Semua Bab 極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?: Bab 61 - Bab 70

89 Bab

第61話 密室で、女にされる夜

 数日後、独りになった部屋で、私は耳元のアレクサンドライトを外した。  ガランとした、何もない作業台。その隅に置かれた宝石の輝きは、この殺風景な空間ではひどく場違いで、冷ややかに見えた。  私はバッグの底から、ずっと開けられずにいた一ノ瀬さんからの招待状を取り出した。  誰にも見られない場所。誰の所有物でもない時間。  私は震える手で、古い鉛筆を握りしめた。  怜司に嘘をついているという不誠実な「罪」の意識が、皮肉にも私の指先に、かつての鋭利な「毒」を呼び戻していく。 (……愛してほしい。でも、描けない私にはなりたくない)  その歪なバランスの上で、私は狂ったように型紙を、そして新たなデザインを引き始めた。  この時、私はまだ気づいていなかった。  やっと見つけたこの「息ができる場所」が、数日後、怜司の手によって、私を逃げ場のない「女」へと変える密室になることを。 ***  数日後の深夜。  雑色駅近くの古いアパートは、ガタンゴトンと鳴り響く終電の振動に揺れていた。  私は、部屋の明かりもつけず、手元のデスクスタンド一つで作業に没頭していた。指先には鉛筆の芯の汚れがつき、肩は凝り固まっている。けれど、かつてのような鋭い「毒」を孕んだ線が、紙の上で踊り始めていた。  (これだ……この線が、私なんだ。まだ、死んでなかった……)  その時。  背後で、カチャリ、と乾いた音がした。  オートロックのない古い賃貸の、薄いドアが開く音。  心臓が喉まで跳ね上がった。強盗だろうか、それとも。  恐る恐る振り返ると、そこには、夜の闇をそのまま人の形にしたような、長身の男が立っていた。 「……素晴らしい隠れ家だな。ルクソリアのメインデザイナーが自腹で借りるにしては、いささか禁欲的すぎるが」  怜司だった。  この埃っぽく、機械油の匂いが染み付いた狭い四畳半に、彼の纏う冷徹なオーラも、上質なコートの質感も、あまりに異質だった。私は、震える手で描きかけのデザイン画を隠そうとしたが、彼はそれを無視し、机の隅に無造作に置かれたアレクサンドライトを拾い上げた。 「……怜司さん、どうしてここを」 「お前のやることは、すべて俺の手の手のひらの上だと言ったはずだ、澪」  彼は私に歩み寄り、顎を強く掬い上げた。逃げようとする視線を、その冷徹な瞳で強引
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-03-30
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第62話 地獄へ行こう

 翌朝、怜司が満足げに去った後の部屋には、沈殿したような静寂と、刺すような機械油の匂いだけが残っていた。  私は鉛のように重い身体を引きずり、洗面台へ向かった。鏡に映った自分の首筋には、彼が刻んだ紅い「印」が、呪いのように生々しく浮かび上がっている。  その時だった。  ――うっ。  唐突に、胃の底からせり上がるような激しい不快感に襲われた。  私は洗面台に縋りつき、胃液を吐き出すようにして激しく咽せた。昨夜の行為への嫌悪感だろうか。それとも、彼に魂を蹂躙されたことへの、生存本能としての拒絶反応か。けれど、その吐き気は一度では収まらず、何度も、執拗に私の喉を焼き、体力を削り取っていく。  ふと、一週間前から感じていた、熱っぽい身体のだるさを思い出した。単なる過労だと思っていた。怜司のマンションの、管理し尽くされた空間にいたから気づかなかった。  私は震える指先で、近くの薬局で買い置きしていた小さな箱を、バッグの底から取り出した。  ――もし、そうだったら。  心臓が耳元で鳴っている。  数分後。冷え切ったワンルームのなかで、私はその細いプラスチックの棒に浮かび上がった、鮮やかな「二本の線」を凝視していた。  崩れ落ちるように床に座り込む。  怜司は言った。  お前が空っぽの女になっても愛している、と。  その言葉が、今、最悪の形で肉体となって私を縛り付けている。この子は、私の「才能」が死んでいく代わりに、私の「女」としての部分が咲かせた毒の花だ。  もしこのことを怜司が知れば、彼は喜ぶだろうか?  私を一生閉じ込めるための、完璧な、逃げ出すことのできない「檻」が完成したのだから。 「……っ、いやっ」  お腹に手を当てる。そこにはまだ、何の鼓動も感じられない。けれど、確実に何かが私を蝕み、一ノ瀬さんの待つ「表現者の地獄」へ向かおうとする私の足を、泥沼のように引き止めている。  私は、机の隅で冷ややかに光るアレクサンドライトを見つめた。  頭が働かない。昨夜、怜司に蹂躙された感覚が、いまだに熱を持って肌の裏側を這い回っている。 『お前が何も創り出せなくなっても、愛している』  その言葉を思い出すたび、私の心は、ひどく醜く揺れた。  帰ればいいのだ、あのマンションに。  この「身体の異変」を告げれば、彼はきっと、これまで以
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-03-31
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第63話 片耳のアレクサンドライト

