All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

洸のことを忘れられないくせに、彼女とは何でもないのだと繰り返し主張し、すべてを咲夜の被害妄想だと決めつける。激しい口論の末、最後には必ず逆上して話を打ち切る――それがいつもの晴南だった。そこまで事情を察してしまえば、晶子ももはやそれ以上口を挟むことはできなかった。「咲夜さん……私は、あなたの味方ですからね」そう言い残し、晶子はスタッフたちに早上がりを伝えるため部屋を後にした。先ほどまで活気に満ちていたスタジオは、瞬く間に静寂へと沈んだ。咲夜は一人、オフィスに座っていた。目の前のPCモニターには、ある画面が映し出されている。あのゲームのワンシーン。画面の中では、お揃いの衣装を身にまとった男女が、満開の桜の下で肩を並べて立っている。二人の前には、花の蔦が絡みついたブランコが揺れていた。ブランコをクリックすると、インタラクティブ演出が始まる。舞い散る花びらの中、少年がブランコを押し、少女の顔には幸福に満ちた笑みが広がる。咲夜は何度も、何度もマウスをクリックし、その触れ合いを画面の中に再現し続けた。飽きることなく。まるで、これまで幾度となく繰り返してきた時間そのものをなぞるかのように。かつての彼女であれば、画面の幸福な光景に合わせ、無意識に口元を緩めていただろう。だが、今は――百回以上も繰り返してきたこの動作には、もはや甘さの欠片すら残っていなかった。胸を締めつけるような切なさだけが、静かに積もっていく。花江家の別荘の裏庭にも、これとよく似た百年桜があり、小さなブランコが吊るされていた。それは幼い頃、晴南が咲夜のために手作りしたものだった。幼い咲夜はそこに腰掛け、「晴南、もっと高く押して!」とせがむのが何より好きだった。ブランコを押し、押される日々の中で、二人はやがて大人になった。今では、あのブランコに咲夜の身体はもう収まらない。そして晴南もまた、あの頃のように彼女の背中を押してくれることはなくなった。あの記憶を抱え続けているのは、もう咲夜一人だけだった。そう思った瞬間、自嘲気味な笑みがこぼれる。取り残されていたのは、自分だけだったのだ。記憶の中で輝いていたあの少年は、もうどこにもいない。面影さえ残さぬほど変わってしまっていた。信じたくなくて、現実から目を
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第12話

晴南の言葉に、咲夜は静かに視線を向けた。「……あなたから話して」気づけば、晴南の瞳からは先ほどまで自分へ向けられていた厭悪の色が消えていた。この男は、感情の切り替えが信じられないほど早い。いったい、何を話すつもりなのか。咲夜は純粋な好奇心を覚えていた。だが、当の晴南は逆に沈黙したままだった。じっと咲夜を見つめ続け、しばらくしてようやく口を開く。「……まだ食べていないだろう。『レガーロ』の席を押さえた。食事をしながら話そう」意見を求めているようでいて、実際には選択の余地など与えない。晴南は以前と同じように、返事も待たず歩き出していた。咲夜は座ったまま、その見慣れた傲慢な背中をしばらく眺めていたが、やがて静かに立ち上がった。「咲夜」出口まで進んだ晴南は、彼女がついてきていないことに気づき足を止める。ちょうどその時、咲夜が腰を上げたのを見て、彼は密かに安堵の息を吐いた。やはりな。これまでの反発も、ただの意地に過ぎない。自分が少し歩み寄れば、彼女はまた必死に追いかけてくる。そう確信した晴南の表情には、隠しきれない優越感が滲んでいた。だが咲夜の胸中は、かつてとはまるで違っていた。彼女はただ、晴南が次に何を仕掛けてくるのか、それを見届けるつもりでいるだけだった。二人が『レガーロ』に到着すると、向こうから洸が歩いてきた。洸は満面の笑みを浮かべ、晴南のもとへ駆け寄る。「晴南さん、遅かったじゃない」慣れた仕草で、彼の腕に自分の腕を絡ませた。