All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

千暁は眉をひそめた。「ということは、さっき会社へ戻ったのは、晴南と折り合いをつけるためじゃなかったのか」彼はてっきり、咲夜がまた自分を押し殺して妥協するものだと思い込んでいた。咲夜は静かに頷く。「いつまでも晴南の思い通りにさせておくわけにはいかないわ。これは決別するための第一歩なの」病院から駆けつけたのは、自分をさらに追い詰めるためではない。決定的な破局を、自ら選び取るためだった。千暁は、思わず口元が緩みそうになるのを必死で抑えた。咲夜の言い分に従えば、この取引を自分に持ち込まないのも無理はない。確かに彼にとっては「損な商売」だ。咲夜はそのわずかな表情の変化を見逃さず、説明は十分に筋が通っていると確信する。「だが、清治に売るとなると……後でしっぺ返しを食らうとは思わないのか」千暁は、清治もまた一筋縄ではいかない人物であることを指摘し、咲夜に釘を刺した。それを聞いた咲夜は、冷ややかな表情で言い放つ。「清治の本質なんて、晴南と同類よ。以前、私に対しても失礼な物言いをしたことがあるし。それに、商売にはリスクがつきものじゃない。清治が契約前に資産査察を怠ったのだとしたら、それは自業自得よ。私の知ったことじゃないわ」その程度のリスクは、咲夜も承知の上だった。すでに対策も考えている。あくまで互いの合意に基づくビジネスであり、その結果にまで責任を負う義理はない。責められるべきだとすれば、それは清治の投資家としての眼識に問題があった――それだけのことだ。千暁は、咲夜が損をするのではないかと内心危惧していたが、今の毅然とした態度を見てようやく安堵した。いい傾向だ。少なくとも、自分を損なうような愚かな真似はしないだろう。もともと咲夜は聡明な女性だった。これまでの数年間、晴南に対して盲目的な恋心を捧げていたことを除けば。だが今、ようやく目を覚ました彼女の振る舞いには、もはや愚かさの影は微塵もない。千暁はハンドルを握る右手の人差し指で、軽くリズムを刻んだ。しばらくして、ふと問いかける。「明日は瞳が付き添って清治に会うのか」妹が同席するのなら、千暁としても安心できる。身内びいきを差し引いても、瞳が簡単に損を被るような相手ではないことを、彼はよく知っていた。なぜそんなことを尋ねるのか
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第52話

電話をかけた途端、すぐに切られた。千暁はもう一度かけ直したが、結果は同じだった。三度目の正直とばかりに指を動かそうとした矢先、瞳からメッセージが届く。【お兄ちゃん、今会議中なの。用があるなら終わってからにしてくれる?】その文面を読んだ瞬間、千暁は眉をひそめた。――白々しい。よくもまあ、そんな嘘を。ついさっきまで咲夜と長電話をしていたくせに、もう会議中だと?疑念は拭えなかったが、これ以上しつこく電話をかけ続けるつもりもない。千暁は短く息を吐き、手早く返信を打ち込んだ。【明日、咲夜と清治が会う場所を教えろ】送信すると、そのまま四十万円を振り込む。瞳がメッセージを確認したのかどうかは分からない。しばらく待ってみたものの、返信はついに来なかった。千暁は検査報告書を手に、ひとまず病室へと戻る。その頃、病室では――千暁が席を外している間に、咲夜は街の中心部にあるオフィスビルの情報を調べ始めていた。いくつか目ぼしい物件を見つけると、手元にあった診察録の余白に、その住所を書き留めていく。退院後、時間を見つけて現地を下見するつもりだった。病室へ戻った千暁の目に入ったのは、ベッドの上で俯き、何かに没頭して書き込んでいる咲夜の姿だった。彼は足音を忍ばせて近づき、その手元を覗き込む。ようやく、そこに並んでいるいくつもの住所と連絡先に気づいた。「オフィスを探しているのか」千暁が声をかける。紙に記されている場所は、萩野グループの本社ビルからそれほど離れていない。