All Chapters of 極道若頭は、愛しき飼い主を逃さない 〜狂犬と呼ばれた彼が、私にだけ従順な理由〜: Chapter 241 - Chapter 250

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第241話:千隼の過去を知る女②

「……おや、正確な時間だね。不合理な渋滞に巻き込まれることも計算の内かな、久遠咲良」 観音聖は、涼やかな瞳をこちらに向けた。 その視線は、人間を観察するというよりは、精密な機械の部品の欠陥を探しているような、温度のない色をしている。 彼の背後には、数人の黒服が影のように控えていた。 千隼は私の斜め後ろに立ち、ぴたりと気配を消す。けれど、彼の全身から放たれる威圧感は、部屋の中の空気をぴりぴりと震わせるほどに濃かった。「お招きいただき、光栄ですわ。観音さん」 私は千隼にエスコートされながら、観音の対面に座った。 室内には高級な白檀の香りが満ちている。けれど、その奥に混じる「何か」別の匂いに、私の嗅覚がわずかに反応した。 女の香水の匂いだ。 それも、この場の静謐さをあざ笑うような、濃厚で毒々しいジャスミンの香り。「それで? 結論は出たかな。僕との婚姻。それが、崩壊しつつある君の組を維持するための、最も期待値の高い選択肢だということは、理解しているはずだ」 観音が、指先で茶碗の縁をなぞる。 私は深く息を吸い、唇を開こうとした。 ――その時だった。「あら。そんなに焦らさなくてもいいじゃない。聖」 襖の向こうからではなく、部屋の隅にある衝立の影から、その声は響いた。 鈴を転がすような、けれど芯に鋭い棘を含んだ女の声。 千隼の肩が、微かに、けれど確実に硬直したのを、私の背中の皮膚が感じ取った。 現れたのは、深紅のチャイナドレスを纏った女だった。 スリットからは、白すぎて不健康なほどに艶めかしい足が覗いている。 彼女は優雅な足取りで観音の隣に歩み寄ると、当然のような顔をして彼の肩に手を置いた。「紹介するよ。彼女は紅(くれない)。裏社会の『掃除屋』であり、優秀な情報屋でもある。……そして、何より」 観音の言葉を遮るように、紅と呼ばれた女が、視線を私――ではなく、私の後ろに控える千隼へと向けた。 その瞳に宿ったのは、懐古と、執着と、そして隠しようのない嘲
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第242話:千隼の過去を知る女③

 その時間を、この女は共有していたのだ。 私の胸の奥に、今まで感じたことのない、黒くドロドロとした「熱」が湧き上がってくる。 それは恐怖ではなく、紛れもない、醜い嫉妬だった。「……千隼」 私は、震えそうになる声を無理やり抑え、短く彼の名を呼んだ。 千隼の視線が、私に落ちる。 その瞳には、一瞬の動揺もなかった。ただ、深い夜のような静寂だけがそこにある。 けれど、紅はそれを許さない。「聖、この子を私のところに返してちょうだい。そうすれば、久遠組の……不来方が隠している例の『裏帳簿』の場所、今すぐ教えてあげてもいいわよ?」 観音の目が、わずかに細められた。 盤面が、一気に混沌としていく。 私は、自分の手のひらがじわりと汗ばむのを感じた。 紅の放った言葉は、単なる挑発ではない。それは、千隼という存在をチップにした、悪趣味な取引の合図だった。 私はゆっくりと、観音の瞳を見据えた。 そして、隣で嘲笑を浮かべる紅という「毒蜘蛛」を、視界の端で捉える。 ――ふざけないで。 私の胃の腑が、冷たく、激しく怒りに煮え立った。 千隼は、誰の取引材料でもない。 彼は、私の……。「観音さん。その女の話を、真に受けるほど、貴方は愚かではないはずですわ」 私の声は、自分でも驚くほど冷徹に響いた。 隣で紅が、不愉快そうに眉を跳ねさせる。 私は、膝の上で握りしめていた手を解き、ゆっくりと扇子を広げた。 パッ、という小気味よい音が、緊迫した室内に響き渡る。「……面白いね。久遠咲良、君のその『論理』が、過去という不合理な感情にどう立ち向かうのか。見せてもらおうか」 観音が、面白そうに唇を歪める。 千隼の指先が、私の背もたれに触れた。 その微かな感触だけが、今の私を繋ぎ止める唯一の錨だった。 毒を吐く蜘蛛。それを操ろうとする盤上の魔術師。 そして、私
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第243話:千隼の過去を知る女④

