All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 761 - Chapter 770

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第761話

「今は咲夜のせいで、千暁兄ちゃんは何をやってもうまくいかない。仕事を探してもどこにも雇ってもらえなくて、今じゃ、たかがワインのテイスティングの仕事でさえ……」その先は、瞳にはどうしても言えなかった。必死にこらえていなければ、口を開いた途端、声が詰まっていただろう。千暁の妹である以上、兄がこんな境遇に追い込まれているのを見て、瞳がつらくないはずがなかった。だが、どれほど胸を痛めても、これはすべて千暁自身が選んだ道だ。瞳だって止めなかったわけではない。それでも千暁は忠告を聞かなかったのだから、その結果は彼自身で背負うしかない。咲夜は中の様子を食い入るように見つめていた。頭の中では瞳の言葉が何度も繰り返し響き、やがて視界がぼんやりと霞んでいく。涙が目に溜まり、目の前の光景を滲ませた。「まさか、今あなたが見ているのがすべてだと思ってる?」咲夜の目元が濡れていることに、瞳も気づいた。その目には次第に憎しみの色が滲んでいく。「咲夜のせいで、千暁兄ちゃんがどんな目に遭っているのか、その目でしっかり見ればいい。千暁兄ちゃんがこんな目に遭っているのは、全部あなたのせいよ。それでも良心が痛まないのか、自分の胸に聞いてみれば?」瞳の言葉の意味を、咲夜はすぐには理解できなかった。ただ、胸の奥には漠然とした不安が湧き上がっていた。嫌な予感を覚え、咲夜の眉がぴくりと動いた。そのとき、一団の男たちが千暁のほうへ歩いていった。咲夜が見つめる中、そのうちの一人がテーブルの上にあったワイングラスを手に取り、千暁の頭上へ高々と掲げた。次の瞬間、グラスいっぱいの赤ワインが千暁の頭上から浴びせられた。赤い液体が髪を伝って頬へと流れ落ち、酒が目に染みる。それでも千暁は、まばたき一つしなかった。鮮やかな赤い液体が、千暁の白いシャツを濡らしていく。だが、それだけでは終わらなかった。一杯分を浴びせ終えた男は、また別のグラスを手に取ると、今度は正面から千暁に浴びせかけた。大勢の人が見ている前で、千暁は見る見るうちにずぶ濡れになり、ひどく惨めな姿になっていく。それからも男は手を止めず、残っていた酒を次から次へと千暁に浴びせた。仕切りに隔てられているせいで、咲夜は千暁が辱められている光景を、ただ目の前で見ていることしかできなかった。そ
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第762話

その一つ一つが咲夜の目に焼きつき、胸を強く締めつけた。今すぐ中へ飛び込み、千暁の手を引いてここから連れ出したかった。もともと彼は、何不自由なく育った名家の御曹司だ。どうしてこんな場所で、これほど惨めな思いをしながら生きていかなければならないのか。千暁が、こんな目に遭う必要などない。目の前で繰り広げられる光景を見つめるうちに、咲夜の目には激しい憎しみが浮かんだ。隣に立っていた瞳も、当然その変化に気づいていた。何か言おうとしたそのとき、携帯電話の着信音が鳴った。画面に表示された番号を確認すると、瞳は少し離れたところへ行って電話に出た。ほどなくして、彼女は咲夜のもとへ戻ってきた。咲夜の怒りは、まだ少しも収まっていない。瞳はそんな彼女に告げた。「咲夜、父があなたに会いたいって」電話の相手は天志だった。実のところ、瞳が咲夜をここへ連れてきた時点で、天志にはすでにそのことが伝わっていた。今になって電話をかけてきたのも、すべてタイミングを見計らってのことだ。天志はわざと咲夜に、落ちぶれ果てた千暁の姿を見せたのだ。もっとも、天志が会いたいと言ったところで、咲夜が応じるかどうかは別の話だった。今の咲夜が天志をどれほど憎んでいるかを考えれば、断る可能性も十分にある。瞳の言葉を聞いた咲夜は振り向き、皮肉げに彼女を見た。「私に会いたい?」どうせろくな用件ではないだろう。自分と千暁が落ちぶれ、必死に生きている姿でも見て楽しみたいのかもしれない。瞳は鼻を鳴らした。「何の用かまでは聞いてない。私は伝えただけ。会うかどうかはあなたが決めればいい」本音を言えば、瞳は咲夜と天志には会ってほしくなかった。なぜなら、天志は咲夜と会うたびに、その後数日間は決まって機嫌が悪くなるからだ。それだけならまだいい。天志はその苛立ちを瞳や遥斗にまでぶつけてくる。それが瞳には鬱陶しくて仕方なかった。瞳のどこか気乗りしない口ぶりに、咲夜は目を細めた。もともと応じるつもりなどなかった。だが、今は気が変わった。咲夜は不意に笑みを浮かべ、瞳を見た。「会うわ。どうして会わないの?」荻野家の人間を少しでも不愉快にさせられるのなら、咲夜にとっては願ってもないことだった。瞳は思わず目を見開いた。これは本当に、自分の知っている咲夜
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第763話

