All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 751 - Chapter 760

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第751話

天志がそう簡単に引き下がるはずがないと察していたからこそ、咲夜はあれほど腹を立てていたのだ。結局のところ、彼女はやはり心配で仕方がなかった。千暁は気にした様子もなく答えた。「大丈夫だ。心配しなくていい。俺だって、黙ってやられるつもりはないから」千暁の言葉を聞くと、咲夜は少し体を傾け、そっと千暁の肩に頭を預けた。焦点の定まらない目で部屋の一角をぼんやりと見つめながら、小さな声で呟く。「私、ときどき本当に自分が情けなくなるの。目の前でいろんなことが起きてるのに、何も解決できなくて……」その声には、深い自責の念が滲んでいた。それ以上に、どうしようもない無力感があった。もっと自分に手腕があれば、もっと天志と渡り合えるだけの力があればよかったのに――咲夜はそんなことまで考えていた。それを聞いた千暁は、咲夜の肩を抱き寄せ、優しく頭を撫でた。「馬鹿だな。君はもう十分すごいよ」咲夜はいつも、自分はまだまだだと言う。けれど実際には、自らに求める水準が高すぎるだけなのだ。何事にも完璧を求めるからこそ、どれだけやってもまだ足りないと思ってしまう。けれど本人が気づいていないだけで、周囲から見れば、彼女はもう十分すぎるほど頑張っていた。咲夜は、千暁が自分を慰めるためにそう言っているのだと思っていた。隣にいる彼が自分の長所を一つずつ挙げていくのを静かに聞きながら、心の中では逆に、自分の欠点を一つずつ数えていた。まだ、もっとできるはずだ。もっと努力しなければならない。そんなことを考えながら、咲夜はわずかに顔を上げ、千暁の横顔を見つめた。その口元には、いつしか柔らかな笑みが浮かんでいた。千暁はしばらく部屋で咲夜に付き添っていたが、咲夜が電話に出ている間に、一度階下へ降りた。一階のリビングには、雅紀が一人ソファに座り、何度もため息をついていた。真奈美はどこかへ出かけたらしく、見当たらなかった。千暁は雅紀の前まで行って腰を下ろした。「お義父さん、まだ家を売ることを考えてるんですか?」食卓で持ち出されたあの話が、咲夜を怒らせただけでなく、雅紀自身をも途方に暮れさせていることを、千暁は分かっていた。雅紀の立場からすれば、娘の負担を少しでも軽くしてやりたいと思うのは当然だった。父親である彼に、忙しさに追われて余裕をなくしている咲夜が苦し
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第752話

少し考えた末、千暁は結局、遠回しな言い方をせず単刀直入に話すことにした。雅紀を見つめながら、口を開く。「実際、まだこの家をどうしても売らなければならないほど切羽詰まっているわけじゃありません」この件については、千暁も咲夜と同じ考えだった。家は売らなくてもいい。今、雅紀の手元に残っている不動産は二軒だけだった。一軒は現在暮らしているこの家で、かなり広い。そしてもう一軒は郊外のやや不便な場所にある、3LDKの二階建て住宅だった。今の家と比べればずっと小さいものの、雅紀が真奈美や咲夜、それに千暁と暮らすには十分な広さがある。周囲の環境も悪くなく、静かに暮らすには適した場所だった。千暁が自分を説得しに来たのだと察し、雅紀はゆっくりと口を開いた。「家を売ることについてはな、お義母さんとはずいぶん前から何度か話し合ってたんだ。前は迷っていたんだが、今回こうして決心したのは、確かに咲夜のためでもある。だが、それ以上に――」雅紀はそこで言葉を切り、しばらく考えてから続けた。「むしろ、私たち自身のためという意味合いのほうが大きいんだよ。この家は広すぎて、住んでいても寂しいからな。郊外の家は静かで、環境もなかなかいい。人間、年を取ってさまざまな経験をすると、静かな場所でのんびり老後を過ごしたくなるものだ。私たちだって同じさ」老後をどこでどう過ごすかについては、雅紀と真奈美もこれまで何度となく話し合っていた。時が経ち、年齢を重ねるにつれて、考え方も自然と変わってきたのだ。雅紀は千暁を見て笑った。「お前のおじいさんとおばあさんと同じだよ。私も一度は死にかけた身だからな。いろんなことに執着しなくなった。今はもう、ほかに何も望んじゃいない。ただ咲夜が無事で、健康で、お前と仲良く暮らしてくれれば、それで十分だ」親というものは結局、我が子が平穏で幸せに暮らしてくれることを願うものなのだ。雅紀の話を聞いていると、千暁もすぐには反論の言葉が浮かばなかった。すると、今度は雅紀のほうから千暁に頼んできた。「家を売ることについては、お前からも咲夜を説得してやってくれ。私とお義母さんはいずれあっちへ引っ越すつもりだったんだ。早いか遅いかだけの話で、咲夜のせいじゃない。それとお前も、仕事探しはひとまず後回しでいい。そのときは引っ越しを手
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第753話

