All Chapters of 極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜: Chapter 231 - Chapter 240

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第231話:失敗と代償④

『罠だったんです! 不来方のジジイは、うちが白鷺を叩きに来るのを読んで、わざと急所を晒してたんだ。うちの連中が差し押さえに入った瞬間、それを「反社による不当な恐喝と、資金洗浄の隠蔽工作」だって特捜部にタレ込みやがった!』 スマートフォンを握る手が、ガタガタと震え出す。 千隼の言葉が、耳の奥で残酷にリフレインした。『あからさまに隙だらけの急所を見せてくる奴は、大抵、その裏に致命的なカウンターを隠し持っています』 私は、不来方の張った蜘蛛の巣のど真ん中に、自ら嬉々として飛び込んでいったのだ。 相手の資金源を断つどころか、自らの手で久遠組のフロント企業を、特捜部の餌食として差し出してしまった。「……現場の、被害は」 かすれた声で、かろうじて問いかける。『フロントの社長と、手続きに行った若衆が五人、その場で手錠をかけられました。それだけじゃねえ!』 鬼瓦の背後で、ガシャン、というガラスの割れるような激しい音が響いた。『特捜部だけじゃねえ、不来方の息がかかった半グレどもがカチコミかけてきやがった! うちの別のダミー会社の事務所に、奴らが裏で飼い慣らしてる連中が乗り込んできて、今、現場で大乱闘になってます! 連中、警察が来る前にうちのシマを物理的に荒らし回る気だ!』「乱闘って……相手は武器を!?」『向こうは鉄パイプとバットで武装してます! こっちは急なことで……っ、くそ、また数人やられた! お嬢、すぐに増援を! 若頭に指示を仰いで……!』 ブツッ。 鬼瓦の焦燥しきった声が、不自然なノイズと共に突然途切れた。「もしもし!? 鬼瓦さん! もしもし!」 何度呼びかけても、スピーカーからはツーツーという無機質な電子音が返ってくるだけだった。 スマートフォンの画面が暗転し、私の顔を映し出す。 血の気が完全に引いた、幽霊のような顔。 失敗した。 私の浅はかな過信が、完璧だと思い込んでいた幼稚な論理が、現場の人間たちを最悪の危険
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第232話:失敗と代償⑤

 千隼の背中を撫でる手が、ピタリと止まる。「それだけじゃない。……混乱に乗じて、不来方の息がかかった半グレの連中がうちの事務所に襲撃をかけてる。鬼瓦さんたちが応戦してるけど……電話が切れた。きっと怪我人が出てる」 肺の空気が足りない。 息を吸い込もうとしても、喉がひきつってヒューヒューと情けない音が漏れる。 私は彼に、彼を安全にするために戦うと言った。 彼に血を流させないために、私の頭脳で勝ってみせると豪語した。 それなのに、結果は真逆だ。 私の指示のミスで、私の焦りのせいで、味方の組員たちが無残に傷つけられている。 私は彼を守るどころか、自分のエゴで組織を壊滅の危機に追いやってしまったのだ。「……わかりました」 千隼の声は、ひどく低く、そして驚くほど冷静だった。 彼の手が私の背中から離れる。 顔を上げると、千隼はすでに立ち上がり、部屋の隅に置いてあった自分のジャケットを左手で掴み取っていた。 右肩はまだ包帯で固定されたままだが、その瞳には、先ほどまでの遠慮がちな大型犬の面影はない。 仲間を救い、敵を殲滅するための、冷酷な魔狼の眼光。「俺が現場へ向かいます。不来方のクズどもは、俺が一人残らず手足をへし折って叩き出します。特捜部の連中も、俺が囮になって引きつける」 彼はスリングで吊っていた右腕を、無理やり定位置から外し、強引にジャケットの袖を通そうとした。 その動作だけで、脇腹の筋肉がひきつり、彼が「ぐっ」と奥歯を噛み締めるのが見えた。「駄目よ!」 私は椅子を蹴倒して立ち上がり、千隼の腕にすがりついた。「行っちゃ駄目! あなたのその身体で、鉄パイプを持った連中を相手にするなんて……死に行くようなものじゃない!」「死にません。これくらいの傷、どうということはない」 千隼は私の手を優しく、けれど絶対に逆らえない力で引き剥がそうとする。「現場の連中は、お嬢の指示に従って動いた結果、危険に
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第233話:失敗と代償⑥

