All Chapters of 極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話:冷たい密室と這い寄る毒①

 毛布のざらついた繊維が、凍えきった頬を容赦なく擦る。 窓のない薄暗い独房の中で、幾度目の浅い眠りから引きずり起こされたのか、もはや正確な時間はわからない。ただ、コンクリートの床から這い上がってくる暴力的な冷気だけが、内臓の温度をじわじわと奪い続けていた。 遠くで、金属同士がぶつかる重々しい音が響く。 複数の靴音が、硬い床を叩きながら一定のリズムで近づいてくる。 鉄格子の向こう側に、制服を着た看守の影が落ちた。 重い扉が開かれる。 立ち上がるよう促す無機質な声に従い、壁に手をついてゆっくりと身体を起こした。 丸二日、まともな食事も水分も摂っていない肉体は、鉛のように重い。ストッキングに覆われた足先は感覚を失い、膝裏の筋肉が引きつるように痛む。 それでも、背筋だけは絶対に曲げない。 監視カメラのレンズが赤く光る廊下を、ゆっくりと、だが確かな足取りで進む。 頭の中は恐ろしいほどクリアだった。昨晩の取調室でのやり取り。あの特捜部の男の、焦燥しきった顔。私が突きつけた「裏金と放免」の二択は、すでに彼の理性を完全に食い破っているはずだ。 勝負はついている。 あとは、あの男が敗北の書類を持って現れるのを待つだけ。 再び通されたのは、昨日と同じ窓のない取調室だった。 過剰に設定された空調が、微かな唸り声を上げながら乾燥した冷気を吐き出している。 パイプ椅子に腰を下ろす。ビニール製の座面が、わずかに残っていた体温を奪っていく。 机の上に両手を置き、指先を軽く組む。 早く、この無菌室のような空間を抜け出したい。 限界まで待たせている、あの熱を帯びた獣の元へ帰らなければならない。 首筋を擦り寄せてくる荒い息遣い。骨が軋むほどの強い抱擁。狂気に満ちた眼差し。それを想像するだけで、凍えた身体の奥底で小さく火が灯るのを感じた。 ガチャリ、と。 分厚い鉄の扉が、外側から開かれた。 入ってきたのは、昨日と同じグレーのスーツを着た男だった。 だが、その様子は明らかにおかしい。 机の上にバインダーを置く手は小刻
last updateLast Updated : 2026-03-02
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第122話:冷たい密室と這い寄る毒②

 開け放たれたままの扉の向こう、薄暗い廊下の奥から、別の足音が近づいてくる。 硬い革底が床を叩く、不規則なリズム。 右足だけを引きずるような、粘り気のある重い音。 目の前の男が、弾かれたように扉の方へ顔を向けた。 土気色だった顔面からさらに血の気が引き、眼球が限界まで見開かれる。喉の奥から、ヒューという引きつった呼吸音が漏れた。 廊下の空気が室内に流れ込んでくると同時に、鼻腔の奥を強烈な異臭が突き刺した。 古い書庫にこもったカビと埃の匂い。消毒液の刺激臭。そして、果実がどろどろに腐敗したような、胃液がせり上がるほど甘ったるい匂い。 それらが混然一体となって、足元から這い上がってくる。 姿を現したのは、長身の男だった。 年齢は六十代、あるいは七十代か。しかし、単なる「老人」という言葉では片付けられない異質さが、その全身から滲み出ている。 身を包んでいるのは、極端に細身に仕立てられた三つ揃えの濃紺のスーツ。生地は分厚く、光を一切反射しない。襟元には血のように赤いシルクのアスコットタイが巻かれ、枯れ枝のような首の筋を隠していた。 右手に握られているのは、黒塗りの重厚なステッキ。持ち手の銀細工は、長年の使用で摩耗し、鈍い光を放っている。 だが、何よりも目を引くのは、その皮膚だった。 異常に痩せこけた頬。顔の肉はそげ落ち、頭蓋骨の形がはっきりと浮き出ている。日光を長年浴びていないのか、皮膚は蝋細工のように蒼白で、その下を這う紫色の静脈が薄い和紙を透かしたように見えていた。「ご苦労だったね。後の手続きは、私が引き継ごう」 鼓膜に直接ねばりつくような、水気を含んだ低い声。 特捜部の男は一歩後ずさりし、パイプ椅子にぶつかって派手な音を立てた。「し、しかし……これは、私が特命で……」 言い訳を口にしようとした男の肩に、濃紺の袖口から伸びた骨ばった真っ白な手が置かれる。 関節が白く変色するほどの異常な力で、肩口に食い込む。 男の顔が苦痛に歪んだ。「引き継ぐと言ったんだ。&hel
last updateLast Updated : 2026-03-02
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第123話:冷たい密室と這い寄る毒③