「……白川です」  通話の向こうで、一瞬、重い沈黙が流れた。やがて、氷を溶かしたような、低く愉悦を含んだ声が鼓膜を打つ。 『……ようやく、檻から出る決心がついたようだね、白川さん』  ――ああ、彼は最初からわかっていたんだ。  一ノ瀬は、私の声の震えだけで、すべてを悟ったようだった。私が怜司の愛でデザイナーとしての魂を失いかけ、そして愛するからこそ、その愛から逃げ出す選択をすることを。私がどんなに抗っても、結局は表現者という名の修羅として、血の匂いがするこちらの世界へ堕ちてくることを、彼は確信して待っていたのだ。 「……今すぐ、私を消して」 『いいだろう。君という存在を、この世界から一度、完璧に殺してあげるよ』  通話を切ったあと、しばらく私は動けなかった。冷えた部屋の静けさの中で、心臓の音だけがいやに大きい。もう決めたはずなのに、指先は震えている。  逃げる。怜司から。怜司の愛から。  そうしなければ、私は書けなくなる。書けなくなった私を、あの人が愛したとしても、それはきっと、私が欲しかった愛とは違う。  分かっている。分かっているのに、胸の奥では別の声が泣いていた。離れたくない。あの腕の中にいたい。朝、眠そうな声で「置いていかないでくれ」と縋ったあの人を、ひとりにしたくない。  けれど、好きだからこそ、ここにいてはいけない。 ***  深夜のマンションは、息を潜めたみたいに静かだった。私は合鍵で扉を開ける。灯りは落ちている。磨き上げられた廊下の先、寝室のドアがわずかに開いていた。  靴を脱ぐ手が、少し震える。ここへ帰ってきたのは、荷物を取るためじゃない。ちゃんと、終わらせるためだ。  寝室に入ると、怜司は眠っていた。深い眠りに落ちた横顔は、起きているときよりずっと若く見える。きつく結ばれていない唇。少し乱れた前髪。規則正しい呼吸。こんなふうに無防備な顔を知っているのは、自分だけなのだと思った瞬間、喉の奥が熱くなった。  私はベッドのそばに膝をつく。あたたかい。手を伸ばせば、すぐに触れられる距離にいる。  このまま隣に潜り込んで、「やっぱり無理だった」と泣いてしまえたらどれほど楽だろう。たぶん、怜司は何も聞かずに抱きしめてくれる。そして私は、その腕の中で、また少しずつ書けなくなっていく。それが分かるから、余計に苦しい。 「……怜
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-01
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第64話 パリのランウェイで、あなたは私を見つけた