 嘘だ。興味がないわけがない。 知りたくて、独占したくて、あんな女が知っている彼の断片をすべて焼き払ってしまいたい。 けれど、口から出たのは、可愛げのない「主としての傲慢」だけだった。「……そうですか」 千隼の声から、すべての感情が消えた。 彼の手が、静かに引かれていく。 その瞬間、私は得体の知れない喪失感に襲われた。 違う。そうじゃない。 行かないで。 そう叫びたいのに、喉は熱く、言葉は硬い氷の塊となって詰まってしまう。 千隼は立ち上がると、一礼して私の背後に回った。 そこにいるのに、限りなく遠い。 室内に満ちたジャスミンの香りが、執拗に私の鼻腔を突き、あの女の勝ち誇った笑い声を思い出させる。 ――貴女の知らない千隼を、私なら山ほど教えてあげられるのに。 爪が、手のひらに食い込む。 私は、目の前の盤面を、めちゃくちゃに壊してしまいたい衝動を必死に抑えていた。 観音聖の要求。紅の出現。千隼の沈黙。 すべてが、私を試している。 私が、久遠組の三代目として相応しい器なのか。それとも、ただの嫉妬に狂う小娘なのかを。 私はゆっくりと立ち上がり、乱れた着物の裾を整えた。 背後にいる男の気配は、今や冷たい壁のようだ。 けれど、私は知っている。 彼の首輪を握っているのは、私だ。 たとえ過去がどれほど凄惨でも、たとえあの女が何を語ろうとも。 今、ここで彼を支配しているのは、私なのだ。「……帰りましょう、千隼。ここは、匂いがきつすぎるわ」「……御意。お嬢様」 千隼の声に、いつもの「忠誠」が戻る。 けれど、その響きはどこか空虚で、夜風のように私の心をすり抜けていった。 料亭の外に出ると、雨はさらに激しさを増していた。 車を待つ間、千隼が傘を差し出し、私を濡らさないようにと自分の肩を雨に晒している。 私は、彼の濡れた肩を視界の端に捉え
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第244話:知らない匂い①

 黒塗りの高級車が、雨の夜を滑るように進んでいく。 分厚い防音ガラスに守られた車内は、外の喧騒を完全に遮断していた。一定のリズムでフロントガラスを往復するワイパーの低い駆動音と、濡れたアスファルトをタイヤが規則正しく弾く微かな水音だけが、密室の空間に響き続けている。 街灯やネオンの光が、窓ガラスに当たっては滲み、幾重にも重なる光の帯となって車内を通り過ぎていった。 その人工的な光の波が流れるたび、隣に座る男の硬い横顔が、暗闇の中から青白く浮かび上がっては再び影の中へと沈んでいく。 我妻千隼は、先ほどから一言も発していなかった。 普段であれば、彼は必ず私の機嫌を窺うように視線を向け、私の呼吸の乱れや体温の変化にすぐさま気づいて、甲斐甲斐しく世話を焼く。冷えた指先を温めようと自分の手のひらで包み込んだり、肩に上着を掛けたり、耳障りにならない低い声で今日の疲れを労ったりするはずだった。 だが、今の彼からその気配はない。 彼は深くシートに背を預け、真っ直ぐに前を見据えたまま、微動だにしなかった。 いや、微動だにしていないように見えるだけだ。 私の席からでも、彼の膝の上に置かれた両手が、関節が白く浮き出るほどに固く握りしめられているのがわかった。仕立ての良いスーツのスラックスに、不自然な皺が寄っている。 時折、彼の分厚い胸板が、浅く、不規則に上下する。そのたびに、彼が無理やり押し殺している荒い呼吸の震えが、隣り合う座席のクッションを通して私の腰の骨へと伝わってきた。 ――……貴方の過去なんて、興味ないわ。 料亭の静まり返った広間で、私が吐き捨てた言葉。 あの瞬間の、千隼の目の奥から全ての光が抜け落ち、指先から血の気が引いていく様子が、網膜に焼き付いて離れない。 主としての意地と、強がり。 彼が他の誰かと共有していた「過去」という領域に対する、醜い嫉妬から出た言葉。 それがどれほど彼の内側を切り裂き、彼を絶望の淵へと突き落としたか、痛いほど理解していた。 訂正しなければならない。あれは本心ではないと、貴方の過去も含めて全てを支配したいのだと、そ
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第245話:知らない匂い②