いわゆる「ツインタワー」周辺の物件が大半だった。咲夜は驚いて肩を跳ねさせる。「……戻ったのね」その反応に、千暁は思わず吹き出した。「そんなものを書き連ねて、どうするつもりだ」軽く笑いながらも、話題を彼女の手元へと戻す。咲夜は紙へと視線を落とし、静かに答えた。「新しく会社を立ち上げる場所を選ぼうと思って」晴南とともに築き上げた会社の株を売ると決めた時から、この考えは芽生えていた。自分が去ったあと、晴南がかつて共に汗を流した仲間たちを、変わらず大切にするとは限らない。まして今のあの場所には洸がいる。嫌がらせの矛先が自分だけに向くのならまだいい。だが、あの優しい社員たちが巻き添えになることだけは、どうしても避
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第53話

千暁は、咲夜が書き留めた幾つかの場所を指でなぞりながら、それぞれの環境や賃料の妥当性について分析を始めた。言葉はよどみなく続く。「それに、このあたりの物件は森崎グループの本社に近い。あるいは今の会社の周辺だ。君だって、もう晴南とこれ以上関わったり、しがらみに縛られたりはしたくないだろう?」最後に指摘された住所を、咲夜はじっと見つめた。確かに、その通りだった。これらの物件を選んでいたとき、彼女の頭に真っ先に浮かんでいたのは、森崎グループの界隈か、今のスタジオの近辺ばかりだった。だが、晴南との関係があそこまでこじれてしまった今、それらはもはや最優先の選択肢にはなり得ない。だからこそ、彼女はそれらをリストの後ろに追記していたのだ。まずは前半に書き出した物件を見て回り、どうしても折り合いがつかなければ、最後の手段としてこれらの予備案から選べばいい――そう考えていた。だが、千暁の徹底した分析を聞かされるうちに、咲夜の中にどっと疲労が押し寄せた。彼の指摘を踏まえれば、ここに並んでいる選択肢はすべて却下せざるを得ない。つまり、また一から探し直しだ。その気落ちした様子に気づいたのか、千暁はじっと彼女を見つめた。そして、静かに口を開く。「俺のところに、一ついい候補地があるんだが」「どこ?」咲夜ははっと顔を上げ、目の前の男を見つめ返した。途方に暮れていた彼女にとって、その言葉は一筋の光のようだった。千暁は軽く咳払いをしてから、淡々と告げる。「ツインタワーのZ88フロアが丸ごと空いている」ツインタワー?咲夜は訝しげに千暁の瞳を覗き込んだ。「……萩野グループの本拠地じゃない」冗談だろうか。ツインタワーは景浦のランドマークとも言える存在だ。萩野グループが建設し、その運営機能のすべてが集約された、いわば本部そのもの。その中に自分の会社を構えろと言うのか――しかも。Z88といえば、記憶が正しければ、タワー内でも最も眺望に優れたフロアのはずだ。全面ガラス張りの開放的な造りで、景浦の街並みを三百六十度のパノラマで一望できると噂されている場所。咲夜は、千暁が自分をからかっているのではないかとさえ疑い始めた。そもそもツインタワーは萩野グループの所有物であり、外部へオフィスを貸し出した前
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第54話

咲夜が押し黙ったのを見て、千暁の表情は心なしかいっそう引き締まった。「咲夜」名を呼ばれ、咲夜は顔を上げ、まっすぐに彼を見据える。千暁もまたその視線を受け止め、静かに――しかしどこか含みを帯びた声で言った。「一度、腹を割って話す必要があるようだな」結婚はもともと彼から持ちかけたものだ。たとえ契約結婚であっても、体裁というものは整えなければならない。そのただならぬ気配を感じ取り、咲夜は背筋を伸ばした。「……どうぞ」先ほど自分が明確に一線を引こうとした態度が、千暁の機嫌を損ねたのだということは理解している。彼が不快感を露わにしていることも、はっきりと伝わってきた。けれど――自分にも、譲れない一線がある。千暁はそこまで咲夜の内心を読み切ることはできなかった。