 ステッキを両手で挟み込むように持ち、その上に細い顎を乗せた。 薄い唇の両端が、常に何かを嘲笑っているかのように歪に吊り上がっていた。 何よりも異様なのは、その双眸だった。 瞬きを忘れたかのように見開かれた、黄色く濁った瞳。 爬虫類を思わせる、温度を一切持たない無機質な視線が、机の上に置かれた私の指先から、手首、腕を伝い、ゆっくりと舐め上げるように顔へと這い上がってくる。 衣服の下の皮膚を直接撫で回されているような、強烈な嫌悪感。 背筋を冷たい泥水が流れ落ちるような感覚に、全身の毛穴が一斉に粟立つ。「……初めまして、と挨拶すべきかな。小鳥遊……いや、今は久遠、と呼ぶのが正しいか」 薄い唇が開き、腐敗臭を含んだ息が机越しに吹き付けてくる。 反射的に息を止め、無表情のまま相手の濁った瞳を睨み返す。「誰?」 余計な言葉は一切省き、短い音だけを口から出す。 声帯の震えは完全に抑え込んだ。表情筋も、わずかな動揺すら見せないように凍結させている。 しかし、机の下で組んだ両手は、互いの指をへし折るほどの力で握り込まれていた。 男は私の短い問いには直ちに応えず、ただねっとりとした視線でこちらの顔を観察し続けている。 暴力の気配はない。 千隼が発するような、周囲の空気を焼き尽くす圧倒的な熱量や、命を刈り取る殺意とはまったく違う。 ただ、そこに存在しているだけで周囲の正常な細胞を腐らせていくような、不気味な気配。「綺麗な目をしているね。……だが、少し無理をしている。体温も低い。丸二日、ろくなものを口にしていないせいか」 なぜ、そんなことまで。 指先のわずかな震えから読み取ったのか。「警察機構の人間ではないわね。目的は何?」 相手のペースに巻き込まれないよう、論理の刃を突きつける。 だが、男の歪な笑みは崩れない。「論理。計算。……君はそうやって、盤面をコントロールしているつもりになっている
last updateLast Updated : 2026-03-02
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第124話:冷たい密室と這い寄る毒④

 距離が縮まる。腐敗臭がさらに濃くなる。「君が帰りを待ちわびている、あの哀れな犬……我妻千隼だがね」 息が止まる。 無意識のうちに、机の下で握りしめていた指先の爪が、手のひらに深く食い込んだ。「今頃、首輪を千切って暴れ回っている頃合いだろう。……だが、犬はしょせん犬だ。狂犬病にかかった獣を殺すのに、人間の法律は必要ない」「……千隼に指一本でも触れてみなさい。久遠組の全力を挙げて、あなたを……」「全力?」 不来方が、声を出して笑った。 乾いた、肺の空気をすべて吐き出すような不快な笑い声。「君はまだ、自分が立っている場所を理解していない。久遠組という組織そのものが、私の描いた盤面の上で踊っているだけの存在だということを」 濁った瞳が、歪な喜悦に光る。 論理が通じない。交渉の余地がない。 ただ純粋な悪意と、圧倒的な情報量の差が、私の足元を泥沼のように崩していく。 手のひらに食い込んだ爪が皮膚を破り、ツー、と生ぬるい血が流れる感覚があった。 不来方が、ステッキの持ち手から右手を離す。 蒼白で骨ばったその手が、ゆっくりと机の上を這い、私の組んだ手首へと伸びてきた。「少し、話をしようか。君がどれほど無力で、愚かな選択をしたのかについて」 冷え切った指先が、私の皮膚に触れる。 まるで、爬虫類の鱗が直接擦り付けられたような、粘着質で温度のない感触。「……触らないで」 喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、硬かった。 手を引こうとするが、不来方の指は万力のような力で私の手首をホールドし、微動だにしない。「強がる必要はない。君は賢い子だ。自分が今、誰の掌の上にいるのか、そろそろ理解し始めているはずだ」 顔を近づけてくる。 濁った黄褐色の瞳が、私の瞳孔の奥まで覗き込むように見開かれる。「君の父親は、もう少し聞き分けが良かったよ。…
last updateLast Updated : 2026-03-02
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第125話:檻からの奪還①

