All Chapters of 極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?: Chapter 41 - Chapter 50

89 Chapters

第41話 欲が目を覚ます夜

「モデルのキャスティングを変更しろ。 このドレスの重心を理解していない。0.5秒、歩幅が遅い」 深夜のスタジオ。モニターを見つめる怜司の横顔は、彫刻のように動かない。 演出会議は、もはやビジネスの域を超えた拷問だった。 誰かが資料をめくる音だけで肩が跳ねる。 徹夜続きの頭に、プロジェクターの白い光が針みたいに刺さった。 けれど、怜司は一度も疲れを見せなかった。 その静かな苛烈さが、場の全員の逃げ道を塞いでいた。「……代表。会場を東京国立博物館の石階段にするのは、あまりにリスクが高すぎます」 演出担当が震える声で進言する。「照明の跳ね返りが強すぎる。ドレスの繊細な光沢が飛んでしまう可能性が――」「なら、石の反射率を計算して照明を組み直せ。不可能とは言うな」 怜司は一蹴し、私の方を向いた。 その視線が来るたび、いまだに背筋は冷える。試されているのだと分かるから。 昔の私なら、ここで目を逸らしていた。間違えたくなくて、期待されたくなくて、曖昧に笑って逃げていた。 でも今は、もう逸らさない。 逸らした先にあったのは、いつだって「どうでもいい側の人間」として扱われる未来だったから。「いいか、澪。今回のランウェイは単なるショーじゃない。ルクソリアの『完全復活』を世界に刻み込むための、一回限りの戴冠式だ」 怜司は私のドレスを指し示し、冷徹に言葉を継いだ。「成瀬がブランドの『伝統』を証明し、お前がその『破壊』を提示する。欧州のバイヤーたちに、ルクソリア無しでは今後三年のトレンドは語れないと確信させる。それが俺の戦略だ」 彼は立ち上がり、作業台に広げられた私のドレスに指を這わせた。 布の上を滑る長い指先を見ていると、喉が渇く。美しさを値踏みする手つきなのに、同時に、私の中身まで暴こうとするみたいでもあった。「お前たちが競い合うことで、ドレスはより鋭くなる。……どちらかが欠けても、この伝説は完成しない。お前は俺の隣で、世界を跪かせるための刃になれ」 刃。 そう呼ばれた瞬間、胸の奥の何かが静かに軋んだ。 昔の私は、誰かの役に立てればそれでいいと思っていた。便利で、従順で、使いやすいままでいれば、捨てられないで済むと思っていた。 でも今は違う。 もう、誰かの手の中で都合よく消費されるために、美しくなりたいわけじゃない。 その言葉通り
last updateLast Updated : 2026-03-10
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第42話 ランウェイ前夜――世界が名を知る前に①

 深夜のルクソリア本社。アトリエの中央で、完成したドレスが静かに佇んでいた。  照明はすべて落とされている。けれど、大きな窓から差し込む東京の月光が、純白のシルクに走る「金の糸」を、まるで血管のように浮かび上がらせていた。  佐伯は、その数歩手前で足を止めていた。触れない。  もう、このドレスに自分の経験や技術が入り込む余地などないことを、誰よりも理解していた。  ポケットの中で、スマートフォンの画面が淡く光る。  この一ヶ月、送り迎えを両親に任せ、深夜に帰り早朝に出る生活を続けてきた。寝顔しか見ていない娘からの、一通のメッセージ。 『ママ、あしたパパといくね。きらきらのドレス、楽しみ』  たどたどしいボイスメッセージに、佐伯の目元がわずかに熱くなる。  この子のために、私は何を残せるだろう。  彼女は、憑き物が落ちたような穏やかな指つきで、返信を打った。 『ええ、明日、会場で待っているわ。終わったら、あなたの好きなものを作りましょうね』  送信ボタンを押した瞬間、何十年も自分を縛り付けていた「アウローラ」の呪縛が、音を立てて解けていくのを感じた。 「……見事だ、佐伯」  背後から、怜司の声が響く。佐伯は振り返らずに、ドレスを見つめたまま微笑んだ。 「久世代表。……私は明日、あの子が世界に立つのを見届けたら、デザイナーとしての鋏を置かせていただけませんか?」  怜司の眉が、わずかに動く。  沈黙がアトリエを支配した。彼はドレスを見つめ、それから佐伯の使い古された指先に視線を落とした。 「……降りるというのか。ルクソリアが、再び世界の頂点に返り咲くこの瞬間に」 「ええ。前線で削り合うのは、もう私の役割ではありません。……ようやく、あの子にバトンを渡せた。これからは、あの子のような新しい芽を育てる側に回りたいんです。……家で娘を待たせる時間も、少しだけ増やしてやりたい。身勝手な願いだとは承知していますが」  怜司はふっと視線を逸らし、窓の外の夜景を見つめた。  その背中には、冷徹な経営者としてではなく、長年の戦友に対する不器用な労いが滲んでいた。 「……いいだろう。この一ヶ月、いや、今日までよくやってくれた。お前がいなければ、ルクソリアの伝統は途絶えていたはずだ。デザイナーとしてのお前を失うのは正直惜しいが……その眼と技術は、
last updateLast Updated : 2026-03-11
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第43話 ランウェイ前夜――世界が名を知る前に②