世間からどう評価されようと、千暁はまったく気にしていなかった。彼はもともと、他人の目など気にするような人間ではない。ただ――千暁は雅紀に向かって言った。「お義父さん、忘れないでください。俺があれだけの地位にいられたのは、荻野家という後ろ盾があったからです。その後ろ盾を失った以上、俺はもう何者でもありません。今の景浦市に、かつてのような誰も逆らえない『荻野千暁社長』はいない。いるのは、すべてを失った荻野千暁だけです」千暁は目の前の現実を冷静に受け止めていた。権力も、財産も、今の彼にとっては手の届かないものだ。もう以前のように荻野家の後継者に戻ることもできない。少なくとも今、千暁がはっきりと言えることが一つだけあった。何の肩書きも持たない今のほうが、以前よりずっと楽しく、幸せに暮らせているということだ。雅紀は何も言わず、千暁の様子をじっと見ていた。嘘をついているようには見えない。自分を納得させるために取り繕っているわけでもなかった。本当に今の暮らしを気に入っているのだろう。平凡ではあるが、毎日は充実している。それでも、雅紀にはまだ一つ気がかりがあった。千暁はこれまで、こんな生活をしたことがない。だからこそ、今はただ、これまでとは違う暮らしが物珍しくて、楽しめているだけなのではないか――そう思っていたのだ。そんな雅紀の考えを見抜いたように、千暁は穏やかな口調で言った。「俺だって、生まれたときから何もかも手にして『荻野社長』になったわけじゃありません。苦しい生活も経験しています。今はただ、もう一度それを経験するだけです」実際、千暁には、自分がかつて歩いてきた道をもう一度最初から歩き直すつもりがあった。そして、それを苦だとも思っていなかった。二人が話を続けるうちに、雅紀も少しずつ千暁の考えに納得していった。結局、雅紀は折れた。それどころか途中からはすっかり考えを変え、千暁が仕事を探すことに大いに賛成するようになった。たとえ天志が裏で妨害しているとしても、何か打ち込めることがあれば気も紛れる。それはそれで悪くないだろう。そして千暁の仕事探しに賛成する代わりに、雅紀からも一つ頼みがあった。家を売ることに同意するよう、咲夜を説得してほしいというのだ。雅紀としては、やはり娘にも自分たちの考えを理解し、応援して
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第754話

