All Chapters of 極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話 世界一幸せなデザイナーのはずだった

 数時間後。  私は、ルクソリアのショールームに隣接する特設会場で、まばゆい照明の洗礼を受けていた。  目の前には、世界各国のモード誌を代表するエディターたちが顔を揃えている。  ニューヨーク、パリ、ミラノ。  かつては雑誌の向こう側の世界だった人々が、今は私の「声」を一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しでボイスレコーダーを向けていた。  しかも、その視線にあるのは好奇心だけじゃない。  渇きだ。  昨夜のランウェイで見せたものの正体を、どうしても知りたいという、貪るような熱。 「白川さん、あなたの線には暴力があるのに、同時に祈りみたいな静けさもある。あんなドレスは初めて見たわ」 「次のコレクションはいつですか。あなたの名前を、私たちは覚えて帰ることになる」 「昨夜のあの一着で、アジアの新しい時代が始まったと書くつもりよ」  矢継ぎ早に飛んでくる言葉に、胸の奥が熱くなる。  信じられなかった。  私の線が、私の名前で、こんなふうに世界へ届いている。  誰かの手柄でも、誰かの添え物でもなく。  白川澪として。  それはたしかに、欲しかった報いのはずだった。 「白川さん。昨夜の『アウローラ』は、ファッション界に起きた奇跡だと評されています。あの圧倒的な『渇望』を、どうやってドレスに封じ込めたのですか?」  ……渇望。  質問を投げかけられた瞬間、私の指先がわずかに震えた。 (……わからない)  どうやって描いたのか。あの時、何を食べて、どんな風に呼吸をしていたのか。  今の私には、もう思い出せない。 「それは――」  答えに窮した私の肩に、後ろから温かい手が置かれた。  怜司だ。  彼は、昨夜の情事の名残を感じさせるような距離感で、ごく自然に私の隣に立った。 「彼女の才能は、極限の孤独と、美への執着から生まれました」  怜司が、私の代わりに淀みなく答える。 「そしてこれからは、その才能を私が、ルクソリアという完璧な環境で守り、育てていく。彼女の次なるステップは、さらに洗練された、真のラグジュアリーへと向かうでしょう」  流れるような受け答えだった。  社長としても、恋人としても、非の打ちどころがない。  私が答えに詰まった一秒の隙さえ、美しい物語に編み直してしまうくらいに。  記者たちのペンが一斉に走る
last updateLast Updated : 2026-03-20
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第52話 檻の中、ミューズの線は甘くぬるい

 あのランウェイの夜から、三週間が過ぎた。  私の生活は、音を立てずに、けれど決定的に作り変えられていた。  朝、目覚めるのは自分のアパートではなく、怜司の腕の中。  クローゼットを開ければ、私の好みではなく「ルクソリアの顔」として相応しい、彼の選んだ最高級の既製服(プレタポルテ)が整然と並んでいる。 「これに着替えろ。今日のランチミーティングには、その色の方が映える」  ネクタイを締めながら、怜司は鏡越しに指示を出す。  それは命令というより、完璧な所有物をメンテナンスするような、慈しみに満ちた手つきだった。  表向き、私は「新進気鋭の天才デザイナー」だ。  けれど、業界のパーティーや打ち合わせに彼と並んで出席するたび、背後で囁かれる声は、私の耳を冷たく撫でていく。 「……結局、あの子も『そういうこと』でしょ?」 「久世さんのお気に入りになれば、ランウェイなんて用意されたレールのようなものよね。才能があるのか、枕が上手いのか……」  シャンパングラスを握る指先が、微かに強張る。  彼に愛され、彼に守られているという事実は、同時に私の「クリエイターとしての自立」を剥ぎ取っていく刃でもあった。  怜司は、そんな私の動揺に気づいているのかいないのか、大きな手で私の腰を抱き寄せ、周囲を威圧するような微笑みを浮かべる。  その温もりに縋るほど、私は自分が「自分の足で立っていない」ことを自覚させられるのだ。 ***  ルクソリア本社のデザイン本部に足を踏み入れるたび、肌を刺すような空気の変質を感じずにはいられなかった。  かつては、弱肉強食の戦場だった。  誰もが自分の才能を証明しようと目を血走らせ、鋭利な言葉を投げ合っていたあの空間が、今は奇妙なほど「静か」だ。 「……おはようございます、白川さん」 「あ、資料、デスクに置いておきました。確認お願いしますね」  すれ違う同僚たちが、私と視線を合わせないように、けれど極めて丁重に頭を下げる。  以前のような、露骨な無視や舌打ちの方がまだマシだったかもしれない。今の彼らの態度は、デザイナーとしての私への敬意ではなく、その後ろに控える「久世怜司」という権力への、盲目的な恭順だ。  私は、ルクソリアの筆頭デザイナー。  そして同時に、トップの「お気に入り」という、この聖域で最も忌むべ
last updateLast Updated : 2026-03-21
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第53話 人として求められてしまったことに揺れた夜

 美玲に言われた言葉が、その日ずっと、指先に刺さっていた。  退屈。  久世怜司が好みそうな女の服。  何度描き直しても、紙の上に落ちる線は、以前みたいに鋭くならない。少し丸くて、少し甘くて、どこか逃げ場を残した線ばかりだった。  終業の少し前、とうとう私はペンを置いた。  ガラス張りの会議室には、夕方の光が薄く溜まっている。デザイン部の喧騒はまだ消えていないのに、私だけが透明な箱に閉じ込められているみたいだった。 「澪」  低い声に、肩が揺れる。  顔を上げると、怜司が立っていた。  今日も隙のないスーツ姿なのに、その目だけが、仕事の場の温度じゃない。 「……まだやっていたのか」 「少し、直したくて」  そう答えた声は、自分でも驚くくらい弱かった。  怜司は私のデスクに散らばったスケッチを一瞥し、それ以上は何も言わなかった。ただ、私の右手を取る。  指先に残った鉛筆の汚れを、彼の親指が静かに撫でた。 「冷えている」  それだけ言って、怜司は背後に控えていた佐々木の方を見た。 「この後の予定は全部切る」 「承知しました」  あまりに自然な指示だった。 「え、でも……夜の打ち合わせが」 「いらない」  短く、言い切る。 「今日はもう、働く顔をしなくていい」  その一言が、胸の奥のどこか柔らかい場所に、ひどく深く沈んだ。 ***  連れて行かれたのは、いつものレストランでも、パーティー会場でもなかった。  都心から少し離れた、低層の小さなホテルだった。外観は目立たないのに、足を踏み入れた瞬間、空気の密度だけが変わる。灯りは暗すぎず、香りも静かで、誰かに見られている感じがしない。 「……ここ、は?」 「たまに使う」  それだけだった。  余計な説明をしないところまで、怜司らしい。  案内された部屋は、広いのに落ち着いていた。大きな窓の向こうには、夜の水面みたいに黒い庭が広がっている。ルクソリアの見せる豪奢さとは違う。誰に誇るためでもなく、ただ、気を緩めるためだけに整えられた場所。  そこに入った途端、身体から力が抜けた。 「座れ」  ソファに促されて腰を下ろすと、怜司は自分でジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めた。  その動作だけで、さっきまで本社を支配していた男が、少しだけ遠くなる。  私は、それを目
last updateLast Updated : 2026-03-22
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第54話 離さないで、と言えたのに

