Partager

第7話

Auteur: ポポ
光奈子はドアの外に立つ千隼を見つめた。道を空けることも、口を開くこともなく、ただ無言の冷ややかな視線で彼の言葉を待つ。

彼は数秒の沈黙の後、重い口を開いた。

「夏希の件は……断った」

一拍置いて、彼は言い訳めいた言葉を付け加えた。

「変な誤解はしないでくれ」

意外だった。

てっきり、夏希と付き合うことになったという報告だと思ったからだ。

だが彼はここに立ち、わざわざ「振った」と告げに来た。

自分が誤解して傷つくことを懸念したのか?今さら?

光奈子は静かに告げた。

「彼女を受け入れようと断ろうと、私にはもう関係ありません」

千隼はそのあまりに他人行儀な反応を予期していなかったのか、瞳に微かな動揺の色を宿した。

「他に用事がないなら、もう休みます」

「待て、光奈子」

千隼の手がドア枠を押さえ、閉めようとする動作を阻んだ。

声のトーンが落ちる。

「お前は最近、おかしいぞ」

光奈子は何も答えず、視線を逸らして強引にドアを閉めた。

カチャリという無機質な音が、十年間見上げ続けてきた人を閉め出した。

冷たいドアに背を預け、光奈子はゆっくりと息を吐き出す。

胸の奥のどこかが、何かに侵食されたように鈍く痛む。

わざわざ弁解に来るなんて、千隼らしくない。彼が「余計」だと切り捨てるはずの言葉を、彼自身の口から聞く日が来るなんて。

かつては彼の顔色を窺い、その些細な言動に心を振り回された。けれど千隼は、そんな彼女に見向きもしなかったはずだ。

今、光奈子が夏希の件に動じなくなると、逆に千隼が追いかけてくる。

なぜだろう。

滑稽さと虚しさが入り混じった感情がこみ上げ、光奈子は自嘲した。

どれくらい経っただろうか。けたたましいスマホの着信音で、彼女は我に返った。

同僚の恵子からだ。

「光奈子ちゃん!内部システムで公示されたトップジャーナルの論文採用通知、見た?

あの『新型材料』の筆頭著者が、なんで渡辺夏希なの?あれはあなたと室長が主導したプロジェクトでしょう?データだって光奈子ちゃんが何ヶ月も徹夜して出したものじゃない!」

光奈子の全身の血が、一瞬で逆流したかのような感覚に襲われた。

「……何ですって?」

「早くシステムを見て!著者は夏希一人だけなのよ!室長の名前すら載ってない!これどういうこと?」

光奈子は震える手で即座にPCを開き、サイトにログインした。

掲示板の最新ニュースが目に飛び込んでくる。

【渡辺夏希研究員の論文が『Matter&Structure』に正式受理されました……】

『Matter&Structure』はその分野の最高峰だ。

そしてその論文のタイトルは、間違いなく彼女と千隼がここ数ヶ月、最も心血を注いだプロジェクトのものだった。

光奈子が構想を出し、千隼と何度も検証を重ね、三ヶ月間実験室にこもってようやく重要データを得た課題だ。

貢献度から言えば、この論文の筆頭著者は、千隼でなければ光奈子であるべきだ。だが著者欄には、たった一つの名前しかない――渡辺夏希。

千隼の名前すらない。まるで彼が、ただの献身的な協力者であるかのように。

光奈子はすぐさま千隼に電話をかけた。

「論文の署名はどういうことですか」

光奈子は単刀直入に切り出した。

電話の向こうから、千隼の落ち着き払った声がする。

「告白を断ったせいで、夏希は精神的にかなり参っていた。このままでは次の職位審査に響く恐れがある」

光奈子は怒りを通り越して、乾いた笑いが漏れそうになった。

「つまり、私とあなたの研究成果を使って、彼女を慰めたんですか?