「おかえり」咲夜は本を置き、自分のほうへ歩いてくる男を見つめた。千暁は彼女の前まで来ると、その隣に腰を下ろして手を握った。「仕事、決まったよ」「本当?」咲夜は驚きと喜びの入り混じった目で隣の男を見つめた。本当に仕事が見つかったということが、まだ信じられないようだった。「じゃあ、当ててみようかな。いったいどこの会社がそんなに見る目があって、こんなに優秀な荻野さんを採用したの?」咲夜は純粋に、千暁がどこで働くことになったのか気になっていた。そう聞かれた千暁は軽く咳払いをしてから答えた。「零度ワイナリーだ。新商品のPR用の文章を書くのが主な仕事で、基本給は30万円。それに歩合もつく」給与条件までまとめて咲夜に説明すると、彼女は不思議そうに彼を見た。「零度ワイナリー?」その名前には、どこか聞き覚えがあった。少し考えただけで、咲夜はすぐに思い出した。景浦市にある小さな企業が経営しているワイナリーで、知名度はそれほど高くなく、業績もずっと可もなく不可もなくといったところだった。創業者は確か、成瀬(なるせ)という人物だったはずだ。千暁がそんな小さな会社で働くことになったと知り、咲夜はなんとも言えない気持ちになった。千暁ほどの能力があれば、天志からあちこちで妨害されてさえいなければ、こんな小規模な会社に勤めることなどなかったはずだ。PR用の文章を書く仕事――なぜか咲夜には、千暁が何かを隠しているように思えてならなかった。「基本給が三十万円で、さらに歩合まで?本当に大丈夫な会社なの?小林に調べてもらおうか?」ただ宣伝用の文章を書くだけで、それだけの基本給に歩合までつく。どうにも話がうますぎる気がした。何か別の狙いがあるか、あるいはこの仕事自体が単なる口実なのではないか。だが千暁は、そんな咲夜を制した。「もう灰原に調べてもらった。特に問題はないよ。ただ、会社の規模が小さいだけだ。基本給が高めなのは、手が空いているときに企画書なんかも書いて、ワイナリーの宣伝をいろいろ手伝ってほしいと言われてるからだ」千暁はワイナリー側から提示された仕事内容を詳しく説明した。真澄にすでに調査させたと聞いて、咲夜もようやく少しだけ安心した。それでも、千暁ほどの人が、今はこうして小さな会社で一から働かなければならな
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第755話

昼食の時間になると、咲夜は千暁にメッセージを送り、新しい職場には馴染めそうかと尋ねた。千暁からはすぐに返信が届いた。【もう慣れたから、心配しなくていい】本人がそう言うのなら、咲夜もそれ以上は何も言わず、【仕事、頑張ってね】とだけ返した。夕方になると、今度は千暁から電話がかかってきた。電話に出た瞬間、向こうから彼の低い声が聞こえてくる。「咲夜、今日は少し帰りが遅くなりそうだ。部署で歓迎会を兼ねた食事会があって、さすがに断りづらくて」彼は自分の予定をきちんと咲夜に伝えていた。咲夜もその言葉を疑うことなく、優しい声で言った。「あまり飲みすぎないでね。遅くなるなら、灰原さんに迎えに行ってもらったら?」今の千暁は、すでに荻野家とは完全に袂を分かっていた。そして以前、千暁の補佐を務めていた真澄も、千暁とともに会社を辞めていた。今では真澄も千暁と同じく、無職の身だった。唯一幸いだったのは、以前千暁のもとで働いていた頃、真澄はかなりの給与とボーナスを受け取っていたことだ。荻野グループを辞めた今も、銀行口座には相当な貯金が残っている。しばらく働かなくても、今後数年は十分暮らしていけるだけの額だった。もちろん、結婚せず、子供も持たず、一人で暮らし続けるのなら、という条件つきではあるが。「俺が帰るまで待たなくていいからな。こっちの食事会が何時に終わるか分からないし、君はちゃんと休まないといけない。待たずに寝るんだぞ。分かった?」千暁は念を押し、咲夜がきちんと返事をするまで電話を切るつもりはないようだった。咲夜は唇を尖らせながら、渋々答えた。「分かった。眠くなったらすぐ寝る」「ちゃんと言うこと聞くんだぞ」受話器の向こうから、千暁の低い声が届いた。口ではそう約束したものの、咲夜は結局、リビングに座って静かに彼の帰りを待っていた。夕食を終えたあと、両親としばらく話をした。雅紀と真奈美は今日一日、家の売却手続きで外を回っていたため、早々に自室へ戻ることにし、咲夜にも眠くなったら無理せず寝るよう言い聞かせた。二人がいなくなると、広いリビングには咲夜だけがぽつんと残された。それでも彼女は、千暁が帰ってくるまで待つつもりだった。ところが、座ってから五分も経たないうちに、眠りに落ちてしまった。手にはまだスマートフォンを握
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第756話