 怜司のもとを去った夜から、三年。  パリの朝は、東京より光が薄い。  古いアパルトマンの窓から差し込む曇りがかった光の中で、机の上に広げた最後の一着――ラストルックのスケッチを見下ろしていた。  白い紙の上を走る線は、もう迷っていない。逃げるように東京を出たあの日とは違う。愛されるほど書けなくなった女ではなく、今の私は、自分の意志で線を引くためにここにいる。 「ママン」  背後から小さな声がして、私は振り返った。  ベッドの上で、寝癖のついた小さな頭がふらりと揺れている。 「起きたの?」 「うん……もうおしごと?」  まだ眠そうな声に、思わず笑みがこぼれた。 「今日はショーの日だから」 「きょうも、すごいの?」 「すごいよ」  私はベッドのそばに座り、その額に前髪をよけるように触れた。指先に触れた肌は、まだ眠りのぬくもりを抱えたまま柔らかい。 「世界中の人が見に来るの」 「そっか」  眠そうだった瞳が、少しだけ誇らしそうに細まる。その目元だけが、ときどきひどく怜司に似て見えて、胸の奥をやさしく締めつけた。 「じゃあ、がんばって」  胸の奥が、静かにあたたかくなる。私はこの小さな体温を知ったからこそ、誰にも奪わせたくないものが何かを、前よりずっと正確に知ったのだ。 「ありがとう、怜生」  額に口づけると、子どもは満足したようにもう一度毛布に潜った。  私は立ち上がり、鏡の前へ向かう。  今日は、《アーク・ブレイズ》の新作ショー。パリでは、私はただデザイナーとして見られる。それが救いであり、ここまで来られた証でもあった。 ***  ショー会場のバックステージは、開演前だというのに既に熱を帯びていた。  モデルたちが行き交い、スタッフがインカム越しに短い指示を飛ばし、照明のチェックが続いている。  その中心で、一ノ瀬は淡いグレーのスーツを軽やかに着こなし、いつもの余裕を崩さず立っていた。彼は私の方を見ると、わずかに口元を上げる。 「澪さん。 顔がいい。今日は勝てる」  挨拶代わりのその一言に、私は苦笑した。 「プレッシャーをかけるんですか」 「事実を言っているだけだよ」  一ノ瀬は私の手元のスケッチに目を落とし、それからごく自然に私の肩へ触れた。 「君がここまで持ってきた。最後は、楽しめばいい」  押し
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-02
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第65話 愛していても、もう奪わせない。

 バックステージのざわめきが、そこだけ薄くなった。誰かが道を開けたわけでもないのに、怜司が立つだけで空気の密度が変わる。  三年。たったそれだけの時間で、忘れられるはずがなかった。むしろ、忘れないようにしてきたのかもしれない。忘れてしまったら、怜生の目元に宿る面影まで、見失ってしまいそうだったから。 「……久しぶりですね」  やっとそれだけを言うと、怜司の目がわずかに細くなる。  懐かしむようなやわらかさは、どこにもなかった。逃がさない獣の目。それ以上に、三年ぶん置き去りにされた男の怒りが、冷たく沈んでいる。 「白川」  低い声。  たった二文字で、喉の奥がひりつく。あの人は、私的な場所ではもうその呼び方をしなかった。なのに今は、何もなかったみたいに仕事の声でそう呼ぶ。それが、かえって残酷だった。 「……ショー、見てたんですね」  どうにか口元だけを整える。 「わざわざパリまで?」 「仕事だ」  短く返したあと、怜司の視線が私をなぞる。髪。肩。ドレスのライン。その視線だけで触れられたような錯覚が走り、私は無意識に指先を握り込んだ。 「三年で、ずいぶん遠くへ行ったな」 「自分で来たんです」  言い返すと、怜司の口元がほんのわずかに歪んだ。怒っている。それだけは、はっきり分かった。昔なら、その表情の意味ばかり考えていた。でも今は違う。 「澪さんは、今夜の主役です」  一ノ瀬が自然な顔で私の前へ半歩出た。柔らかな声音なのに、牽制の意図は隠していない。 「商談なら順番を守っていただけますか。ルクソリアの久世社長」 「商談のつもりで来た」 「でしたら、なおさら」  一ノ瀬は微笑む。 「今は、彼女に祝福が必要な時間です」  彼女。  その言い方に、怜司の目が一瞬だけ冷えた。  次の瞬間、私は見てしまった。黒いスーツの袖口からのぞく左手。薬指に、細いプラチナの指輪が光っている。  綾乃の指輪だ。  そう思った瞬間、胸の奥に冷たい針がまっすぐ刺さった。  知っていた。政略結婚をしたと、一ノ瀬から聞かされていた。東京を出てからしばらくして、経済誌の小さな記事でも見た。ルクソリア再編の要として、久世怜司と城崎綾乃が入籍した、と。  文字だけなら、飲み込めた。けれど現実の光の中で、その指輪を見るのはまるで別だった。あの夜、私の耳
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-03
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第66話 やさしい人、帰れない恋