一瞥した後、自分の態度がやや厳しすぎたと気づいたのか、わずかに表情を緩める。「入籍の件だ。何度も確認してきたが……本当に、よく考えた上での決断なんだな?」あのとき、咲夜から電話を受けた瞬間に、千暁は察していた。またしても晴南が、洸のために彼女との約束を反故にしたのだと。以前と同じように、咲夜は役所の開庁から閉庁まで待ち続け、結局、晴南は現れなかった。千暁が「一週間後に戻る」と告げたのは、彼女に考える時間を与えるためでもあった。自分と籍を入れるという選択が、本当に正しいのかどうかを。その間、咲夜は「決意は変わらない」「必ずあなたと籍を入れる」と繰り返してきた。それでもなお、彼は彼女の本心を量りかねていた。咲夜は、訝しげに彼を見つめる。なぜこの人は、こうもしつこく「考えは変わっていないか」と問い続けるのか。結婚を提案したのは彼であり、自分はそれに応じただけだ。千暁の意図が、どうしても掴めなかった。咲夜はわずかに視線を逸らす。「……言っている意味が分からないわ」推し量ることや駆け引きを好む性分ではない。今の咲夜には、千暁の真意を探る余裕などなかった。だからこそ、率直に問い返すことを選んだ。もともと深い付き合いがあるわけでもない相手だ。千暁に対する認識の大半は、世間の評判に過ぎない。ならば、本音をぶつけ合うことこそが、最も確実な手段だと考えたのだ。そして、その考えを迷いなく実行する。千暁は、包み隠さず答
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第55話

この瞬間、咲夜の心は大きく揺れ動いた。千暁は反論の機会を与えていたが、彼女はあえて沈黙を選ぶ。彼は瞬き一つせずに咲夜を見据え、静かに言い放った。「咲夜。手元にある人脈やリソースを合理的に使い、望む利益を勝ち取る――それこそが生存競争の理だ」花江グループの現状がどれほど厳しいかは、咲夜自身が最もよく理解しているはずだと、千暁は確信していた。もし咲夜が森崎グループと完全に決裂すれば、花江グループに小さくない動揺が走ることは避けられない。しかも彼はすでに察していた。咲夜がいま、森崎側との切り離しを急速に進めていることを。これほどの規模の変動は、崩壊寸前の花江グループにとって致命的な打撃になりかねない。それにもかかわらず、咲夜が「一線」や「原則」に固執し続けるのなら、それは自らの手で花江グループを絶望の淵へ突き落とすに等しい。千暁の言葉は、警策で打たれたかのように鋭く、咲夜の胸に響いた。それは商界における最初の教訓だった。利用できる人脈や資源がありながら、独りよがりの矜持に縛られてそれを拒む。それは決して気高い行為などではない。ただの愚かさに過ぎない。咲夜はその言葉を何度も胸の内で反芻し、やがて霧が晴れるような感覚を覚えた。そして勢いよく顔を上げ、険しい表情の千暁をまっすぐに見据える。「あなたの言う通りだわ。協力すると決めた以上、余計なルールに縛られる必要なんてなかった。この弱肉強食の世界では、生き残ることこそが正道よ。私の考えが甘かった」すべてを整理した上で、咲夜は花江グループへ戻り、経営の指揮を執る決意を固めていた。会社は倒産寸前、父は脳卒中で入院。その現実から目を背けることはできない。それは、自分が背負うべき当然の責任だった。経営の経験も管理の知識もない自分は、すべてを一から学ばなければならない。まして、疲弊しきった花江グループの中で、誰かが手取り足取り教えてくれるなどという甘い期待は抱けなかった。それでも、支え抜かなければならない。そして今、目の前にいる男――千暁こそが、最も現実的で有力な選択肢だった。そこまで思い至ったとき、咲夜の瞳ははっきりと光を帯びた。彼女は真っ直ぐに千暁を見つめる。「千暁、時間があるときに商売のいろはを教えてくれない?……私、あなたが必要なの」
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第56話