 それは、組長としての命令ではなく、ただの無力な少女の懇願だった。 私の指示で人が傷つき、今また、私の最も大切な男が、私のミスの代償として死地に赴こうとしている。 その事実に耐えきれず、私は自分が完全に崩壊していくのを感じた。「……咲良」 千隼が、低い声で私の名前を呼んだ。 彼の手が、私の震える背中を包み込もうと伸びてくる。「触らないで!」 私は反射的に彼の腕を振り払い、後ずさった。 自分が信じられなかった。 彼に触れられれば、その優しさと忠誠心に甘えて、また彼を便利な暴力装置として肯定してしまう。「私は……私は、あなたを守りたかっただけなのに……」 両手で顔を覆い、足をもつれさせながら、私は後ずさる。 背中が、寝室の重厚な木製ドアにぶつかった。 千隼が、傷ついた身体を引きずって、痛ましそうに私へ手を伸ばす。「お嬢、俺は……」「来ないで!」 私はドアノブを乱暴に回し、寝室の中へと逃げ込んだ。 バタンッ! ドアを勢いよく閉め、内側からガチャンと鍵をかける。 静寂。 外界の音から完全に遮断された、ベッドルームの暗がり。 ドアの向こう側から、千隼の重い足音が近づき、木目の表面に彼の手がそっと触れる微かな音が聞こえた。「……お嬢。開けてください。一人で抱え込まないで」 ドア越しに響く彼の声は、怒りではなく、深い悲しみに満ちていた。 私はドアに背中を預けたまま、ずるずると床に座り込んだ。 膝を胸に抱え込み、自分の身体をきつく締め付ける。 何が「私が盤面を支配する」だ。 何が「あなたに血を流させない」だ。 現実は、私の薄っぺらい論理など通用しない、冷酷な泥沼だった。 自分の指示のせいで組員が血を流し、その尻拭いをさせるために、傷だらけの千隼を再び戦場へ行かせてしまうかもしれない。 
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第234話:道具ではない証明①

 ペントハウスの寝室は、完全な静寂と闇に沈み込んでいた。  分厚い遮光防音カーテンはミリ単位の隙間すらなく閉め切られ、外の天候はおろか、昼なのか夜なのかすら視覚的に判断できない。天井のダウンライトはすべて落とし、ただ床を這うようなフットライトのオレンジ色の光だけが、毛足の長い絨毯の起伏をぼんやりと照らし出していた。  私はドアを背にして座り込んだまま、両腕で自分の膝をきつく抱え込んでいた。  どれだけの時間が過ぎたのか、もうわからない。  胃の腑が、ギリギリと嫌な音を立てて収縮し続けている。最後にまともな食事を摂ったのはいつだったか。カラカラに乾いた喉の奥がヒリヒリと痛み、息をするたびにヒュー、と情けない音が漏れた。  全身の関節が強張り、氷水に浸かったように冷え切っている。  ドアの向こう側からは、何の気配も感じられなかった。  数時間前、扉越しに私の名前を呼んでいた、あの低く重い声は、もう聞こえない。衣擦れの音も、床を軋ませる足音も、彼特有の微かな気配すらも。  行ってしまったのだろうか。  私の指示ミスの尻拭いをするために。不来方の半グレどもと鉄パイプで殴り合っている組員たちを助け出すために、あの傷だらけの身体を引きずって、再び血の海へと身を投じたのだろうか。  私が「来ないで」と叫んでドアに鍵をかけたから、これ以上私を苛立たせないよう、無言で現場へ向かったのかもしれない。  そう考えた瞬間、胃酸が逆流するような強烈な吐き気が込み上げてきた。  震える両手で口元を強く覆い、浅い呼吸を繰り返す。  私のせいだ。  私の浅はかな知略の失敗が、彼を再び戦場へと駆り立てたのだ。私が彼を遠ざけようとすればするほど、彼は私のミスを補うために、より深く傷つく場所へと向かってしまう。  ドンッ!  突然、背中の木製ドアが激しい衝撃で揺れた。  ビクッと全身が跳ね、反射的に床を這うようにして後ずさる。  ドンッ、メキッ。  木材が嫌な音を立ててひしゃげる。続いて、ドアノブの金属部分が捻じ曲げられるような、鈍く重い破壊音。  バキィィィンッ!  鍵をかけていたはずの重
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第235話:道具ではない証明②

