All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話

瞳は、兄がわざとやっているのではないかと疑わずにはいられなかった。千暁は妹を見つめたまま、さらに言葉を重ねる。「ダメなものはダメだ」ついに瞳は爆発した。「まだ何をお願いするか言ってないじゃない!お兄ちゃんって、冷たすぎるわよ。私、泣いちゃうよ!」本当に――今にも暴れ出しそうな勢いだった。「ああ、好きにしろ」千暁は眉を上げ、悠然と彼女を見返す。まるで、泣き出すのを特等席で眺めてやろうと言わんばかりの態度だ。瞳は思わず言葉を失った。――これ、本当にいつも私を甘やかしてくれてるお兄ちゃんなの!?ここは耐えるしかない……瞳はひとつ深呼吸をすると、引きつった笑みを浮かべて口を開いた。「……大したことないけど、明日の夜、咲夜がクズ男を振って独り身に戻ったお祝いに、『Fittro』へ連れて行くの。お兄ちゃんが手配しなさい。全額、お兄ちゃんのおごりよ」千暁が面白がって自分をからかっているのだと察し、瞳はあえて単刀直入に要求を突きつけた。どうせ同意しようがしまいが、無理やり首を縦に振らせるつもりだったのだ。その言葉を聞くと、千暁は興味深げに咲夜へ視線を移し、低く重みのある声で呟いた。「……独り身、か」先ほどまで隣で忍び笑いを漏らしていた咲夜は、笑みを引っ込める暇もなく矛先を向けられた。慌てて表情を引き締め、ポーカーフェイスを装う。探るような視線を受け流しながら、咲夜は動揺を押し隠すように咳払いをした。「……た、確かに独り身だわ。瞳は何も間違ったことは言ってないじゃない」しどろもどろになりながらも、自分を正当化する。実際のところ、彼と籍を入れる約束の日まではまだ一日以上ある。今の自分が「シングル」であるという前提に、誤りはないはずだった。千暁の審判めいた眼差しに気圧され、最初は後ろめたさを覚えていた咲夜だったが、すぐに開き直る。――情けないわね、私。何を後ろめたく思う必要があるのよ。こうして見つめられると、まるで自分が浮気でもして、彼の目の届かないところで男遊びをしているかのような錯覚に陥る。そんなつもりは毛頭ないというのに。すべては、この男の視線に人を震え上がらせるほどの迫力と威圧感があるせいだ。千暁はわずかに口角を上げて微笑んだが、咲夜を見つめる瞳の奥は、むしろいっそう深
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第72話

咲夜は病院で一夜を過ごした。その間、瞳はずっと付き添ってくれていた。彼女は遠慮など一切見せず、千暁をさっさと追い返してしまったのだ。男の自分が咲夜の世話をするのも確かに不便だろう――そう判断し、千暁は結局、瞳を残して引き下がることにした。翌朝、咲夜の強い要望により、瞳は彼女の退院手続きを済ませた。帰りの車中、瞳はふと何かに気づいたように目を見開き、咲夜に身を乗り出した。「ねえ、ちょっと待って。なんでうちのお兄ちゃんが、入院中のあなたにあんなに甲斐甲斐しく世話を焼いてたわけ?あなたたち、水と油っていうか、会えば火花が散るような仲じゃなかった?」昨夜からずっと、胸の奥に引っかかる違和感があった。一晩考えても答えが出なかったその疑問が、ようやく輪郭を持ったのだ。瞳は目を細め、咲夜をじっと見つめる。「正直に言いなさい。あなたとお兄ちゃん、いつの間に『デキてた』のよ」唐突すぎるその言い回しに、咲夜は思わず自分の唾でむせ返りそうになった。顔を真っ赤にして、驚きに目を見開く。「……何て言い方するのよ。千暁に聞かれたら、叩き出されるわよ」瞳は「てへっ」と舌を出した。「話をそらさないで。あの超巨大氷山みたいなお兄ちゃんと、どうやって親しくなったのよ?私の記憶じゃ、お互い毛嫌いし合ってるところで止まってるんだけど」――それとも、私の記憶違いかしら……?瞳は本気で自分の記憶を疑い始めていた。咲夜は軽く咳払いをし、視線を泳がせながら答える。「それが、偶然が重なったのよ。