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第5話

Author: ポポ
それから数日は平穏だったが、ある日、光奈子がシミュレーション後の片付けを終えた頃、実験室のドアが勢いよく撥ね飛ばされた。

同僚の佐野恵子(さの けいこ)が、青ざめた顔で飛び込んでくる。

「光奈子ちゃん、大変!お母さんと弟さんが宿舎の入り口で大騒ぎしてるの。警備員さんも手を焼いてて……」

光奈子の心臓が、鉛のように重く沈んだ。

あの日以来、実家への送金を止めていた。だが、まさか職場にまで押しかけてくるとは。

駆けつけると、遠くからでも和樹の汚い罵声と、香苗のヒステリックな喚き声が聞こえてきた。

宿舎の入り口には、遠巻きに野次馬の輪ができている。

香苗は警備員の袖にしがみつき、半狂乱で叫んでいた。

「お願い、通してちょうだい!娘が中にいるのよ!母親を平気で見捨てるような、血も涙もない子なの!」

その横で、和樹が自動ドアのガラスをドカッと蹴り飛ばす。

「おいコラ!隠れてねえで出てこい、光奈子!」

光奈子は人混みをかき分け、前に出た。

「母さん、和樹、やめて。迷惑でしょう!」

「迷惑だと?」

和樹は警備員を振り払い、光奈子の鼻先に躍り出た。

「誰のおかげで大学まで出て、こんないい所に就職できたと思ってんだ、この恩知らずが!今日が返済期限なんだよ。四百万足りねえんだ、今すぐ出せ!」

「毎月送っている生活費で十分でしょう。ギャンブルの借金なんて、一銭も出さないわ」

光奈子の声は、氷のように冷たかった。

「ふざけるな!千隼さんに取り入ってた時は羽振りが良かったくせに、捨てられた途端に金がないだと?」

和樹がいきなり手を伸ばし、彼女を力任せに突き飛ばした。

「調子に乗るんじゃねえよ!」

不意を突かれた光奈子は、冷たく硬いコンクリートの地面に激しく叩きつけられた。

衝撃が骨まで響き、肘と膝からじわりと血が滲む。

周囲は静まり返り、誰もが息を呑んだ。

光奈子は立ち上がろうとしたが、膝に走る激痛に体が言うことを聞かない。

擦り傷の痛みより、実の弟に衆人環視の中で突き飛ばされたという屈辱が、心に深く突き刺さった。

十数年尽くし続けた家族を見上げ、彼女は震える声で言い放った。

「……お金は、ないと言ったわ」

「てめぇ、どこまでナメ腐った口を……!」

完全に理性を失った和樹は、花壇に飾られていた金属製のオブジェを掴み上げ、光奈子めがけて振り下ろした。

周囲から悲鳴が上がる。

その一瞬、誰かが光奈子の視界を遮るように飛び込んできた。

ドンッ!

鈍い衝撃音が響く。

金属の塊は、その人物の背中を直撃していた。

千隼だった。

いつの間にか現れた彼は、光奈子を完全に覆い隠すように守り、その背で一撃を受け止めたのだ。

彼は低く呻き、苦痛に眉を寄せたが、彼女をかばう姿勢は微塵も崩さなかった。

光奈子は、ただ呆きなかった。

和樹は腰を抜かしてへたり込み、香苗も顔面蒼白で震えている。

息子が千隼を殴った!金を無心するどころか、警察沙汰になれば一家の破滅だ!

「警察を呼べ」

千隼の声が、冷徹に響き渡った。

「研究員への暴行、および脅迫だ。監視カメラの映像はすべて確保しろ」

パトカーのサイレンが近づき、和樹と香苗は土気色の顔で連行されていった。

香苗はパトカーに押し込まれる際も、まだ「親に向かってなんてことを!」と泣き喚いていたが、光奈子はその声を遠い世界の雑音のように聞いていた。

人混みが散り、突き刺さるような好奇の視線だけが残る。

光奈子はどうにか立ち上がろうとしたが、膝の震えが止まらずよろめいた。

千隼が黙って手を貸し、彼女の傷を確かめるように見つめた。

「……医務室へ行こう」

光奈子は顔を上げ、彼の瞳の奥を覗き込んだ。

その硬質な眼差しが、ふと、高校時代の彼を思い出させた。

あの頃から、千隼は正真正铭の天才だった。コンクールでは常に頂点に君臨する、手の届かない高嶺の花。

一方の光奈子は成績も平凡、親からも関心を持たれない、クラスで最も目立たない存在。

二人の人生が交わるはずなどなかったのだ。

生理が突然始まり、あまりにも無慈悲な鮮紅が、彼女を座席に縫い止めてしまったあの日までは。

羞恥心で、誰もいなくなるまで身動きひとつできずにいた光奈子の耳に、戻ってくる足音が聞こえた。

千隼だった。

彼は生理用品と、自分の制服の上着を、そっと彼女の机に置いた。

「みんな帰った」

千隼は淡々と言い、視線は礼儀正しく彼女の窮地を避けていた。

「雨がひどい。今なら、誰にも見られない」

窓の外は土砂降りで、彼の濡れた髪と肩が夕闇に沈んでいた。

その瞬間、光奈子の耳の奥で鳴り響く鼓動が、激しい雨音さえも塗り潰していった。

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