 彼はひしゃげたドアの残骸を無造作に足で避けながら、音もなく部屋の中へと足を踏み入れる。 床にへたり込んでいる私を見下ろすその三白眼は、暗く、底知れない焦燥の色で濁りきっていた。「……食事を、持ってきました」 ひどく掠れた、砂を噛むような低い声。「ずっと、何も口にしていないでしょう。……倒れますよ」 千隼は私の数歩手前で足を止め、ゆっくりと片膝をついた。 カタン、と。 トレイが絨毯の上に置かれる。 グラスの表面にはびっしりと結露がつき、中に入った氷がカラリと甲高い音を立てた。 私は、そのグラスと千隼の顔を交互に見つめたまま、首を横に振った。「……いらない」「飲んでください」「いらないって言ってるでしょ。喉なんて、渇いてない」 強がって放った声は、自分でも驚くほどカスカスで、情けないほど震えていた。 千隼の顎の筋肉が、ギリッと硬く膨張する。 彼は床に置いたグラスを左手で掴み上げ、私の口元へと強引に押し付けてきた。「水だけでも、口に含んでください。……貴女の唇が、ひび割れて血が滲んでいる」 グラスの冷たい縁が、下唇に当たる。 千隼の指先から伝わってくる異常な熱と、氷水の冷たさのコントラストが、感覚をひどく狂わせる。 だが、私は口を固く閉ざし、グラスを持った彼の手首を両手で押し返した。「やめて……っ」「意地を張らないでください!」 千隼の声が、大きく荒ぶった。 押し返そうとする私の腕力など、彼にとっては存在しないも同然だ。グラスがさらに強く唇に押し当てられ、中の水が少しこぼれて、私の顎から首筋へと冷たく伝い落ちる。「……っ、痛い!」 私の抗議の声に、千隼は弾かれたように動きを止めた。 グラスを持つ手が、空中でピタリと静止する。 彼の瞳孔が、激しく収縮と拡大を繰り返していた。
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第236話:道具ではない証明③

「でも、それは間違っている。……お嬢は何も間違っていない」 千隼は膝立ちのまま、じりっと私との距離を詰めた。 熱い吐息が、私の前髪を揺らすほどの至近距離。「盤面を動かすのはお嬢の役目だ。……でも、その盤面で生じたイレギュラーや、敵の罠、すべての物理的な障害を排除するのは、俺の仕事だ。俺という『道具』の存在意義なんです」「道具なんて……私は一度も……」「俺をただの便利な道具として使えばいい!」 千隼の両手が伸びてきて、私の両肩をガッチリと掴み込んだ。 逃げ場のない、圧倒的な拘束力。 彼の大きな掌から、火傷しそうなほどの熱が直接肌に伝わってくる。「貴女が読み違えても構わない。敵の罠に嵌まっても構わない。……その結果生じた歪みは、俺が全部、暴力で殴り倒して平らにしてやる。お嬢の指示ミスなんて、俺の血でいくらでも清算できるんだ!」 彼の声は、熱に浮かされたように響き渡った。 自分の命や痛みを、ただの帳尻合わせのためのチップとしてしか認識していない。 私が罪悪感を抱くことすら許さない。私のミスを、自分が傷つくことによって完全に打ち消そうとしている。「俺に行かせてください。今からでも遅くない。黒鉄のクズどもの手足を全部へし折って、特捜部の目をごまかして、連中を連れ戻してくる。……そうすれば、お嬢がこんな暗い部屋で、一人で震えながら自分を責める必要はなくなる」 肩に食い込む指の力が、さらに一段階強くなる。 痛い。 だが、肉体的な痛みよりも、彼のその歪みきった自己犠牲の押し付けが、私の胸の奥をギリギリと抉り回していた。 彼は本気で、それが私を救う唯一の方法だと信じ込んでいる。 私が彼を便利な暴力装置として使い潰すことこそが、互いの正しい関係性なのだと。「……やめて」 掠れた音が、唇から漏れる。「やめてってば…&hellip
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第237話:道具ではない証明④