天志は当初、咲夜のことを世間知らずで頭の足りないお嬢様だと思っていた。だが、どうやら見くびっていたらしい。何度かやり合ううちに、天志にも分かってきた。咲夜は筋金入りの頑固者で、脅しても宥めても決して言うことを聞かない。それどころか、精神的な強さも、想像していた以上だった。「それはどうもありがとうございます」咲夜は満面の笑みを浮かべた。「そこまで私のことが嫌いなのに、いつまでも気にかけてくださるなんて。さぞかし気分が悪いでしょうね」言い終えると、咲夜は声を上げて笑った。その笑い声は、天志の耳にはひどく癇に障った。天志もこれ以上、咲夜と言い争うつもりはなかった。「もういい。本題に入るぞ」咲夜は唇を引き結び、黙って彼の次の言葉を待った。天志は咲夜を一瞥すると、口を開いた。「今日お前を呼んだのは、最後にもう一度、選ぶ機会を与えるためだ」結局のところ、また千暁のことなのだ。そう察した瞬間、咲夜は考えるまでもなく答えた。「いりません」どうせ天志が差し出す選択肢など、どれを選んでも咲夜が最も望まない結末に行き着くに決まっている。この男が善意で何かを持ちかけてくるはずがない。天志はそんな彼女を見ながら、さらに続けた。「千暁があんな扱いを受けているのを見て、さぞつらかっただろう」わざわざ聞くまでもないことだった。咲夜も答えるつもりはなかった。だが、彼女が黙っていても、天志は気にする様子すらない。「花江家はもう潰れた。お前がどれだけ労力を費やして一からやり直そうとしても、景浦市にいる限り、再起できる日は永遠に来ない」天志はもはや隠そうともせず、はっきりと言い切った。つまり、自分が咲夜を狙い撃ちにし、徹底的に潰しているのだと宣言しているようなものだ。その理由も単純だった。千暁だ。実際、咲夜が新たに立ち上げるために申請や登記を進めていたスタジオや、いくつものプロジェクトが、天志の妨害によって頓挫していた。それでも、咲夜は天志の前で負けを認めるつもりなどなかった。彼の嘲るような口ぶりを聞きながら、咲夜は両手を強く握り締め、込み上げる感情を必死に押し殺した。天志は鼻で笑った。「千暁がお前を選んだ以上、自分の選択の代償は自分で払うべきだ。お前が自分の稼ぎで千暁を養って、あいつにヒモ同然の生活をさせ
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第764話