洸が選んだレストランが、たまたまあなたの家のお店で。私がショック症状を起こしたときに、ちょうど千暁が居合わせて……それで、運よく病院まで運んでくれたの。千暁は『一度助けたからには最後まで』って考えだったみたいで、そのままずっと付き添ってくれたのよ。そう考えると、広い心で私の命を救ってくれた彼には、感謝しないといけないわね」その説明を聞き、瞳はようやく腑に落ちた様子で頷いた。そして、咲夜に向かって言う。「実はね、お兄ちゃんって世間で言われてるほど冷酷じゃないのよ。ただ、子供の頃から無愛想なだけで。ビジネスの世界で手段を選ばず強引に立ち回らなきゃ、生き残れないのは当然でしょ?」千暁のあの氷のような気質と、容赦のない手腕のせいで、商業界
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第73話

咲夜は瞳の横顔をじっと見つめていた。喉元まで込み上げた言葉は、どうしても口にすることができない。やっぱり、今はやめておこう。籍を入れた後、改めて時間を取り、きちんと話そう。そう心に決めた。瞳はそんな葛藤など露ほども知らず、穏やかな声で尋ねる。「これからどうするの?実家に戻る?それとも……」咲夜が例のマンションをすでに売却したことは知っている。だが、花江の家となると――瞳は、真奈美が自分に向けるあの不機嫌な眼差しを思い出し、どうしても気が重くなった。かつて花江グループに異変が起きた際、真奈美たちは萩野家にも助けを求めたが、瞳の両親はそれを断り、さらにいささか辛辣な言葉まで投げかけたという。それ以来、真奈美は萩野家に対して根深い恨みを抱いていた。咲夜に対しても、瞳との付き合いを断つよう何度も厳命していたほどだ。瞳にしてみれば、わざわざ真奈美の逆鱗に触れにいくような真似はしたくなかった。そんな彼女の露骨な困り顔を見て、咲夜は思わず吹き出した。「戻らないわよ。『月見台』まで送ってくれる?」そこには彼女名義の不動産があり、出入りも比較的自由だった。瞳は驚きに目を見開く。「あら、奇遇ね!実はお兄ちゃんも最近その辺りに住んでるのよ。隣の棟に私の部屋も用意してくれたの。へへっ」『月見台』は閑静な別荘地だ。咲夜がかつてその静けさを気に入り、十八歳の時、父が成人祝いとして買い与えてくれた家でもある。今日の瞳の話を聞かなければ、千暁までもがこの地に住んでいるとは思いもしなかった。瞳が所有している一棟は、司法修習を終えて正式に採用された際、千暁に泣き落としと駄々をこねて、半ば強引に買わせたものだ。ただし、それを手に入れたのは比較的最近で、その別荘は千暁の住居からはかなり離れていた。また、千暁自身も購入当時、自分の住区について詳しく語らなかったため、瞳は兄がどのエリアに住んでいるのか、正確には把握していなかったのだ。「どのエリアなの?」と瞳が尋ねる。「楓が丘よ」咲夜が答えると、瞳は「オーケー」と親指を立ててみせた。そして、何気なく愚痴をこぼす。「私は梅ヶ丘だわ。楓が丘からだとけっこう距離があって、歩きじゃちょっと遠いのよ。近ければ、散歩ついでに遊びに行けると思ってたのに」どうやら、
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第74話

咲夜は、「ミドリちゃん」が最初からこの別荘のガレージに置きっぱなしだったことを思い出した。「月見台」は病院からそれなりに距離がある。昨夜、病院でほとんど眠れなかった咲夜は、車が走り出すと窓枠にもたれ、薄く目を開けたまま、いつの間にか眠りに落ちていた。その様子をちらりと見た瞳は、運転手に小声でスピードを落とすよう指示を出す。同時に、手元のスマートフォンで千暁とメッセージをやり取りしていた。【鈴村さんとの待ち合わせ場所、送ったわよ。お兄ちゃん、なんか最近咲夜のこと、やけに気にかけてない?】気のせいかもしれない。それでも、瞳にはどうしてもそう思えてならなかった。