 食事のあと、部屋に戻ると、窓の外では細い雨が降り始めていた。  私はヒールを脱ぎ、ソファの端に座る。  怜司はその前に立ち、何も言わずに私の耳元へ手を伸ばした。  アレクサンドライトのピアスが、そっと外される。 「今日は、重いだろう」  その一言に、目の奥が熱くなった。  ずっと、重かった。  でも、それを言ってはいけない気がしていた。  彼がくれたものだから。彼の愛の証だから。  なのに怜司は、責めるどころか、当然みたいにテーブルへ置いただけだった。 「……怜司さん」 「なんだ」 「今日、すごく、やさしいですね」  自分で言って、少し笑ってしまう。  怜司は一瞬だけ眉を動かし、それから私の前に膝をついた。  視線の高さが合う。  そのことに、どうしようもなく心臓が鳴る。 「俺は、お前に優しくないと思われていたのか」 「そういうわけじゃ……」 「なら、訂正しておく」  大きな手が、私の頬に触れる。 「お前には、最初から甘い」  低い声。  でも、その中に少しだけ混じった熱を、聞き違えることなんてできなかった。  次に重なったキスは、驚くほど静かだった。  奪うためじゃない。  確かめるように、触れて、離れて、また触れる。  私は、自然に目を閉じた。  こんなふうに大切に触れられるだけで、身体の奥までほどけてしまう自分が、少し怖い。  けれど、その怖さごと抱きしめられてしまったら、もう抵抗なんてできなかった。  その夜、怜司は私を急がせなかった。  指先ひとつ、髪を撫でるたびに、まるで壊れものみたいに扱う。  熱はあるのに、乱暴じゃない。  求められているのに、同時に守られている。  そんな矛盾した幸福の中で、私は何度も目を閉じた。  この人の腕の中にいるときだけは、何も考えなくていいのかもしれない。  線のことも、敵のことも、自分がどこまで描ける人間なのかも。  ただ愛される女でいても、許されるのかもしれない。  そう思った瞬間、胸の奥で、何かが甘く溶けた。 ***  翌朝、目が覚めたとき、カーテンの隙間から淡い光が差していた。  怜司はまだ眠っていた。  整った睫毛も、少しだけ緩んだ口元も、起きているときとは違って見える。  私は枕元のメモパッドとペンを取り、そっとその横顔を
last updateLast Updated : 2026-03-23
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第55話 愛されたあとの白い紙

 そのまま、もう一度キスをされた。  朝の光の中で触れられると、昨夜とは違う意味で逃げ場がなくなる。隠すものも、言い訳も、薄い膜みたいに透けてしまう。私は怜司の肩に手を置いたまま、目を閉じた。  やさしい。  この人は、こんなふうにも触れられるのだと、今さらみたいに知ってしまう。知らなければよかったのかもしれない。こんな熱を知ってしまったら、もう以前の私には戻れない気がした。 「朝食、下で取るか」  唇が離れたあと、怜司が低く言う。 「それとも、ここへ運ばせる」 「……どちらでも」 「なら、ここにする」  即答だった。  私は少し笑う。 「考える時間、なかったですね」 「お前を人目に晒したくない」  さらりと言われて、胸の奥がまた甘く痺れた。  こんな言葉、本当は危ういのに。なのに今の私は、その危うさごと愛されている気がしてしまう。 ***  昼前、ホテルの部屋はひどく静かだった。怜司が会議へ向かったあとも、シーツにはまだぬくもりが残っている。私はしばらくベッドの端に座ったまま、指先でその熱をなぞっていた。  満たされていた。  昨日まで胸の奥をざらつかせていたものが、嘘みたいに遠い。身体も、心も、ゆるやかにほどけていて、痛いところがどこにもない。だからふと、今なら描けるかもしれないと思った。  デスクへ向かい、ホテルのメモパッドを引き寄せる。白い紙。ペン先を落とす。けれど、最初の一本がなかなか出てこない。  私は息を整え、もう一度ペンを持ち直した。昨夜の雨でもいい。朝の光でもいい。このやわらかい幸福を、線にすればいいだけなのに。  紙の上に落ちたのは、驚くほどきれいな曲線だった。  やわらかくて、なめらかで、どこにも棘がない。痛みも、渇きも、飢えもない。ただ、整っている。  私はその線を見つめたまま、指先からすっと血の気が引いていくのを感じた。  ――飽きられたコレクションが辿る先は、いつだって暗い倉庫の底。  綾乃の声が、不意に耳の奥で蘇る。積み上げられ、管理され、価値を測られるための、美しい箱。その中に、今の私の線もきれいに並べられていく光景が、ありありと浮かんだ。  違う。  こんなのじゃない。こんなに美しくて、こんなに死んだ線が、描きたいわけじゃない。  慌てて次の線を重ねる。少し強く。少し崩して。