咲夜の意思は、すでにはっきりと伝わっていた。天志も当然、その意味を理解していた。彼は険しい顔で咲夜を見つめ、その目には再び殺意が浮かんだ。何度も自分に楯突いてくる咲夜の態度に、天志は自分の権威を傷つけられたような苛立ちを覚えていた。彼は大きく息を吸い込み、ゆっくりと感情を鎮めていった。やがて冷静さを取り戻すと、咲夜を見据えて口を開いた。「選択肢は二つだ。千暁のもとを離れるか、それとも……」そこでわずかに言葉を切り、その目に陰険な光を宿した。「あいつを連れて景浦市から出ていけ。二度と俺の前に姿を現すな。咲夜、考える時間は一日だけだ。明日の今頃には、お前が景浦市から完全に消えていることを期待している」天志がまず求めているのは、咲夜一人が消えることだった。つまり、息子である千暁には、まだわずかな期待を残しているということだ。もし千暁が景浦市に残ることを選ぶのなら、天志はもう一度だけ機会を与えるつもりなのかもしれない。だが、天志が「千暁を惑わせ、誤った選択へ導いた」と考えている咲夜だけは、必ず排除しなければならなかった。そして天志には、すでに別の計画があった。咲夜が思惑どおり千暁のもとを離れ、景浦市から出ていけば、その時点で手下に命じ、咲夜もその家族もまとめて始末するつもりだった。もともと天志は咲夜に殺意を抱いていた。人目につかない場所にさえ連れ込めれば、今すぐにでもこの女を消してしまいたいほどだった。では、千暁はどうするのか。天志は冷たい表情のまま目を細めた。あの息子を再び自分に屈服させる方法なら、いくらでもある。一方、咲夜はそんな彼の言葉を聞いて、ただ呆れて笑うしかなかった。そう思うと、咲夜は天志の目の前で声を上げて笑った。「私の家は景浦市にあります。私はどこにも行きません。あきだって同じです。私たちはどこにも行きませんから、いい加減諦めてください」千暁のもとを離れろ、景浦市から出ていけ――そんな天志の要求を、咲夜は理不尽としか思わなかった。今日こうして話し合うこと自体、最初から何の意味もなかったのだ。天志が何を要求しようと、咲夜が受け入れることなどあり得ない。結局、待っているのは、咲夜に拒絶されて腹を立てるという結末くらいだった。咲夜は天志をちらりと見やった。明
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第765話

正直なところ、咲夜も天志に恐怖を感じていた。目的のためなら手段を選ばない天志に、少なからず怯えていたのだ。そう考えた途端、咲夜はすぐに警戒を強めた。今はただ、天志という危険な男から少しでも遠ざかりたかった。次の瞬間、また何をしでかすか分かったものではない。咲夜はすでに、偽善の仮面の下に隠された天志の本性を見抜いていた。席を立とうとする彼女を、天志は止めなかった。ただ扉のほうへ視線を向け、帰りたいのならいつでも勝手に帰れとでもいうような態度を見せた。そして今回は、本当に何の邪魔もしなかった。天志は立ち去っていく咲夜の背中を見つめ、鼻で笑った。個室の扉を開けると、廊下の壁にもたれ、無表情で立っている瞳が目に入った。咲夜が中へ入ってからずっと、瞳はこうして壁にもたれていたらしい。その手には、火のついた煙草が挟まれていた。瞳は煙草を深く吸い込み、吐き出した煙越しに近づいてくる咲夜を見た。「話は終わった?」その言葉を口にしながら、また深く煙を吸い込んだ。次の瞬間、指に挟んでいた煙草を咲夜にさっと奪い取られ、そのまま床へ投げ捨てられた。咲夜は靴底で煙草を踏みつけ、火を完全に消した。そして、不機嫌そうな瞳に告げる。「家まで送って」そもそも自分を呼び出したのは瞳なのだ。ならば、帰りも送ってもらうくらい、別に無茶な要求ではないだろう。瞳は、そんな咲夜の当然と言わんばかりの口調が気に入らなかった。不愉快そうな顔で言い返そうとしたときには、咲夜はすでに視線を逸らしていた。もはや瞳の顔を見る気すらないらしい。背を向けた咲夜を見ながら、瞳は冷たく鼻を鳴らした。「千暁兄ちゃんが終わるまで待って、一緒に帰らなくていいの?」その口調には明らかな皮肉が込められていた。千暁の惨めな現状を、わざともう一度咲夜に突きつけたのだ。それを聞いた咲夜は、呆れのあまり笑ってしまった。本当に――似た者同士とはよく言ったものだ。以前はどうして、瞳の物言いがここまで人を苛立たせ、ひっぱたきたくなるほど鬱陶しいものだと気づかなかったのだろう。それでも咲夜は冷ややかな表情を崩さず、瞳の言葉に感情を露わにすることもなかった。瞳自身も分かっていた。今の咲夜にどれだけ嫌味を言ったところで、相手にしてもらえない。結局、苛
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第766話

