All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 41 - Chapter 50

100 Chapters

第41話

咲夜はあえて、この問題の裁定を晴南に委ねた。彼女は今、この男の態度を見極めようとしていた。このプロジェクトを完遂させるために、これ以上の忍耐を強いるに値する相手なのかどうかを。洸は忌々しげに咲夜を睨み据えた。自らが放った放言を、一言一句違わず晴南本人にぶちまけられるとは計算外だったのだ。実際のところ、洸とて確信があったわけではない。いかなる事態になろうとも、晴南が無条件に自分の味方でいてくれるという保証など、どこにもなかった。晴南の前での彼女は、いつだって物分かりが良く、思慮深き「良き理解者」を演じてきた。彼の権威を笠に着て傲慢に振る舞う女だと思われては、これまでの努力が水の泡になる。――すべて、この女のせいだ。なんて想定外な真似を……!洸は、咲夜がこのプロジェクトを何よりも大切にしていること、そしてグループチャットや朝の職場での振る舞いから、彼女が成功のために屈辱を飲んで耐える道を選んでいることを見抜いていた。だからこそ強気の攻勢に出たのだが、その算段が狂い始めていた。受話器の向こうで、晴南は重苦しい沈黙を貫いていた。咲夜の耳には、彼の微かな呼吸音だけが届く。彼女は急かす素振りも見せず、静謐な面持ちでその時を待った。長い沈黙の果てに、ようやく受話口から低い声が響いた。「……今から行く」その言葉を聞くや否や、咲夜は即座に通話を切った。視界の端で凍りついている洸を一瞥すると、彼女は凛と背筋を伸ばし、その到着を待った。森崎グループの本社からスタジオまでは、通常なら車で四十分は要する道のりだ。しかし、晴南は二十分足らずでその場に現れた。なりふり構わず駆けつけた彼の姿に、咲夜は皮肉げに片眉を上げ、滑稽なものを見るような眼差しを向けた。会議室に足を踏み入れた晴南の目に真っ先に飛び込んできたのは、大勢のスタッフを従えた咲夜と、対照的にたった一人、寂然と座り込む洸の姿だった。その光景は、誰の目から見ても、洸が孤立無援の中で寄ってたかって虐げられているようにしか映らなかった。おまけに、洸は瞼をうっすらと赤く腫らし、縋るような瞳で彼を見つめていた。その姿はこの上なく健気で、今にも折れてしまいそうなほど弱々しい。晴南が最も抗い難いもの、それこそが、この「弱さ」という洸の最大の武器だった。彼は大股で彼女の元へ
Read more

第42話

「本当に、そんなことを言ったのか、咲夜」晴南は射抜くような視線を咲夜に向けた。言葉では確認しているものの、その態度は明らかに洸の言い分を鵜呑みにしていた。こうした展開になることを、咲夜は意外だとは思わなかった。これほどの好機に、あの洸が策を弄さないはずがないからだ。嫌というほど煮え湯を飲まされてきた咲夜にとって、それはもはや見慣れた光景ですらあった。彼女は至極平静な面持ちで、晴南の視線を受け止めた。「会議室には監視カメラがあるわ。森崎さん、ご自身の目で映像を確認なさってはいかが?」咲夜がそう告げた瞬間、洸の顔色が微かに血の気が引いた。彼女が室内を見渡すと、四隅に設置された監視カメラが嫌でも目に入り、心に激しい焦燥が突き上げた。どうして、こんな初歩的なことを見落としていたのか。絶対に、晴南に映像を見られてはならない。もし露見すれば、スタッフたちを傲慢に見下し、傍若無人に振る舞う自分の醜態が、すべて晴南の目に晒されてしまう。それは、彼が抱いている理想の自分とは、あまりにかけ離れた姿だった。晴南は不快そうに眉をひそめ、冷淡な声で咲夜の言葉を遮った。「もういい。咲夜、俺は洸を信じている」その一言で、先ほどまで怯えていた洸の表情に、瞬時にして余裕が蘇った。対する咲夜は、ただ口角をわずかに上げただけだった。「……そう。お好きに」その声には、もはや執着の欠片も感じられなかった。晴南は、これほど露骨に洸を庇えば、咲夜が激昂して食ってかかってくるだろうと踏んでいた。以前の彼女なら、洸の理不尽な振る舞いに、なりふり構わず怒りをぶつけていたはずだ。だが、今の咲夜の鏡のように静まり返った様子が、かえって晴南の胸に得体の知れない不安を抱かせた。咲夜にはもう、晴南の内心を深く探るような気力は残っていなかった。彼女は事務的な口調で晴南に告げた。「森崎さん。私は、立ち上げ資金を出していただいた出資者への義理もあり、知識のない白羽さんがチームに加わることを容認した。彼女に貢献する力がなくとも、これまでは見て見ぬ振りができた。けれど今、白羽さんはこの作品に口を出し、原型を留めないほどに書き換えようとしている。伺いたいのは一点だけ。あなたは、白羽さんの我儘を許し、このゲームのリリースを遅らせるために、これ
Read more