last updateLast Updated : 2026-03-24
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第56話 孤独な狂気の血

 ルクソリア本社のそば、静かなイタリアンのテラス席。  佐伯はワイングラスを傾け、遠くの夜景を見つめながら、ポツリと独り言のように言った。 「私もね……昔、描けなくなったことがあるわ」  意外な告白に、私は息を呑む。 「情熱的な恋をして、満たされてしまったの。そうしたら、あんなに大切だった『赤』が、どうしても描けなくなった。……だから私は、あの色を捨てたわ。でもね、白川さん。それでもいいのよ。一人の女として、幸せを選ぶ人生だって、決して間違いじゃない」  彼女の視線が、テーブルの上の私の指先を捉える。そこには、誰かに強く愛されている女だけが纏う、独特の艶があった。 「……でも、怜司さんは」  私は、周囲に聞こえないよう声を潜めて問いかけた。社内では隠し通している、久世怜司との危うい関係。 「……怜司さんは、描けない私を愛してくれるでしょうか。私がただの『幸せな女』になって、牙を失くしてしまったら……彼は、私を見捨てるんじゃないでしょうか」  佐伯は悲しげに目を細め、震える私の手に、自分の手を重ねた。 「……彼は、美しいものが好きなだけじゃない。美しいものを創り出す『狂気』を愛しているのよね。それを失ったあなたを、彼がどう扱うか……。それは私にもわからないわ」  彼女は一度言葉を切り、どこか遠い記憶を辿るように目を細めた。 「……わからないけれど。白川さん、あなたのお母さんのこと。……彼女がかつて、このルクソリアの頂点にいたことは、もう知っているわよね」  私は小さく頷いた。以前その事実を聞かされたときは、遠いおとぎ話のようにしか感じられなかった。けれど、今は違う。その重みが、肌を刺す。 「ええ……。でも、なぜ母がそれを捨ててしまったのか、それだけは今も分からなくて」  佐伯は、グラスの縁を指先でなぞった。 「……知らないわけじゃないの」  その一言に、背筋が冷えた。 「私とあなたのお母さんは、昔、同じ人を見ていたわ」  私は瞬きを忘れた。 「同じ……人?」 「久世代表のお父さまよ」  心臓が、大きく脈を打つ。怜司の父。その響きだけで、この話がただの昔話ではなくなる。 「私たちは二人とも、あの人に才能を見つけられた。褒められて、必要とされている気になった。……愚かだったわ」  佐伯は自嘲するように笑った。 「確かに、
last updateLast Updated : 2026-03-25
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第57話 独占欲のブレスレット

 店を出たとき、黒い車はもう路肩に止まっていた。運転席から降りた佐々木が静かに会釈をする。その向こう、後部座席のドアのそばに怜司が立っていた。  視線が合っただけで、胸の奥が強く鳴る。逃げたい気もするのに、同時に、会えてよかったと思ってしまう自分がいた。 「……澪」  低い声が、夜気を切る。私的な場ではそう呼ぶようになってから、まだそんなに経っていない。なのに、その二文字だけで、私は簡単にほどけてしまう。 「顔色が悪い」 「少し、考えごとをしていただけです」 「そういう顔じゃない」  短く言って、怜司は私の頬に触れた。冷えた指先を包むみたいに、手のひらが熱い。 「今日は帰さない」 「……え」 「週末だ」  一拍。 「別荘へ行く」  拒むための言葉を探したはずなのに、見つからなかった。佐伯に言われた言葉が、まだ心のどこかで冷えている。それなのに私は、その手のぬくもりから離れられなかった。 ***  都心の灯りが遠ざかるにつれて、胸のざわつきも少しずつ静かになっていった。車窓の向こうは、夜の色が濃い。高速を降りる頃には、見えるのは街ではなく、黒い木々と低い外灯だけになっていた。 「……別荘って、よく行くんですか」 「いや」  怜司は外を見たまま答える。 「人を連れていくのは珍しい」  それだけなのに、心臓がまた勝手に鳴る。私は窓に映る自分を見ないふりをした。  着いたのは、森に囲まれた静かな家だった。派手さはない。