咲夜は千暁を見つめながら言った。「キッチンに酔い覚ましのスープがあるよ」彼の体から漂う酒の匂いは、本当にきつかった。千暁もそれに気づいたのか、立ち上がって咲夜から少し離れようとした。その動きを見た咲夜は、すぐに立ち上がった。「私が持ってくる」「いいよ」千暁は咲夜の手を掴んで引き止めた。彼女の足はまだ治りきっていない。千暁は咲夜をもう一度ソファに座らせると、ふらつく足取りでキッチンへ向かった。酔い覚ましのスープを飲み干し、ついでにお椀まできれいに洗った。千暁が戻ってきても、咲夜はまだ同じ場所に座っていた。どこか浮かない顔をしていた。千暁は、自分が毎日のように酒臭いまま帰ってくるせいだろうかと思った。それなら今は、あまり咲夜のそばをうろつかないほうがいいかもしれない。これ以上、彼女を不機嫌にさせたくなかった。だが、咲夜は千暁の姿に気づくと、声をかけた。「こっちに来て」そう言われ、千暁は反射的に彼女のもとへ歩いていった。目の前まで来た途端、咲夜に手を引かれ、そのまま再び隣へ座らされる。咲夜は腕を伸ばし、隣に座った千暁をぎゅっと抱きしめた。顔を彼の肩に埋め、柔らかな声で尋ねる。「疲れた?」千暁は驚いた。どうして突然、そんなことを聞くのだろう。もしかして、何か知ったのか?自分ではうまく隠しているつもりだった。――いや、そう思っていたのは自分だけなのかもしれない。咲夜は聡い。仕事を見つけた途端、毎日のように強い酒の匂いをまとって帰ってくるようになれば、怪しまないほうがおかしい。実のところ、千暁も心のどこかでは、いつか咲夜に知られるだろうと覚悟していた。「いや、疲れてないよ」と、千暁は低い声で答えた。それは強がりではなく、本心だった。何をしてもうまくいかず、今の仕事も決して楽ではない。それでも千暁は、別に苦だとは思っていなかった。金を稼いで家族を養えるのなら、それでいい。自分の中の譲れない一線さえ越えずに済むのなら、働けるだけで十分だった。その答えを聞いた咲夜は顔を上げ、目の前の男をじっと見つめた。「嘘つき」全身から酒の匂いを漂わせ、顔は赤く火照り、目には隠しきれない疲労が滲んでいる。これで疲れていないはずがない。千暁は、本当に疲れていないのだと
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第767話

驚いた咲夜は、千暁の首に回していた腕に思わず力を込めた。「ちょっと、ゆっくりね。やっぱり……降りて自分で歩こうか?」千暁の足元が少しふらついているのが、背中越しにも分かった。咲夜は反射的に彼にしがみつき、泣きたいような気分になった。今から「やっぱりおんぶはやめて」と言っても、まだ間に合うだろうか。間に合うよね……?だが、どうやらもう遅かった。咲夜が小さく悲鳴を上げるのと同時に、千暁は彼女を背負ったまま歩き出した。最初こそ緊張していた咲夜だったが、しばらくすると次第に力が抜けていった。千暁は咲夜をしっかりと背負って部屋まで戻ると、細心の注意を払いながらベッドに下ろした。「シャワー浴びてきて。戻ってくるまで待ってるから」咲夜は彼の背中を軽く叩いた。千暁は昔から、咲夜に言われたことには素直に従っていた。着替えを手に取り、そのままバスルームへ向かった。一方、咲夜にはまったく眠気がなかった。ベッドに横になったまま目を開け、天井を見つめながら何かを考えていた。シャワーを終えた千暁が戻ってくると、目に入ったのはぼんやりと物思いに耽る咲夜の姿だった。千暁は布団をめくり、ベッドに横になった。ほとんど同時に、咲夜が彼の胸元へ身を寄せてきた。両腕で千暁の腰をぎゅっと抱きしめ、頬をすり寄せるようにして、その胸に顔を埋めた。そんな咲夜を見て、千暁はただ微笑みながら、彼女が自分の腕の中で一番落ち着ける場所を探すのに任せていた。やがてちょうどいい姿勢が見つかったのか、咲夜はぴたりと動かなくなった。「疲れたんじゃなかった?」と、千暁は咲夜を抱き寄せ、その額にそっと口づけた。声には優しさが滲んでいた。咲夜は彼の胸に顔を埋めたまま頷き、くぐもった声で答えた。「うん」そして千暁の腰をぎゅっと抱いたまま、じっと動かなくなった。ほどなくして、咲夜はその腕の中で眠りについた。千暁は何も言わず、ただ静かに彼女を抱いていた。そのとき、ベッドサイドに置かれていた千暁のスマートフォンの画面が明るくなった。真澄からのメッセージだった。【奥様は今日、瞳さんと会われました。瞳さんが奥様を職場へ連れていったので、奥様はおそらく、社長が今どんな仕事をしているのか、もうご存じだと思います】この件については、最初
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第768話