 その少し後。 窓の外は、夜が白み始める直前の、最も深い群青色に包まれていた。 私は誰もいないはずのアトリエの扉を開け、静かに足を踏み入れた。 照明の落ちた空間の中央で、完成したドレスが月光を浴びて青白く浮かび上がっている。 ――その傍らに、人影があった。「……怜司さん?」 思わず足が止まる。 もう、とっくに帰ったものだと思っていた。 彼は振り返らなかった。 しばらく黙ったままドレスを見つめ、それから低く言った。「来ると思っていた」 胸が、どくりと鳴る。 見透かされていたことへの悔しさと、こんな時間までここにいる彼への苛立ちと、説明のつかない熱が、いっぺんに込み上げた。「……確認しに来ただけです」「そうか」 短い返事。 そのくせ怜司さんは、ようやくこちらを振り向いた瞬間、私ではなく、まず私の手を見た。 指先が、ぴくりと強張る。 徹夜続きで針を持ち続けた指は、赤く腫れ、ところどころ薄く皮が剥けていた。 自分ではもう見慣れたはずの傷なのに、その視線に晒された途端、急にむき出しにされたみたいで、息が詰まる。「……っ」 その視線に晒された瞬間、張り詰めていたものが、ふいに音を立てて軋んだ。 徹夜続きの睡眠不足と、明日を前にした極度の緊張で、身体はもうとっくに限界だったのだと思う。 背筋に冷たい電流が走る。 私は眩暈を感じ、思わず作業台に手をついた。視界が激しく揺れ、膝が折れそうになったその時。 怜司さんの腕が、驚くほど穏やかに、私の身体を横から支えた。 この一ヶ月、容赦なく欠点を指摘されることには慣れていたのに、こんなふうに支えられるのは、少しも慣れない。 身体が強張り、肩に触れた熱に、息が止まる。「……怜司さん」 肩に触れる彼の掌の熱量に、息が止まった。 彼は私のボロボロになった指先をそっと取り、赤く腫れた肌を、慈しむような目で見つめた。「……お前は、よく頑張ってる」 その声は、いつもの氷のような響きが嘘のように、低く、熱を持っていた。 彼は私の指先に、祈るような、あるいは誓いのような軽いキスを落とした。 剥き出しの神経に触れられるような感覚に、私の心臓が跳ねる。「……ランウェイで、このドレスが世界に放たれたとき、お前のことをただの幸運な娘だなんて言う奴は、もう誰もいない。お前がその実力で、すべての口
last updateLast Updated : 2026-03-12
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第44話 今日こそ約束のピアスは私のものになるはずだった――一ノ瀬の予言が差し込むまで