以前、咲夜が晴南と付き合っていた頃、瞳が千暁の前で二人の話題を出しても、彼はいつも興味なさげで、まともに相槌を打つことさえなかった。瞳が晴南を激しく罵ったときだけ、千暁が冷ややかに、淡々と応じる程度だったのだ。咲夜の不甲斐なさを嘆く瞳に対しても、彼は何も言わなかった。ただ、その瞳の奥には、溢れんばかりの嘲弄が浮かんでいた。なぜ実の兄が、ここまで咲夜に対して否定的なのか。瞳にはずっと理解できなかった。事情を知らない者が見れば、まるで咲夜が千暁を弄んで捨てたかのように思えるほどの態度だったのだ。もちろん、そんなことは口が裂けても言えない。言えば千暁に叱られるのが目に見えている。やがて、千暁から返信が届いた。【余計なことに首を突っ込むな】その一文を目にした瞬間、瞳のこめかみがぴくりと跳ねた。何よ、この態度。人に頼み事をしておきながら、ずいぶん偉そうじゃない。瞳は怒りに任せて画面を叩き、罵詈雑言を打ち込んでいく。ピン、と通知音が鳴った。トーク画面に表示されたのは、送金通知。きっかり五十万円。その金額を目にした途端、瞳の怒りは霧のように消え去り、手のひらを返したように笑顔になる。彼女は素早く受け取りボタンを押すと、満面の笑みでボイスメッセージを送りつけた。「お兄ちゃんありがとー!さすが太っ腹!世界で一番、だーい好き!」【消えろ】返ってきたのは、たった三文字。それを見た瞳は、勝ち誇ったように笑いながら打ち返す。【御意。これにてお暇いたします!】やり取りを終え、隣を見ると、咲夜はまだ目を閉じたまま眠っていた。
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第75話

車が「月見台」へと滑り込んだのは、それから一時間後のことだった。道中、瞳は手にした書類――咲夜が持ち込んだ、森崎グループとの絶縁計画書にじっくりと目を通していた。画面をスワイプして読み進めるごとに、彼女の眉間には深い皺が刻まれていく。目的地に到着しても、瞳には咲夜の邸宅の間取りを眺めるような心の余裕などなかった。彼女は車を降りるなり、咲夜の腕を引いてリビングのソファへと促した。「……ここにプリンターはあるかしら?」「ええ、書斎にあるわ」咲夜は瞳を伴い、一階の書斎へと足早に向かった。書斎のバルコニーからは手入れの行き届いた裏庭が見渡せ、そこには咲夜が丹精込めて育てた色とりどりの花々が、午後の光を浴びて咲き誇っていた。瞳は淀みのない手つきで、必要な書類を次々とプリントアウトしていった。吐き出された紙束の数箇所に素早く赤丸をつけると、彼女は鋭い視線を向けて問いかけた。「森崎家が資金援助をした際の、明確な契約書は残っている?それは単なる融資ではなく、『株式の取得』を条件としたものだったの?」咲夜の目にも、書類上の「花江グループの株式一パーセントを保有する」という一文が飛び込んできた。当時は実務のすべてを母・真奈美が取り仕切っていたため、咲夜はその詳細まで把握していなかったのだ。「母に確認してみるわ」咲夜は即座に真奈美へ電話を入れた。受話器から返ってきた答えを聞くうちに、彼女の表情はみるみる険しさを増していく。通話を終え、咲夜は重い口を開いた。「……母が契約を交わしていたわ。森崎家から融資を受け、花江側がそれを完済したあとも、彼らは自動的にグループの一パーセントの株式を保有し続ける……そういう内容よ」あまりの理不尽さに、瞳は乾いた笑い声を上げた。「森崎家も、相当いい度胸をしているわね。窮地を救う善意のふりをして、その実、ちゃっかり株まで毟り取っていたなんて。お零れどころかメインディッシュまで、一粒残さず平らげるつもりだったというわけね」かつて花江グループの窮地を救うために投じられたのは、莫大な資金だった。花江側は市場金利に基づいた利息を乗せて返済しなければならない上に、最後には株まで差し出すことになる。強欲、と言い換えてもいい。瞳ですら目を背けたくなるほどの、醜悪な搾取だった。咲夜は沈痛な
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第76話