第43話

それまで辛うじて晴南に理解を示そうと努めていたスタッフたちも、もはや彼を擁護するための言葉を探すのを諦めていた。事ここに至っては、誰もが悟っていた。社員たちの心の天秤は、緩やかに、しかし決定的な音を立てて傾き始めていた。咲夜の瞳は、刻一刻と氷のような冷徹さを湛えていく。「どうしてもあなたが洸の我儘に与するというのなら、いいでしょう。止めはしないわ。それはあなたの自由だし、私には関わりのないこと。けれど……」彼女は言葉を切り、晴南と洸を射抜くような冷然とした眼差しで見据えた。「このゲームは、私とスタッフ全員が血の滲むような思いで作り上げた、魂の結晶なの。誰かの威光を借りて、それを土足で踏みにじろうとする人間を許すわけにはいかないわ。晴南。たとえ予定通りにリリースできなくなったとしても、私が手塩にかけて育ててきた我が子を、あんな風に蹂躙させるつもりはないから」晴南は、言葉を失って呆然と立ち尽くした。「……咲夜、それはどういう意味だ?」次に彼女が紡ぐ言葉は、自分にとって最も忌むべき、聞きたくない内容である――そんな予感に背筋が凍った。咲夜の口調には、一切の迷いもなかった。「言葉通りの意味よ。このゲームを永遠に眠らせることになったとしても、悪意ある部外者に汚されるよりはマシだと言っているの。晴南、投資を引き揚げて。リリースの話は、すべて白紙に戻します」これまで幾度となく妥協を重ねてきた。だが、その度に晴南は増長し、彼女を追い詰めてきた。この男は、咲夜が何としてもゲームを世に送り出したいと願っていることを見抜き、それを盾にして無理難題を押し付けてきたのだ。資金の引き揚げをちらつかせた脅しにも、耐えてきた。洸のコネ入社という屈辱も、受け入れた。けれど今、共に戦ってきた仲間たちの矜持を蔑ろにし、全員の献身を無視して洸の身勝手な振る舞いを許す晴南を、咲夜はもう許せなかった。こんな男に、微かな期待さえ抱くべきではなかったのだ。彼との関係を終わらせると決めた以上、せめて二人の思い出には完璧な終止符を打ちたいと考えていた。だが、それは咲夜の天真爛漫な幻想に過ぎなかった。晴南という男は、重なる譲歩に値するような人間ではなかったのだ。咲夜の宣告を聞き、晴南の顔から血の気が引いていく。――咲夜、お前は自分が
Read more