 東京国立博物館、本館。  重要文化財であるその重厚な石階段は、今夜、日本で最も残酷で美しい戦場と化していた。  バックステージの薄暗いテントの中、私は鏡の前に立っていた。  ドレスの上を滑る照明は淡く、それでも緊張のせいか、肌の感覚だけが妙に鋭い。  鏡の中の自分は、一ヶ月前の私とはもう違って見えた。  頬は削げ、瞳の奥には、眠っていたはずの何かが研ぎ出されたような光がある。  ゆっくりと、耳元に触れる。  小さな箱から取り出したアレキサンドライトは、指先にひやりと冷たかった。  二次面接の夜。  怜司が、私に預けた石。  ――君の光は、俺が最初に捕まえる。  ――君が本物を作ったとき、そのとき初めて、これは君のものになる。  あの夜は、まだ遠かった。  見出されたことも、期待されたことも、どこか現実味がなかった。  けれど今日は違う。  私はそっとピアスをつける。  鏡の中で、淡い緑の奥に、わずかに紫が滲んだ。  昼と夜のあいだみたいな、まだ名前のない色。  今日こそ、これは私のものになる。  そう思った瞬間だった。 「……今日で全てが終わる。  そんな顔をしていますね」  スタッフの制止をすり抜けて、聞き慣れた、凪のような声が背後から届いた。  振り返ると、そこに一ノ瀬蓮が立っていた。  怜司の刺すような黒とは違う、月光のような淡いグレーのスーツを纏った彼は、騒がしい舞台裏でそこだけ空気が止まっているかのような錯覚を抱かせる。 「一ノ瀬、さん……」  一ノ瀬は、私の耳元を一瞥した。  その視線が、アレキサンドライトの揺れる光を正確に捉える。 「……それは、久世社長との約束ですか」  喉の奥が、かすかに詰まる。 「……悪いですか」 「いいえ。ただ」  一ノ瀬は、ほんの少しだけ微笑んだ。  人を安心させるための笑みではない。  観察し、見透かし、愉しむ人間のそれだ。 「約束が叶う直前の人間は、もっと満たされた顔をするものです」  その言葉は、喉元を研がれた剃刀でなぞられたような、冷たい痛みを伴って私を貫いた。  何も返せない。  返した瞬間、自分の中の何かが、形を持ってしまいそうだった。  一ノ瀬の声が、私の思考を静かに麻痺させていく。 「君は今夜、久世に認められる。  あるいは、
last updateLast Updated : 2026-03-13
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第45話 女王の戴冠、そして王は跪いた

 東京国立博物館、本館。  地を這うような重低音のチェロが響き渡る中、成瀬美玲のランウェイが幕を開けた。  階段の頂上に現れたのは、深い、あまりに深い「黒」を纏った漆黒の聖母。  そのベルベットのドレープは、観客の孤独や悲しみをすべて吸い込み、優しく包み込んでいく。光を拒絶するのではなく、光そのものをその内に抱き、すべてを赦すような穏やかさ。  ——『ヴィエルジュ・ノワール』——黒い聖母。  最前列のバイヤーたちが、祈るように胸の前で手を組んでいるのが見える。  拍手は、もはや称賛を超えて、神事を見終えた後のような宗教的な熱狂を帯びていた。 (……すごい。やっぱり、美玲さんは本物だ)  バックステージで出番を待つ私の心臓が、早鐘を打つ。  圧倒的な正解。  積み上げられた技術。  そして、他者を包み込むほどの深い精神性。  彼女が創り上げた完璧な「聖域」の前に、私の足元が、一瞬ひるみそうになる。 (今の私に、この闇に勝てる何があるのか……?) ***  モデルを迎え入れるために戻ってきた美玲と、至近距離ですれ違う。  彼女の瞳には、一切の迷いがない。澄み渡った静かな勝利の確信。 「……白川さん。私の『闇』は、会場のすべてを救ってしまったわ。この後に、一体何を提示するつもり? あなたの服は、いつだって誰かに愛されるための光でしょう。 救いようのない絶望の後に、そんな従順な願いなんて、誰も求めていないわ」  成瀬美玲という、正解の化け物。  彼女が提示した「闇と慈悲」の余韻が、カーテンの隙間から漏れ聞こえる拍手となって、私の肌を突き刺す。その圧倒的な格の違いに、私の心臓は冷たく縮こまり、喉の奥が乾ききっていた。 (……ああ、やっぱり私は、彼女には及ばないのかもしれない)  そう思った瞬間、脳裏に一ノ瀬蓮の冷徹な声が蘇った。 『……けれど、白川澪さん。君は本当に、それで満足するのか』  認めたくなかった。  私はずっと、誰かに愛され、認められ、正解を与えてもらえる「いい子」でいたかった。  けれど、胃の底からせり上がってくるこの、どろりとした熱い渇きは何だろう?  私は、震えていた自分の右手を、左手で強く押さえつけた。爪が掌に食い込み、痛みが、かえって頭の芯を冴えさせる。  違う。私はもう、誰かの顔色を窺って、許可を
last updateLast Updated : 2026-03-14
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第46話 世界を跪かせた夜の招待状