瞳は咲夜の表情を盗み見て、彼女がこの事実を露ほども知らなかったのだと直感した。咲夜の性格を考えれば、会社がこれほど無惨な状態に置かれているのを看過するはずがないからだ。瞳は声音を落とし、真剣な眼差しで告げた。「これらを完全に清算し、しがらみを断ち切るとなると、相当な額を積むことになるわ。相応の覚悟はしておいたほうがいい」瞳は脳内でざっと帳尻を合わせた。弾き出された数字は、今の花江グループにとってはあまりに重すぎる、巨額の負債に近いものだった。咲夜がどこまで非情に割り切れるか。すべてはそこにかかっている。「……いくら必要なの?」「四十億、といったところね」瞳は飾らずに事実を突きつけた。現在進行中のプロジェクトが複数あり、それらを強引に切り離せば、違約金だけでも天文学的な数字にのぼるからだ。咲夜の瞳に、凍てつくような冷ややかな決意が宿った。「プロジェクトはいいわ。もし、その一パーセントの株式だけを買い戻すとしたら?」全盛期の勢いはないとはいえ、森崎家の卑劣な算段を知った以上、これ以上相手と泥沼の関係を続けるわけにはいかない。今彼女に求められているのは、迅速かつ果敢な決断だった。たとえ身を削る痛みを伴おうとも、森崎家とは決別しなければならない。不誠実な相手に、情けをかける余地など微塵もなかった。咲夜の胸中を占めていたのは、底知れない虚しさだった。ここ数年、晴南と衝突するたびに、母・真奈美は決まってこう言い聞かせてきた。「森崎家の支援があるからこそ、今の私たちがあるのだ」と。だから下手に出て、機嫌を取るようにと。母に追い詰められ、退路を断たれた彼女は、何度も不本意な妥協を繰り返してきた。それなのに、実態は森崎家が甘い汁を吸い尽くしていただけだったのだ。これまでの忍耐は一体何のためだったのか。あまりの滑稽さに、自嘲の念がこみ上げる。瞳は電光石火の速さで再計算し、口を開いた。「腐っても鯛、といったところかしらね。今の花江グループが危機に瀕しているとはいえ、ブランドとしての影響力はまだ死んでいないわ。安く見積もっても二億は下らないでしょう」しかもこれは、森崎家が足元を見てふっかけてこないという、楽観的な前提に基づいた数字だ。彼らの姑息なやり口を考えれば、素直に首を縦に振るとは思えない。必ず
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第77話

咲夜が部屋から姿を現したその瞬間、瞳の構えるカメラがしなやかに彼女を捉えた。瞳はレンズ越しに手を振ってみせる。「咲夜、ほら、こっち向いて挨拶して!」咲夜はカメラに向かって控えめな微笑を浮かべると、手にしたコーヒーカップを軽く持ち上げ、早く冷めないうちに飲みに来るよう瞳に合図を送った。それを見届けた瞳は手際よく撮影を終了し、弾むような足取りで咲夜の元へと駆け寄った。咲夜は彼女が隣に腰を下ろすのを待って、静かに尋ねた。「何を撮っていたの?」「この家のインテリアよ。もう、私の好みにドンピシャなんだもの。決めたわ、あっちの私の家もリフォームする。あなたの部屋を参考にさせてもらうわね」瞳は包み隠さず、屈託のない笑顔で答えた。彼女が本心から内装をやり直したいと考えていたのは事実だ。だが、その裏で咲夜には内緒の「工作」も着々と進めていた。瞳はたった今撮影した動画を兄の千暁に送りつけ、そこから援助を引き出そうと画策していたのだ。あわよくば、リフォーム代を全額肩代わりさせられれば最高だ。結局のところ、タダで手に入るものほど素晴らしいものはないのだから。その言葉を聞き、咲夜は少し考えを巡らせてから自分のスマートフォンを取り出し、画面を操作し始めた。「以前、デザイナーの方と連絡先を交換したはずよ。紹介するわね。彼女のスタイルなら、きっとあなたも気に入るはず。後でじっくり選んでみて」言い終える頃には目当ての連絡先を見つけ出し、瞳の端末へと転送した。瞳はすぐさまその相手に友達申請を送った。相手も即座に承認し、いくつかのデザイン案を提案してくると、瞳は瞬く間にその内容に釘付けになった。