All Chapters of 極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?: Chapter 131 - Chapter 140

168 Chapters

第131話 ミューズの休息

「は?」  間の抜けた声が出た。  レオーネ・ヴァルカは、約束の時間に迎えへ来ただけみたいな顔で、私のアトリエに立っていた。  高すぎるコート。  磨かれた靴。  金色の髪。  型紙や怜生のクレヨン、ミナの納期表の中で、その男だけが別の階級の空気をまとっている。 「迎えに来たと言った」 「聞こえました。意味が分からなかっただけです」  レオーネは愉快そうに笑う。 「煮詰まっているだろう」 「だからって、急に来ますか」 「急ではない。三ヶ月待った。ガラの衣装が滞っていると、セラフィナから聞いた」  セラフィナ。  あの女なら言う。  私を助けるためではなく、追い詰めるために。 「デザイナーには、インスピレーションの時間が必要だろう」  言い返そうとした時、怜生が青い布見本を抱えたまま、私の脚のそばへ寄ってきた。  レオーネの視線が、怜生へ落ちる。  ほんの少し、目が細くなった。 「目元が怜司にそっくりだ」  胃のあたりを、直接押されたような気がした。 「……そういうことを、ここで言わないでください」 「事実だ」 「事実でも、言っていいことと悪いことがあります」  レオーネは怜生をもう一度見た。  怜生は、知らない金髪の男をじっと見上げている。  泣きも笑いもせず、私の服を見る時と同じように観察している。 「この子も連れていく」 「連れていく?」 「置いていく気か」  言葉に詰まった。  置いていく選択肢はなかった。  今日だけアトリエにいる怜生を、急に誰かへ預ける方が難しい。  けれど、レオーネについていく場所に、怜生を連れていっていいのか。  迷った瞬間、ミナのスマートフォンが鳴った。  続けて、ノアの端末も音を立てる。 「……白川さん」  ミナが画面を見たまま固まっている。 「何ですか」 「主要納品分、先方から一週間の納期延長が入りました」 「え?」 「理由は、展示スケジュールの調整。急ぎ分の輸送費も、先方負担に変更されています」  ノアが、今度は自分の画面を見て声を上げた。 「ミオ、海外問い合わせの一次対応、ヴァルカ財団側のスタッフが一時的に引き取るって。正式な文面で来てます」 「……何をしたんですか」  私がレオーネを見ると、彼は肩をすくめた。 「君を連れ出すのに、
last updateLast Updated : 2026-06-11
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第132話 勝つために切った電話

 レオーネは通話を切らせなかった。  私が何か言うより先に、彼は船の白い階段を上がっていく。  その背中は、こちらがついてくると疑っていない。 『澪、今どこにいる』  怜司の声が、電話の向こうで低く響く。 「……港です」 『港?』 「仕事です。レオーネに、連れてこられて」  言った瞬間、自分でもひどい説明だと思った。  怜司の沈黙が刺さる。 『怜生は』 「一緒にいます」  少しだけ、空気が変わった。 『そこを動くな』 「それは」  答える前に、レオーネが振り返った。 「動くなと言われたなら、なおさら動け。君は誰の荷物でもない」  電話の向こうで、怜司の呼吸が硬くなる。 『その男に代われ』 「代わりません」  自分でも驚くほど、はっきり言っていた。  怜司に会いたい。  今すぐ来てほしい。  でも、ここで言われた通りに止まれば、私はまた誰かに運ばれるだけの女になる。 「後で連絡します」 『澪』  切った。  切ってしまった。  なんてひどいことをしたんだろう。  だけど、切らなければ戻ってしまう気がした。  怜司の声のする場所へ。  守られて、抱きしめられて、何もかも忘れてしまえる場所へ。  それでは、ルミナス・ガラでは勝てない。  レオーネは満足そうに笑った。 「よくできた」 「褒めないでください」 「では、始めよう」 ***  案内された船室は、部屋というより小さなホテルのスイートだった。  壁一面の窓。  海へせり出したバルコニー。  磨かれた木の床。  低いソファ。  銀のトレイに並んだ果物と、子ども用の小さなグラス。  怜生は、青い布見本を抱えたまま固まっている。 「まま、ここ、おうち?」 「違うよ」  違う。  違うはずなのに、船室の奥にはすでに子ども用の椅子と、絵本と、ミニカーまで用意されていた。  背筋が冷える。 「用意がよすぎます」 「王族の子どもも乗る船だ。子どもに退屈させる方が失礼だろう」  レオーネが軽く手を上げると、女性スタッフが二人、静かに入ってきた。  片方は怜生の前に膝をつき、やさしく微笑む。 「Bonsoir, petit prince」  怜生は少し考えてから、首を振った。 「れお、王子じゃない」  女性スタッフが笑う
last updateLast Updated : 2026-06-12
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第133話 普通でいたら、あの場では勝てない

