するような笑いだった。  レオーネの口元も、同じように上がる。  この館では、それが正解なのだと分かってしまった。  嫌な女だと思った。  でも、間違っているとは言えなかった。  レオーネが、私とエレナを見比べる。 「いいね。火と設計図だ」  彼は私を見る。 「君は燃える。彼女は測る」  それから、私の指先へ視線を落とした。 「白川澪。君は不安定だ。感情で線が変わる。愛で鈍り、嫉妬で光る」  怜司の空気が変わった。 「澪を、そういう目で見るな」  低い声だった。  仕事の警戒ではない。男としての怒りが混じっている。  レオーネは怯まない。 「愛している男は、才能を見る目が曇る」 「曇っているかどうかは、お前が決めることじゃない」 「もちろん。だから、舞台が決める」  服が歩く。  視線が集まる。  値段がつく。  ここでは、誰の愛も言い訳にならない。  エレナが私を見る。 「泣ける日は勝てる。でも、泣けない日は?」  私は答えられなかった。  エレナは、答えを待っていな
last update最後更新 : 2026-06-09
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第130話 失われた愛は、嘘みたいに響く

 あの三日間のことを、ときどき夢だったのではないかと思う。  コモ湖の光。  ヴィラ・アウレアの階段。  セラフィナの冷たい横顔。  レオーネの値踏みする目。  そして、私の手首に触れた怜司の指。  全部が、現実から少しだけ浮いている。  高価な香水を吸い込みすぎた夜みたいに、思い出すたび輪郭が甘くにじむ。  でも、夢なら目が覚めたあと消えるはずだった。  あの三日間は、消えなかった。  むしろ、私の中で硬く残った。  折れそうになるたび、背中の真ん中に一本、見えない芯が通る。  値段をつけられる側で終わるな。  選ばれるのを待つな。  舞台に飲まれる前に、舞台の方をこちらへ向かせろ。  その声が、今も身体の奥に残っている。  怜司からは、ときどき短いメールが来た。 『寝たか』 『無理をするな』 『会いたい』 『次に会ったら、すぐには帰せない』  甘い言葉は少ない。  けれど、その少なさの奥に、触れられない熱だけが残っている。  会えていない。  仕事の連絡はある。  ルクソリアとの契約も進んでいる。  でも、あの三日間の熱を確かめるように会うことだけは、まだできていなかった。  だから、余計に夢みたいだった。  けれど、夢ではない。  私がいま立っている場所の背骨は、たぶんあの三日間でできている。  三ヶ月後。  MIO SHIRAKAWAは、思っていたより早く名前を持ちはじめていた。  最初に売れたのは、ドレスではない。  黒に近い藍色のジャケットだった。  La Distance Jacket。  セラフィナが一度だけ私服で着てくれた写真が、すべての始まりだった。  湖畔の石段。  サングラス。  乱れた金髪。  肩にかけた、MIOのジャケット。  投稿された写真には、短い一文だけが添えられていた。 『距離を着る女は、逃げているわけじゃない』  その朝から、問い合わせの数が変わった。  海外のセレクトショップ。  モード誌の編集者。  知らない国の言葉で書かれた、MIO SHIRAKAWAの文字。  白川澪ではなく。  怜司の女でもなく。  アーク・ブレイズの元デザイナーでもなく。  私が作ったブランドの名前が、服を通して歩きはじめていた。  けれど、現実は華
last update最後更新 : 2026-06-10
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