私の血の滲むような努力を、手切れ金代わりに彼女へくれてやったんですか?私に一言の相談もなく!」

千隼の返答は淡々としており、論点は巧妙にずらされていた。

「データは既存の実験設備の産物だし、初稿をまとめたのは夏希だ。名前を載せるのは妥当だろう。

この論文の権利は研究所に帰属する。研究室の運営方針と署名の決定権は、室長である俺にある。お前の貢献については、後で反映させる」

光奈子の声が震えた。悔しさ、そして煮えたぎるような怒りだ。

三ヶ月、命を削るように注いだ成果を千隼になかったことにされ、あろうことか他人の踏み台として軽く譲り渡された。

さっきドアの前で、千隼の異例の弁解に心を揺らした自分が滑稽でならない。あれは、夏希にプロジェクトを与えるための、ただの罪滅ぼしの下準備に過ぎなかったのだ。

「反映?どのように?また以前のように、末尾の謝辞に小さく名前を載せるだけですか?

私のことを、何だと思ってるんですか?共著者としての名前もいらない、都合よく働くだけの道具……そう考えておいでですか?」

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 君と星を拾う夜明け前   第24話

    光奈子がドアを開けて入ると、千隼は窓の外をぼんやりと眺めていた。朝の光の中、その横顔は削ぎ落とされたように痩せ、青白かった。「座ってくれ」彼の声は枯れていた。ベッドサイドの丸椅子を目で示す。二人はしばし沈黙した。窓の外から、潮騒と海鳥の鳴き声だけが聞こえてくる。「実は、拉致されたあと……お前が血の中に沈んでいく夢に、毎晩のようにうなされたんだ」千隼が不意に口を開いた。「目が覚めて、隣のベッドでお前が静かに寝息を立てているのを見て、ようやく息ができる気がした……失うのが、怖かったんだ」彼がそんな内面を吐露するのは初めてだった。あの沈黙の氷山の下にも、激しい後悔の荒波が隠されていたのだ。千隼はゆっくりと光奈子の方を向いた。「残念ながら、俺は愚かすぎた。お前を側に縛り付けておくことが、唯一の償いだと思っていたんだ」光奈子は何も言わず、サイドテーブルの水差しから水を注ぎ、コップを彼に手渡した。「……もう、終わったことだわ」千隼はコップを受け取り、長い指先で縁を摩った。「あの論文、修正版を再提出した。筆頭著者は古川光奈子だ」「もういいの、あれは」光奈子は窓の外へ視線を逃がした。探査隊の車列が、砂煙を上げて遠ざかっていくのが見える。彼もその視線を追い、ふと、恐る恐る尋ねた。「……服部は、大切にしてくれるか?」光奈子の目尻がふわりと和らぎ、細い笑い皺ができた。「彼ったら、数日前にホットミルクを作ってくれたんだけど、塩と砂糖を間違えて半分も入れたのよ」千隼はきょとんとした後、低く笑い声を漏らした。笑いが傷口に響いたのか、彼は顔をしかめて咳き込んだが、その目尻には確かに光るものがあった。退院の日、島に珍しく天気雨が降った。徹は傘を差して光奈子を懐に引き寄せ、ふと診療所の入り口に佇む千隼を見上げた。雨のカーテン越しに、二人の男の視線が交差する。千隼はわずかに頷き、背を向けて迎えの車へと歩き出した。バックミラー越しに、徹が慌てた様子で、光奈子の頬に跳ねた雨粒を指で拭っているのが見えた。光奈子が笑ってそれを避け、その瞳の光が、雨上がりの虹よりも鮮やかに輝いている。三ヶ月後。光奈子が提出した『赤砂島生態系の緑化再生プラン』が、本部の重点課題に選ばれた。徹は実験室に居座って彼