 控室のドアが閉まった瞬間、ようやく息が抜けた。  膝から力が抜けそうになる。  けれど鏡の前の私は、まだ崩れていない。  ショーの熱をまとったまま、口紅も、髪も、ドレスの線も完璧な顔をしている。  そのことが逆におかしかった。  中身は、あんなに簡単に揺らされたのに。 「強くなったね、澪さん」  背後から声が落ちる。  振り返ると、一ノ瀬がドアにもたれるように立っていた。  いつもの余裕は崩れていない。  でも、その目だけはずっと私の呼吸の乱れを見逃していなかった。 「初めて会った頃の澪さんなら、たぶん逃げてた。 でも今日は逃げなかった」 「それは……一ノ瀬さんのおかげでもあります」  一ノ瀬はゆっくりこちらへ歩いてくる。 「あれを正面から受けて、足を止めなかった」 「……止まりそうでした」 「だろうね」  あっさり言われて、少しだけ肩の力が抜ける。  大丈夫だと強がるより、その方がずっと優しい。 「指輪、見ました?」 「見えた」 「そうですか」  それ以上は言えなかった。  見えたのは指輪だけじゃない。  その手を見た瞬間、思い出したものが多すぎた。  耳に触れた指先。  逃がさないみたいに腰を抱いた腕。  眠った顔。  置いてきたピアス。  どれも消えたわけじゃない。  ただ三年ぶん、深く沈んでいただけだ。 「アフターパーティー、出ますか」  一ノ瀬が言う。 「今夜の主役として最後まで立つなら、僕は付き合う」 「……出ます」  一ノ瀬はわずかに目を細めた。 「そう言うと思った」 「逃げたくはないんです」 「知ってる」  一ノ瀬は静かに頷く。 「じゃあ、ちゃんと立ちましょう。今夜の《アーク・ブレイズ》の顔として」  その言葉に、背筋が少しだけ伸びる。 「……ええ」  そう答えたのに、自分の声は少し鈍かった。  《アーク・ブレイズ》の顔。  それは誇らしい。  ここが私を救ってくれた場所であることも本当だ。  でも同時に分かっていた。  今夜のこの美しさは、世界へ届くよう磨かれたものだ。  鋭さを失ったわけじゃない。  けれど、あの《アウローラ》みたいに、見る者の喉元へ牙を立てる狂気とは少し違う。 「少し、不服そうだね。澪さん」  ぎくりとして顔を上げると、一
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-04
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第67話 夜に、服を剥ぐ前の目で

 翌日の午後、ホテル・ル・モンドのラウンジは、磨き上げられた静けさに満ちていた。  私は予約されたテーブルの前で、ほんの一瞬だけ足を止めた。  来ると決めたのは私だ。  けれど、逃げたくないと決めたことと、平気でいられることは違う。 「白川」  低い声に、肩が揺れる。  怜司さんはすでに席についていた。  そして左手の薬指には、昨日と同じ細いプラチナの輪。  それを見た瞬間、喉の奥がまた少しだけ熱を持つ。 「お待たせしました」 「五分だ」  責めるような口調ではない。  でも許してもいない。  私は向かいに腰を下ろした。  その距離は、手を伸ばせば届くのに、三年分の空白が横たわっているみたいに遠かった。  それでも、近い。  昔ならテーブルの下で触れられていた膝も、グラスを持つ指先も、今はどこにも触れ合っていないのに、身体だけが先にその距離を思い出してしまう。  触れてもいないのに、昔そうされたみたいに、膝の内側だけが熱を思い出す。 「何の話ですか」  私から切り出すと、怜司さんは冷えた目でこちらを見る。 「本気で分からない顔をするな」 「……怒っているんですね」 「怒る資格がないとでも?」  その一言で、空気が張りつめる。  私は視線を落としそうになるのを堪えた。 「そうは言っていません」 「なら聞け」  低く押し殺した声。 「三年前に、何も言わず黙って消えた」  胸の奥が、鈍く痛む。 「俺と話すつもりはないと思っていた」  分かっていたはずの言葉なのに、真正面から向けられると息が苦しい。 「……怜司さん」 「名前を呼ぶな」  ぴしゃりと落ちた声に、指先が強張る。  そこまで拒絶されるのは、当然だ。  当然なのに、傷ついた。 「昔話をしに来たわけじゃない」  怜司さんの視線は冷たい。  怒っている。  でも、その奥にあるのは、三年間冷えたまま固まった傷だと分かってしまう。  冷たい目なのに、私の口元へ落ちる視線だけが妙に熱い。  その視線を知っている。  夜に、服を剥ぐ前の目だ。 「言い訳なら要らない」 「……言い訳をしに来たわけじゃありません」 「なら、何だ」  私は唇を開いて、閉じる。  本当のことを言えば、ここで全部壊れる気がした。  まだ、言えない。  怜
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-05
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第68話 彼だけが届かせられる