 ショーの後。  フラッシュの残像と、熱狂のうねりから逃れるように、私は一人、バックステージの奥にある静かな廊下で息を整えていた。  指先が、まだ微かに震えている。  冷えているはずなのに、爪の先だけが妙に熱かった。胸の奥では、ついさっきまでランウェイを駆け抜けていた光と視線と歓声が、まだ消えずに渦を巻いている。 (……私は、何を、してしまったんだろう)  世界を跪かせた。  成瀬さえも笑わせた。  確かに私は、今夜、届いてしまったのだ。  ずっと手を伸ばしても届かなかった場所へ。誰かに認められたいと願っていた、あの頃の私なら、それだけで泣いていたかもしれない。  けれど、胸の奥にあるのは、満たされた幸福感ではなかった。  真っ白に燃え尽きた、のとも違う。  むしろ逆だった。何かを出し切ったはずなのに、体の奥底には、まだ赤く煮えたぎるものが残っている。  閉じた瞼の裏に焼き付いているのは、怜司と共に引き抜いた「金の針」の感触。  あの毒々しいまでの赤と金の奔流。  拍手よりも、賞賛よりも、あの瞬間にだけ宿っていた狂気の方が、ずっと鮮やかに私の内側に残っていた。  まるで、自分の魂の深いところを裂いて、その裂け目からあのドレスを咲かせてしまったようだった。  高揚と、言いようのない孤独が交互に胸を刺す。  もう、あの「いい子」だった頃の平穏な日常には戻れない。  愛されるために服を作るのではない。誰かを、そして自分をも焼き尽くすために針を振るう怪物。  その自覚が、私の胃の底を冷たく、重く沈めていた。  カツ、と。  硬い靴音が、静寂を裂いて近づいてくる。  怜司ではない。  もっと冷たく、怜悧で、まるで死神が床を踏み鳴らしているような足音だった。  顔を上げると、そこに一ノ瀬蓮が立っていた。 「素晴らしいショーだった」  低く、静かな声。  祝福の言葉のはずなのに、その響きは妙に乾いていて、拍手よりも残酷に聞こえた。 「白川澪。君は今夜、確かに成瀬美玲を殴り飛ばし、久世怜司を狂わせた」  彼は薄く笑う。けれどその目は、賞賛よりもずっと深い場所を見ていた。 「……けれど、君はあれで満足する人間じゃないだろう?」  喉が、ひくりと震える。 「どういう意味ですか。私は――世界に認められた」 「そうだね。だ
last updateLast Updated : 2026-03-15
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第47話 「美しい」と告げて、彼は私を縛った

 一ノ瀬蓮が残していった古びた封筒。その重みすら、今はもう意識の端に追いやられていた。  背後から落ちた、重く、逃げ場を塞ぐような気配。 「……こんなところで何をしている、澪」  振り返った先にいたのは、怜司だった。  その一言で、室内の空気が一変する。怒りではない。けれど静かな声音の底には、今夜のショーの興奮を無理やり押し込めたような、濃く、危うい温度が沈んでいた。 「怜司さん……。今からレセプションの準備に。少し整えてきます」 「その必要はない」  彼は私の手元の封筒には目もくれず、ただ今の私を、値踏みするように一瞥した。  黒を基調にした細身の装い。デザイナーとして己を律し、舞台裏で立ち働くために選んだ服。けれど怜司の視線が触れるたび、守られているはずの布地が、かえって私の輪郭を際立たせていく。 「……これに着替えろ」  顎先で示された先を見て、私は息を止めた。  トルソーに掛けられていたのは、『アウローラ・クレプスキュール』。今夜、世界を震撼させたばかりの、あの毒々しくも神々しいオートクチュールだった。  アウローラ。  ――人生を変えるドレス。  ルクソリアでそう囁かれてきた名を、私は知っている。 「でも、怜司さん。これは展示用のピースです。私が着るなんて――」 「だから何だ」  低い声が途中で断ち切る。  怜司が一歩近づいた。その眼差しは、今夜だけは獣のような熱を宿している。私を見ているのに、同時に完成した作品の輪郭を指先でなぞるような、支配と賛美の入り混じった、鋭く濡れた視線。 「俺がルールだ」  短く、断定する。 「お前は今夜、ルクソリアの『最高傑作』として、俺の隣で世界にその身を晒す」  心臓が大きく跳ねた。  それは命令だった。拒絶を許さない、低く熱を帯びた声。  けれど同時に、それはデザイナーとしてこの上なく甘美な宣告でもあった。 「……それとも、俺の命令が聞けないのか?」  私は首を振ることすらできなかった。  怜司の手でドレスが持ち上げられる。その動きは静かで、それでいて、これから私を侵食しようとする意志に満ちていた。 「腕を」  低く促され、私は抗えないまま両腕を上げる。  その瞬間、怜司の指先が私の肩に触れた。  ほんのわずか。けれど、そこだけ皮膚が溶け出すみたいに熱い。
last updateLast Updated : 2026-03-16
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第48話 飽きられたコレクションの行き先