 ダイニングサロンへ入った瞬間、声が少し遠のいた。 着飾った男女の視線が、いっせいにこちらへ向く。私のドレスを確かめて、次に隣のレオーネへ移り、最後に私たちの距離を測る。その順番だけで、ここがどういう場所なのかが分かった。誰と来たか。誰に連れられているか。服より先に、それが値踏みされる。 丸いテーブルには銀の皿と薄いグラスが並び、白い花とキャンドルが低く灯っていた。窓の外では夜の海が黒い布のように広がり、中央の小さな舞台では弦楽四重奏が静かに曲を弾いている。急がない、主張しない。でもそこにあるだけで、空気の値段を上げる音だった。 私はこの場所を知っているふりができない。それでも、小さなバッグの底には怜生がくれた青い布がある。そう思うだけで、完全には飲まれずに済んだ。 レオーネが私を隣の席へ導きながら、客人たちへ言った。「こちらは、ミオ・シラカワ」 その瞬間、いくつかの視線が濃くなる。「ああ、セラフィナのジャケットの」「ルクソリアと組んだ若いデザイナー?」「ガラに出るという噂の」 レオーネの視線が私のドレスへ落ちた。「今夜、彼女が着ているのはMIOではない」 客人たちの目が、私の身体の上で止まる。深い青のドレス。彼が用意した、私のものではない服。「だからこそ分かるはずだ。MIOがまだ持っていないものが」 意地悪な言い方だった。でも、ただ晒されているわけではない。このドレスは私の足りなさを見せるためではなく、足りないものを身体で覚えさせるために用意されていた。 真珠の老婦人が、私を見た。「MIOの服は、面白いわ」 やわらかい声だった。だからこそ、次の言葉が深く入った。「感情がある。欲もある。着る人の背中を少し変える力もある」 そこで彼女は静かに微笑んだ。「でも、この船の客を黙らせるには、まだ少し足りない」 昔の工房で使っていた、安い生地の感触を思い出した。高価な素材なんて使えなかった。薄い布が貧しく見えないように、安い光を少しでも美しく逃がせるように、私はずっと足りないものを工夫で補ってきた。その時間は間違いじゃない。MIOは王族の晩餐だけを相手にするブランドじゃない。朝の駅へ向かう人にも、仕事帰りのバーへ寄る人にも、少しだけ背筋を伸ばしてほしくて作った服だ。 でも、ルミナス・ガラは違う。あの舞台に持っていく一着だけは、足り
last updateLast Updated : 2026-06-13
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第134話 君臨は背中から始まる