でも、門を抜けて石畳を進んだ瞬間、そこだけ時間が遅くなるみたいな空気がある。  大きな窓。低い照明。磨かれた木の床。暖炉の火は入っていないのに、部屋そのものに人の体温みたいなぬくもりが残っている。 「……綺麗」  思わずこぼれた声に、怜司がこちらを見た。 「気に入ったか」 「はい……すごく」 「ならよかった」  ほんの少しだけ、彼の目元がやわらぐ。それを見るたび、胸の奥の痛いところまで甘くなる。 ***  食事は、驚くほど静かだった。料理はどれもやさしい味で、東京で人に見られながら口にする皿とは違っていた。何をどう食べるのが正解か気にしなくていいだけで、こんなに息がしやすいなんて思わなかった。  怜司も、仕事の話をほとんどしない。代わりに
last updateLast Updated : 2026-03-26
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第58話 置いていくな、とあなたは言った

 食後、少しだけ家の中を見て回った。二階の廊下の突き当たりに、小さな書斎があった。重厚な机、本の詰まった棚、壁に飾られた古い写真。生活の気配は薄いのに、そこだけ過去が沈殿しているみたいだった。  私は何気なく、一枚の額に目を止める。モノクロに近い色褪せた写真。若い女優が、舞台袖らしい場所で振り返っている。纏っているのは、間違いなく《アウローラ》だった。  その横に立つ男の横顔に、私は息を止めた。怜司に、少しだけ似ていた。 「……これ」  振り返ると、いつの間にか怜司が立っていた。さっきまでのやわらかい空気が、一瞬で引く。 「父だ」  短い返事だった。それ以上は触れてはいけない気がしたのに、私は写真から目を離せなかった。 「この人は……」 「セレナ・ヴァルデだ」  やはり、と思う。《アウローラ》を伝説にした女優。その名前を怜司が口にした瞬間、部屋の空気がわずかに冷えた。 「父は、この女を選んだ」  淡々とした言い方。なのに、その奥に、長く沈んだものがある。 「母がどれだけそばにいても、目に入っていたのはいつもこっちだった」 「……それだけじゃない」  彼の視線が写真に落ちる。 「家にいても、いないのと同じだった。作る側の人間がどれだけ血を流しても、最後にあの人が選ぶのは、神話を纏う女だけだった」  少し、記憶を探るような間があく。 「父のそばには、当時の《アウローラ》を支えた女たちが何人もいた。母も、その一人だった」  その声は低くて静かで、怒っているようには聞こえなかった。でも、怒りより深いものがあった。私はそっと息を飲む。 「……嫌い、だったんですね」 「今も嫌いだ」  即答だった。 「母を壊した」  一拍。 「家も、あの人間が冷やした。誰か一人をまっすぐ愛したんじゃない。神話に酔って、周りの人間まで巻き込んで、削っていっただけだ」  そこまで言ってから、怜司は自分で言い過ぎたと思ったのか、少しだけ視線を逸らした。私は、その横顔から目を離せなかった。この人にも、こんなふうに触れたくない傷があるのだと、初めて実感した。 「……でも」  喉が乾く。 「怜司さんも、アウローラを見ていますよね」  言ってしまってから、後悔した。踏み込みすぎたかもしれないと思ったのに、怜司は否定しなかった。 「ああ」  低い声が
last updateLast Updated : 2026-03-27
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第59話 愛されるほど、書けなくなる

 週明け、デザイン部の白い机に向かった瞬間、私は自分の指が止まっていることに気づいた。  紙は真っ白だった。何本も線を引いたはずなのに、どれも薄い。きれいで、整っていて、でもそれだけだ。  違う。  私は乱暴に紙をめくった。  並ぶのは、怜司さんに似合いそうな、怜司さんが好きそうな、幸せな女の服ばかりだった。痛いほど優雅で、痛いほど退屈だ。 (……書けない)  喉の奥が、ぎゅっと狭くなる。  別荘で抱きしめられた夜の熱が、まだ身体のどこかに残っている。誕生日を祝われたことも、眠そうな声で「置いていくな」と掴まれたことも、忘れられない。  幸せだった。たぶん、人生でいちばん。  なのに。  愛されれば愛されるほど、私の線は丸くなる。