千暁と本音をさらけ出して語り合ったことで、咲夜の心には久方ぶりに透き通るような晴天が訪れていた。一方、そんな彼女の心境など知る由もない晴南は、一向に繋がらない連絡に苛立ちを募らせ、その忍耐は今や限界に達しようとしていた。病院で医師から洸のアレルギーについて説明を受けた際、晴南の脳裏を不意に掠めたのは、咲夜が抱えるブドウアレルギーのことだった。完全なる失念。昼食の席で、あろうことか咲夜にワインを勧めてしまった自分の振る舞いが、今さらながら重くのしかかる。会議室での咲夜の青ざめた横顔、そして首筋を覆っていたあの痛々しい湿疹。それらの断片が繋がり、晴南の全身からサーッと血の気が引いていくのを感じた。せめて安否だけでも確認しようと幾度もコールを繰り返すが、応答はない。晴南は苦虫を噛み潰したような表情で、秘書へと電話を繋いだ。「調べてくれ。今日、咲夜が受診したはずの病院の記録だ」あそこまで烈しい拒絶反応が出ていたのだ。どこかで処置を受けていないはずがない。そのやり取りを背後で聞き入っていた洸の瞳には、昏い不満と怨念が渦巻いていた。「晴南さん……」だが、彼女は瞬時にその感情を押し殺すと、儚げな足取りで晴南のそばへと歩み寄った。晴南は通話を切ると、顔色の優れない洸を見つめた。「まだ、どこか具合が悪いのか?」洸は力なく、消え入りそうな微笑を浮かべた。「私はもう大丈夫。咲夜さんのことが心配なら、すぐに行ってあげて。ごめんなさい。私のせいで、あなたたちにこんなに迷惑をかけてしまって」そう紡ぐ洸の瞳には、みるみるうちに涙の膜が張り、申し訳なさに震える色が滲んでいた。その痛々しい姿を目の当たりにした瞬間、晴南の心には再び憐憫の情が湧き上がった。「君のせいじゃない。俺と咲夜の間で、言葉が足りていないだけだ。あいつは今、ただへそを曲げているに過ぎない。夜にでも腰を据えて話せば、済むことだ」この期に及んでもなお、彼は咲夜が単に自分に対して腹を立てているだけだと思い込んでいた。ふと、このところ咲夜とまともに向き合っていない事実に気づく。数少ない接触でさえ、どれも不愉快な結末に終わっていた。かつての二人は、決してこうではなかったはずなのに。晴南がトーク画面を開くと、最下部には自分から送った最後の一件が虚しく残って
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第57話

晴南は認めざるを得なかった。洸が一度去ってからのち、彼は珍しくも自責の念に駆られ、その頑なだった性格も少しずつ角が取れて丸くなっていたことを。今、洸が自ら過去の傷跡に触れたことで、彼の胸の奥には鉛のような重苦しい罪悪感がじわじわと広がっていた。「……洸、ひとまず家まで送るよ」晴南の声は低く掠れていた。どんなに言葉を尽くしても、かつて刻みつけた傷をなかったことにはできない。彼は明らかに、この触れてはならない過去に深く踏み込むことを拒んでいた。洸はただ、弱々しく小さく頷いた。「ええ……お願いするわ」晴南の瞳と視線がぶつかった瞬間、洸は確信した。私の賭けは、勝ったのだ。やはり、過ぎ去った日々の悲劇は、この男の中に自分への底なしの憐憫を呼び起こす。晴南が薬を受け取るために列に並んでいる隙を見計らい、洸は彼の後ろ姿を密かに写真に収めた。さらに以前保存していた写真を引き出すと、それらを添えてSNSへと投稿する。晴南の元へ戻って以来、洸のアカウントは二人の日常を綴る甘美な日記と化していた。仲睦まじい二人の様子は羨望の的となり、今やフォロワー数も膨れ上がっている。投稿から一秒と経たぬうちに、コメント欄には祝福と羨望の言葉が滝のように流れ込んだ。【きゃあ!待ってました!今日もご馳走様です、お熱いですね!】【尊すぎる……体調悪いのかな?お大事にしてくださいね!】【こんなに優しい彼氏がそばにいてくれるなんて、世界一の幸せ者ですね!】画面に躍る賞賛を眺めているうちに、洸の沈んでいた気分は霧が晴れるように高揚していった。