 薄い生地ごと、その下にある熱い筋肉の塊を掴み上げる。「私は……私はただ、あなたに生きていてほしいの。私の隣で、ただ息をして、笑って、一緒に生きてほしいだけなのに……っ」 涙が視界を遮り、彼の顔がぼやけて見える。 胸ぐらを掴む手に、ポタポタと自分の涙がこぼれ落ちていく。「私が盤面を動かそうとしたのは、あなたにこれ以上、血を流させたくなかったからよ! あなたを安全な場所に置いておきたかったから! ……それなのに、私の指示のせいで、結局あなたがまた傷つく場所に行こうとしている」 息が続かない。 咳き込みながら、私は彼にすがりつくように額を押し当てた。 Tシャツ越しに伝わってくる彼の心音が、異常な速さでドクドクと脈打っているのがわかる。「怖い……っ。私のせいで、あなたが壊れていくのが怖いのよ……。私の言葉一つで、あなたが命を投げ出そうとするのが、恐ろしくてたまらないの……っ」 嗚咽が漏れる。 組長としての威厳も、冷徹なプレイヤーとしての仮面も、すべてが粉々に砕け散っていた。 ただの、一人の女としての、むき出しの恐怖と本音。 あなたを失いたくない。 あなたを消費したくない。 ただ、対等な人間として、私の隣で同じ空気を吸っていてほしい。 その切実な願いが、私のすべてだった。 静寂。 私の泣きじゃくる声と、荒い呼吸音だけが、部屋の中に響き続けている。 千隼は、微動だにしなかった。 胸ぐらを掴まれたまま、ただ私を見下ろしている気配だけが頭上から伝わってくる。「……お嬢、俺は」 千隼の喉仏が、ゴクリと大きく動く音が聞こえた。「俺は……とても高性能な道具です。少々の無理をしても壊れませんし、生涯保証もついています。だから、そんなに泣く必要は……」「馬鹿じゃない
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第238話:道具ではない証明⑤

 涙を拭うのも忘れ、私は床に顔を伏せて深く息を吐き出した。 これ以上、何をどう伝えれば、彼のその強固な自己犠牲の呪縛を解くことができるのか。 どれだけの時間が経っただろうか。 やがて、私の背中に、大きな熱い塊がそっと触れた。 千隼の左手だった。 いつもなら、骨が軋むほどの力で私を拘束し、自分の匂いを刻み込もうとする強引な腕。 だが今は違う。 まるで、薄いガラス細工に触れるかのような、ひどく繊細で、恐る恐るという手つき。 その大きな掌が、私の震える背中を、ゆっくりと、何度も何度も撫で下ろしていく。「……咲良」 頭上から降ってきた声は、先ほどまでの狂気を孕んだ唸り声とは全く違っていた。 水底から響いてくるような、ひどく低く、そして、どこまでも柔らかく甘い響き。 私は顔を上げられず、ただ膝に顔を押し付けたまま、小さく身を縮めた。「俺は……」 千隼が、深く息を吸い込む音がした。「俺は、底辺で育って……人を殴ることと、誰かの盾になって血を流すことしか、教わってこなかったんです」 背中を撫でる彼の手が、微かに震え始める。「誰かに『生きていてほしい』と……ただ隣にいるだけでいいと、そんな風に泣いて望まれたことなんて、生まれてから一度もなかった」 彼の声が、かすかにひび割れる。 私を包み込む腕の力が、少しずつ強くなっていく。 だが、それは痛みを与えるような拘束ではない。私の存在を確かめ、自分自身の崩れそうな輪郭を必死に繋ぎ止めようとするような、切実な抱擁だった。「俺は、貴女に必要とされたかった。……貴女の役に立たなければ、貴女の隣にいる資格がないと、ずっと怖かったんです」 その言葉に、私の胸の奥がぎゅっと締め付けられた。 彼もまた、恐れていたのだ。 私が彼を遠ざけようとしたことを、「用済み」というサインとして受け取り、見捨てられる恐怖に怯えていた。
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第239話:道具ではない証明⑥