第44話

「申し訳ありません。このゲームに、皆さんがどれほどの心血を注いでこられたか、痛いほど分かっています。それなのに、この期に及んで身を引くなど……私の力不足ゆえに、皆さんを裏切る結果となってしまいました」咲夜はスタッフたちに向かって、深く、長く頭を下げた。その唐突な行動に、その場にいた一同は動揺し、慌てて彼女を制止した。「咲夜さん、何をおっしゃるんですか!」「そうです!誰よりも心血を注いできたのが咲夜さんだってこと、僕たちが一番よく知っていますから」「一番辛いのは咲夜さんのはずです。みんな、分かっていますよ」「あなたがこのゲームをどれだけ大切に慈しんできたか、ずっと側で見てきました。よほどのことがなければ、あなたが諦めるなんて口にするはずがない」「リリースなんて、もういいですよ。咲夜さんが自分を押し殺してまで何度も頭を下げなきゃいけないくらいなら、いっそ白紙に戻したって構いません!」「その通りです!何があっても僕たちはあなたを支持します。どこかの誰かさんみたいに、魚の目玉を真珠と見間違えるほど節穴じゃありませんからね」スタッフたちの言葉は、もはや隠す気もない敵意を含み、晴南の鼻先に「お前の目は節穴だ」と突きつけているも同然だった。ただでさえ蒼白だった晴南の顔色は、彼らの容赦ない追撃によって、いっそう険しく、土色に沈んでいった。仲間の温かい言葉が、咲夜の凍てついた心にじわりと沁み渡る。このゲームには、自分だけでなく全員の情熱が詰まっている。誰もがこの子の誕生を、リリースの瞬間を、心待ちにしていたはずだ。今ここで歩みを止めるということは、全員のこれまでの苦労を灰燼に帰すことを意味する。それが彼女にとって、身を切られるような断腸の思いでないはずがなかった。けれど、これ以上、晴南の支配に屈し続けるわけにはいかない。一度下した決断を、彼女が翻すことはなかった。咲夜は周囲の理解と支持に、感謝を込めた眼差しを向けた後、ゆっくりと視線を晴南へと戻した。「晴南。投資を引き揚げたければ、今すぐそうして。リリースは、もう諦めたわ」だから、好きにすればいい。晴南は認めざるを得なかった。これまでは、このゲームを人質にするようにして、咲夜を意のままに操ってきた。彼女にとってこの作品がどれほどかけがえのないものか、嫌とい
Read more

第45話

咲夜はもはや、なりふり構わず自分を追い縋ることなどしなかった。それどころか、その眼差しは凍てつくように冷ややかだ。晴南はこの期に及んで、ようやく身を焼くような強烈な危機感に襲われていた。咲夜という存在が、自らの支配という軛を完全に断ち切ってしまったのだという事実に。咲夜も無論、晴南の動揺を察していた。だが今の彼女にとって、それは道端の小石ほどの価値もない、どうでもいいことだった。「晴南、このゲームはもう、私には必要ないわ」咲夜の口調は、一切の未練を排して断定的だった。そのあまりの迷いのなさに、晴南は再び激しい狼狽に突き動かされた。彼が反論しようと口を開きかけたその時、傍らにいた洸が先んじて声を上げた。洸は相も変わらず悲劇のヒロインを気取り、消え入りそうな細い声で言った。「咲夜さん、そんなに意固地になって……こんなやり方で晴南さんに八つ当たりするなんて、あまりに大人げないわ。ご自分でもさっき仰ったじゃない、これは社員全員の血と汗の結晶だって。それを自分の感情一つで『リリースしない』なんて投げ出すのは、身勝手が過ぎると思わない?」何かに気づいたふりをして、洸はさらに畳みかける。「それに、晴南さんだってこれまで多額の投資をしてきたのよ。あなたが勝手に諦めるなんて言い出したら、投じられた資金はどうなってしまうの?」洸が言い終えるが早いか、スタッフたちから一斉に刃のような鋭い視線が飛んだ。咲夜と共に苦楽を共にしてきた仲間として、社員たちはつい先ほど、彼女の決断を全面的に支持し、理解すると表明したばかりなのだ。この女、一体何様のつもりだ?自分勝手な理屈を並べ立て、咲夜を悪役に仕立て上げようとするその魂胆は、誰の目にも透けて見えていた。スタッフたちは鼻でせせら笑い、不満を隠そうともせずに吐き捨てた。「笑わせるな。盗人猛々しいとは、まさにこのことだ」「全くだ。どの口がそんな御託を並べているんだか」「厚顔無知な誰かさんが無理やり入り込んで、分かったような顔をして掻き回さなきゃ、こんな事態にはなってないんだよ!」「善悪の判断くらい、自分たちでつけられます。あんたに唆されるような連中じゃないんだ。俺たちは無条件で、咲夜さんを支持する」「そうですよ。咲夜さんがどんな決断を下しても、私はついていきます。私たちが信じて
Read more