 一時間後。  レセプション会場――東京国立博物館、本館。  大理石の二股階段の最上段に、私たちが姿を現した、その瞬間だった。  シャンパンの泡が弾ける音も、何百人もの話し声も、まるで魔法が解けたみたいに、ふっと消えた。  耳を刺すような、不自然な静寂。  吹き抜けのホール。天井まで伸びる重厚な石壁。歴史の重みを湛えたその空間で、シャンデリアの容赦ない光が、剥き出しの肩とドレスの金糸をあからさまに照らし出していた。  一歩、一段。  怜司の腕が私の腰を強く抱き寄せる。薄い生地越しに食い込む指先の熱だけが、足元のない感覚の中で、かろうじて私を現実につなぎ止めていた。  やがて静寂を破ったのは、さざ波のように広がる声だった。 「……見て。信じられない。あれが、あのアウローラのデザイナー?」 「モデルじゃないのか? あの白さ……久世が手ずから磨き上げたという噂は本当だったんだな」 「ルクソリアの新しい『顔』か。神話から抜け出してきたみたいだ」  正面から向けられる称賛ではない。私を見ながら、私の頭上で交わされる、熱を帯びた噂。  その熱の底には、 称賛ではなく、剥き出しの欲望があった。 「……でも、聞いた? 彼女、もとはただの無名な針子だったって」 「久世さんの愛人でしょう? 才能を買い取ったのか、彼女自身を買い取ったのか……」 「どちらにせよ、今夜で価値は跳ね上がったな」  フラッシュが網膜を焼くたび、私は一枚ずつ剥がされていく気がした。  白川澪という女は、この熱狂の中で輪郭を失い、ただ世界を魅了するためだけに飾られた「生きる宝石」へと、無理やり作り替えられていく。  満たされるような感覚と、足元から這い上がってくる寒気。  私はただ、隣の男の腕を、折れそうになるほど強く握ることしかできなかった。 (……私は、誰? 私は、何?)  階段を降りきったところで、その声の渦を切り裂くように、一人の女性が立っていた。  東雲綾乃。  久世怜司の婚約者にして、ルクソリアの筆頭出資者。  彼女が纏っているのは、深いサファイアブルーのイブニングドレスだった。  一点の隙もないカッティング。私の放つ刺すような黄金の光を、すべて呑み込んで沈めてしまいそうな、理性的で冷たい「青」。  曇りひとつない真珠を首に巻いた彼女は、完璧な微笑を
last updateLast Updated : 2026-03-17
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第49話 アレクサンドライトに灼かれる夜