彼女はいくつかのコメントに、いかにも慎ましやかな恋心を装った返信を返すと、満足げにスマートフォンをしまった。ちょうどその時、薬を手にした晴南が戻ってくる。洸は彼にそっと寄り添い、守られるようにして病院を後にした。彼女を送り届けると、晴南は洸の引き留める声を背に、そのまま隣の部屋へと向かった。咲夜が帰宅しているかを確認するためだ。晴南は、あの部屋がすでに売却され、住人が変わっていることなど知る由もなかった。彼が慣れた手つきで指紋認証に指をかざすと、「認証に失敗しました」という無機質なアナウンスが非情に響く。二度、三度と試すが、結果は変わらない。晴南の顔は、みるみるうちに不機嫌な歪みを
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第58話

晴南が病院へ駆けつけたとき、病室で彼を待っていたのは、ただ一人静かに過ごす咲夜の姿だった。千暁は処理すべき急用で席を外しており、ちょうど晴南と入れ違いになったため、二人が顔を合わせることはなかった。咲夜はベッドの背もたれに身を預け、スマートフォンでショートドラマを眺めていた。時折流れるコミカルなシーンに、彼女の口角がふわりと緩む。入り口に立つ晴南は、その晴れやかな笑顔に、思わず足を止めて見入ってしまった。これほど屈託のない彼女の笑い顔を見るのは、一体いつ以来のことだろうか。彼は呆然としたまま、その光景を瞳に焼き付けていた。不意に、咲夜は何かの気配を察したのか、ふと顔を上げた。入り口に立つ晴南の姿を認めた瞬間、彼女の唇からさざ波のような笑みが消え、その表情は一変して凍りついた。――晴南……?どうしてここに。咲夜は無表情のまま、歩み寄ってくる男を見つめ、わずかに眉をひそめた。「……何の用?」真っ先に脳裏を過ったのは、先ほど無下に拒絶した数件の着信履歴だった。余所余所しい口調で突き放され、晴南の胸に形容しがたい閉塞感が広がる。「様子を見に来たんだ。アレルギーが出たなら、どうして俺に言わなかった」病院へ向かう車中で、彼は秘書に咲夜のカルテを転送させていた。そこに記されていたのは、重度のアナフィラキシーショック、意識不明での緊急搬送――あと五分処置が遅ければ命に関わっていたという、戦慄を覚えるような事実だった。晴南の心に鋭い痛みが走る。すべては自分の責任だ。無理やりワインを飲ませたのも自分なら、咲夜がブドウアレルギーであることを失念していたのも自分だ。自責と罪悪感が、毒を帯びた蔦のように、じわじわと彼の心を締め付けていく。咲夜は微かに目を見張った。晴南が自ら見舞いに来ることなど、予想だにしていなかったからだ。ましてや、今の気遣うような言葉。あまりにも現実味が欠落していた。彼女は冷静さを保ったまま、まるで他人事のように淡々と答えた。「搬送が早かったから、当分死ぬことはないわ」その投げやりな態度が、晴南の胸をさらに抉る。以前の彼女なら、間違いなく彼に縋りつき、心細かったと泣きついて、ずっとそばにいてほしいと強請ったはずだ。一体、いつからだろうか。咲夜がメッセージを送らなくなり、電話をかけなくなり、何一
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第59話

話の終盤、晴南の語気には隠しきれない不満が滲んでいた。彼は本気でこう憤っていたのだ。例え喧嘩の最中であろうとも、咲夜はこれほどまでに自らの体を疎かにすべきではない、と。あのワインにしてもそうだ。俺が強引に勧めたからといって、馬鹿正直に飲み干す奴がどこにいる。ブドウアレルギーだと一言拒めば、俺が無理強いなどするはずがないではないか。考えれば考えるほど、晴南の胸中にはやりきれない思いが募った。何でも意地を張り、たった一人で抱え込もうとする彼女の頑なな性格を、彼は時として心底疎ましく感じていた。咲夜の唇に、再び冷ややかな皮肉が浮かぶ。「随分な言い草ね。まるで電話一本で、あなたがすぐに飛んできてくれたかのような口振りだわ。晴南、守る気もない約束を軽々しく口にしないで。