第46話

オフィスに戻った晴南の顔色は、目を背けたくなるほど険しかった。会議室で咲夜が言い放った言葉が、いまだ耳の奥で鳴り止まない。思い返すたび、その表情はどす黒く沈み込んでいく。――どうして、こんなことになったんだ。洸もまた、晴南の異様な気配に気づいていた。胸の奥に、不安がじわりと広がる。結局のところ、今日の騒動の火種は自分だ。最初は、晴南が無条件に自分の味方でいてくれると高を括っていた。だが、先ほどの会議室で見せた煮え切らない態度は、その自信を揺るがすには十分すぎた。洸は彼の顔色を窺いながら、唇を噛み、どう切り出すべきか逡巡する。「……晴南さん」袖をそっと引き、かすれるような声で呼びかける。「私……何か、取り返しのつかないことをしてしまったのかしら?」返答を待つ間もなく、洸の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。「私が悪いの。ねえ、私……咲夜さんに謝ってくるわ。ちゃんと話をして、あなたに八つ当たりするのをやめるように説得するから。安心して。たとえ膝をついて土下座してでも、二人の関係を元に戻してみせる。私がいなければ、こんな溝はできなかったのに。私なんて――いっそ死んでしまえばいいんだわ!」洸は取り乱しながら頭を抱え、狂ったように自分を叩き始めた。その痛ましい姿に、晴南の胸にわずかに残っていた非難の感情は、あっけなく霧散する。駆け寄ろうとしたその瞬間、洸は彼を激しく突き飛ばし、嗚咽を漏らしながらデスクの角へと走り出した。「よせ、洸!」間一髪で腕を掴み、力任せに引き寄せる。そのまま彼女を胸に抱き込んだ。「……洸、お前のせいじゃない。落ち着け!」この混乱――洸の「持病」が出たのだと、晴南はすぐに理解した。彼は慣れた手つきでポケットから薬を取り出し、彼女の口に含ませる。震える背中を何度も宥めるように叩きながら、耳元で繰り返し囁いた。「大丈夫だ、もう大丈夫だ。俺がここにいる。安心しろ……」その一連の動作は、これが初めてではないことを如実に物語っていた。激しく取り乱していた洸も、やがて薬と体温に包まれ、次第に落ち着きを取り戻していく。彼女は晴南の腰にしがみつくように腕を回し、胸に顔を埋めたまま、しゃくり上げながら言った。「ごめんなさい……晴南。私には、もうあなたしかいないの。お願い
Read more

第47話

だからこそ、晴南は真っ先に咲夜を頼り、社員たちの感情をなだめるよう求めたのだ。ゲームのためなら、咲夜は必ず自分の指示に従う――そう信じていた。そして事実、彼女はその通りに動いた。晴南自身も、スタッフたちとの関係を良好に保ちたいと考えていた。だからこそ、洸が食事会を提案した際も、快く同意したのだ。そこまでは、すべてが順調に進んでいるはずだった。まさか、洸のいくつかの提案だけで、これほどの騒動に発展するとは。晴南は、このゲームが咲夜にとってどれほど重要なものかを理解している。先ほど会議室で火花を散らした際には、互いに理性を失い、鋭い言葉をぶつけ合ってしまった。洸を落ち着かせ、家まで送り届けたあとで、もう一度、咲夜と腰を据えて話し合おう。晴南はそう考えていた。一方で洸は、「これ以上ゲームの件には関わるな」という晴南の言葉を聞いた瞬間、それまでの弱々しく健気な表情をほんのわずかに消していた。彼女はうつむき、体の脇に添えた両手をそっと握りしめる。口では自分を責めないと言いながら、行動では咲夜の側に立っている。やはり、この男はまだあのゲームに投資し続けるつもりなのだ。ここまで自分が動いてもなお、晴南の決意は揺らぎきってはいない。その事実に、洸はかすかな危機感を覚えた。……とはいえ。そもそも、今日の騒動だけで咲夜のゲームを完全に白紙に追い込めるなどと、洸も本気で考えていたわけではない。それが現実的でないことくらい、分かっている。彼女が無理な要求を押し通そうとしたのは、ただ咲夜を不快にさせ、苛立たせるため――嫌がらせに過ぎなかった。目的はすでに達している。焦る必要はない。時間はいくらでもある。これから先、いくらでも咲夜を追い詰めていけばいい、洸はそう自分に言い聞かせた。「……分かったわ。すべて、あなたの言う通りにする。晴南さん、家まで送ってくれる?薬を飲んだせいで、少し頭がぼんやりするの」そう言いながら立ち上がろうとし、わざとらしく体をふらつかせて晴南にもたれかかる。先ほどの自傷行為を目の当たりにしたばかりの晴南は、やはり彼女を放っておくことができなかった。「ああ。今すぐ送っていく」その返事を聞いた洸は、ぱっと明るい笑みを向ける。だが晴南は、その笑顔に見惚れるばかりで、瞳
Read more