  • 君と星を拾う夜明け前   第23話

    「……なぜ、俺を助けた?」千隼の声は、出血による消耗で極めて微弱だった。徹は彼を車に乗せ、駆け寄ってきた光奈子に安心させるような笑みを向けた。返した声もまた、密やかだった。「光奈子に、一生消えない負い目を残させたくないからですよ」光奈子は徹の腕に滲む血を見つめ、さらに後部座席で蒼白になっている千隼を見て、唇を引き結んだまま助手席に乗り込んだ。島の診療所への道中、車内は重苦しい静寂に包まれていた。徹は運転に集中し、光奈子はバックミラー越しに、千隼が苦しげに目を閉じている様子を見守っていた。処置室で医師が千隼の傷を縫合している間、光奈子は待合室に立っていた。徹は向かいの壁に寄りかかり、心配そうに彼女を見ている。「……腕、手当てするわ」光奈子は看護師から渡された消毒液とガーゼを手に取った。徹は反射的に手を引っ込めようとしたが、観念したように差し出した。消毒液が傷口に触れると、小さく息を吸い込んだ。「痛い?」光奈子は手つきを優しく緩めた。徹は首を振ったが、その視線はずっと彼女の顔から離れようとしない。処置が終わり、光奈子が救急箱を片付けようと視線を落とした時、突然彼が小声で尋ねた。「……光奈子は、彼の元へ戻るのか?」光奈子の手が止まり、顔を上げた。徹の耳は赤く染まり、視線は悪いことをした子供のように彷徨っている。「あの人は、光奈子のために命を落としかけた。あんな言葉まで叫んで……」徹の声は尻すぼみに小さくなっていく。「もし、情にほだされて戻るって言われたら、俺は……」光奈子はその張り詰めた様子を見て、不意に笑ってしまった。彼女は悪戯っぽく手を伸ばし、彼の鼻先をトン、と軽く突いた。「そんなに心配なら、どうして命懸けで彼を助けたの?」徹は勢いよく顔を上げ、慌てて弁解した。「だ、だって、罪悪感で戻ってほしくなかったんだ!光奈子を救ったのは彼の意志だ、そのせいで縛られるなんて……」「徹」光奈子は彼を遮った。声は軽やかだが、断固としていた。「今日、彼が私を救ってくれたことには感謝してる。そして、ある事をはっきりと分からせてくれたことにも、もっと感謝してるわ」徹の瞳を真っ直ぐに見つめ、一語一語を噛み含めるように言った。「でも、感謝と愛情は別物よ」徹はあっけにとられ

  • 君と星を拾う夜明け前   第22話

    翌朝6時、車隊は時間通りに出発した。徹は車から飛び降り、熱々の缶コーヒーとサンドイッチを光奈子の手に押し込んだ。「温かいうちに腹に入れて。山道は揺れるから」道中、徹はハンドルを握りながら光奈子に地質構造を解説し、興が乗ると片手で図面を指し示した。彼の手指は温かく、光奈子はそっと手を引いたが、耳の根元は微かに赤かった。昼の探査時、徹は自然な手つきで光奈子の腰に安全ロープを結んだ。彼が身を屈め、吐息が彼女の耳を掠める。「この地形は俺の庭みたいなもんだから。俺から離れないで」千隼も近づこうとしたが、タイミング悪く隊長に反対側の地層チェックに呼ばれた。「これ、食べておいてください」小休止中、徹がリュックからカットフルーツの入ったケースを取り出した。「島じゃビタミンは金より高いからね」彼はフォークでメロンを刺し、光奈子の口元へ差し出した。目はキラキラしている。光奈子は少し躊躇ったが、大人しく口に運んだ。少し離れた場所で、千隼は水筒を強く握りしめ、その光景を睨みつけていた。耐え切れず、二人に歩み寄る。「光奈子、こちらの記録で前期データをいくつか照合したいんだが。今いいか」徹が眉をひそめた。「室長、食事の時くらい休ませてやってくださいよ」千隼は無視して記録帳を開き、一箇所を指差した。「このpH値のパラメータがおかしい。異常値が出ている」彼は光奈子に覆いかぶさるように接近し、二人を隔てる壁になろうとした。徹は体を滑り込ませ、フルーツのケースを光奈子のもう片方の手に渡した。「データは逃げませんよ。室長がそんなに焦るなんて、さっき何か見落としでも?」「仕事は厳密であるべきだ」千隼の顔色が沈む。「もちろん厳密であるべきですね」徹は頷いて笑ったが、目は笑っていなかった。「空腹でデータ照合して、小数点を読み間違えるほうが『厳密』じゃないと思いますが」光奈子は無言でフォークを置き、千隼の手から記録帳をひったくった。徹が近づき、腕を何気なく彼女の背後の岩に乗せた。照りつける日差しの下、三人の影が一つに溶け合った。「数値に問題はありません」光奈子は素早く目を通した。「それはサンプリング深度の差異によるものです。備考欄に補正値を書いてあります」徹は鼻で笑い、水筒