咲夜はまどろみの中で、馴染みのある気配が近づいてくるのを感じた。夢を見ているようだった。夢の中で、千暁が自分をぎゅっと抱きしめている。けれど次の瞬間には、その腕をほどいて離れていこうとした。咲夜は反射的に手を伸ばし、目の前の男を掴もうとした。すると意外にも、本当にその手に触れるものがあった。千暁は咲夜に手を掴まれても振りほどかず、そのまま彼女に引かれるように、ゆっくりとベッドのそばにしゃがみ込んだ。咲夜はうっすらと目を開けて彼を見たが、まだ夢の中にいるのだと思っていた。両腕を千暁の首に回し、くぐもった声で呟く。「あき、帰ってきたの……?すごくお酒臭い……」そう言い終えると、咲夜の腕から少しずつ力が抜けていった。いつもと同じ、千暁の匂いがする。ただ、今夜はそこに酒の匂いが混じっていた。自分の知らないところでいったいどれだけ飲んだのだろう。こんなに強く酒の匂いがするなんて。咲夜は目の前で起きていることをすべて夢だと思い込み、両手で千暁の顔を包むと、何度か口づけた。それで満足したのか、すぐに千暁から手を離し、寝返りを打って彼に背を向ける。千暁も、咲夜がこんな反応をするとは思っていなかった。この前までは、こんなふうに自分から甘えてくることなんてほとんどなかったのに。千暁は咲夜の額にかかった髪を優しく撫で、彼女の寝息が再び穏やかになるまで待ってから立ち上がった。まずウォークインクローゼットへ行って着替えを取り、それからバスルームへ向かう。鏡に映った自分の火照った顔を見て、千暁は表情を険しくした。全身に染みついた濃い酒の匂いに、自分でも思わず眉をひそめる。実は帰宅する前にも、一度シャワーを浴びていた。今日はかなり飲んだせいか、一度シャワーを浴びたくらいでは、鼻につく酒の匂いはなかなか取れなかった。千暁は手早くシャワーを済ませたが、それでも体にはまだわずかに酒の匂いが残っている。バスルームを出ると、咲夜を起こさないよう静かにベッドに入った。掛け布団をめくって横になった途端、咲夜は目を閉じたまま、無意識に彼の胸元へ潜り込んできた。千暁はそんな彼女を優しく腕の中に抱き寄せた。咲夜は彼の胸元で心地よい位置を探すと、両腕を千暁の腰に回し、頬を胸板に寄せた。怪我をしているほうの足は、そっと千暁の
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第757話

咲夜はてっきり夢だと思っていた。まさか、本当にあったことだったとは。いったいどれだけ飲んだのだろう。一晩経っているというのに、服にはまだ鼻をつくほど強い酒の匂いが残っている。身支度を済ませて洗面所から出ると、咲夜はベッドで眠っている千暁をちらりと見た。彼が目を覚ましてから、昨夜どれほど酒を飲んだのか聞いてみようと思った。千暁が目を覚ましたのは、八時半になってからだった。起きた瞬間、頭が割れそうなほど痛んだ。時間を確認すると、すぐに起き上がって身支度を整えた。階下へ降りたときには、咲夜はすでにダイニングテーブルについて朝食を食べていた。千暁の姿を見つけると、咲夜は笑顔で声をかけた。「起きた?こっちに来て朝ごはん食べて」千暁は咲夜の前まで歩いてくると、身を屈めて軽くキスをした。「おはよう」だが、その顔色はあまりよくなかった。昨夜帰宅したのは午前三時半で、眠りについたのは四時近くだった。そのうえ、かなりの量の酒を飲んでいたにもかかわらず、今朝はこんなに早く起きている。二日酔いも残っており、頭痛はかなりひどかった。それでも千暁は、咲夜の前ではそんな素振りを見せなかった。彼女の隣に座ったものの、もうすぐ出勤時間だったため、急いで朝食を口に運んだ。その様子を見て、咲夜はからかうように言った。「そんなに急いで食べなくてもいいのに。ゆっくり食べて」しかし千暁は首を横に振ると、目の前の朝食をあっという間に平らげた。「ちょっと、あなた……」あまりの勢いで食べる千暁を見て、咲夜は呆気に取られたように何か言おうとした。だが、最後まで言わないうちに、千暁は口元を拭き、食器をキッチンへ運んで手早く洗い終えた。そして足早に咲夜の前へ戻ると、身を屈めて彼女の唇の端にキスをした。「じゃあ、仕事に行ってくる。何かあったら電話して」そう言い残すと、くるりと背を向け、慌ただしく家を出ていった。咲夜はその後ろ姿を見送りながら、唇を引き結んだまま何も言わなかった。ちょうどその頃、朝の散歩を終えた真奈美と雅紀が帰ってきて、急いで出ていく千暁の姿を目にした。「あの子、あんなに急いでどこへ行くの?」真奈美が不思議そうに咲夜を見ると、雅紀も隣から口を挟んだ。「朝っぱらからあんなに慌てて。ちゃんと朝飯は食べたのか?」
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第758話