その瞬間、晴南の顔色がわずかに変わる。反射的に咲夜の方を振り返った。「違う。ここで洸に会うなんて思っていなかったんだ」そう弁解しながら、洸へ問いかける。「……洸、どうしてここに?」晴南が彼女を呼んでいないことは明白だった。今日の彼は、咲夜と二人きりで食事をし、この数日間に起きた出来事について落ち着いて話すつもりだったのだ。洸もまた、その言葉の奥にある拒絶を敏感に察した。一瞬、不快そうに表情を歪める。だが次の瞬間には、いつもの「顔」を完璧に作り直していた。彼女は晴南の腕を離し、申し訳なさそうに口を開く。「ごめんなさい……私、二人の邪魔をしちゃったかしら?そんなつもりじゃなかったの。あなたが『レガーロ』を予約したのを見て、てっきりいつもの
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第13話

さっきまで見せていたしおらしい様子など、もはや微塵も残っていない。咲夜には、そのすべてがただ滑稽に思えた。いっそ晴南の目など、飾り物として置いておくより、どこかへ寄付してしまった方が世のためではないか――そんな皮肉すら胸をよぎる。最初から、洸が自分を挑発していることなど明白だった。なぜ彼女が、晴南がここで個室を予約したと知っていたのか。答えは単純だ。予約完了の通知が、直接彼女のもとへ届くよう仕組まれていたに違いない。だからこそ、二人より先に「レガーロ」へ到着できたのだ。そして、あからさまな相思相愛の芝居を演じてみせる。洸が戻ってきて以来、この稚拙な手口と露骨な挑発は、数日おきに繰り返されていた。演じる側は飽きないのかもしれないが、観客である咲夜の方は、とうに食傷気味だった。深く息を吸い込み、感情を整えてから、咲夜は個室へ足を踏み入れた。真っ先に目に入ったのは、当然のように晴南の隣へ腰を下ろす洸と、そんな彼女のために手際よく箸を並べ、おしぼりを差し出している晴南の姿だった。まるで令嬢に仕える執事のようなその光景も、咲夜にとってはもはや見慣れた日常に過ぎない。咲夜は二人の向かいに静かに腰を下ろした。箸をつけるつもりはなかった。これまでの経験から、この食事が穏やかに終わるはずなどないと分かりきっていたからだ。席に着いて間もなく、料理が次々と運び込まれる。テーブルいっぱいに並んだ真っ赤な料理を目にしただけで、咲夜の胃は食べる前からきりきりと痛み始めた。彼女は重い慢性胃炎を患っており、刺激物は一切受け付けない。にもかかわらず、晴南が注文したのは、卓上を埋め尽くすほどの激辛料理ばかりだった。しかも、そのすべてが洸の好物である。料理が揃うと、晴南は甲斐甲斐しく洸の皿へ取り分け始めた。真紅のソースの中から、大ぶりで弾力のある海老だけを器用にすくい上げ、次々と彼女の皿へ移していく。咲夜は黙ったまま箸を取り、目の前の白米だけを口へ運んでいた。そのとき、取り分けのついでといった調子で、海老が一尾、無造作に咲夜の椀へ落とされた。顔を上げると、晴南はさらにもう一尾を彼女の皿へ放る。「どうしてご飯ばかり食べてるんだ。おかずも食べろ」その声には、珍しく咲夜を気遣うような響きが混じっていた。洸はくすりと笑い、箸
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第14話

咲夜は晴南の言葉を遮るように言い放った。「話があるんでしょう?用があるなら、早く言って」これ以上、彼と「仲睦まじい食事」などという茶番を演じるつもりは、毛頭なかった。晴南の胸に一瞬よぎった罪悪感も、咲夜の不機嫌そうな態度を目にした途端、あっけなく霧散した。今の彼女の態度が、どうにも癪に障る。自分なりに歩み寄り、機嫌を取ってやっているというのに、いつまで意地を張り続けるつもりなのか。苛立ちを押し殺しながら、晴南はようやく本題を切り出した。「スタジオの企画部長のポスト、ずっと空席だっただろう。あそこに、洸を入れることに決めた」咲夜は信じられないものを見るように、彼を凝視した。