  • 君と星を拾う夜明け前   第21話

    「あ―っ、参った!降参、降参です!」徹は観念したように両手を挙げた。「ここではただの、石ころ好きの現場作業員ですから」彼は一呼吸置き、声を落とした。少し気まずそうだ。「あと、俺さっき、口が滑りましたね?」光奈子は足を止めた。夜闇の中で彼女の瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいた。「……近藤室長が拉致された件を知ってるってこと?」徹の喉仏がごくりと動いた。隠し立ては無意味だと悟ったようだった。「……ああ。ここへ来る前、古川さんの噂を聞いたんです。本部最年少のシニアエンジニアなのに、自らこんな辺鄙な火山島への異動を願い出たと。どんな変わり者なんだと気になって、つい調べてしまったんです。でも、会ってみたら全然違います。あの日、砂嵐の中でサンプリングする古川さんを見るまでは、ただのエリート様だと思ってました。でもあなたは、暴風域で視界ゼロなのに、自分の身よりサンプル袋を守ってました」光奈子は指先のタコをそっと摩った。長年の野外作業が残した、消えない痕跡だ。ここ一ヶ月、辛い時にはいつも徹が「偶然」現れたことを思い出した。「ついで」に水を多めに持ってきたり、「たまたま」通りかかって重い機材を運んでくれたり。光奈子はようやく彼を振り返った。月明かりの下、この男の瞳は夜空のように深く、嘘がなかった。そこには哀れみなどなく、あるのは揺るぎない敬意だけ。「ねえ」突然、彼女は口を開いた。声には久しく感じなかった安らぎが含まれていた。「ここに来て一ヶ月、服部さんが初めてよ。『もったいない』って言わなかったのは」他の人は皆、本部から異動してきた光奈子を、「キャリアを棒に振った」、「前途を台無しにした」と嘆いた。「もったいない?逆ですよ。こんな過酷な場所に根を下ろせる人こそ、本当に強いんです。温室の花がいくら綺麗でも、荒地に根を張るヤシャブシには敵わないんです」徹は堰を切ったように早口で言った。「俺、ヤシャブシが好きなんですよ!見た目は地味な低木だけど、栄養のない荒れた土を豊かな森に変えていくんです……」突然、自分が何を言ったか気づき、少し耳を赤くしながら言った。だが今回は目を逸らさず、むしろ背筋を伸ばした。「だから……チャンスをくれませんか?古川さんと一緒に、この島で一番強いヤシャブシになるチャンス

