เข้าสู่ระบบ古川光奈子(ふるかわ みなこ)は、足掛け十年もの時をかけ、ようやく近藤千隼(こんどう ちはや)の隣に並ぶ権利を得たはずだった。 名前さえ覚えられていなかった片思いの相手から、彼が自らの口で認める「婚約者」という座を手にするまで。 だが、挙式をわずか半月後に控えたある日、光奈子はすべてを手放す決意を固めた。 「先輩、赤砂島支所への異動を希望します。リストに私の名前を加えてください」 光奈子は署名済みの申請書をデスクに置いた。その声は、不気味なほど穏やかだった。 モニター越しに担当者である先輩が顔を上げ、驚愕に目を見開く。 「君と近藤室長は来月結婚するんじゃなかったか?」
ดูเพิ่มเติม光奈子がドアを開けて入ると、千隼は窓の外をぼんやりと眺めていた。朝の光の中、その横顔は削ぎ落とされたように痩せ、青白かった。「座ってくれ」彼の声は枯れていた。ベッドサイドの丸椅子を目で示す。二人はしばし沈黙した。窓の外から、潮騒と海鳥の鳴き声だけが聞こえてくる。「実は、拉致されたあと……お前が血の中に沈んでいく夢に、毎晩のようにうなされたんだ」千隼が不意に口を開いた。「目が覚めて、隣のベッドでお前が静かに寝息を立てているのを見て、ようやく息ができる気がした……失うのが、怖かったんだ」彼がそんな内面を吐露するのは初めてだった。あの沈黙の氷山の下にも、激しい後悔の荒波が隠されていたのだ。千隼はゆっくりと光奈子の方を向いた。「残念ながら、俺は愚かすぎた。お前を側に縛り付けておくことが、唯一の償いだと思っていたんだ」光奈子は何も言わず、サイドテーブルの水差しから水を注ぎ、コップを彼に手渡した。「……もう、終わったことだわ」千隼はコップを受け取り、長い指先で縁を摩った。「あの論文、修正版を再提出した。筆頭著者は古川光奈子だ」「もういいの、あれは」光奈子は窓の外へ視線を逃がした。探査隊の車列が、砂煙を上げて遠ざかっていくのが見える。彼もその視線を追い、ふと、恐る恐る尋ねた。「……服部は、大切にしてくれるか?」光奈子の目尻がふわりと和らぎ、細い笑い皺ができた。「彼ったら、数日前にホットミルクを作ってくれたんだけど、塩と砂糖を間違えて半分も入れたのよ」千隼はきょとんとした後、低く笑い声を漏らした。笑いが傷口に響いたのか、彼は顔をしかめて咳き込んだが、その目尻には確かに光るものがあった。退院の日、島に珍しく天気雨が降った。徹は傘を差して光奈子を懐に引き寄せ、ふと診療所の入り口に佇む千隼を見上げた。雨のカーテン越しに、二人の男の視線が交差する。千隼はわずかに頷き、背を向けて迎えの車へと歩き出した。バックミラー越しに、徹が慌てた様子で、光奈子の頬に跳ねた雨粒を指で拭っているのが見えた。光奈子が笑ってそれを避け、その瞳の光が、雨上がりの虹よりも鮮やかに輝いている。三ヶ月後。光奈子が提出した『赤砂島生態系の緑化再生プラン』が、本部の重点課題に選ばれた。徹は実験室に居座って彼
「……なぜ、俺を助けた?」千隼の声は、出血による消耗で極めて微弱だった。徹は彼を車に乗せ、駆け寄ってきた光奈子に安心させるような笑みを向けた。返した声もまた、密やかだった。「光奈子に、一生消えない負い目を残させたくないからですよ」光奈子は徹の腕に滲む血を見つめ、さらに後部座席で蒼白になっている千隼を見て、唇を引き結んだまま助手席に乗り込んだ。島の診療所への道中、車内は重苦しい静寂に包まれていた。徹は運転に集中し、光奈子はバックミラー越しに、千隼が苦しげに目を閉じている様子を見守っていた。処置室で医師が千隼の傷を縫合している間、光奈子は待合室に立っていた。徹は向かいの壁に寄りかかり、心配そうに彼女を見ている。「……腕、手当てするわ」光奈子は看護師から渡された消毒液とガーゼを手に取った。徹は反射的に手を引っ込めようとしたが、観念したように差し出した。消毒液が傷口に触れると、小さく息を吸い込んだ。「痛い?」光奈子は手つきを優しく緩めた。徹は首を振ったが、その視線はずっと彼女の顔から離れようとしない。処置が終わり、光奈子が救急箱を片付けようと視線を落とした時、突然彼が小声で尋ねた。「……光奈子は、彼の元へ戻るのか?」光奈子の手が止まり、顔を上げた。徹の耳は赤く染まり、視線は悪いことをした子供のように彷徨っている。「あの人は、光奈子のために命を落としかけた。あんな言葉まで叫んで……」徹の声は尻すぼみに小さくなっていく。「もし、情にほだされて戻るって言われたら、俺は……」光奈子はその張り詰めた様子を見て、不意に笑ってしまった。彼女は悪戯っぽく手を伸ばし、彼の鼻先をトン、と軽く突いた。「そんなに心配なら、どうして命懸けで彼を助けたの?」徹は勢いよく顔を上げ、慌てて弁解した。「だ、だって、罪悪感で戻ってほしくなかったんだ!光奈子を救ったのは彼の意志だ、そのせいで縛られるなんて……」「徹」光奈子は彼を遮った。声は軽やかだが、断固としていた。「今日、彼が私を救ってくれたことには感謝してる。そして、ある事をはっきりと分からせてくれたことにも、もっと感謝してるわ」徹の瞳を真っ直ぐに見つめ、一語一語を噛み含めるように言った。「でも、感謝と愛情は別物よ」徹はあっけにとられ