「……白羽さんを?晴南、忘れたの?企画部長はゲームがリリースされたあと、内部から昇進させるって約束したはずよ。それを今さら反故にするつもり?」晴南は、その約束を確かに忘れていた。咲夜に指摘されるまで、記憶の片隅にすら残っていなかったのだ。そもそも晴南の本業は森崎グループにあり、スタジオへ出資した理由も、突き詰めれば咲夜のために過ぎない。スタジオの利益など彼にとっては端金同然で、赤字になろうと小遣いが減る程度の認識しかなかった。晴南は気まずそうに鼻先をこすり、咳払いをひとつして言った。「洸は戻ってきたばかりなんだ。実績を積めるプロジェクトが必要なんだよ。スタジオの権利は俺にもある。ひとり人間を送り込むくらい、何が問題なんだ?」最後には開き直るように、言葉を言い切った。その態度を見た瞬間、咲夜は悟った。これ以上何を言っても無駄だと。あまりの滑稽さに、乾いた笑いが漏れる。「……そう。それで、ゲームのリリースが数日後に迫ったこのタイミングで、森崎グループが資金を引き揚げたのも、白羽さんをスムーズに送り込むための脅し、というわけ?」正直なところ、咲夜は絶望しながらも、心のどこかでわずかな期待を捨てきれずにいた。だが、それはあまりにも甘い幻想だった。この男に期待した自分こそが愚かだったのだ。晴南は戸惑ったように眉をひそめた。「資金の引き揚げ?何の話だ」本当に知らない様子だった。しかし、その表情すら咲夜の目には白々しい演技にしか映らない。これほど重大な決定を、晴南の指示なしに部下が独断で行うはずがないからだ。咲夜の
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第15話

晴南はすべてを理解したうえで、それでもなお洸のために、咲夜を真正面から脅迫していた。たいしたものだ――咲夜は心の中で冷ややかに嗤った。要求を拒めば、ゲームはリリースできない。スタッフたちが昼夜を問わず注いできた心血は、すべて水泡に帰す。だが、洸の縁故採用を認めれば、咲夜自身の誇りが無残に踏みにじられることになる。自らの手で丹念に作り上げてきたゲームであるにもかかわらず、最後には洸の名がエンディングクレジットに刻まれる。それは、晴南が咲夜の面目を真正面から打ち砕き、剥き出しの羞恥を突きつけようとしているのと同じだった。たった一人の女のために、彼はここまで残酷になれるのだ。咲夜は体の横で、拳を強く握りしめた。胸の奥では激しい怒りが渦巻いていたが、この二人の前でそれを露わにするわけにはいかない。重苦しい感情が胸に澱のように沈み、込み上げてくるのは怒りよりも、むしろ吐き気だった。強硬に拒絶するか、それとも仲間たちの努力を無に帰すか。どちらを選んでも、咲夜にとっては茨の道でしかない。晴南の視線は、片時も咲夜から離れなかった。彼女が必死に押し殺している怒りを、肌で感じ取っていたからだ。一瞬だけ、この要求はあまりにも酷なのではないかという自省が胸をかすめる。だがその時、洸の手がそっと彼の手を包み、感謝に満ちた瞳で見上げてきた。その眼差しひとつで、晴南の迷いは押し潰された。咲夜には悪いことをした。だが、別の形で埋め合わせればいい。もし彼女がこれを受け入れるのなら、秘書に命じて花江グループとの提携プロジェクトを再開させてやろう。それが自分なりの「誠意ある償い」だと、彼は身勝手に納得していた。あとは、咲夜がどう選ぶかだけだった。二人の視線が真正面からぶつかり合う。晴南は冷徹な表情のまま、一歩たりとも退く気配を見せない。対する咲夜は静かだった。ただ彼を見つめながら、胸中で激しい葛藤を繰り返していた。そして、咲夜は決断した。目の前のコップを手に取り、晴南へ向けてわずかに掲げる。「……いいわ。あなたの条件を飲む」愛される者は何ひとつ恐れず振る舞い、愛されない者は塵のように扱われる。そんな現実は、とっくの昔に覚悟していたはずだった。咲夜はコップの水を一気に飲み干した。「言ったことは守