兄をどうやって罠にはめるかという計画もそっちのけで、彼女は一心不乱にプランを読み漁り始めた。一方、千暁が瞳からのメッセージを受け取ったのは、真澄による本日のスケジュール報告がちょうど終わったタイミングだった。千暁は動画を再生し、そのまま傍らに置いて流しっぱなしにしていた。だが、画面の中に咲夜の姿が映り込んだ瞬間、千暁の視線は磁石に引き寄せられるように釘付けになった。主人の異変に気づいた真澄が、そっと首を伸ばして画面を覗き込む。千暁の鋭い視線が自分に向けられたのを察し、真澄は苦笑いを浮かべて慌てて視線を外した。「……夜の予定はす
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第78話

茜色に染まる黄昏時、咲夜と瞳は約束通り、ラウンジ「シャンゼリゼ」へと足を踏み入れた。そこは、清治と待ち合わせをした場所だった。二人が到着した時、清治の姿はまだなかった。約束の時間まで、残り五分。瞳は不快感を隠そうともせず、苦虫を噛み潰したような顔で鼻を鳴らした。「……どうせ、時間ぴったりに現れて、こちらの出方を窺うつもりよ」清治のような放蕩息子を、瞳はどうしても受け入れることができなかった。彼が咲夜の保有する株式を高値で買い取ると申し出なければ、一生相まみえることすらなかっただろう。咲夜は静かに茶を啜り、「落ち着いて」と嗜めるような視線を瞳に送った。言うまでもなく、清治がわざと時間を弄んでいることは百も承知だ。かつて彼とは、拭いがたい不愉快な騒動を起こした仲である。ようやく手繰り寄せたこの機会に、清治が嫌がらせの一つも仕掛けてこないはずがなかった。案の定であった。瞳が予期した通り、清治が個室に姿を現したのは、約束の時間をわずかに過ぎた頃だった。指定の時間は五時三十分。清治がドアを開けたのは、五時三十一分のことだ。「悪いね、駐車場が混んでいて手間取ってしまったよ」清治は慇懃無礼に椅子を引き、二人の正面に腰を下ろした。彼は手元の時計をちらりと眺めると、軽薄に手を振ってみせた。「たったの一分だ。遅刻のうちには入らないだろう?」その態度は、見るからに人を食ったような傲慢さに満ちていた。瞳は思わず天を仰ぎ、心の中で激しい罵倒を浴びせた。しかし、咲夜は動じる様子もなく、淡々と、そして冷徹に言い返した。「構いませんわ。鈴村さんの時間観念が、昔からその程度のものであることは存じておりますから」彼の土俵に乗ってやるつもりは毛頭なかった。これから商談を始めようという時に、わざわざ優位に立とうと小細工を弄するなど、無意味極まりない。この取引は、咲夜にとって「成立してもしなくても構わない」ものだ。株を渇望しているのは清治の方でありながら、格好をつけて見せるその様は、滑稽ですらあった。清治の顔から余裕の笑みが消え、表情が険しく歪んだ。咲夜がこれほどまでに容赦なく自分の面子を叩き潰してくるとは、予想外だったのだ。社交辞令の一つでも返せば済む話に、わざわざ棘のある言葉を突き刺し
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第79話

清治は剥き出しの苛立ちをぶつけようとしたが、口を開いたのが瞳であることに気づくと、屈辱に塗れた言葉を強引に飲み込むしかなかった。咲夜は瞳の言葉を最後まで聞き届けてから、静かに眉を上げ、清治へと視線を移した。「鈴村さん。そろそろ本題に入らせていただいてもよろしいかしら」たおやかな響きの中に、微かな笑みが混じる。再度問いかけたのは、彼に再考の余地を与えるためだった。もし本気でないのなら、これ以上不毛な言葉を交わす必要はない。逆に、清治が心から取引を望むというのであれば、相応の誠意を見せてほしかった。出鼻をくじかれ、怒鳴ることさえ許されない清治は、まさに苦虫を噛み潰したような形相を浮かべていた。しかし、咲夜の静謐な眼差しに射すくめられると、彼は引き攣った笑みを無理やり顔に張りつかせた。「……ああ、もちろんだ。