 そのまま、サロンの中央へ出る。  ランウェイではない。  けれど、テーブルの間に一本の道ができていた。  深い青のドレスが、脚に沿って落ちる。  背中が冷たい。  視線が、そこへ刺さる。  一歩。  作る側では分からなかった重みがある。  もう一歩。  見られることは、奪われることに似ている。  それなのに、肌の奥がかすかに熱を持つ。  視線を集めることが、こんなにも怖くて、こんなにも甘いものだとは知らなかった。  でも、見せ方を選べば、支配することにもなる。  私は途中で一度だけ、視線を切った。  誰かが息を吸う気配がした。  その瞬間、止まっていたドレスの背中に、一本の線が入った。  失われた愛。  それは、泣く女の正面ではない。  君臨すると決めた女の背中に出る。  分かった。  私は振り向く。  レオーネが、満足そうに見ている。  その後ろで、さっきまで談笑していた客人たちが黙っていた。  真珠の老婦人はグラスを持ったまま、私の背中を見ている。  若い男のひとりは、笑いかけた口元の形を忘れたみたいに固まっていた。  拍手はない。  でも、その沈黙の方が深かった。  レオーネが、ゆっくり口角を上げる。 「これだ」  低い声だった。 「君臨は、正面から始まるとは限らない」  バッグの底の青を、ふと思い出した。 ***  夜が深くなると、サロンの熱は少しずつほどけた。  客人たちはグラスを持ったまま別の部屋へ流れ、音楽だけがまだ薄く残っている。  私は甲板へ出た。  海は黒かった。  空も黒い。  その境目だけが、船の灯りを受けて銀色に揺れている。  潮風が頬を冷やし、波音が船底の奥から低く響いていた。  さっきまでのサロンの拍手も、香水も、値踏みする視線も、遠い別世界の出来事みたいに感じる。  ドレスの背中に、夜風が触れた。 「寒いか」  レオーネが隣に来ていた。  船の灯りを受けた金髪が、夜の中で淡く光っている。  青い目は海より明るいのに、底だけが暗い。 「少し」  彼は自分のコートを私の肩へかけた。  上質な布と、逃げのない仕立て。  一着で、MIOの月の売上くらいは簡単に飛びそうだった。  その分、肌触りは極上だ。  ほのかに苦い香水と、冷えた夜気の
last updateLast Updated : 2026-06-14
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第135話 次の港で待っていた男

 夜更け、レオーネと別れて船室へ戻ると、怜生は私に用意されたベッドで眠っていた。  シッターが声を落として、「よく眠っています」と告げる。  小さな船の模型をもらったらしく、胸に抱えたまま離さない。  眠った顔を見て、少しだけほっとする。  甲板の空気が、まだ身体のどこかに残っている。  レオーネのコート。  近すぎる声。  黒い海。  そして、背中に生まれた線。  浮気ではない。  そんな言葉で自分に言い聞かせる必要がある時点で、もう少し危ういのだと思う。  でも、怜司を裏切りたいわけではなかった。  レオーネに恋をしたわけでもない。  ただ、この船の上でしか掴めないものがあった。  そのことだけは、嘘にできなかった。  その夜は、ほとんど眠れなかった。  怜生の寝息を聞きながら、何度も目を閉じた。  でも、瞼の裏に浮かぶのは、怜生の顔だけではなかった。  甲板の黒い海。  レオーネの青い目。  遠ざけたはずの距離。  枕元に置いたスマートフォンは、何度か光った。  怜司からだと分かっていた。  指を伸ばしかけて、やめる。  声を聞いたら、戻りたくなる。  怒られてもいい。  抱きしめられてもいい。  全部を投げ出して、ただ怜司のそばへ帰りたくなる。  それが怖かった。  勝ちたいと思った夜に、いちばん会いたい人の声を聞けない。  そんな自分が、ひどく嫌だった。  翌日の昼前、船は次の港へ近づいていた。  昨夜、真珠の老婦人に言われた言葉が、何度も戻ってきた。  いい服。  でも、この船では少し足りない。  悔しい。  でも、その悔しさは、少しだけ形を持っていた。  足りないなら、足せばいい。  素材の値段ではなく。  古い家名の真似でもなく。  この場所の視線に負けないだけの、毒と重さを。  船がゆっくり速度を落としていた。  出港した場所とは違う。  白い建物の並ぶ、小さな港町。  昼の光が、石造りの岸壁を白く照らしている。  シッターにもう少しだけ怜生を頼み、私はひとりで甲板へ出た。  潮の匂いが強い。  昼の海は、昨夜よりも容赦なく明るかった。  夜なら隠せた迷いまで、光の中では全部見えてしまう気がする。  白い手すり。  磨かれた甲板。  遠くで鳴る船
last updateLast Updated : 2026-06-15
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第136話 最低でしょう