千暁が咲夜を背負った、まさにそのときだった。聞き覚えのある声が、電話越しに鋭く響いた。「千暁兄ちゃん、本当にプライドまで全部捨てたの?」瞳の声だった。咲夜は反射的に千暁を見た。すると彼は、大丈夫だとでも言うように安心させる眼差しを向けた。咲夜を背負ったまま、電話の向こうの瞳に冷たい声で告げた。「会社が今どうなっていようと、もう俺には何の関係もない。わざわざ報告してくる必要もない。俺はとっくに追い出された人間なんだから」瞳が千暁に電話をかけてきた理由は単純だった。千暁を追い出したあと、天志は今日から彼が担っていた職務を自ら引き継ぐことになったのだ。誰もが、天志は遥斗を千暁の後任に据えるものだと思っていた。ところが実際にその座に就いたのは、意外にも、天志本人だった。遥斗は荻野家の当主にはなれなかったものの、グループ内では決して低くない地位を与えられ、一気に荻野グループの副社長へと昇格した。そして瞳も荻野グループの法務部に入った。法務部なら、瞳の専門分野とも合っていた。しかも今では、法務部の中核を担う立場にあった。瞳が思い描いていた経営中枢に近いポジションとは多少のずれがあったものの、それでも会社の重要な情報にまったく触れられないわけではない。それでも、瞳は納得できなかった。天志にあれほど多くの情報や意見を提供したのは自分だ。天志は確かに勝った。だが、その一方で瞳自身は、結局ほとんど何も手に入れられなかった。これで腹を立てるなというほうが無理だった。怒りは募るばかりなのに、自分の気持ちを分かってくれる相手も、愚痴を聞いてくれる相手もいない。ようやく千暁を思い出し、少しくらい話を聞いてもらおうと電話したというのに、今度は電話越しに咲夜との仲睦まじいやり取りまで聞かされる始末だった。そのうえ、千暁からあんなふうに突き放され、瞳は怒りに任せて電話を切った。咲夜は千暁の言葉を聞きながら、しばらく考え込んだ。「じゃあ……天志さんはこれから取締役たちへの対応で忙しくなるだろうし、しばらく私たちに構っている暇はなくなるのかな」自分の考えが正しいのか、咲夜にも確信はなかった。ただ一つ確かなのは、天志が千暁の後釜に収まるのも、そう簡単にはいかないということだ。会社の業務だけを考えても、千
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第769話