咲夜が千雪に頼んで、千暁の新しい職場について調べてもらおうかと迷っていた、そのときだった。瞳からメッセージが届いた。【時間ある?会いたい】瞳が指定した場所は時雨庵だった。しかも、以前千暁が専用で使っていたあの個室だ。ただ、時雨庵も一度は天志の手に戻っていた。咲夜が個室に着いたときには、瞳はすでに中で待っていた。咲夜の姿を見ても立ち上がろうとはせず、杖をついた彼女が自分の前まで歩いてきて腰を下ろすのを、ただ黙って見ている。咲夜が席につくと、瞳は咲夜のためにジャスミンティーを淹れた。「ジャスミンティーよ」咲夜が最も苦手とする茶の一つだった。これだけでも、瞳がわざと選んだことは明らかだった。咲夜はカップにちらりと目をやっただけで、口をつけようとはしない。それを見た瞳は、自分のカップを持ち上げて一口飲むと、改めて咲夜を見た。「飲んでみたら?たまには新しい味を試してみるのも、悪くないわよ。同じ味ばかりじゃ、いつかは飽きるものだから」明らかに含みのある言い方だった。咲夜はただ彼女を見つめ、淡々と答えた。「悪いけど、私は今まで一度もほかの味を試してみたいなんて思ったことはない。今のままで十分気に入ってるの。変えるつもりなんてないわ」咲夜の表情は真剣だった。そう言うと、目の前に置かれたカップを少し向こうへ押しやった。拒絶の意思は、これ以上ないほど明確だった。瞳は小さく笑った。「そうそう、一つ言い忘れてたわ。時雨庵、今は私のものなの」何ですって?その言葉を聞いた瞬間、咲夜は驚きを隠せなかった。以前、千暁は時雨庵を咲夜名義に移していた。しかし、あの日、手術室の外で天志が千暁に渡した書類には、はっきりと条件が記されていた。千暁がそれまで他人に譲渡したすべての財産を、返還しなければならない、と。そのため、咲夜も時雨庵の譲渡契約書に署名していた。「そんなに驚いた?」瞳は瞬きもせず咲夜を見つめた。「私、恭介ともう結婚したの。時雨庵は、父からもらった結婚祝いの一つよ」時雨庵の話など一瞬で吹き飛ぶほどの衝撃だった。咲夜は信じられない思いで、目の前の瞳を見つめる。瞳のことはよく知っていた。無理やり結婚させられたようには見えなかった。ただ、こんなにも早く恭介と結婚するとは思っ
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第759話