 彼の言葉には、圧倒的な安堵と、自分を縛り付ける新たな鎖を受け入れる歓喜が満ちていた。 私は彼の胸に顔を押し付けたまま、ふるふると首を横に振った。「当たり前よ……。あなたが死んだら、私が怒るんだから……」「ええ。わかっています。お嬢を怒らせるのは、もう懲り懲りです」 千隼の大きな手が、私の後頭部に回り、乱れた髪を優しく梳いていく。 指の腹が頭皮を滑るたびに、張り詰めていた私の神経が、じんわりと温かい熱に溶かされていくのがわかる。「俺は、もうただの便利な道具にはなりません。……貴女を泣かせないために、這いつくばってでも生きて、隣に立ちます。パートナーとして」 千隼の顔が、私の肩口からゆっくりと上がる。 両手で私の顔を包み込み、涙で濡れた頬を親指の腹でそっと拭った。 ザラリとした指の感触と、火傷しそうなほどの熱。 至近距離で交差する視線。 彼の瞳には、先ほどまでの濁った焦燥は微塵もない。 そこにあるのは、私という人間を対等な伴侶として見つめ返す、深く、澄み切った熱情だけだった。「だから、もう泣かないでください、咲良」 私の名前を、ただの女として呼ぶ響き。 彼の手のひらから伝わる熱が、私の血管を巡り、冷え切っていた身体の芯をドロドロに溶かしていく。「……うん」 私は小さく頷き、彼の手のひらに自分の頬をすり寄せた。 千隼の口元が、柔らかく綻ぶ。 彼はそのまま、私の額に自分の額をコツンと押し当てた。 互いの鼻息が混ざり合い、睫毛が触れ合うほどの距離。「現場の連中のことは、心配いりません。……俺がいなくても、彼らは久遠の人間だ。必ず自力で状況を切り抜けて戻ってきます」 千隼の低い声が、私の不安を静かに塗り潰していく。「今はただ……こうして、俺に体温を分けてください。貴女の熱が、一番の薬だ」 彼の唇が、私の涙の跡を追うように、
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第240話:千隼の過去を知る女①

 重厚な本革のシートが、身体の重みを静かに受け止めている。 走る高級車の遮音性は完璧で、外の世界の喧騒はガラス一枚隔てた向こう側の出来事のように遠い。ただ、タイヤが濡れたアスファルトを噛む微かな振動だけが、座面を通して私の背骨に伝わってきていた。 膝の上に置いた指先が、冷え切っているのがわかる。 それを隠すように、私は薄手のストッキング越しに自分の腿をきつく握りしめた。 隣に座る男からは、微かに雨を含んだ風の匂いと、吸い慣れた煙草の残り香、そして彼自身の体温が混ざり合った、いつもの香りが漂ってくる。「……お嬢」 低く、地を這うような掠れた声。 我妻千隼は、前を向いたまま、視線だけを私の方へと投げた。 アメジスト色の瞳が、夕闇の迫る車内で妖しく沈んでいる。彼は私の指先の強張りを、見逃してはくれなかった。「そんなに力を入れたら、せっかくのドレスが皺になります。……俺に、預けてください」 断る隙も与えず、彼の大きな手が私の指を包み込んだ。 熱い。 火傷しそうなほどの熱が、氷のような私の肌に浸透していく。千隼の手のひらは厚く、節くれだっていて、ところどころに硬い胼胝がある。それは彼がこれまでに歩んできた、決して綺麗とは言えない道のりの証だった。 彼は私の手を持ち上げると、甲にそっと唇を寄せた。 吐息が肌をなでる。湿った音を立てて落とされたキスは、主に対する忠誠というよりは、獲物を逃がさないためのマーキングに近い重さを孕んでいた。「……大丈夫。不条理な盤面(ゲーム)をひっくり返すのは、私の得意分野でしょう?」 強がりが、乾いた声になって漏れる。 千隼はふっと口角を上げ、三白眼を細めた。「ええ。貴女が盤面を支配する女王であることは、俺が一番よく知っている。……ですが、もし少しでも不快な羽虫が飛び回るようなら、俺を呼んでください。その首、一瞬で噛みちぎって差し上げますから」 物騒な愛の言葉。 私は、彼の指をわずかに握り返した。
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