古川光奈子(ふるかわ みなこ)は、足掛け十年もの時をかけ、ようやく近藤千隼(こんどう ちはや)の隣に並ぶ権利を得たはずだった。名前さえ覚えられていなかった片思いの相手から、彼が自らの口で認める「婚約者」という座を手にするまで。だが、挙式をわずか半月後に控えたある日、光奈子はすべてを手放す決意を固めた。「先輩、赤砂島支所への異動を希望します。リストに私の名前を加えてください」光奈子は署名済みの申請書をデスクに置いた。その声は、不気味なほど穏やかだった。モニター越しに担当者である先輩が顔を上げ、驚愕に目を見開く。「君と近藤室長は来月結婚するんじゃなかったか?室長を追いかけてこの研究所に来たことは、所内の誰もが知ってるぞ。ようやくゴールインというこの土壇場で、なぜあんな絶海の孤島なんだ?」光奈子は喉の奥から込み上げる苦い塊を無理やり飲み下し、先輩の親切な忠告を遮った。「先輩、承認をお願いします」彼女がこの数年、千隼の隣に立つためにどれほどの血肉を削ってきたか、周囲は知っているつもりでいるのだろう。自身のキャリアを捨て、千隼の「生活アシスタント」兼務の研究員に志願したこと。他者との接触を極端に嫌う彼に対し、並外れた根気強さで接してきたこと。十年かけて、彼にとって自分の存在を「あって当たり前」の空気のようなものにした。雑事を処理し、煩わしい人間関係をすべて排除した。傍目には、千隼にとって光奈子はすでに特別な存在に映っていただろう。あの孤独で偏屈な天才科学者が、唯一光奈子の誕生日だけは記憶し、彼女の体調不良時には特例として所内休憩室での宿泊を許可するのだから。だが、光奈子だけは真実を知っていた。誕生日プレゼントが高額な現金の振り込みで済まされるのは、彼が贈り物選びに一秒たりとも時間を割きたくないからだということを。そして宿泊を許されたあの夜、彼が徹夜で解析作業に没頭し、隣室で熱にうなされる自分に、ただの一度も声をかけなかったことを。千隼がプロポーズした理由も、彼女が彼の心を動かしたからではない。二ヶ月前の「廃工場での監禁事件」が引き金であることを、誰も知らない。産業スパイに拉致された彼を救うため、光奈子はたった一人で現場に乗り込んだ。そして千隼をかばい、犯人グループの標的となったのだ。地面に蹴り
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