瞳がわざわざこのタイミングで自分の前に現れ、こんな話を持ち出した以上、何か思惑があるに違いない。ただ、いったい何を企んでいるのかが分からなかった。今、目の前にいる瞳は、咲夜にとってまるで別人のように感じられた。彼女が何を考え、次に何をしようとしているのか、まるで読み取れなかった。瞳は唇の端を上げたまま、何も言わずに咲夜をじっと見つめていた。咲夜は再び口を開く。「私の前でもったいぶる必要なんてないでしょ。お互い、昔からよく知ってるんだから、言いたいことがあるならはっきり言って」何より咲夜には、ここで瞳といつまでも腹の探り合いをしている時間などなかった。頭から離れないのは、毎日のように泥酔して帰ってくる千暁のことだった。そのせいで、咲夜の表情には自分でも気づかないほど落ち着かなさが滲んでいた。そして、それを瞳はあっさりと見抜いた。瞳はふっと唇を吊り上げて笑った。「別にもったいぶるつもりなんてないわ。ただ、千暁兄ちゃんって本当にあなたのことを愛してるのね。あんな大事なことまで隠し通そうとするなんて。……まあ、そこまで隠されてるってことは、彼にとってあなたも大した存在じゃないのかもしれないけど」瞳の笑みは次第に深くなっていった。しかし、その言葉は咲夜にはまるで意味が分からなかった。咲夜は訝しげに彼女を見る。「どういう意味?」もしかして、瞳は千暁の仕事について何か知っているのだろうか。咲夜が本当に何も知らされていないらしいと分かると、瞳は内心、呆れ半分に驚いていた。千暁は本当に、すべてを一人で背負い、自分が裏でしていることも咲夜には一切知らせないつもりだったらしい。咲夜のためなら、どんな苦労も厭わず、何だってするというわけだ。そこまで自己犠牲に徹する兄には、瞳も呆れを通り越して、いっそ感心すら覚えるほどだった。以前は周囲から、自分こそ恋愛にのめり込みすぎるタイプだと散々言われてきた。けれど今になってみれば、兄である千暁に比べたら、自分など可愛いものだとさえ思えてくる。そう考えれば、もはや驚くようなことでもなかった。瞳は視線を外し、冷たく鼻を鳴らした。「知りたい?いいわ。じゃあ、ある場所に連れていってあげる」そう言うと、咲夜を振り返りもせず、そのまま個室を出ていった。遠ざかってい
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第760話

沈黙が二人の間に広がっていった。咲夜はそのまま視線を逸らし、顔を窓の外へ向けた。瞳とはできるだけ目を合わせないようにしたのだ。やがて車は、とある会員制クラブの前で停まった。瞳がシートベルトを外して車を降りると、咲夜もあとに続いた。目の前にそびえる会員制クラブを見上げ、咲夜は眉をひそめて瞳を見る。「ここに何をしに来たの?」このクラブは、零度ワイナリーと長期的な取引関係にある店だった。利用するには事前の入会審査が必要で、資産状況などを確認されたうえで、一定の基準を満たした者だけが会員になれる仕組みだった。その基準は極端に高いわけでもないが、決して低くもない。結局のところ、もっともらしい付加価値をつけて、客に高額な料金を払わせるための仕組みにすぎなかった。咲夜は建物から視線を戻したものの、瞳がなぜ自分をここへ連れてきたのか、ますます分からなくなった。「入れば分かるわよ」瞳は横目で咲夜を見ただけで、ここへ来た理由には答えなかった。どうせ、すぐに分かることなのだから。瞳は一枚の会員カードを取り出し、受付で確認を済ませると、咲夜を連れて中へ入っていった。何を聞いてもはぐらかす瞳に、咲夜の忍耐も次第に尽きかけていた。何も知らされないまま、どうして自分は彼女についてこんなところまで来てしまったのだろう。自分でもどうかしているとさえ思えてくる。そう考えた咲夜は唇を引き結び、もう帰ろうと決めた。瞳が何を企んでいようと、知ったことではない。「私、もう――」「着いたわ」二人の声がほぼ同時に重なった。瞳の声が咲夜の言葉を遮る。そして彼女は先に口を開いた。「自分の目で見てみれば?」二人が立っていたのは、一枚のハーフミラーの前だった。咲夜のいる側からは、ガラスの向こうの様子がはっきりと見える。その光景を目にした瞬間、咲夜は大きく目を見開いた。その目には、隠しきれない驚きが浮かんだ。ガラスの向こうでは、千暁が大勢の女性たちに囲まれていた。目の前には、十数杯もの酒が並べられている。すでにかなり酒が回っているのか、千暁の頬は真っ赤に染まっていた。それでも彼はグラスを手に取り、顔を上げて中の酒を一気に飲み干した。一杯を、一息で。グラスを置くと、今度は目の前に立つ女性に向かって、
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