第48話

晴南が洸を連れて去った後、咲夜もそれ以上その場に留まろうとはしなかった。晶子に「もう洸と正面から衝突しないように」と念を押し、咲夜は静かにスタジオを後にする。ビルの入り口には、千暁の車がまだ元の場所に停まっていた。本当にずっと待っていてくれたのだとは思わず、咲夜の胸の奥に言いようのない感情がじわりと広がる。千暁のもとへ歩み寄ると、彼はすでに車のドアを開け、外に出ていた。千暁はゆっくりと咲夜の前まで歩み寄り、低く問いかける。「片付いたか」「ええ」咲夜は短く応じた。千暁はじっと彼女を見つめる。どうにも、その表情が晴れやかには見えなかった。晴南と、相当ひどく衝突したのではないか。そう察し、軽く咳払いをして言う。「行こう、病院に戻るぞ」アレルギーの点滴は終えていたものの、やはり経過観察は必要だった。咲夜の首筋にいまだ広がる赤みを目にし、千暁の視線がわずかに険しくなる。その視線に気づいた咲夜は、そっと襟元を整えて痕を隠した。「まだ、ひどいかしら」問いに、千暁は素っ気なく答える。「……それなりだ」そう言い残すと、彼は咲夜に乗車を促した。車に乗り込んでからも、咲夜はずっと沈黙を守り、口を開こうとはしなかった。千暁もまた、彼女の揺れる情緒を察し、横目で時折様子を窺うだけに留める。彼女が気持ちを整理するための時間を、黙って与えていた。二人はそのまま、道中ずっと言葉を交わさなかった。やがて車が病院に到着しようとしたその時、咲夜のスマートフォンが鳴る。彼女は番号を確認し、通話に出た。受話口の向こうから、聞き慣れた声が響く。「咲夜、明光堂があなたの持っている株に興味を示しているわ。いつ会って価格の相談をするか、都合を見てちょうだい」返事をする間もなく、千暁の視線が咲夜へと向けられる。深く鋭い眼差しで、彼女をじっと見据える。――今の声は、確かに……自分の妹のものに聞こえたからだ。その視線に気づいた咲夜は、わずかに微笑み、声を潜めて続けた。「明日にしましょう。時間はあなたに任せるわ、こちらで合わせるから」電話の主は、咲夜の親友――萩野瞳(はぎの ひとみ)だった。皮肉なことに、咲夜と千暁はまるで宿敵のような関係にありながら、その妹である瞳とは無二の親友である
Read more