守られれば守られるほど、私の中の飢えは眠っていく。  このままじゃ、私は書けなくなる。  そう理解した瞬間、心臓が嫌な音を立てた。 ***  その日の夕方、私は駅前の喫茶店で、冷めかけたコーヒーを前に座っていた。  今の私を「ルクソリアの専属デザイナー」でも「久世怜司の女」でもなく、ただの白川澪として見てくれる人に会いたかった。思い浮かんだのは、一人だけだった。 「……やっぱり」  顔を上げると、遥が立っていた。  九条遥。服飾学校時代の親友。盗作疑惑で全部を失いかけたときも、「私なんかって言わないで」と、アウローラに応募する背中を押してくれた人。  その姿を見た瞬間、胸の奥の張りつめていた糸が、少しだけ緩んだ。 「来てくれて、ありがとう」  自分でも驚くほど、素直な声が出た。  遥は席に着きながら、じっと私を見る。 「話したいっていうから、何かと思ったら」 「……ごめん、遥。いつも」 「謝ることじゃないよ……でもどうしたの? 幸せなはずなのに」  手に持ったカップが、かすかに震えた。  遥は昔からそうだった。遠回しな慰めはしない。いつも、いちばん痛いところを、静かに射抜いてくる。  視線が私の手首へ落ちる。銀のブレスレット。何も聞かなくても、だいたい分かっている顔だった。 「うん、でも」  そこで言葉が止まる。  遥は急かさなかった。ただ、静かに待つ。 「……言って」  やさしい声だった。その一言で、喉の奥に押し込めていたものが、少しだけほどける。 「……書けないの」
last updateLast Updated : 2026-03-28
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第60話 あなたを愛したまま、部屋を借りる

 喫茶店を出ると、夕方の空気は思っていたより冷たかった。  私は遥の半歩後ろを歩きながら、自分がどこへ向かっているのか、まだ現実としてうまく掴めずにいた。  部屋を借りる。  怜司に内緒で。  私が私に戻るためだけの場所を。  口にしたのは自分なのに、その言葉の重さが遅れて胸に落ちてくる。 「……まだ、やめてもいいよ」  前を向いたまま、遥が言った。 「え」 「澪がほんとに欲しいの、逃げ場じゃなくて覚悟かもしれないし」  図星みたいで、胸が痛んだ。  私は少しだけ俯く。 「……分かんない」  正直に答えると、遥はそれ以上責めなかった。 「分かんなくてもいいよ。今は、呼吸できる場所を先に確保しよう」  その言葉に、私は小さく息を吐いた。  全部を決めるのは、まだ先でいい。  でも、怜司の愛の中で何も持たないまま立っているのは、もう怖かった。 ***  連れて行かれたのは、昔よく資材を買いに歩いた工房街の外れだった。  潮と機械油の匂い。少し古びたシャッター。狭い路地に差し込む夕方の光。  ルクソリアのガラス張りの世界とは、まるで違う。  なのに、この空気を吸った瞬間、胸の奥がひどくざわついた。  懐かしい。  苦しい。  でも、ここには確かに、私の飢えがあった。 「顔つき、戻った」  遥に言われて、はっとする。 「そんなに分かる?」 「分かるよ。今の澪、さっきよりずっと息してる」  その言葉に、私は少しだけ笑った。  不動産屋は、駅前の大手チェーンではなく、地元で長くやっているらしい小さな店だった。ガラス戸を開けると、古いエアコンの風と紙の匂いがする。  応対に出てきた女性は、私たちを上から下まで見て、それから柔らかく笑った。 「一人暮らし用ですか?」  その問いに、私は一瞬だけ言葉に詰まる。  ルクソリアの専属デザイナーとしてなら、もっときれいな答えはいくらでも作れた。  でも、ここではそれを言いたくなかった。 「……作業もできる部屋を探してて」  ようやく出た声は、少し掠れていた。 「静かで、あまり人が来なくて……一人になれるところがいいです」  店員は一瞬だけ目を細めたが、余計なことは聞かなかった。 「でしたら、ちょうど一件。築年数は古いですが、家賃も安くて、角部屋です」  差し
last updateLast Updated : 2026-03-29
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