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第16話

個室を飛び出したあと、咲夜はそのまま車を走らせ、自分名義のマンションへと戻った。夜十時が近づく頃、晴南から数え切れないほどの着信が入った。咲夜はスマートフォンをマナーモードに切り替えて放り出し、画面が点いては消えていくのを、ただ無表情に眺めていた。晴南の性格からして、そう長くは続かないはずだった。案の定、三度目の着信が途切れると、彼は諦めたらしい。だが、間を置かず、再び端末が震え出した。今度は母からの電話だった。気は進まなかったが、咲夜は観念したように通話ボタンを押す。「お母さん」受話器の向こうから、真奈美の声が響いた。「あんた、今どこにいるの?晴南さんが何度かけても出ないって言ってるわよ。咲夜、あちらは自分から折れて連絡してきてくれたのよ。あんたも少しは大人になって、歩み寄るチャンスをあげたらどうなの?」真奈美はため息混じりに、諭すような口調で言った。彼女自身もまた、咲夜と晴南の問題をどう収めるべきなのか、もはや分からなくなっていた。娘の性格はよく知っている。強く押せば押すほど、咲夜は意固地になり、かえって反発するだけだ。咲夜はずきずきと痛むこめかみを指で押さえた。「お母さん、私ももう子供じゃないわ。自分のことは自分で解決できる」そう言えば、きっとまた怒鳴られる――そう身構えた。だが、予想していた叱責は返ってこなかった。真奈美はただ、淡々とした声音で続けた。「……あんたがどうしてもって言うなら、もう何も言わないわ。でもね咲夜、逃げているだけじゃ何も解決しない。本当に晴南さんと縁を切りたいなら、きちんと言葉にして伝えなさい。森崎家の方々とも、一度は席を設けて話し合う必要があるでしょう」これは両家を巻き込んだ問題であり、ここ数年にわたる利害関係も複雑に絡み合っている。咲夜が一言「終わり」と告げれば済むような、単純な話ではない。それくらい、あなた自身が一番分かっているはずでしょう――真奈美の言葉には、そんな含みがあった。母が突然、物分かりのいい態度を見せたことに、咲夜は言いようのない違和感を覚えた。あの母が、折れたというのだろうか。戸惑いながらも、咲夜は答える。「分かったわ。晴南さんとは、ちゃんとはっきりさせる」それを聞くと、真奈美はそれ以上踏み込まず、い
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第17話

つい先ほど、洸から挑発的なメッセージが届いたばかりだった。晴南は、二人が暮らしている部屋の真上の階に、間取りがまったく同じ部屋を洸のために買い与えていたのだ。しかも、元の住人を立ち退かせるため、相場の三倍もの金額を積んだという。咲夜は無表情のまま画面を閉じ、その瞳に冷ややかな光を宿した。晴南は、自分がここまで歩み寄っているにもかかわらず、咲夜がいつまでも意地を張り続けていることに苛立ちを募らせていた。彼は露骨に声色を変え、抑えきれない苛立ちを滲ませる。「……今からそっちへ行く」「来なくていいわ」咲夜は食い気味に拒絶したが、晴南は強硬だった。「待っていろ」拒む隙を与えぬまま、晴南は一方的に電話を切った。咲夜は通話の切れた端末を見つめ、晴南の独りよがりな言葉を思い出して顔を顰めた。正直なところ、今の彼女はこれ以上晴南と接触したくなかった。ここまで関係がこじれた今、二人の間に語り合うべきことなど、もはや何一つ残っていない。幸い、自分名義の不動産は他にもある。晴南がすぐに居場所を突き止められるはずはない――そう高を括っていた。だが、咲夜は晴南を甘く見ていた。一時間も経たないうちに、彼は咲夜の居場所を突き止め、目の前に現れたのだ。風を巻き上げるような勢いで駆けつけ、腕に真っ赤なバラの花束を抱えた男を前にしても、咲夜の心は不思議なほど凪いでいた。ドアを開けるつもりはなかった。だが晴南が執拗にチャイムを鳴らし続け、挙げ句にはドアを叩き始めた。高級マンションとはいえ、こんな時間に騒がれては近所迷惑だ。