 蛍光灯の微かな耳鳴りだけが、窓のない四角い空間にへばりついていた。 ひんやりとしたパイプ椅子の座面から、じわじわと体温が奪われていく。机を挟んで向かい側に座る男から漂う、鼻をつくような高級オーデコロンの匂い。それに混じる、微かな加齢臭と葉巻の残り香が、胃の腑を直接撫で回すように気持ち悪かった。「あと一時間だ」 不来方の声は、ひどく滑らかだった。 喉仏が上下するのを、ただぼんやりと見つめる。「一時間後、東京湾のどこかに、あの犬の死骸が浮かぶ。……もちろん、五体満足な状態ではないだろうがね」 膝の上で組み合わせた両手が、じっとりと汗をかいている。爪を立てても、手のひらの感覚はひどく遠かった。血の気が引き、指先から冷たくなっていくのがわかる。「……そんな虚勢、いつまで保つ気ですか」 張り付いたような自分の声。 ひどく乾燥した喉がヒュッと鳴った。唾液を飲み込むことすら、砂を飲み込むように痛い。「千隼は、あなたの私兵ごときでどうにかなる人間じゃない。それは、あなたが一番よく知っているはずよ」「どうかな。いくら腕が立とうと、相手は重火器を持ったプロの猟犬たちだ。しかも、君という『鎖』を失い、見境なく暴れ回るだけのただの的(まと)に過ぎない。……論理的(ロジカル)に考えて、生き残る術はない」 不来方は薄く笑い、机の上に置かれたタブレット端末を指先で叩いた。 画面には何も映っていない。ただ、その黒い沈黙が、私の神経をヤスリで削るように逆撫でする。 息が浅くなる。 肋骨の裏側で、心臓が痛いほど脈打っていた。 千隼。 あの不器用で、私にしか懐かない大型犬の体温を思い出す。いつも私の足元に膝まずき、すり寄ってくる硬い髪の感触。血と汗の匂い。 死ぬ? あり得ない。そんなこと、絶対に許さない。 ゆっくりと息を吐き出し、パイプ椅子からわずかに身を乗り出した。「論理的、ね。……あなたは根本的に勘違いをしているわ」「ほう
last updateLast Updated : 2026-03-03
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第126話:檻からの奪還②

「……なんだ?」 不来方が不快そうに呟き、立ち上がろうとした瞬間だった。 轟音。 鼓膜が破れるかと思うほどの破裂音とともに、分厚い鉄製の扉が内側に向かってひしゃげた。 蝶番が悲鳴を上げ、金属が千切れる甲高い音が取調室に響き渡る。 舞い上がる白い粉塵。 むせ返るようなコンクリートの匂いと、そして──濃密な鉄の匂い。 私は、パイプ椅子を蹴倒して立ち上がっていた。 視界を覆う土煙の向こうに、ひとつの影が立っている。 肩で大きく息をするたび、その輪郭が揺れた。 警察の特殊部隊が使うような大型の破城槌(バタリングラム)が、無造作に床へ放り投げられる。重い金属がコンクリートに叩きつけられる鈍い音がした。「……俺の飼い主に、汚い手を触れるな」 低く、ひび割れた声。 煙が晴れていく。 そこに立っていたのは、全身を赤黒く染め上げた千隼だった。 仕立ての良かった黒いスーツは無惨に引き裂かれ、白いシャツは血の海に沈んだように赤い。頬には新しい切り傷が走り、額から流れ落ちる血が、鋭い瞳の縁を濡らしていた。 けれど、その目は。 理性を失った獣の目ではなかった。 痛いほどに真っ直ぐで、確かな熱を宿した、私のよく知る瞳。「千隼……っ」 名前を呼んだ瞬間、足の力が抜けそうになった。 不来方が、信じられないものを見るように目を見開いている。「馬鹿な……特捜部と私兵の包囲網を、一人で……? いや、それよりも……なぜ誰も殺さずに……」「うるせぇよ」 千隼は、不来方を一瞥すらしなかった。 床に血の滴る音を響かせながら、真っ直ぐに私の方へ歩み寄ってくる。 その歩みはひどく重く、右足を引きずっているのがわかった。満身創痍。立っているのが不思議なほどの怪我だ。 私は、無我夢中で駆け寄った。
last updateLast Updated : 2026-03-03
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第127話:檻からの奪還③