翌朝6時、車隊は時間通りに出発した。徹は車から飛び降り、熱々の缶コーヒーとサンドイッチを光奈子の手に押し込んだ。「温かいうちに腹に入れて。山道は揺れるから」道中、徹はハンドルを握りながら光奈子に地質構造を解説し、興が乗ると片手で図面を指し示した。彼の手指は温かく、光奈子はそっと手を引いたが、耳の根元は微かに赤かった。昼の探査時、徹は自然な手つきで光奈子の腰に安全ロープを結んだ。彼が身を屈め、吐息が彼女の耳を掠める。「この地形は俺の庭みたいなもんだから。俺から離れないで」千隼も近づこうとしたが、タイミング悪く隊長に反対側の地層チェックに呼ばれた。「これ、食べておいてください」小休止中、徹がリュックからカットフルーツの入ったケースを取り出した。「島じゃビタミンは金より高いからね」彼はフォークでメロンを刺し、光奈子の口元へ差し出した。目はキラキラしている。光奈子は少し躊躇ったが、大人しく口に運んだ。少し離れた場所で、千隼は水筒を強く握りしめ、その光景を睨みつけていた。耐え切れず、二人に歩み寄る。「光奈子、こちらの記録で前期データをいくつか照合したいんだが。今いいか」徹が眉をひそめた。「室長、食事の時くらい休ませてやってくださいよ」千隼は無視して記録帳を開き、一箇所を指差した。「このpH値のパラメータがおかしい。異常値が出ている」彼は光奈子に覆いかぶさるように接近し、二人を隔てる壁になろうとした。徹は体を滑り込ませ、フルーツのケースを光奈子のもう片方の手に渡した。「データは逃げませんよ。室長がそんなに焦るなんて、さっき何か見落としでも?」「仕事は厳密であるべきだ」千隼の顔色が沈む。「もちろん厳密であるべきですね」徹は頷いて笑ったが、目は笑っていなかった。「空腹でデータ照合して、小数点を読み間違えるほうが『厳密』じゃないと思いますが」光奈子は無言でフォークを置き、千隼の手から記録帳をひったくった。徹が近づき、腕を何気なく彼女の背後の岩に乗せた。照りつける日差しの下、三人の影が一つに溶け合った。「数値に問題はありません」光奈子は素早く目を通した。「それはサンプリング深度の差異によるものです。備考欄に補正値を書いてあります」徹は鼻で笑い、水筒
「あ―っ、参った!降参、降参です!」徹は観念したように両手を挙げた。「ここではただの、石ころ好きの現場作業員ですから」彼は一呼吸置き、声を落とした。少し気まずそうだ。「あと、俺さっき、口が滑りましたね?」光奈子は足を止めた。夜闇の中で彼女の瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいた。「……近藤室長が拉致された件を知ってるってこと?」徹の喉仏がごくりと動いた。隠し立ては無意味だと悟ったようだった。「……ああ。ここへ来る前、古川さんの噂を聞いたんです。本部最年少のシニアエンジニアなのに、自らこんな辺鄙な火山島への異動を願い出たと。どんな変わり者なんだと気になって、つい調べてしまったんです。でも、会ってみたら全然違います。あの日、砂嵐の中でサンプリングする古川さんを見るまでは、ただのエリート様だと思ってました。でもあなたは、暴風域で視界ゼロなのに、自分の身よりサンプル袋を守ってました」光奈子は指先のタコをそっと摩った。長年の野外作業が残した、消えない痕跡だ。ここ一ヶ月、辛い時にはいつも徹が「偶然」現れたことを思い出した。「ついで」に水を多めに持ってきたり、「たまたま」通りかかって重い機材を運んでくれたり。光奈子はようやく彼を振り返った。月明かりの下、この男の瞳は夜空のように深く、嘘がなかった。そこには哀れみなどなく、あるのは揺るぎない敬意だけ。「ねえ」突然、彼女は口を開いた。声には久しく感じなかった安らぎが含まれていた。「ここに来て一ヶ月、服部さんが初めてよ。『もったいない』って言わなかったのは」他の人は皆、本部から異動してきた光奈子を、「キャリアを棒に振った」、「前途を台無しにした」と嘆いた。「もったいない?逆ですよ。こんな過酷な場所に根を下ろせる人こそ、本当に強いんです。温室の花がいくら綺麗でも、荒地に根を張るヤシャブシには敵わないんです」徹は堰を切ったように早口で言った。「俺、ヤシャブシが好きなんですよ!見た目は地味な低木だけど、栄養のない荒れた土を豊かな森に変えていくんです……」突然、自分が何を言ったか気づき、少し耳を赤くしながら言った。だが今回は目を逸らさず、むしろ背筋を伸ばした。「だから……チャンスをくれませんか?古川さんと一緒に、この島で一番強いヤシャブシになるチャンス