  • 君と星を拾う夜明け前   第20話

    週末の夜、支所の食堂でささやかな親睦会が開かれた。数人の古参研究員が自慢の地酒を持ち寄り、赤ら顔で盛り上がっている。徹は隣の研究員とグラスを鳴らし、豪快に笑っていたが、その視線はさりげなく、隅にいる光奈子を気にかけていた。彼女は静かに料理をつつき、時折会話に相槌を打つだけで、酒には口をつけていない。「古川さん、座ってばかりいないで一杯どうだ?」酔った翔斗が、なみなみと注がれたコップを差し出した。光奈子が困惑して断ろうとした時、横から伸びてきた手が、そのコップを鮮やかにさらい取った。「永井さん、勘弁してやってくださいよ。明日はまた早朝からサンプリングなんですから。古川さんには頭をスッキリさせて記録してもらわなきゃ困ります。その分、俺が頂きますから!」そう言って彼は一気に酒を呷り、空になったコップを逆さにして見せた。光奈子に片目を瞑って見せると、彼女は俯いて口元を綻ばせた。離れた席に座っていた千隼は、その光景を見て、グラスを持つ指の関節が白くなるほど拳を握りしめていた。あの男はあまりに眩しく、光のようだ。それに比べて今の自分は、なんと陰鬱で、不器用なのか。彼はグラスの酒を乱暴に喉に流し込んだ。食道が焼けるように熱いのに、胸の空洞は冷たいままだ。お開きになり、光奈子は酔い覚ましに外へ出た。島の夜空は澄み渡り、天の川がすぐそこまで垂れ下がっているように濃い。「星、見てますか?」徹の声が背後からした。彼は温かいホットレモンを光奈子に手渡した。「酔い覚ましにどうぞ」「……ありがとう」二人は並んで立った。しばらく沈黙した後、徹がぽつりと口を開いた。声は普段より低く、真面目な響きだった。「古川さんは、すごいと思いますよ。本部から来て、こんなに環境が激変したのに、文句一つ言わないんです。何事もないような顔して、誰よりも正確に仕事をしてます」彼は言葉を切った。「聞きましたが……以前は東都の本部で、近藤室長の下にいたんですね?」光奈子の体が微かに強張った。徹は星空を見上げ、独り言のように続けた。「俺の実家、潮潟なんです。あの服部建設グループ、知ってますか」彼は他人のことのように軽く言った。「上には優秀な兄貴や姉貴がいますから、俺は気楽なもんですよ。小さい頃から石ころいじりが好きで、そこ

  • 君と星を拾う夜明け前   第19話

    午後、徹は光奈子を車に乗せて外出した。車内にはラジオからノイズ混じりの地元民謡が流れ、彼はハンドルを指で軽く叩きながらリズムを取っている。「あそこ、見てください」彼は窓の外を指差した。「鯨の背中みたいでしょう?数千年の風と水が肉を削ぎ落として、骨だけが残った。自然の彫刻ですよ」光奈子が視線を向けると、風蝕によって削り出された土の畝と谷が、見渡す限りの赤錆色となって広がっていた。「今は乾いた赤土ですけど、地層を見ると大昔は深い森だった痕跡があるんです。全部、熱い溶岩に飲み込まれてしまった……変わらないものなんて、石ころ一つないんですよ」車が坂道で止まると、徹は手際よくハンマーと水筒を取り出し、彼女を連れて斜面を登った。そして、むき出しになった地層の断面を指差した。「この縞模様を見てください。大昔のここの歴史の記録です。層の一つ一つが、物語になってるんですよ」徹は足元の溶岩の欠片を拾い上げ、光奈子に放って寄越した。「とてつもなく長い時間を前にすれば、人の悩みや苦しみなんてちっぽけなものですね。だから、息が詰まりそうになったら、この空と大地を見るんです。少しは胸がすっとしますよ」光奈子は石を握りしめ、何も言わなかったが、張り詰めていた肩の力がふっと抜けたのが分かった。帰路、徹はそれ以上慰めの言葉をかけることなく、馬鹿げた土地の言い伝えなどを話すだけだった。そこには、千隼との間にあったような、窒息しそうな気まずい沈黙はない。その時、ダッシュボードの車載無線が警告音を響かせた。「緊急!3号深部観測井にて異常圧感知!至急確認を求む!」徹の顔つきが一瞬で切り替わった。「了解!すぐ向かいます!」彼は光奈子に振り返り、早口で説明した。「大事な観測点です。データを途切れさせるわけにはいきませんから」光奈子は迷わず言った。「一緒に行きます。データなら頭に入ってます」現場に着くと、もう一台の車が停まっていた。千隼だ。彼はすでに作業を始めていたが、様子がおかしい。顔色は青白く、呼吸が乱れているのが見て取れた。明らかに火山ガスの影響が出始めているが、それでも無理をして坑口の機器にしがみついていた。光奈子と徹が車から降りてくるのを見て、彼の瞳が暗く翳った。「状況は?」徹は単刀直入に聞いた。