 その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。 私が定めた「誰も殺さない」というルールを、この極限状態の中で、自分の命を削りながら守り抜いたのだ。 どれほどの痛みと、どれほどの理不尽な暴力に耐え抜いてきたのか。「……ええ。よくやったわ、千隼」 私は、血に濡れた頬を両手で包み込んだ。 ぬるりとした感触。鉄の匂いが鼻腔を満たす。 親指で目の下についた血糊を拭い、その瞳を真っ直ぐに見つめ返す。「あなたは私の、世界で一番優秀な犬よ」 千隼の顔が、ふわりと綻んだ。 痛々しい傷だらけの顔で、心底嬉しそうに目を細める。「……光栄です。さあ、帰りましょう。こんなカビ臭い部屋、お嬢には似合わない」 言うが早いか、背中と膝裏に腕が差し込まれる。 ふわりと身体が浮き上がり、そのまま硬い腕の中に抱き上げられた。血と泥で汚れたシャツに頬が触れるが、そんなことはどうでもよかった。「待ちたまえ!」 背後で、不来方の怒号が飛ぶ。 いつもの余裕ぶりは消え失せ、椅子の脚が床を擦るけたたましい音が鳴った。「ここから逃げられるとでも思っているのか! 外にはまだ……」「……黙れよ、老いぼれ」 千隼は私を抱きかかえたまま、ゆっくりと首だけで振り返った。 先ほどまでの私に向ける甘い視線とはまるで違う、絶対零度の殺意。 温度を持たないその瞳に見据えられ、不来方の言葉がピタリと止まる。「お嬢が『殺すな』って言ったから、アンタの命はまだそこにある。それだけのことだ。……勘違いすんな」 静かな、這うような声だった。「次、その汚い口でお嬢を脅してみろ。……ルールなんかクソ食らえで、その喉笛噛みちぎってやる」 ひしゃげた鉄扉の隙間から、冷たい風が這い込んでくる。 チリ、と。 不来方の指先が、わずかに痙攣するように動いたのを私は見逃さなかった。
last updateLast Updated : 2026-03-03
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第128話:檻からの奪還④

 それは敗北の表情でも、計算外の事態に対する焦りでもなかった。もっと底の知れない、古い泥を素手で掻き回したような、悍ましい執着の色。「……血、だな。いかに論理や知性を気取ろうとも、他者を無意識に傅(かしず)かせるそのどうしようもない傲慢さは、あの男と……いや、彼女と瓜二つだ」 彼女。 その二文字を口にした瞬間、不来方の声の温度が唐突に変わった。 先ほどまでの爬虫類のように冷たかった響きに、ひどく甘ったるく、それでいて腐りかけたような熱が混じり込む。細められた瞳の奥でどろりと揺らいだのは、憎悪や殺意だけではない。決して手の届かなかったものにすがりつくような、じっとりとした湿り気を帯びた熱情。 そのあまりにも個人的で生々しい響きに、背筋を濡れた指でなぞられたような悪寒が走った。 この男は、単なる裏社会の権力者や掃除屋なんかじゃない。もっと深い、久遠の血そのものに根ざした、薄暗い『何か』を抱え込んでいる。「お嬢、こいつ……」 千隼の喉の奥から、再び低い唸り声が漏れた。 私を抱きかかえる腕の筋肉が、岩のように硬く強張る。彼もまた、不来方から発せられる異質な空気を、細胞レベルで感じ取っていた。今すぐ飛びかかり、その首をへし折ろうとする衝動が、熱い皮膚越しにビビリと伝わってくる。「千隼、駄目よ。動かないで」 私は千隼のシャツの胸ぐらを強く握り返し、その分厚い胸板に自分の額を押し当てた。 ドクン、ドクンと早鐘を打つ彼の心音に、私の鼓動と体温を無理やり重ね合わせるように、強く、密着する。熱い血の匂いと泥の感触が頬にこびりつくが、今はそれが、この狂犬を現世に繋ぎ止める唯一の命綱だった。 私が強く抱きしめ返すだけで、強張っていた千隼の背中の筋肉が、嘘のようにふっと弛緩する。 その光景を、不来方は目を血走らせて凝視していた。 ギリッ、と奥歯を噛み締める鈍い音が、静まり返った取調室に響く。「……今日は見逃してやろう、小鳥遊咲良くん。いや、久遠の娘」 不来方は、ひしゃげたパイ
last updateLast Updated : 2026-03-03
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第129話:魔狼の盾①