第49話

ようやく咲夜が、あのクズ男――晴南を捨てる決意を固めた。瞳は今すぐにでも花火を打ち上げて祝いたい気分だった。親友から浴びせられる罵詈雑言の嵐に対しても、咲夜はただ微笑むばかりで、何も言わない。瞳が晴南を頭のてっぺんから足の先まで徹底的にこき下ろすのを、彼女は終始穏やかな笑みを浮かべたまま聞き届けていた。やがて、瞳が罵り疲れて息をついた頃、咲夜は静かに口を開く。「……助かるわ。手間をかけてごめんなさい」「手間なんてことないわよ。じゃあ明日の夜に予約しておくわね。私、午後には戻るから」瞳はそう言った。彼女は今日、たまたま隣町へ出張しており、景浦に戻るのは明日になる予定だった。以前、咲夜が家を売りに出した際にも、瞳が間に入って買い手との連絡を引き受けていたのだ。咲夜は「分かったわ」と笑顔で応じる。やがて同僚に急かされる声が受話器越しに響き、瞳は通話を切った。通話を終えた咲夜は、千暁がまだ横目で自分を窺っていることに気づく。やがて千暁が先に沈黙を破り、低く問いかけた。「……瞳か」彼は以前から、妹と咲夜の仲が良いことを知っていた。あのお転婆な妹は、兄である自分の前でも事あるごとに咲夜の話題を持ち出し、そのついでに「死ぬほどクズな晴南」を呪う言葉を吐いていたからだ。千暁はそのたびに、何も言わず静かに聞き流していた。先ほどの声が間違いなく瞳のものだと、彼は確信している。問いに対し、咲夜は隠すことなく頷いた。「ええ、彼女に少し頼み事をしていて」だが、その具体的な内容までは口にしない。自分の個人的な問題だと割り切っていたからだ。もっとも、千暁にはすでにすべて見透かされていた。彼は重ねて尋ねる。「瞳に頼んで、スタジオの持ち株を売るつもりか」「聞こえていたのね」咲夜はその視線を正面から受け止める。――聞こえていたのなら、わざわざ聞き返すなんて、どういうつもりかしら。その声に滲むわずかな苛立ちに、千暁が気づかないはずもなかった。それでも彼はただ、かすかな笑みを浮かべるだけだった。「明光堂のCEO、鈴村清治(すずむら せいじ)は、晴南とちょっとした因縁がある。このタイミングで君から株を買い取るとなれば、何か別の企みがあるはずだぞ」かつて酒席で、清治と晴南が殴り合い寸前の喧嘩
Read more

第50話

咲夜は、清治が本当に高値を提示してくるかどうかまでは分からなかった。だが、彼が必ず自分の株を買い取る――その確信だけはあった。他でもない、あの男が、晴南を不快にさせる絶好の機会を見逃すはずがないからだ。咲夜にとっては、晴南との関係を断ち切れるうえ、まとまった資金まで手に入る。断る理由など、どこにもない。損のないこの取引を蹴る必要はない。彼女はそう判断していた。千暁は、わずかに口角を上げる。「俺だって晴南とは宿敵同士だ。俺に株を売ることは考えなかったのか?今の俺と君なら、よほど親密な関係だと思うんだがな」咲夜は虚を突かれた。言われてみれば、確かに一理ある。会社の株を売ると決めた時、頭に千暁の存在は真っ先には浮かばなかった。ここ最近、頻繁に連絡を取り合っていたにもかかわらず。――どうして、千暁を思いつかなかったのかしら……伏せ目がちに自問してみるが、答えはすぐには見つからない。咲夜から返事がないまま時間が過ぎると、千暁の瞳にわずかな不機嫌が滲んだ。彼は沈んだ声で言う。「どうやら、俺は君の第一候補じゃないらしいな。所詮、俺じゃ不釣り合いだということか」その言葉には、あからさまな拗ねた響きが混じっていた。咲夜は目を見開き、言葉を失う。「そんなことないわ、違うのよ!変なこと言わないで」慌てて弁明する。「そんな意味じゃないわ。あなたのような御曹司が不釣り合いなわけないでしょう。変な深読みしないで」――どうしてこの人は、話の矛先を『不釣り合い』なんて方向に持っていくのかしら……実際のところ、千暁が第一候補ではなかったのは事実だ。だが、それをどう説明すべきか。咲夜が言葉に詰まっていると、千暁が再び口を開いた。「なら、どうしてその株を俺に売ろうとしなかったんだ」再び突きつけられる、答えにくい問い。だが今度の声音には、先ほどのような露骨な落胆はなく、どこか探るような響きがあった。千暁は、咲夜が自分を最初に思い出さなかったことに確かに不満を抱いていた。しかし同時に、取り繕おうとして焦る彼女の様子が、どこか可笑しくてならなかったのだ。咲夜は諦めたように小さく息をつく。「……価値のない株をあなたに売りつけて、損をさせたり、赤字のリスクを背負わせたりするわけにはいかな
Read more
PREV
1
...
34567
...
10
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status