 むせ返るような、濃厚なジャスミンの香り。 料亭の襖を開け、観音の隣に寄り添うように現れた女、紅。 真紅のチャイナドレスから覗く白い足と、人を嘲笑うような真紅の唇。彼女が動くたびに部屋の空気を汚染していったあの香水の匂いが、車の中にまでついてきているような錯覚に陥る。 ――貴女の知らない千隼を、私なら山ほど教えてあげられるのに。 女の声が、耳の奥で鼓膜を内側から引っ掻くように再生される。 胃の腑の底から、黒く濁った酸液が込み上げてくるような感覚。 気持ち悪い。 私は、膝の上に置いた自分の両腕を、無意識のうちに強く抱きしめていた。 爪がストッキング越しに皮膚に食い込む。それでも、この肌の奥に侵入してくるような嫌悪感と焦燥感を振り払うことはできなかった。 私の知らない千隼。 私が彼に出会う前、血と泥に塗れたスラムの底辺で、牙を剥き出しにして息をしていた「狂犬」。 その彼を知っている。同じ底辺の空気を吸い、同じ匂いを身に纏い、彼の隣で生きていた女。 千隼の全てを掌握しているつもりだった。私だけが彼の首輪を握り、彼を太陽の当たる場所へと引っ張り上げたのだと、そう信じて疑わなかった。 けれど、あの女の言葉と、その場を支配したあの粘着質な匂いが、私の築き上げてきた自負をいとも簡単に打ち砕いていく。「……お嬢」 不意に、すぐ隣から低く掠れた声が落ちてきた。 ビクッと、私の肩が跳ねる。 視線を向けると、千隼はまだ前を見たままだった。ただ、握りしめられた拳の力が、さらに強くなっている。「……エアコンの温度が、低すぎますか」 絞り出すような、硬い声。 彼は私が腕を抱きしめ、身震いしているのを感じ取ったのだろう。 普段であれば、「冷えますね」と私の肩を抱き寄せ、自らの体温で温めようとするはずの男が、決して私に触れようとはしない。 私から「興味がない」と突き放された彼には、私に触れるという行為すら、主への不敬であり、完全に捨てられる引き金になるのではないかと怯えているの
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第246話:知らない匂い③

「そう……ですか。申し訳ありません」 千隼の答えは、機械のように平板だった。 彼自身の感情を全て押し殺し、ただ目の前の現実――主人から疎まれているという事実――を受け入れようと必死に耐えている、そんな響きだった。 車内は、再び死んだような沈黙に包まれた。 私の呼吸だけが、異常なほど浅く、早くなっている。 息をするたびに、自分の肺が冷え切っていくのがわかった。 やがて、車は緩やかに速度を落とし、久遠組の本家――私が主として君臨する広大な屋敷の車寄せへと滑り込んだ。 タイヤが砂利を踏みしめる鈍い音がして、エンジンが静かに停止する。 待機していた黒服の若い組員が、雨の中で慌てて駆け寄り、私の側のドアを外から開けた。 冷たく湿った夜の空気が、一気に車内へと流れ込んでくる。 私は組員が差し出す大きな黒傘の下へと、黙って足を踏み出した。 ヒールの先端が濡れた石畳を打ち、硬い音を立てる。 背後から、千隼が反対側のドアから降りてくる気配がした。「お疲れ様でございます、三代目」 ずらりと並んだ黒服たちが、一斉に深く頭を下げる。 私は彼らに視線を向けることもなく、ただ小さく顎を引いて応えた。 女王としての仮面。 誰にも弱みを見せない、絶対的な支配者としての振る舞い。 私はまっすぐに背筋を伸ばし、玄関の巨大な二枚扉へと向かって歩き出した。 背後から、千隼の規則正しい足音がついてくる。 いつもなら、彼は私の斜め後ろ、半歩と離れない位置をキープし、私の呼吸の乱れ一つも見逃さない距離で影のように付き従う。 だが今夜の足音は、いつもよりずっと遠い。 彼は、私から三歩ほど距離を開けて歩いていた。 まるで、私に近づくことを禁じられた罪人のように。 大理石の敷き詰められたエントランスを抜け、専用のエレベーターへと乗り込む。 金属製の重い扉が、音もなく閉ざされた。 鏡面仕上げの壁に、私と千隼の姿が映り込む。 私は前を向いたまま、視界の端だけで鏡の中の彼
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第247話:知らない匂い④