咲夜は仕方なくドアを開け、外に立つ男を冷淡に見据えた。「まだ何か用?」晴南は強引に花束を咲夜の腕へ押しつけた。「まだ怒っているのか?……悪かった、謝るよ。入籍の日にドタキャンしたのは俺が悪かった。お前の好きなバラを買ってきたんだ。これで機嫌を直してくれ」咲夜は男の腕に抱えられた鮮やかな花束を見下ろし、胸の奥で強烈な皮肉を覚えた。晴南は忘れているのだ。咲夜が最も嫌っている花がバラ――とりわけ赤いバラであることを。赤いバラをこよなく愛しているのは、洸のほうだった。晴南は言葉を重ねる。「咲夜、俺はお前と別れるつもりなんてない。前に言ったことは全部、ただの売り言葉に買い言葉だ。洸とは
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第18話

晴南は、このとき咲夜の胸の内に秘められていた本当の思いを、知る由もなかった。ここ数日の冷淡さがわずかに和らいだ彼女の様子を見て、晴南は咲夜を見つめながら問いかけた。「それじゃあ、俺たちのマンションに一緒に帰るか」正直なところ、晴南は咲夜がここで一人暮らしを続けることを快く思っていなかった。彼女が自分のコントロールの外へ離れていくような、拭いきれない不安が常につきまとっていたからだ。しかし晴南の言葉を聞いても、咲夜は小さく首を横に振るだけだった。「今日はもう遅いから、また明日にしましょう」その言葉の裏には、彼と共に帰るつもりなど最初からないという明確な意思が込められていた。今戻れば、再び洸と鉢合わせしないとも限らない。晴南はわずかに眉をひそめ、何か言いかける。そのときだった。彼のスマートフォンが鳴り響いた。洸のためだけに設定された専用の着信音が、晴南の言葉を無慈悲に遮る。晴南は咲夜の目の前で、その着信を拒否した。咲夜もさすがにわずかに驚いた。あの晴南が、洸からの電話を拒絶するとは思いもしなかったからだ。だが、たとえそれが事実でも、何かが変わるわけではない。咲夜には分かっていた。洸がこのまま引き下がるはずなどないことを。案の定、電話は途切れることなくかかり続けた。晴南はそのたびに、無言で拒否ボタンを押し続ける。咲夜は何も言わず、ただ静かにその光景を眺めていた。繰り返される着信に、晴南の内心には次第に苛立ちが募っていく。せっかく咲夜をなだめたというのに、洸からの電話一本ですべてを台無しにしたくはなかった。ようやく着信が止み、晴南は胸の奥でひそかに安堵の息をついた。電話は止んだ。しかし、その直後だった。晴南のもとに、一枚の写真が送られてきた。血まみれの写真だった。洸は、手首を切って自殺を図った自身の姿を撮影し、そのまま晴南へ送りつけてきたのだ。傷口は深く見え、鮮血が手首一帯を赤く染め上げている。晴南の顔色は瞬時に変わった。咲夜に声をかける余裕すらなく、そのまま外へ飛び出していく。慌てふためきながら去っていく背中を、咲夜が呼び止めることはなかった。ほら、やっぱりこうなる。彼女には最初から結末が分かっていた。いったいどこからそんな自信が湧いて、洸とは完全に縁を切るなどと言えたのだ
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第19話

咲夜が答えるより早く、千暁は再び問いかけてきた。「ウェディングドレスのデザイン、気に入ったものはあったか」その問いに、咲夜はふっと小さな笑いを漏らした。「千暁、私が直前になって心変わりするとは思わないの?」言い終えた瞬間、受話器の向こうから重苦しい吐息が聞こえてきた。電話越しであるにもかかわらず、彼の感情の揺らぎが生々しく伝わってくるようだった。咲夜の頬に浮かんでいた笑みはわずかに強張り、思わず口にした言葉をすぐに後悔する。どうして忘れていたのだろう。自分と千暁は、まだ冗談を言い合えるほど親しい関係ではないということを。「あの……」気まずい空気を和らげようと咲夜が口を開きかけたとき、千暁が沈んだ声で尋ねた。「……するのか?