この家には、咲夜の数えきれないほどの思い出が詰まっていた。いざここを離れるとなると、どうしても名残惜しさが込み上げてくる。千暁は咲夜の頬を両手で包み、その目をまっすぐに見つめた。「いつか……いつかその機会が来たら、必ずこの家を買い戻す」その声には揺るぎない決意が込められていた。咲夜は力強く頷いた。「うん。待ってる」そう言って、千暁に笑いかけた。「もうすぐ引っ越し業者も来るよね」雅紀と真奈美は朝早くから新居へ向かい、荷物の整理をしていた。そのため、こちらに残った荷物の搬出は咲夜と千暁が担当することになった。二人が手配した引っ越し業者が到着すると、わずか二往復ですべての荷物が運び出された。千暁は仕事に行かなければならなかったため、午後になると咲夜は一人でこの家へ戻ってきた。まだ一通、署名しなければならない書類が残っていたからだ。これまで買主はずっと仲介業者を通して雅紀たちとやり取りをしていた。ところが、その買主が目の前に現れた瞬間、咲夜は一気に気が重くなった。遥斗が礼儀正しく微笑みかけた。「お……義姉さん、契約書にサインしに来ました」咲夜と千暁はすでに結婚しているのだから、咲夜を義姉と呼んでも別におかしくはない。だが、その呼び方を耳にした途端、咲夜の表情がわずかに変わった。「やめて。お願いだから、絶対にそう呼ばないで。私には恐れ多いから」もし天志の耳にでも入れば、また機嫌を損ねて、誰彼構わず噛みつきかねない。あの男がどれほど常軌を逸しているかは、咲夜自身が嫌というほど思い知らされていた。自分が立ち上げたスタジオや小さな会社、さらには投資したプロジェクトまで、今も天志に徹底的に押さえつけられ、身動きが取れないままなのだ。遥斗は何か言おうとしたが、咲夜が先に遮った。「契約書にサインするんでしょ?だったら早くして。終わったら帰るから」この件で遥斗と余計な関わりを持つつもりはなかった。家など、誰に売ろうが同じことだ。買主が荻野家の人間だったと知り、さすがに多少は複雑な気分になった。だが、向こうはきちんと金を払って買うのだ。もらえる金をわざわざ断る理由などない。今の咲夜にとって、買主が誰なのかなど大した問題ではなかった。とにかく早く契約を済ませ、さっさと帰りたい。これまで散
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第770話

売却した家を出てからも、咲夜の胸にはずっと苛立ちが燻っていた。郊外の家へ戻ると、そこに千暁がいることに気づき、思わず驚いた。「仕事に行ったんじゃなかったの?」まだ帰ってくるような時間ではない。千暁は隠すことなく答えた。「クビになった」考えるまでもなく、天志の指示だろう。千暁が何も言わなくても、咲夜には分かっていた。彼女は慰めるように言った。「そんなろくでもない仕事、クビになってむしろ正解よ」あの日、自分が目にした光景を思い出しただけで、今でも胸が締めつけられる。だが、そのことを千暁本人の前で口にするわけにはいかなかった。千暁は咲夜の言葉に滲む憤りを感じ取り、思わず何度か彼女の顔を見た。どうも咲夜は、自分がしていた仕事そのものをひどく嫌っているようだった。気のせいだろうか。彼女があの仕事の実情を知っているはずがない。一方、咲夜も自分が少し感情的になりすぎたことに気づき、すぐに気持ちを切り替えた。「じゃあ、ちょうどいいじゃない。この機会にお父さんとお母さんにも相談して、近場にでも出かけない?」「いいよ」千暁にも異論はなかった。どうせ当分の間、まともな仕事を見つけるのは難しい。天志も引き続き邪魔をしてくるだろう。それならいっそ、今は無理に仕事を探さず、天志の思惑どおりに動かないほうがいい。その日の夜、咲夜はさっそく雅紀と真奈美に近場への旅行の話を持ちかけた。だが二人は笑いながら、少し前まで長い旅行に出ていたから、しばらくはもう旅行に出る気になれないと言った。雅紀は、夫婦二人でゆっくり出かけて気分転換してくればいいと勧めた。おそらく、天志が千暁の仕事をことごとく妨害していることも知っているのだろう。両親がどうしても一緒に行こうとしないのを見て、咲夜は千暁に目配せされ、ようやく説得を諦めた。部屋へ戻ると、咲夜は以前住んでいたどの部屋よりもずっと狭い室内を見回し、わずかに眉を寄せた。この家は、そもそもそれほど広くない。寝室もバスルームも、以前に比べればかなり狭かった。別に咲夜自身がここで暮らせないと思っているわけではない。ただ――「あき……」隣にいる千暁を見つめた。むしろ千暁のほうが、この暮らしに慣れないのではないか。それが心配だった。どう切り出そうか考え
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