 あの女の情報を調べ上げ、この盤面から排除する。それはすでに決定事項だ。 けれど、それだけではこの胸の奥で煮え滾る「熱」は治まらない。「観音が要求してきた裏帳簿のデータ。……あれが本物だとしたら、不来方(こずかた)の足元を掬う決定的な切り札になるわ」 私は、努めて平坦な、仕事の話をする冷徹なトップとしての声を作った。 過去の話には触れない。感情の話もしない。 ただ、目の前の状況を盤上の駒として処理する。それが、今の私が彼に対して張れる唯一の虚勢だった。「……はい」 千隼の返事は、空洞のように響いた。 私が彼との間の「溝」を埋める言葉ではなく、単なるビジネスの話を持ち出したことで、彼はさらに自らを硬い殻の中へと閉じ込めてしまったようだった。「明日、ホールディングスの情報部を全て動かして、あの女の裏の繋がりを洗うわ。紅という名のアカウントの金の流れ、過去の取引記録、全てよ。……あの毒蜘蛛が持っている情報が本物かどうかにかかわらず、私を出し抜こうとしたこと、後悔させてやる」「……」 千隼は無言のまま、ただ深く頭を下げた。 エレベーターが最上階に到着し、電子音が鳴る。 扉が開くと同時に、私は彼を置き去りにするように早足で廊下へと歩き出した。 自室の重いオーク材の扉を開ける。 室内には、私のお気に入りの、落ち着いたベルガモットの香りが微かに漂っていた。 けれど、私の鼻腔の奥には、未だにあのむせ返るようなジャスミンの匂いがこびりついて離れない。 私は苛立ちのままに、肩にかけていた薄手のストールを引き剥がし、無造作にソファへと投げ捨てた。 足元を締め付けていたハイヒールを蹴り脱ぐと、硬い木床の冷たさがストッキング越しの足裏に直接伝わってくる。「お召し物を、お預かりします」 背後から、千隼の声がした。 彼は部屋の入り口に立ったまま、一歩も中へ入ろうとせず、ただ両手を前に揃えて控えていた。 そのひどく事務的で
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第248話:知らない匂い⑤

「……お嬢様。お手伝い、いたします」 見かねたように、千隼が一歩だけ足を踏み出した。 その足音を聞いた瞬間、私の口から、自分でも制御できない鋭い声が弾け飛んだ。「触らないで!」 ピタリ、と。 千隼の動きが、空中で完全に停止した。 伸ばしかけていた彼の手が、宙を彷徨ったまま凍りついている。 言ってしまった後で、私は自分の発した言葉の暴力性に気づき、息を呑んだ。 違う。彼を拒絶したいわけじゃない。 ただ、彼のその手があの女の肌に触れていた過去があるのかと思うと、今はどうしても、平静な顔で触れられる自信がなかったのだ。「……っ、ごめんなさい、そういう意味じゃ……」 言い訳をしようと振り返った私の目に映ったのは、千隼の顔だった。 彼の顔からは、一切の表情が消え失せていた。 血の気は完全に引き、唇はわずかに震え、大きく見開かれたアメジストの瞳孔が、極限の恐怖を映し出して小刻みに揺れている。 それは、死を宣告された瞬間の、人間の顔だった。「……触れるな、と」 千隼の口から、空気が漏れるような音がした。 彼の手が、ゆっくりと下に落ちる。「俺は……とうとう、貴女に触れることすら、許されなくなったのですね」「違うわ、千隼! 今はただ、私が……」「興味がないと、そう仰いましたね」 千隼が、低い、地鳴りのような声で私の言葉を遮った。 彼が一歩、私の方へと足を踏み出す。 その瞬間、部屋の空気が一変した。 今まで彼が必死に押し殺し、自らの内側に封じ込めていた「何か」が、決壊して溢れ出したのがわかった。「俺の過去など、興味がないと。……俺が今まで、どれほどの血と泥を啜って生きてきたか。どんな惨めな思いをして、あの女と共に這いつくばってきたか。……そんなものは、輝かしい場所に
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第249話:知らない匂い⑥