 六本木一丁目、最上階。  専用のカードキーをかざして、直通のエレベーターが静かに停止した。  同じマンションの数階下に、私は住んでいる。けれど、この最上階のペントハウスへ足を踏み入れるのは、今日が初めてだった。  重厚な扉が開いた瞬間、そこにあったのは、生活感という概念を徹底的に排除した、冷徹なまでの美学に貫かれた空間だった。  高い天井まで届く全面の硝子窓。そこから見えるのは、宝石をぶちまけたような東京の夜景だけだ。  広大すぎるリビングには、イタリア製の黒いレザーソファがぽつんと置かれ、床は一点の曇りもない大理石が冷たい光を反射している。 (……何もない)  贅を尽くしているはずなのに、ここには温もりが一つもない。花瓶の一つさえ、計算し尽くされた配置で置かれ、まるでギャラリーの展示品のようだ。  気密性が高すぎるせいか、耳の奥でキーンと高い耳鳴りがした。さっきまでの博物館の喧騒が、遠い前世の出来事のように色彩を失っていく。  背後で重厚なドアが閉まる音が響いた。 「……何を考えている」  夜景を背に立ち止まった私の背中に、怜司の低い声が重なった。  振り返らなくてもわかる。 彼は今、品定めをするような、冷徹で熱い視線を私の背中に突き刺している。 「……別に。ただ、あまりに綺麗すぎて。私がここにいるのが、何かの間違いみたいで」 「間違いではない。お前は今夜、この部屋に最も相応しい装飾だ」 (――装飾)  怜司の長い指先が、私の耳元に触れた。  ひんやりとしたプラチナの感触。その先にある、アレクサンドライトの硬い輝き。  不意に、あのレストランでの記憶が、シャンパンの泡のように脳裏に浮かんできた。  ――君が本物を作ったとき、そのとき初めて、これは君のものになる  あの夜、蓋を開けた私に、彼はそう言った。「預ける」のだと。  伝説の女優が身につけていたというその石は、当時の私にはあまりに重く、緑の奥に滲む紫の色調すら、私を拒絶しているように見えた。  けれど今、怜司の指先がその石を愛おしげに弾く。 「……今こそ、これはお前のものだ。澪」  彼の低い声が、熱を帯びて耳朶を震わせる。 「よくやった。これほどまでに、この石を美しく変色させる女を、俺は他に知らない」  アレクサンドライトは今、部屋の間接照明と東京の夜景
last updateLast Updated : 2026-03-18
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第50話 満たされた朝、女神の代償

 翌朝。午前六時。  遮光カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいた。  意識が浮上すると同時に感じたのは、肌を滑る上質なシーツの感触と、背中に密着する重厚で、抗いがたい熱量。 「夢じゃなかったんだ……」  瞼を閉じれば、昨夜の光景が鮮やかに蘇る。  何百もの視線とフラッシュの嵐を切り裂いて歩いた、あの黄金のランウェイ。  喝采の渦の中で、怜司が私を「自分のもの」として世界に誇示した、あの傲慢で熱い眼差し。  そしてこの部屋で、初めて怜司に女として暴かれ、名前を呼ばれ、すべてを明け渡した、あの狂おしいまでに甘く、残酷な充足。  全身に残る心地よい重だるさと、肌に刻まれた彼の指先の残像が、それらすべてが現実であることを証明していた。  広すぎるベッドの中で、怜司の逞しい腕は私の腰を強く抱き込み、逃がさないように引き寄せている。 「……起きたか」  低い、掠れた声が耳元で響く。  振り返ると、無防備に前髪を下ろした怜司さんと視線がぶつかった。冷徹な支配者の仮面を脱いだ彼の瞳には、昨夜、初めて私を貫いた時の熱の残滓が、蕩けるような甘さを帯びて揺れている。 「おはよう、ございます……。まだ、いらっしゃったんですね」 「初めてお前を手に入れた翌朝に、一言も交わさず仕事に向かえるほど、俺は枯れていない。……少し予定を遅らせた」  彼はそう言って、私の頬を指先で愛おしげに撫でた。  そのまま、目元や鼻筋に、羽毛が触れるような優しいキスを落としていく。    夢じゃない。  この肌に触れる唇も、耳元のアレクサンドライトの冷たさも、この胸を満たす熱も、この部屋を満たす静かな支配も、すべてが真実。   「……澪。昨夜のドレスは、本当に素晴らしかった。……そして、お前自身も。俺の期待を、これほどまでに最高の形で超えてくるとはな」  抱き寄せられ、彼の胸に顔を埋める。  認められ、愛され、この特別な部屋に留まることを許されている。  それは、麻薬のような全能感だった。 「愛しているよ、俺の女神《ミューズ》」  その言葉と共に交わされた、深く、甘い朝の口づけ。  唇が離れたあとも、私はしばらく息の仕方すら思い出せなかった。    私は、彼の腕の中で微睡みながら、確信していた。  私はついに、この男の心も体も、その栄光も孤独も、す
last updateLast Updated : 2026-03-19
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