  • 君と星を拾う夜明け前   第6話

    家では余計者、学校では透明人間。そんな彼女が憧れることさえ躊躇われた少年が、最も惨めな瞬間に、崩れ落ちそうだった自尊心を守ってくれた。千隼が恵んでくれた微かな光。それに吸い寄せられる羽虫のように、光奈子は彼の背中を追うことに全てを捧げた。その後、彼女は死に物狂いで研鑽を積み、彼と同じ大学の門を潜った。彼は相変わらず選ばれしエリートであり続け、卒業後は研究所の最年少室長へと上り詰めた。光奈子は迷わずその研究所に履歴書を送った。自身のキャリアも、華々しい昇進の機会も全て捨て、ただ千隼の隣に立つためだけに。「光奈子?」彼の声が現実に引き戻す。医師が傷の手当てをしている

  • 君と星を拾う夜明け前   第5話

    それから数日は平穏だったが、ある日、光奈子がシミュレーション後の片付けを終えた頃、実験室のドアが勢いよく撥ね飛ばされた。同僚の佐野恵子(さの けいこ)が、青ざめた顔で飛び込んでくる。「光奈子ちゃん、大変!お母さんと弟さんが宿舎の入り口で大騒ぎしてるの。警備員さんも手を焼いてて……」光奈子の心臓が、鉛のように重く沈んだ。あの日以来、実家への送金を止めていた。だが、まさか職場にまで押しかけてくるとは。駆けつけると、遠くからでも和樹の汚い罵声と、香苗のヒステリックな喚き声が聞こえてきた。宿舎の入り口には、遠巻きに野次馬の輪ができている。香苗は警備員の袖にしがみつき、半狂乱

  • 君と星を拾う夜明け前   第4話

    光奈子はスーツケースを引き、研究所の厚生課で職員宿舎の鍵を受け取った。部屋は最上階の隅。半月ほどを凌ぐ仮住まいとしては十分だろう。彼女は細々とした私物や書籍が入った重い段ボール箱を抱えていた。階段を上がろうとしたその時、上から降りてくる千隼と夏希に出くわした。夏希はファイルを片手に千隼と談笑しており、あやうく光奈子と衝突しそうになる。「あら」彼女はずり落ちそうになった光奈子の箱を、とっさに支えた。「古川さん、何を運んでるんですか?こんなに重いのに……私、運びますよ」夏希は屈託のない笑顔で、親しげに申し出る。光奈子は反射的に腕に力を込め、その接触を拒絶した。

  • 君と星を拾う夜明け前   第3話

    千隼は怪訝そうに眉をひそめた。「何を言っている?」彼が言葉の意味を咀嚼しきれない隙に、廊下の向こうから夏希が駆け寄ってくる。「先輩!3番のサンプルに異常が出ました!」千隼は弾かれたように彼女の方へ向き直る。「どうした?」「臨界値を突破しています、早く来てください!」夏希は彼の袖を引く。彼は振り返り、光奈子を一瞥だけして、冷静に告げた。「緊急事態だ。この話は後でしよう」そう言い捨てると、光奈子に反論の隙すら与えず、夏希と共に足早に去っていった。その場に立ち尽くし、光奈子は二人の白衣が翻って消えるのを見つめた。表情は、抜け落ちていた。意外ではなか

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status