 へばりついていた熱を、ゆっくりと剥がす。 密着していた胸と胸の間に、氷のように冷たい地下室の空気が滑り込んだ。ワイシャツ越しに伝わっていた、耳を聾するような千隼の激しい心音が、数ミリの隙間とともに遠ざかる。それだけで、私の指先から急速に体温が奪われていくような錯覚に陥った。 不来方が残していった、鼻をつく高級オーデコロンの匂いと、じっとりとした薄暗い情念の気配。それを上書きするように、濃密な鉄の匂いと泥の臭気が鼻腔を満たしている。「……千隼」 喉の奥にへばりついた唾液を飲み込み、血に汚れた顔を見上げる。 額から流れた赤い筋が、高い鼻梁を伝い、鋭い顎の先で黒々とした染みになって落ちていく。荒い呼吸のたびに、引き裂かれた黒いスーツの下で、分厚い筋肉が軋むように動いていた。右足の太腿あたり、生地が大きく裂け、どす黒い染みが広がっている。まともに体重をかけられる状態ではないはずだった。「立てる?」「愚問ですね」 ひび割れた声。無理をして取り繕ったような、けれど私を安心させようとする微かな柔らかさが混じっていた。 千隼は壁に手をつくこともなく、自らの両足だけで真っ直ぐに立ち上がった。 分厚い手のひらが、私の背中をそっと押し、ひしゃげた鉄扉の出口へと促す。「早くここを出ましょう。あいつの残した空気を吸っていると、肺が腐りそうだ」 頷き、金属が引き千切られた鋭利な断面に触れないよう、身を屈めて廊下へと出る。 一歩外へ踏み出した瞬間、鼻の奥を強烈な異臭が殴りつけた。 硝煙、嘔吐物、そして咽せ返るほどの血の匂い。 薄暗い蛍光灯が一定のリズムでジーッという耳鳴りのような音を立てて点滅を繰り返す中、コンクリートの床には無数の男たちが転がっていた。警察の特殊部隊が着る黒いタクティカルベスト、そして不来方の私兵と思われる揃いのダークスーツ。通路の奥まで、足の踏み場もないほどに黒い塊が散乱している。 誰も死んではいない。 血の海に沈んでいる者もいない。 ただ、一様に奇妙な角度で手足が折れ曲がり、口から白い泡を吹いて気絶しているか、くぐもった呻き声
last updateLast Updated : 2026-03-04
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第130話:魔狼の盾②

「お褒めいただき、光栄です」 背後からついてくる足音が、わずかに引きずっている。 ズリッ、ズリッと、靴底が血糊を擦る不快な音。 私は足を止め、振り返らずに右手を後ろへ差し出した。 数秒の間。 ためらうような気配の後、大きくて硬い手のひらが、私の指先をそっと包み込んだ。火傷しそうなほどの熱。あちこちの皮が剥け、ざらついた肉の感触が直接肌に伝わってくる。 その手を強く握り返し、私の肩に千隼の腕を回させた。「……お嬢、俺は自力で歩け……」「黙って寄りかかりなさい。これは命令よ」 ずしり、と。 肩口に、大型犬の全体重が乗るような重みが加わった。 湿った吐息が首筋にかかる。「……御意」 血と汗の匂いに包まれながら、非常階段を下る。 一段降りるたびに、千隼の喉の奥から微かな呼気が漏れた。骨が軋む音すら聞こえそうな空気の中、私たちの足音だけがコンクリートの壁に反響し、下へ下へと吸い込まれていく。「車のキーは?」「そこらで寝ていた特捜部の連中から、拝借してきました」 千隼の左手がポケットの中でチャリ、と金属音を立てる。 地下駐車場を塞いでいた重い防火扉を押し開けると、冷え切った澱んだ空気が全身を包み込んだ。 広大なコンクリートの空間。 蛍光灯は半分以上が消え、暗がりの中に数台の車両が黒々とした塊となって蹲っている。 千隼がキーのボタンを押し込むと、一番奥に停まっていた黒い大型SUVのハザードランプが、チカチカと二度、オレンジ色に瞬いた。装甲車のように角張った、無骨な車体。 千隼は私の肩から腕を外し、足を引きずりながら運転席側のドアへと向かった。 私は無言で助手席のドアノブを引く。 重い扉を開けると、本革シートの匂いと、微かなタバコのヤニの匂いが鼻をついた。 滑り込むように座席に収まり、シートベルトを引き出す。カチャリ、と冷たい金属音が車内に響いた。 遅れて、運転席のドアが開く。
last updateLast Updated : 2026-03-04
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