 ル・モンドのラウンジには、静かなピアノが流れていた。  けれど私の耳には、ほとんど入ってこない。  怜司の言葉ばかりが、胸の奥で何度も反響していた。  ――あれが、いちばんお前だった。  ――ルクソリアなら、あれをヒットにできた。 「……相変わらず、ストレートですね」  ようやく言えたそれに、怜司さんは眉ひとつ動かさなかった。 「お世辞を言っても仕方ない」 「久しぶりに会ったのに、いきなり私の失敗作を持ち出すんですか」  そこまで言って、喉が詰まる。 「それでも、見抜かれたくなんてなかった」  怜司さんの目が、そこで初めてわずかに揺れた。 「あれは失敗でした」  私はファイルを見たまま言う。 「アーク・ブレイズでは評価された。でも届かなかった。尖りすぎているって、ちゃんと数字で返ってきた」 「だろうな」 「簡単に言わないでください」  思わず語気が強くなる。 「あれがどれだけ大事だったか、わかりますか」 「分かるから言っている」  即答だった。  悔しいくらい、迷いがない。  私はテーブルの下で拳を握る。 「あれだけは、少しも大衆向けに薄められなかった」  口に出した瞬間、自分で自分の痛い場所を抉った気がした。 「売るために整えても、削っても、最後までどこか尖っていて、嫌な感じが残る。だから私は……」  言葉が止まる。  負けを認めるみたいで、続けたくなかった。 「だから、お前はあれを気に入っていた」  怜司さんが静かに言う。 「……成長したな」  思わず顔を上げる。  怜司さんは私を見たまま、低く続けた。 「前なら、そこまで自分の言葉で語れなかった」 「……そうです」  認めると、胸の奥が少しだけ軽くなって、同時に余計苦しくなった。 「悔しいくらい、あれがいちばん私だった」  怜司さんは何も言わない。  ただ私を見ている。  その視線が昔と同じ温度を持つから、息が苦しい。 「アーク・ブレイズではだめなんです」  気づけば、そんな言葉まで零れていた。 「ここは私を救ってくれた。立たせてくれた。世界を見せてくれた。……でも、最後のところで、少しだけ綺麗にしすぎてしまう」 「一ノ瀬が悪いわけじゃない」 「分かっています」  分かっている。  だからなおさら、残酷だ。 「あの
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-06
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第69話 神話の亡骸に値札をつけて