「違う! 私はただ、あの女が……あの女の匂いが……っ!」 私は首を横に振り、言葉を紡ごうとした。 だが、千隼の激しい呼吸音が、私の耳を塞いだ。 彼の顔が、すぐ目の前まで迫る。 吐息が肌を打ち、火傷しそうなほどの熱が顔面に降り注ぐ。「……捨てないでください」 千隼の声が、突然、子供のように泣きじゃくるように割れた。「俺を、見捨てないでください。俺には、お嬢しかいない。貴女が俺を拒絶するなら……俺は、俺の首輪を外そうとするあの女を、今すぐこの手で引き裂いて殺す」「千隼、駄目よ! そんなことをすれば……」「関係ないッ!」 千隼の怒鳴り声が、部屋の空気を震わせた。 彼の手が、私の肩を乱暴に掴む。 骨が軋むほどの強い力。 痛い。けれど、それ以上に、彼の指先から伝わってくる尋常ではない震えと絶望が、私の胸を抉った。「貴女がいなくなるくらいなら、俺はなんだってする。世界中の人間を皆殺しにしてでも、貴女をこの部屋に閉じ込めて、絶対に逃がさない。……俺の全ては、貴女のものだ。貴女だけが、俺の主なんだ……っ!」 言葉の羅列ではなく、それは魂を削り出すような叫びだった。 千隼の大きな身体が崩れ落ちるように前へと倒れ込み、彼の額が私の肩口に強く押し当てられる。 首筋に触れる彼の荒い息遣い。 熱い。痛い。苦しい。 あの毒々しいジャスミンの幻臭は、いつの間にか彼の放つむき出しの熱気によって完全に焼き払われていた。 私を掴む彼の指の力が、さらに強くなる。 まるで、少しでも力を緩めれば、私が目の前から消えてしまうと信じ込んでいるかのように。「……俺を見てください、お嬢……。俺だけを……」 肩に顔を埋めたまま、千隼がすがるように呟いた。
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第250話:泥のような嫉妬①

 耳朶を打つのは、心臓の鼓動か、それとも外で降り続く雨音か。 背中越しに伝わる大理石の壁の冷徹な感触と、正面から押し寄せ、全身を搦め取らんとする男の猛烈な熱。その暴力的なまでの対比に、思考が痺れ、呼吸の仕方を忘れそうになる。 視界の端から端まで、我妻千隼という巨大な質量に塗り潰されていた。 至近距離で見開かれたアメジストの瞳。その奥で、かつてないほどの絶望と狂気が、どろりとした黒い澱となって渦巻いている。「……お、嬢……」 肩口に顔を埋めたまま、漏れ出た声は、ひどく掠れて震えていた。 シャツ越しに伝わる彼の額の熱が、私の皮膚を焦がさんばかりに熱い。彼の手が、私の肩を掴む力が、さらに強くなる。 指先が、ドレスの薄い生地を掴み、その下の肉にまで食い込んでくる。 痛い。けれど、その痛み以上に、彼から発散される「見捨てられる」という本能的な恐怖の波動が、私の胸を抉った。 ――触らないで。 先ほど、自分の口から放たれた言葉が、ナイフとなって自室の空気を切り裂いたまま留まっている。 なぜ、あんなことを言ってしまったのか。 彼を拒絶したいわけではない。むしろ、その大きな身体を抱きしめ、「どこへも行かないわ」と、その震えを鎮めてあげたかった。 けれど、私の鼻腔の奥には、未だにあの不快な、むせ返るようなジャスミンの香りが幻臭としてこびりついている。 料亭の、あの畳の匂いと、女の嬌声。 千隼が、私に出会う前の時間を分かち合い、泥を啜りながら生きてきたという女。 紅――あの女の赤い唇が、私の知らない千隼の「名前」を呼んだ。 その光景が網膜に焼き付き、胸の奥でどろどろとした黒い酸液が湧き上がってくるのを止められなかった。 嫉妬。 あまりにも醜く、あまりにも矮小な、ただの一人の女の子としての感情。 久遠の三代目としての理性が、その感情を「無意味なノイズ」だと切り捨てようとするのに、身体が、心が、強烈な拒絶反応を起こしている。「千隼、離して……。苦しいわ」
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