「早かったな、怜司」  レオーネの声は、昼の港にひどくよく響いた。  怜司は返事をしなかった。  桟橋から船へ渡るタラップを、迷いなく上がってくる。  黒いスーツの裾が、海風でわずかに揺れた。  怒っている。  でも、それだけではない。  怜司の目は、私の肩に置かれたレオーネの手を見ていた。  次に、近すぎる距離。  最後に、私の唇。  何も起きていない。  そう言いたかった。  けれど、言葉が出る前に、怜司がレオーネの前で足を止めた。 「手を離せ」  低い声だった。  レオーネは笑う。 「彼女が嫌がれば離す」 「俺が言っている」 「だから?」  空気が、薄く鋭くなる。  私は反射的に口を開いた。 「怜司さん、違う」  怜司の目が私へ向く。  その瞬間、胸の内側が縮んだ。  責められると思った。  でも、彼の目にあったのは、怒りより先に傷だった。 「違うなら、なぜ動かなかった」  痛かった。  そう聞かれると、答えに詰まる。  キスをしたかったわけじゃない。  レオーネに惹かれたわけでもない。  でも、この距離から逃げなかった。  この船でしか掴めないものがある気がして、私はその危うさの中に立っていた。  その事実は、消せない。  レオーネが楽しそうに目を細める。 「彼女は仕事をしていた」 「唇に近づくことがか」 「失われた愛を作るなら、失いかける瞬間を知らなければならない」  怜司の視線が冷たくなる。 「お前のやり方は、いつも人を値踏みする」 「君のやり方は、守る名で囲う」  レオーネが、少しだけ身を乗り出した。 「彼女を守りに来たのか。閉じ込めに来たのか」  怜司の顎がわずかに動く。  図星ではない。  でも、完全に外れてもいない。  私にも、それが分かってしまった。 「私は」  二人の間で、声を出す。 「物じゃありません」  レオーネが笑う。  怜司は笑わない。 「分かっている」  怜司が言った。 「分かっているなら、今、私を連れて帰るみたいな顔をしないで」  言った瞬間、自分の声が少し揺れた。  怜司の目が変わる。  痛みが、さらに深くなる。 「帰れと言うつもりはない」 「じゃあ」 「二人で話す」  そう言って、怜司は私の手首を取った。
last updateLast Updated : 2026-06-16
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第137話 お前がそんなふうに、欲しがる顔をしている時が、たまらなく好きだ

 その先は言えなかった。  怜司の手が、私の腰に回った。  次の瞬間、有無を言わさず強く引き寄せられる。  唇を奪われた。  優しさなど微塵もなかった。  怒りと嫉妬と、会えなかった三ヶ月分の飢えが、熱い質量となって私の呼吸を塞ぐ。 「……んむ」  溢れた吐息ごと、深く貪られた。  背中が冷たい壁に触れる。ドレス越しに、逃げ場をなくすような怜司の強い体温が押し寄せた。  顔をそらそうとしても、すぐに唇で追われる。  交わされるキスの合間に、怜司の低く、苛立ちを含んだ荒い息遣いが耳元に響いた。  逃がさない、というより。  逃げるな、と肉体で組み伏せられている気がした。 「……っ、怜司、さん……」  名前を呼んだ声が、自分でも驚くほど甘く、熱を帯びて。  鳴咽のように崩れた。  怜司の指先が、背中の大きく開いた肌の線に触れる。そこは昨夜、レオーネの視線に晒された場所だった。  指先が這うだけで、皮膚の裏側を電流のような熱が走る。 「……ここを、見せたのか」  耳朶を震わせる、ひどく低く、 歪んだ声だった。 「見せる、ための……っ、服です……っ」 「分かっている」  怜司の濡れた唇が、私の耳元から首筋へとしがみつくように落ちる。 「だから、狂いそうだっ……」  首筋に歯を立てられ、小さく悲鳴を上げそうになる。  責められているのに、身体の奥が疼くように反応してしまう。  怜司の手のひらが、ドレスの裾を強引に割り、私の膝の裏へと滑り込んだ。 「え、っ」  視界が浮いた。  抱き上げられたのだと分かった時には、もう白いシーツの上に押し沈められていた。  痛くはない。  でも、完全に閉じ込められて、逃げられない。  怜司が重なるようにして、上から私を見下ろす。彼の胸の鼓動が、驚くほど速く、うるさいほどに肌に響く。 「嫌なら、今言え」  拒絶を許さないほど、掠れた低い声だった。  言えるはずがなかった。  嫌じゃない。嫌じゃないどころか、全部まとめて、この人の傲慢な愛で奪い返してほしいと思っている。 「……ぁ、っ……」  言葉にならない吐息を漏らしながら、私は、怜司のシャツの胸元に手をかけ、その肌の熱を確かめるように指を這わせた。  答えは、それで十分だった。  怜司の瞳の奥が、さらにぎらついた熱
last updateLast Updated : 2026-06-17
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第138話 私の名前が、消えた