始めようじゃないか」「それで、花江さん。一体いくらで譲ってくれるつもりだい?」清治は、探るような真似はせず単刀直入に切り出した。「そちらこそ、いくらお出しいただけますの?」咲夜は自ら値を吊り上げる愚を犯さず、清治の底値を探るべく問いを投げ返した。清治は一瞬、呆気に取られた表情を見せた。ここへ向かう前、彼が耳にしていた咲夜の評判は「交渉事には疎い」というものだった。だが、どうやら世間の噂ほど当てにならないものはないらしい。最初から咲夜に主導権を握られ、何ひとつ得られないまま窮地に立たされた清治だったが、こうして問われた以上、腹を括るしかなかった。彼は咲夜の目前で、おもむろに指を二本立てた。「……これくらいかな」清治は事前にスタジオの調査を終えており、自身の提示した額が現在の市場価値を大きく下回っていることは百も承知だった。だが、商売は駆け引きだ。まずは自分が納得できる安値をぶつけ、出方を伺ったに過ぎない。瞳は、清治がまともに交渉の席に着いたのを見届けると、手元のスマートフォンを弄び始めた。これはあくまで咲夜自身の問題であり、自分が深入りしすぎるのは野暮だと考えたからだ。しかし、清治が提示した額を耳にした瞬間、彼女は鼻で笑わずにはいられなかった。――そんな端金で、誰を言いくるめるつもりよ?ここは八百屋の店先でも、値切りが美徳の市場でもないのだ。案の定、咲夜は迷うことなく首を振った。
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第80話

清治は内心で舌打ちしていた。晴南から一刻も早く決別したいという咲夜の焦燥につけ込み、端から相応の対価を支払うつもりなど毛頭なかったのだ。だが、それは大きな誤算だった。咲夜は予想だにしないほど手強く、揺さぶりをかけても微塵も動じない。交渉は瞬く間に暗礁に乗り上げてしまった。彼女が提示した額はあまりに高慢で、清治とて二の足を踏まざるを得ない水準だ。しかし、首尾よく手に入れさえすれば、晴南への嫌がらせとしてはこの上ない一打となり、溜飲を下げることができる。進むべきか、退くべきか。まさに「食うには不味いが、捨てるには惜しい」。そんなジレンマに陥った清治は、苦虫を噛み潰したような顔で、居心地悪そうに身を捩らせている。対照的に、咲夜はどこまでも悠然とした様子で茶を啜っていた。その時、個室の静寂を破るように千暁の声が響き渡った。「……奇遇だな」両手をポケットに突っ込んだまま、彼は室内の面々を見渡す。突然の闖入者に、咲夜の瞳にはありありと困惑の色が浮かんだ。――なぜ、彼がここに?瞳は、実の兄が吐いた白々しい台詞に、その化けの皮を剥いでやりたい衝動に駆られた。居場所を事前に把握していたくせに、今さら「偶然」を装うなど、その厚かましさには呆れてものが言えなかった。だが、それ以上に瞳の好奇心を掻き立てたのは、冷徹な兄がなぜこれほどまでに咲夜に執着しているのか、という一点だった。彼女は思考をフル回転させる。昨日だって、兄が咲夜を病院へ運んだのは偶然居合わせたからだと聞かされていたが、その後一晩中付き添って看病するというのは、どう考えても「親切」の範疇を逸脱している。瞳は千暁の冷ややかな横顔を凝視した。もしや、お兄ちゃんは本当に、咲夜に心を寄せているのではないかしら?そうでなければ、この執着に近い行動に説明がつかない。一方の清治はといえば、まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔で千暁を見つめていた。予期せぬ実力者の登場に状況が読み込めず、ただただ狼狽するばかりだ。世間の噂では、千暁と咲夜は犬猿の仲だと囁かれていたはずだ。だというのに、目の前の光景はどうだ。相まみえれば火花を散らすという険悪な空気など、微塵も感じられないではないか。やはり噂など当てにならないものだ……清治は一人、密かに納得して
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