咲夜。あと数日あるが、お前は翻意するつもりか」冷静を装ってはいるものの、その声音の端々には抑えきれない焦燥が滲んでいた。咲夜は軽く咳払いをし、話題を変えるように言った。「千暁、あのドレスの写真は……あなたが一生懸命選んでくれたの?」たとえ答えが返ってこなくても、咲夜には分かっていた。そして千暁は否定しなかった。「……ああ。それで、俺の誠意を受け取ってくれるか?」その言葉を聞いた瞬間、咲夜の胸の奥に、これまで味わったことのない奇妙な感覚が芽生える。千暁は返事を急かすこともなく、ただ静かに待っていた。やがて咲夜は、率直な気持ちを口にした。「とても素敵だと思うわ。ただ、候補が多すぎて目移りしてしまって」紛れもない本音だった。どれも美しく、選ぶには十分すぎるほど魅力的だったのだ。千暁はわずかに笑みを含んだ声で応じた。「それなら、いっそアンナに連絡して、お前のために一着デザインさせよう」アンナといえば、世界的に名を知られるウェディングドレスデザイナーだ。気難しい性格で知られ、仕事を引き受けるかどうかは完全に本人の気分次第。どれほど高額な報酬を提示されても気が乗らなければ断り、反対に気に入れば無償でデザインを手がけることさえある。アンナに依頼するという千暁の言葉に、咲夜はわずかに驚いた。だが、千暁の持つ影響力を考えれば、不可能な話ではないのだろう。少し考えた末、咲夜は答えた。「そんなに急がなくてもいいと思うけれど」それは偽りのない本心だった。たとえ籍
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第20話

翌日、咲夜のもとにウェディングプランナーから一本の電話が入った。以前オーダーしていたドレスが仕上がったという報せだった。配送先が二人のマンションに設定されていたため、スタッフが早朝に届けたらしい。当の咲夜は、ドレスの存在など意識の底に追いやって久しかった。彼女はハンドルを握り、かつての住まいへと車を走らせた。玄関のドアを開けた瞬間、咲夜は不快そうに眉をひそめた。たった一晩空けただけだというのに、整理したはずの部屋には見覚えのない荷物が散乱している。どれも晴南の趣味ではない。となれば、思い当たる人物は洸しかいなかった。咲夜の胸に、淀んだ嫌悪感がじわりと広がっていく。やはり、一刻も早く仲介業者を急かしてこの家を売却してしまおう。これ以上、自分の持ち物がこの空間に存在することすら、今の彼女には堪え難かった。咲夜がスマートフォンを取り出し、業者に条件を再提示するメッセージを送っていると、二階から降りてくる足音が聞こえた。現れた晴南の表情は、酷く憔悴しきっていた。その瞳の奥には、隠しようのない動揺が走っている。「……咲夜、どうしてここに?」晴南の声には、微かな緊張が混じっていた。彼は二階の様子を伺うように視線を泳がせながら、咲夜の方へと歩み寄ってきた。咲夜は顔を上げ、冷淡に言葉を返した。「プランナーから電話があったのよ。ドレスを届けたって言うから、確認しに来ただけ」ドレスという言葉が出た瞬間、晴南の顔色が露骨に変わった。彼はわざとらしい咳払いをし、その場を取り繕うように言った。「ああ……そうか。でも、お前が不在だったから、一旦持ち帰ってもらったんだ。これからお前を迎えに行って、一緒に店まで行くつもりだったんだよ。まさか自分から来るとは思わなかったな」晴南はそう言いながら、咲夜の手を取ろうとした。「さあ、一緒に行こう」その言葉の端々には、言いようのない焦燥が滲み出ていた。咲夜はさりげなくその手をかわし、訝しげに眉を寄せた。「……そうなの?」晴南の言葉を鵜呑みにすることはできなかった。もし本当に店に持ち帰らせたのなら、先ほどのスタッフとの通話でその説明があったはずだ。あまりにも、辻褄が合わない。晴南は咲夜の不信感を打ち消そうと、必死に言葉を重ねた。「本当だ。スタ
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