 ステラ・マリスの朝から、一週間が経った。  あの船のことは、もう遠い出来事のはずだった。なのに、白いシーツの上で怜司さんに抱き上げられた瞬間だけは、まだ消えない。  背中も、腰も、唇も。触れられた場所が、まだ自分のものに戻っていない。  怜司さんがパリにいるのは、偶然ではなかった。  ルクソリアの欧州販路再編、ヴェルネイユ・グループとの交渉、ルミナス・ガラ関連のスポンサー会合。  そのために、彼は一週間パリへ滞在していた。  仕事だと分かっているのに、同じ街にいると思うだけで、私は少し浮ついていた。  その週の半ば、アパルトマンのインターホンが鳴った。画面に映った黒いコートを見た瞬間、怜生が私を振り返る。 「パパ」  その呼び方に、まだ慣れない。  でも、怜生はもう覚え始めている。この人が、自分を迎えに来る人で、母親が好きな人だと。  扉を開けると、怜司さんが立っていた。  仕事帰りの顔だった。  スーツの上に黒いコート。肩に夜の冷気をまとっているのに、目だけが少しほどける。 「遅くなった」 「約束より早いです」 「早く終わらせた」  それを当然みたいに言うから、背中のあたりが甘く痛んだ。  怜生が怜司さんの足元へ駆け寄る。 「パパ、みて」  手に持っているのは、ステラ・マリスでもらった船の模型だった。  怜司さんは膝を折り、怜生に目線を合わせた。 「いい船だ」 「れおの」 「大事にしているのか」 「うん。でも、ママの青い布もだいじ」  怜司さんが、ちらりと私を見る。  その視線だけで、船の夜を思い出してしまう。  白いシーツと、青いドレスと、閉じ込めたいと言った声。  私は急いで視線を外した。  少しだけ、と言ったのに、三人でテーブルを囲む時間は自然だった。  怜生はパスタをうまく巻けず、怜司さんが無言で皿を少し回してやる。  その仕草が不器用で、優しくて、笑いそうになった。 「笑うな」 「笑ってません」 「顔に出ている」 「怜司さんも、ずいぶん父親の顔になりましたね」  怜司さんは怜生の口元のソースを拭いながら、低く言った。 「まだ、下手だ」 「でも、怜生は嬉しそうです」  怜生は話を聞いているのかいないのか、船の模型を皿の横に置いている。 「パパ、またくる?」  その無邪気な
last updateLast Updated : 2026-06-18
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第139話   助けを借りるというのは、奪われるということだ