 その夜、怜司はパリのホテル最上階でひとりグラスを傾けていた。  窓の下には、観光客が愛するきらびやかな街の灯りが広がっている。だが彼の目には、それがただ遠いだけの光にしか映らなかった。  テーブルには、ルクソリアの最新レポートが山のように積まれている。数字は、まだ死んでいない。海外売上も、投資家の評価も、ひどく整っている。  だから余計に腹が立つ。数字の顔だけ見れば、ルクソリアはまだ美しい。けれど中身は、もうずいぶん前から飢えていた。アウローラの残光だけを磨いて、神話の亡骸に値札をつけ続けている。  美玲はよくやっている。あの女は無能ではない。洗練もある。数字も守る。だが、守るだけでは足りない。  《アウローラ》シーズン1の爆発力は、美玲の洗練と澪の狂気という、対照的な二つの才能で成立していた。今は美玲ひとりだ。ラインは回る。品質も崩れない。  だが、もう人間の喉元を掴んで離さない熱が消えている。あのときみたいに、世界に「続きを見たい」と思わせる一着がない。  怜司が欲しいのは、売上だけではなかった。ルクソリアを、ただ延命させるためにここまで来たわけではない。  息を呑ませたい。喉を焼きたい。欲しがらせたい。それがなければ、ルクソリアではないと、まだどこかで信じていた。  ノックもなく、綾乃が入ってきた。深い藍色のドレスではなく、細身のグレースーツ。夜の会食から戻ったばかりなのだろう。 「まだ飲んでいたの」 「仕事だ」 「その言い訳、好きね」  綾乃は向かいのソファに腰を下ろし、テーブルの上の資料を一瞥する。 「パリまで来た理由は、ショーの視察だけではなかったでしょう」  久世は答えない。沈黙で十分だと、綾乃は知っている。 「会ったのね」 「ああ」 「どうだった?」  久世はグラスを置いた。胸の奥にある怒りは、会ったから消えるものではなかった。むしろ、輪郭を得て深くなった。  三年前に、何も言わず消えた女。あれだけ探しても見つからなかった女。なのに再会した瞬間、自分の視線が彼女から離れなかったこともまた事実だった。 「変わっていた」 「ええ、でしょうね」 「だが」  怜司はそこで目を閉じる。思い出すのは、ショーの中で光を浴びる澪ではない。  売れなかった一枚だ。市場には届かなかった。だが、見るだけで胸の奥を掻き毟ら
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-07
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第70話 あの人と仕事をすると、危うい

 翌朝、怜生はまだ寝ぼけた顔で、キッチンテーブルに頬を押しつけていた。  パリのアパルトマンは広くはない。  けれど、朝の光が入るこの場所だけは、私にとって呼吸のできる場所だった。 「怜生、牛乳こぼれるよ」 「……うん」  返事だけして、怜生はまたぼんやりとスプーンを動かす。  その目元がふと緩んだとき、どうしても怜司を思い出してしまう。  怒っているときの鋭さではなく、眠っている朝の、少しだけ幼い横顔。  あの人は、今も怒っている。  昨日のラウンジで、それをはっきり思い知らされた。  怒っていて、傷ついていて、でも私のデザインだけは見抜いていた。  そのことが、夜を越えてもまだ胸の中でざらついている。 「ママ」 「なあに」 「きのう、あえた?」  私は一瞬だけ手を止めた。  怜生はジャムを塗ったパンを見つめたまま、何でもない顔で続ける。 「たいせつなひと」  子どもは、ときどき残酷なくらいまっすぐだ。 「……会えたよ」 「よかった?」  よかった。  苦しかった。  傷ついた。  うれしかった。  全部本当で、どれか一つに決められない。 「むずかしかった」  そう答えると、怜生は小さく頷いた。 「そっか」  それだけで、それ以上は聞かない。  その慎ましさに、少しだけ救われる。  朝食を片づけたあと、私はアトリエ代わりの小部屋へ入った。  トルソー。  布見本。  古びたノート。  そして三年間、工房で擦り切れるほど読んだ資料の束。  服飾史。  裁断理論。  ブランド戦略。  かつての私は、感覚だけで描いていた。  正しいかどうかも、なぜそうなるのかも、うまく説明できなかった。  でもこの三年で、私はようやく学んだ。  線の裏にある歴史。  美しさを支える理論。  感覚を人に伝える言葉。  尖りを殺さずに市場へ接続するための、冷たい計算。  それらは全部、昔の私に足りなかったものだ。  工房での日々は、遠回りではなかった。  狂気だけでは服にならない。  祈りだけでも、売れない。  人に届き、着られ、残る形へ落とし込む骨格が要る。  私はそれを、ようやく手に入れた。  それなのに。  最後の最後で、まだ足りないと知っている。  紙の上にラフを落とす。
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-08
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