あなたを頼りにするなんて、そんな恐ろしいこと、私にはとてもできない」「誰が約束を守れないだと?俺なら絶対に――」晴南は思考を挟む間もなく、反射的にその言葉を否定しようとした。だが、反論が喉元まで出かかったところで、不意に声を失った。忌まわしい過去の情景が、走馬灯のように脳裏を掠めたからだ。以前、咲夜が真夜中に高熱を出し、病院へ連れて行ってほしいと彼に縋るような電話をかけたことがあった。その時、折しも洸が狂言自殺の騒ぎを起こしており、彼女に付き添っていた晴南は、苛立ち紛れにこう言い放ったのだ。「勝手に病院へ行け。死にはしないだろう」と。またある時は、咲夜が交通事故に遭い、家族の署名が必要になったこともあった。母親と連絡がつかなかった彼女は、最後の望みを託して晴南に電話をかけた。しかし、彼はその時、気分の沈んでいた洸を慰めるために旅行へ出かけていたのだ。それ以来、洸に呼び出されるたびに、決まって咲夜の身にも何らかのトラブルが起きた。晴南はそれを、咲夜が自分の気を引くために仕組んだ卑劣な嫌がらせだと決めつけた。それが彼をひどく不快にさせ、彼は咲夜を突き放すような無慈悲な言葉を、幾度となく浴びせてきたのである。晴南自身は、当時自分がどれほど残酷な言葉を吐いたか、すでに記憶の彼方へ追いやってしまったのかもしれない。だが、咲夜はその一つ一つの痛みを、消えない傷痕として心に刻み続けてきたのだ。咲夜の心が彼から離れていったのは、決して突発的な出来事
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第60話

咲夜の言葉に、晴南は不満げに眉をひそめた。彼は目の前の咲夜を値踏みするように見つめ、突き放すように言った。「俺がそんな意味で言っていないことくらい、分かっているだろう。そうやって一言ごとに棘を混ぜるのはやめるんだ」実のところ、今の咲夜が向けてくる露骨な不親切さは、晴南の神経を逆なでしていた。かつての彼女は、決してこのような態度を取る女性ではなかったはずだ。だが、咲夜は無関心を装い、視線を逸らしただけだった。そのあからさまな拒絶が、晴南の苛立ちをさらに煽る。「何か言ったらどうだ。黙り込むな」これまでの咲夜なら、間違いなく数倍の言葉を投げ返してきたはずだ。しかし、今日の咲夜は不気味なほどに静かだった。その静寂が、晴南にはどうしようもなく居心地が悪く、落ち着かなかった。咲夜は呆れて言葉を失いそうになるのを必死に抑え、不機嫌そうに吐き捨てた。「病人に何を喋れって言うのよ」急に殊勝な態度を見せ始めた晴南を相手にするつもりは、毛頭なかった。今の二人には、もはや言い争うこと以外に交わすべき言葉など残されてはいないのだ。咲夜の青白い顔色を視界に入れ、晴南は内心で舌打ちした。――どうしたっていうんだ、俺は……病院へ向かう道中、相手は病身なのだから、どんなに腹が立っても怒鳴り散らしてはいけないと、自分に言い聞かせてきたはずだった。それなのに、いざ咲夜を前にして、彼女の頑なで強硬な態度に直面すると、その誓いすら忘れそうになってしまう。彼は胸中に渦巻く怒りを強引に抑え込み、重い溜息をついた。「……分かったよ。お前の好きなようにすればいい」その響きには、どこか「理不尽な駄々をこねる咲夜を、寛大に受け入れてやっている」と言わんばかりの傲慢さが含まれていた。咲夜にとって、それは決して愉快な響きではなかったが、もはや反論する気力すら湧かなかった。彼女はただ、冷ややかな視線を晴南に投げかけた。「まだ、何か用?」追い払うような物言いに、晴南は不快そうに唇を噛んだが、その問いには答えなかった。彼の手元にあるリンゴは、不慣れな手つきのせいで表面がデコボコになり、見るも無惨な姿を晒している。晴南はそれを強引に一切れ切り分けると、咲夜の唇の前に差し出した。「ここに残って、お前の面倒を見てやる」晴南が看病を買
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