『私の名前が、消えた』  カミーユの声は、泣きすぎて擦れていた。  私はスマートフォンを握り直した。 「どういうこと? 落ち着いて。今どこにいるの」 『店の前。サントノレの、あの店』  サントノレ。  その言葉だけで、記憶の奥にある通りの光が浮かんだ。  閉店間際のショーウィンドウ。  濡れた石畳。  細いのに、少しだけ意地悪なカーブを描く袖口。  カミーユの線。  アトリエ・ド・ラ・メールで、彼女は誰より手が早かった。色の組み方がうまくて、感情を入れずに服を見るエレナでさえ、彼女のトワルを見る時だけは口数が減った。  彼女はアトリエを離れたあと、小さなブランドを立ち上げた。  最初のコレクションは、業界紙にも小さく載った。  それからしばらくして、彼女が大手メゾンの若手支援プログラムへ入ったと聞いた。  助かったのだと思った。  よかった、とも思った。 『ミオ、写真を送る』  通話の向こうで、カミーユが鼻をすすった。  すぐに画像が届いた。  私は画面を開く。  白い壁。  磨かれた床。  中央に飾られた、淡いグレーのジャケット。  綺麗だった。  肩から袖にかけての曲線。  閉じきらない前身頃。  少しだけ皮肉を含んだ、甘くなりすぎないバランス。  カミーユの服だった。  少なくとも、私の知っているカミーユは、この線を引く人だった。  けれど、写真の下に映っていた説明札には、彼女のブランド名がなかった。  名門メゾンのロゴ。  コレクション名。  コンセプト。  素材。  そして、一番下に、小さな文字が添えられている。  制作協力 Camille Laurent  その四文字を見た瞬間、口の中が乾いた。 「カミーユ……」 『最初は、名前を残すって言われたの。若手支援だから、ブランドも守るって。生産も、PRも、販売も、全部助けるって』  助ける。  その言葉が、妙に冷たく響いた。 『でも、一年目は共同発表。二年目はメゾンのカプセル。三年目は、私のブランド名じゃ市場が弱いからって』  カミーユが笑った。  泣きながら笑った声だった。 『今日、店員に言われたの。いいですよね、このメゾンの若い感性って』  私は何も言えなかった。 『違うの。ミオ。あれは、私の感性よ。私の袖よ。
last updateLast Updated : 2026-06-19
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第140話 君はもっと高く売れる

 通話が切れたあと、アトリエには重い沈黙だけが残った。  ミナの端末には、納期確認と発注保留の通知が並んでいる。  ノアは海外窓口からのメールを見たまま、何も言わない。  梢は作業台の上のピンを、意味もなく一本だけ揃えた。  カミーユの名前が消された話は、他人事ではなかった。  服が悪いわけではない。  でも、ブランドとして信用されていない。  評価されることと、買われ続けることは違う。  その現実が、MIOの朝を黙らせていた。 「澪」  振り返ると、怜司がアトリエの入口に立っていた。  昨夜とは違う顔だった。  恋人ではなく、経営者の顔。でも、目だけがほんの少し私を案じている。 「トラブルか。見せろ」  私は一瞬迷ってから、画面を渡した。  怜司の目が、仕事のものへ変わる。 「致命傷ではない」 「でも、信用は削れます」 「対処できる」  対処できる。  怜司なら、できる。  いや、ルクソリアなら。  ルクソリアの販路、法務、PR、資金。  彼が少し手を伸ばせば、MIOの穴はすぐ塞がる。  でも、その瞬間から、外からはどう見えるだろう。  MIO SHIRAKAWA。  白川澪のブランドではなく。  ルクソリアに守られた、久世怜司の女のブランド。  そう見える。  私が一番避けたかった形で。  怜司もそれを分かっているのか、画面を見たまま黙った。  助けたい。  でも、今助けたらだめだ。  そんな顔をしていた。  その沈黙を破ったのは、サロンの入口から聞こえた拍手だった。 「いい実例だ」  振り向くと、レオーネが立っていた。  まるで、カミーユの電話まで聞いていたみたいな顔で。 「最悪です」 「いや。最高だ」  レオーネは、サロンの入口からゆっくり近づいてきた。  怜司が私の前に出ようとした。  でも、その一歩を途中で止める。  止めたことに、私は気づいた。  きっと、彼も気づいている。  今ここで私の前に立てば、それは守ることになる。  同時に、MIOを彼の影に入れることにもなる。  レオーネは、その一瞬を見逃さなかった。 「MIOは売れ始めた。だが、若すぎる。生産も販路も信用も、服の熱に追いついていない」  反論できなかった。 「君の服は欲しがられている。だが、
last updateLast Updated : 2026-06-20
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